このお話は日本海海戦に佐渡島を絡めて大日本帝国が存続し、南極戦役が終了するまでのものとなっております。

新潟奪還戦の1話にあった「日本海海戦の要衝・佐渡ヶ島」の記述を見てから考え出した妄想100%アサリリ世界架空歴史。
アサリリ世界では日本が『帝国』の国号を名乗っているらしいので、日本海海戦を絡めて大日本帝国存続ルートで考えました。

脳内設定としてヒュージ細胞に感染したら誰でもスキラー値が発生すると設定しています。近代火器のない人類なんてヒュージの前には虫けらも同然ですからね!多少のひいきは大目に見てください。

若かりし頃の理事長代行が南極で見たICBMヒュージはそのまま世界に散らばってたいへんなことになったんでしょうなぁ。



このお話はpixivにも投稿しています。

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南極戦役~そのとき皇紀2662年~

日本海海戦において、東郷平八郎連合艦隊司令長官率いる連合艦隊は旅順艦隊、ウラジオストク艦隊に勝利した後、佐渡島へ投錨していた。

対馬海峡付近で待機し、来寇するバルチック艦隊を迎え撃つと言う意見は、盟邦イギリスからもたらされた情報によって封殺されることとなった。

 

曰く、「同盟に基づき、バルチック艦隊の補給については国王陛下の名において最大限これを妨害する」

 

世界帝国たるイギリスがその君主の名にかけて実行すると誓った妨害行為はしっかりと効果を発揮していた。

バルチック艦隊は道中の補給に同盟国のフランスを頼るも、イギリスとの関係をこれ以上悪化させたくないフランスはこれを拒否。日露戦争に対する中立を宣言し中立国として振る舞いはじめた。

欧州ーアジア航路はそのほとんどがイギリスの支配地域であり、数少ないフランス勢力圏でもゆっくりと補給ができないことはバルチック艦隊を大きく苦しめた。加えて、燃料となる石炭の価格が「なぜか」大きく上昇しており、燃料の補給にも事欠く有様であった。

かくして、はるばる欧州から日本近海にたどり着いたバルチック艦隊は半年以上地面を踏んでいない水兵と、燃料の切れかけた軍艦の群れというなんとも情けない様相となっていた。

それでも戦艦8隻を基幹とする艦隊は日本の連合艦隊に倍する有力な戦力であり、バルチック艦隊がウラジオストクへと入港し、日本海の制海権を確保すればロシア帝国の勝利は間違いない、とみられていた。

 

「一日でも多く補給切れの疲労を蓄積させるためにウラジオストクの近くで待機しもす。今のバルチック艦隊でも正面から殴り合うなら連合艦隊がもう一個必要でごわす」

 

東郷平八郎はこう言い放ち、あくまで佐渡近海での待機にこだわった。敵の目的地が分かっていて補給や通商破壊で寄り道をするような余裕がないことを精確に見抜いていたと伝えられている。

 

 

ロシア帝国の太平洋側勢力圏において旅順港は既に日本軍の手に落ち、大艦隊の入港出来る港はウラジオストクしか残っていない。

イギリスの妨害により弱体化しているバルチック艦隊は対馬海峡(当時は朝鮮海峡)を抜けて最短距離でウラジオストクを目指す可能性が高いとみられていたが、あえて裏をかいて太平洋側から津軽海峡、宗谷海峡を経由して北上する可能性が皆無というわけではなかった。

まんまとウラジオストクへの入港を許せば、せっかく講和の糸口を掴みかけたこの戦争もまた振り出しへと戻ってしまう。大日本帝国が敗北を回避し、最低でも引き分けに持ち込むためにはバルチック艦隊の撃破が必要だった。

この三択のいずれにも対処出来るとして、東郷平八郎は石橋を叩いて渡る作戦を採用した。

すなわち、敵目的地へと最短距離で到達出来る佐渡近海に布陣し、三海峡のいずれかをバルチック艦隊が通過した時点で出撃。ウラジオストク近海で待ち伏せをしかけこれを撃破するものである。

 

賭けに出ることを回避し、確実な勝利を目指したこの作戦は見事に図に当たり、連合艦隊はバルチック艦隊をウラジオストク沖80kmの地点で捕捉。決戦を挑むとこれを撃滅せしめた。

 

 

この海戦での決定的勝利を持って日本はポーツマス講和会議へと持ち込むことに成功。領土として南樺太を、その他に様々な権益をロシアより得ることに成功した。

賠償金を得ることができず、日比谷焼き討ち事件のような暴動も発生したが、これは大陸より復員してきた軍人が郷里に戻ると急速に沈静化していった。大陸では戦争末期になると補給が滞り、撃つ弾はおろか、日々の食事にも事欠く有様で、とてもではないが戦争を継続出来るような状態ではなかったことが知れ渡ったからだった。

 

 

国会においてこの問題を追及された桂太郎が答弁した「我が国が貧乏なのが悪い」の一節から始まる、いわゆる『桂太郎演説』が大日本帝国の方向性を決定づけたことは周知の通りである。

桂太郎演説において、桂首相は日本経済の弱勢がロシアに戦争を決意させたとし、日露戦争での苦戦も弾薬費の工面に苦労するほどの経済的体力のなさによると振り返り、今後の我が国の進むべき道は経済強国である、とした。

一方で、日露戦争を勝利出来たことはイギリスの支援に寄るところが大きいと演説内で幾度も触れており、日英同盟のさらなる強化により国際的地位を確保してゆく、ともされた。

 

 

桂内閣は戦争後まもなく、鉄道敷設法をはじめとする様々な法案を成立させ、日本経済の活性化に手を打ち始める。ジョン・メイナード・ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』に先立つこと30年。政府自らが有効需要を強制的に作り出す積極的財政政策の始まりであった。

 

拡大していく経済は国民の精神をも向上させていった。その日一日を生きることに精一杯な人間も多かった明治末期に比べ、大正時代へと入った頃にはその日の夕食を心配するような暮らしは日本から一掃されたといってもよかった。

「衣食足りて礼節を知る」の慣用句が示すように、今日よりも明日、明日よりも明後日がよい日になることを知った国民は労働の幸せで満ちたりていた。

 

 

そんな日本が「オレンジ色をした皇帝の国」と揶揄されるまでの摩訶不思議な国へと方向性を強めていくきっかけとなる事件が欧州で起こる。

時は1914年6月28日。バルカン半島はサラエボにて、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子がセルビア人青年に暗殺された。第一次世界大戦の始まりである。

 

 

 

当初、主要国の指導者層はたいした事件ではないと考えていた。ところが、欧州にて数十年かけて張り巡らされた複雑な防衛条約ネットワークは、誰一人望んでいなかった全面戦争を引き起こしてしまう。

日英同盟を外交の柱とする日本はイギリスからのなりふり構わぬ参戦要請により協商側で参戦することとなった。日露戦争の時の恩を今こそ返すべき! と経済成長で心に余裕のできた日本人は意気揚々と陸軍延べ100万人と、金剛型戦艦を主力とする海軍戦力総勢30隻を欧州へと送り込んだ。

 

 

 

当時は欧州大戦と呼ばれた戦争の終戦後、帰ってきたのは陸軍10万人と巡洋艦2隻、駆逐艦数隻のみであった。

 

 

 

戦争の熱狂が冷めると、そこに待っていたのは働き盛りの男手が大量に失われ、困窮する寡婦が大量生産された現実だった。

欧州大戦終結後の不況対策もかねて、国家として女性の雇用を推進していく。職業婦人は省庁の事務員を始めとして、社会の様々な分野へ拡大していった。

不況対策の公共事業の原資として、未だ日露戦争時の残債が燻る国債の発行ではなく、満鉄利権の切り売りが選択されることとなった。ロシアから満州鉄道の利権を獲得したものの、国家として内地への投資を優先した結果、民間主体となった満州への投資は伸び悩んでおり、そこから上がる利益は予想を下回る物であったためである。

もちろん「十万の英霊と二十億の国幣で贖ったものを手放すとはけしからん」という論調もあるにはあったが、困窮している100万人の寡婦を救済するためなら英霊も納得するだろう、と考える人間が大半だった。

 

満鉄の株式51%と引き換えにアメリカから得た資金は速やかに国内へと還元された。全国に製鉄所が作られ、そこから吐き出される鉄鋼製品は近隣の造船所で速やかに加工され、製品として輸出される。中小船舶をアジア地域へ売りさばくのがこの頃の日本の外貨獲得法であった。

 

 

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そして1929年。世界恐慌が発生する。

このときアメリカは「乳と蜜の流れる場所」満州への投資で大きな利益を上げていた。

そこから発生した大量の需要により好景気を享受していた日本も恐慌の煽りをもろに受けることとなる。

 

1900年代後半から延々と国内投資に回してきた資金が効果を発揮しはじめたのは20年代に入ってからである。第2次産業、特に工業製品に対する技術はめざましい伸びを見せ、満州で使用される多くの機械は日本製のものが主流を占めていた。アメリカ本国で製造、輸入されたものに対して、品質を考慮しても圧倒的な価格競争力を持つに至ったのである。品質自体はアメリカ産に一歩劣っていたが、十分に実用にたるものを備え、何より日本は満州との距離が圧倒的に近かかった。

この距離の暴威の前には多少の品質差では覆すことのできない価格差が発生しており、日本の対外輸出の中でもかなりの額を稼いでいた。

そんな主要貿易相手であるアメリカ発の大恐慌は日本の経済を大きくぐらつかせた。

 

加工貿易に力を入れていた日本の失業率は過去に類を見ないほどに上昇していた。日露戦争終戦以来の積極的財政政策により高い経済成長率を10年単位で誇ってきた日本も、世界経済全体が恐慌に陥ったこの状況では商売どころではなかった。

 

ここで効果を発揮したのは欧州大戦終結後の不況時に整備された改正恤救規則であった。

従来の救貧法であった恤救規則は家族や親族による相互扶助が基本とされていたが、改正恤救規則では国民の扶養は国家の義務であるとされ、困窮者に国による支援を行うこととされていた。

本来は戦争未亡人を想定して行われた改正であったが、一家が丸ごと路頭に迷うような事態が珍しいものではなくなるという悪夢のような状況において、条件を満たす国民は全て対象とされた。

この改正恤救規則により最低限のセーフティーネットを確保した日本は、もはや伝統となりつつある財政出動を開始した。日露戦争直後に整備を行ったインフラ群は耐用年数の限界が見え始めており、不況で資材の価格が下がり続けている今、公共事業を行い設備を更新することは一石二鳥の政策と考えられ、実際にそうであった。

また、改正恤救規則が大きな効果を上げたことを受け、この頃から国民皆保険制度の議論が活発になっていく。多分に共産主義の影響を受けたこの制度は、ソビエト連邦が世界恐慌ただ中にあっても順調に経済成長を続けている事実に後押しされていた。経済成長には国民の努力が不可欠であり、自身に重大な事態が起こるかもしれないという将来の不安を取り除くことこそが安心して労働に励むことができる原動力だとされたのである。

 

 

世界恐慌の底からいち早く抜け出したのは大日本帝国、そして日本の政策を研究し、ニューディール政策を実施したアメリカだった。

満州という本国外の経済圏を持つアメリカと、そこに物資を供給する日本は車の両輪だった。満州の経済活動には日本から輸出される安価な物資が必要不可欠であり、世界恐慌のもっとも厳しかった時でもアメリカ経済を下支えした満州、アメリカ本国から資源や嗜好品、工作機械を購入する日本という三角貿易とも言える図式ができあがっていた。

このため、世界では「満州はアメリカの生命線」という認識が広まっていき、これは後の世界大戦の火種の一つとなる。

 

太平洋沿岸諸国は世界恐慌の震源地でありながらその影響をいち早く脱したが、地球の反対側、ヨーロッパ諸国は経済の失速にあえいだままだった。

イギリス、フランスは自国の勢力圏でブロック経済を築き、域外からの輸入を制限して自国の産業保護を目指していたが、そもそも市場の縮小した経済圏のみでは経済規模の維持すらままならずギリギリの綱渡りを強いられていた。

より悲惨な状況に追い込まれたのは「持たざる国」であるその他の欧州諸国である。特にドイツ、イタリアは列強の一員でありながら持たざる側であり、経済の混乱を収拾する有効な手を打つことができなかった。世界恐慌以前から国内が混乱していたイタリアはともかく、ようやく欧州大戦の惨禍から復興をとげつつあり、高額な賠償金の支払に頭を悩ませていたドイツにとってこの事態は致命的であった。

欧州大戦中の「カブラの冬」と呼ばれるような飢餓地獄や、数年前までのハイパーインフレに苦しめられた経験はドイツ人にトラウマを刻み込むには十分だった。このため、この経済的苦境は日本式積極的財政政策を掲げるナチスの躍進の原動力となったともいわれている。

 

ドイツ国民の不満を背景に勢力を拡大し、政権を獲得したナチスは日本式積極的財政政策を実践しはじめた。

この経済政策によりドイツは1935年までには完全雇用を達成するほどの経済的躍進を遂げることに成功する。しかしながら、数十年にわたる経済的蓄積の裏付けによる財政出動を行った日本と異なり、ヴェルサイユ条約下でズタボロになった経済に世界恐慌の追い打ちをうけたドイツとでは状況が違っていた。世界恐慌ほどの不況から抜け出すための公共投資に必要な資金は文字通り桁違いであり、政府の債務は膨らみ続けていった。

 

この債務を解決するためにナチスドイツは東方生存圏の獲得へと走った。第二次世界大戦の始まりである。

 

 

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モロトフ=リッベントロップ協定は独ソ間の蜜月の集大成だった。

ソビエト連邦との軋轢を気にしなくてよくなったドイツは瞬く間にポーランドを占領。フランスを電撃的に降伏させると、ドーバー海峡を挟んでイギリスと熾烈な爆撃合戦を行いはじめた。

 

一方で、不可侵条約を締結し後背への憂いがなくなったソ連も蠢動をはじめていた。秘密協定によりバルト三国とポーランドの東半分を獲得し、ドイツと国境を接すようになったソ連は極東においてその野心を表しはじめたのだ。

すなわち、満州国への軍事侵攻だった。

当時の満州国にはアメリカ陸軍が2個師団と陸軍航空隊の戦闘機30機程度が駐屯するばかりで軍事的には全くの弱体であり、それ故に熟した果実を木からもぎ取るようにたやすく占領できると考えられたのだ。

その計画は日本によって阻止される。日英同盟を元にイギリスから対独参戦を要求されていた日本だったが、準備が整わないとして参戦は先延ばしにされていた。まとまった戦力を欧州まで送り込むために内地で派兵準備を進めていたが、その戦力が突如満州へと振り向けられたのだった。

自国の戦力が間に合わないと確信したアメリカは日本に助力を要請。あらゆる飴を交渉のテーブルに並べ上げ日本の参戦を引き出したのだった。

 

突如行き先の変わった日本軍であったが、自らの好景気の源泉であるところの満州を防衛するのに否のあるはずもなかった。日本軍はよく戦い、アメリカ軍が到着するまでの3ヶ月を見事に守り切って見せた。

ウラジオストクが占領されると、それまで黄海周りで送り込まれていた物資はウラジオストク経由で大陸へ送られるようになった。一年後には元のソ満国境線まで押し返すことに成功したが、講和の糸口はまったくつかめていなかった。

 

米英仏日 対 独ソの様相となった大戦は、国家の総力を挙げた戦争であった。あらゆる兵器は急速に発展を遂げ、戦争終盤には核兵器すらも実用化されてしまった。

戦争は米英仏日の自由主義陣営の勝利で終わり、ドイツはナチスが追放され国家体制の変更を余儀なくされ、ソビエト連邦は戦争責任のなすりあいから内戦へと突入していった。

 

自由主義陣営に参加しつつも奇妙に全体主義共産主義的な政策を進める日本を揶揄してかわされた当時のジョークがある。

 

「日本は我々の側に立って参戦しているが奴らの政策は共産主義的じゃないか?」

「彼らはオレンジ色だからな!少なくとも真っ赤ではないさ」

 

赤い政策を進める黄色い人種ではあったが、戦勝国として名実ともに一等国となった日本はこれまで通り経済と外交を推し進めはじめた。

桂太郎演説から40年が経過し、商人根性の染みついた日本は戦争による経済への打撃に辟易としていた。戦争では一時的に特需が発生するものの、ピークを過ぎるとその後は坂を転がり落ちるように需要が減少し不景気へと落ち込むのだ。そんなものに振り回されていては商売どころではなかった。

直近の戦争では世界経済の落ち込みや各国の対立が原因となったため、日本は自国の繁栄のために世界の安定と経済成長を真剣に考えるようになる。

このための外交の一環として、世界の国々の結びつきを強める目的を持って1951年に「国際地球観測年」が提唱された。日本は提唱国として大々的に世界中へ観測隊を送り込み、学術的成果を上げた。

 

その流れの中で、南極地域観測隊は1956年に初めて派遣され、極地における様々なデータの観測を行った。極地における長期的な学術観測は史上初のことであり、この成果を受けて日本は南極へ恒久基地の建設を決定。昭和基地が設営されることとなった。

 

 

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第二次世界大戦後の日本は黄金時代といってもよかった。国内へ営々と積み重ねられてきた投資は、よく教育された人材が次の世代、より多数を教育するという正のフィードバックループを形成していた。これにより優秀な人材はねずみ算式に増大し、さらに多くの資本を獲得していく。

大量に獲得された資本はもはや国内だけでは投資先をまかないきれず、国外へも多くの資本が投下されていく。

第二次世界大戦後独立を果たした旧植民地国家では基本的なインフラすら満足に整備出来ないところが多かった。ここへ日本からの資金援助により市場経済の下地を整えてやることで経済のパイを拡大させ、援助の見返りとして成長の果実を分け合うことで、世界経済全体の成長に合わせるように日本経済も伸長していった。

 

また、この頃には先進国で海外旅行が一般化し、日本も海外からの旅行客を集める目的で様々な話題作りが行われた。その一つが「帝都」キャンペーンである。

ロシア帝国もインド帝国も清国も既に歴史の1ページとなり、現存する大国としての帝国は大日本帝国のみとなっていた。ここに目をつけた政府の担当部署は、「最後の帝国へ行こう」と銘打って大々的な宣伝をはじめた。(厳密には皇帝を名乗る国家元首が統治する国家は他にも存在したが、帝国を名乗っているのは我が国だけである、という強引な理屈で許可をもぎ取っていた)

この宣伝の一環で、皇帝(天皇)のお膝元である東京を帝都と呼ぶことで雰囲気を盛り上げることを目的とした国内向けキャンペーンも行った。

これに悪乗りしたのが日本の国民であった。もともとお祭り好きで乗せられやすい国民性ではあったが、「帝都」の呼び方が通称の一つであったこと、当時大流行していた書籍に呼称が出ていたことなどから「帝都」呼びは大流行。数年後には公文書にも登場するほどの定着振りを見せ、帝都・東京の呼び名は人口に膾炙していった。

 

 

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経済的な余裕は人々に未来への展望や自然への興味を抱かせ、自然科学分野への投資も活発になっていく。

1969年の人類初の月面着陸、70年代初頭の南極氷底湖の発見はこの時代の輝かしい業績とパンドラの箱を発見してしまった研究として対比されることが多い。

月面着陸は地球観測年の人工衛星打ち上げに端を発する宇宙の国際共同開発の最高の成果として語られている。

 

当時の宇宙開発はSF小説の中だけに存在する技術であり、それにかかる費用や実現性、実際の利用法に至るまでありとあらゆることを疑問視されていた。特に莫大なものが必要になると試算されていた費用に関してはとても一国でまかないきれるものではなく、直接的な必要性が存在しない時代にあえて開発を進める国家は現れなかった。

その莫大な費用を各国で分担し、リスクを分け合いながら宇宙開発を行う目的で設立された国際機関は

1960年の人工衛星の打ち上げに始まり、1978年には人類初の月面着陸を果たした。その後はプラザ合意以後の経済的混乱により予算の制約を受けたものの、宇宙望遠鏡や宇宙ステーションの運営といった成果を上げたのは周知の事実である。

 

南極氷底湖の発見もヒュージの出現までは輝かしい科学的成果の一つであった。

各国合同で行われた南極の学術調査は南極の氷の下に何があるのか?という疑問にある程度の回答を与えてくれた。氷を透過するレーダーを用いて、上空からくまなく行われた探査は、分厚い氷床に覆われた南極の本来の姿を明らかにした。とは言え、当時の低分解能のレーダーでは大まかな地形を把握することがやっとであった。

そんな中で発見されたのが世界最大の氷底湖であるボストーク湖である。日本語に訳せば「東湖」となるこの味も素っ気もない名前がつけられた理由は笑い話として有名である。

命名権が調査隊内のアルコールの飲み比べで争われた結果、ロシア人にその権利が渡った。しかしながら、さすがのロシア人も浴びるように飲んだウォッカで頭が回らなくなっていたらしく、南極点から東の方向にある、という理由だけでロシア語で「東」を意味する無味乾燥な名前がつけられてしまった。

周囲の酔っ払いも同調したため、あれよあれよという間に正式な書類が提出されてしまい、翌朝二日酔いとは異なる頭痛に悩まされた調査隊の日記が残されている。

 

発見されたボストーク湖ではあったが、その後何十年もの間は直接的な調査は行われなかった。世界全体ではまだまだ未知があふれており、南極だけに限っても研究の対象とすべき事柄はいくらでも存在した。故に、分厚い氷床に守られ、直接的に手を出すには大がかりな機材が必要となる氷底湖のサンプル採取などという研究にはなかなか予算が付かないのが通例であった。

潮目が変化したのは90年代に入ってからのことである。世界経済は時たま不調に陥るものの、長期的には順調に拡大を続け、その旺盛な経済活動は化石燃料の消費と密接に結びついていた。

この頃には、それ以前に問題となっていた環境汚染に加えて、フロンが原因のオゾンホールや人類の排出する温室効果ガスによる地球温暖化などが叫ばれるようになっていく。これらの新しい環境問題について、地球の気候変動、大量絶滅の原因となるような地球環境の変化についての研究についても必要性が認識されることとなる。

南極の氷床は1000万年以上の時をかけて積み上げられてきた産物であり、その隙間には深さに応じた時代の成分が閉じ込められている。これを掘り出して分析することは過去の地球の環境変化を調査する上で非常に有意義な物であった。

氷床コアを採掘すること自体は90年代初頭から積極的に行われていたが、そのためのボーリング装置を転用し、ボストーク湖の湖水を採取しようと思い立った科学者がいた。折しも木星探査衛星のミッションによりガリレオ衛星の一つ、エウロパの氷の大地の下に液体水の海が広がっている可能性が示されたばかりだった。

分厚い氷の下に存在する隔離された環境中に生命が見つかれば、似たような環境を形成しているエウロパにも生命もしくはその痕跡を発見することができるかもしれない。

そのような思惑の元、厚さ4kmの氷の壁を貫き、古代から厚い氷に阻まれ封印されてきた湖のサンプルを回収することを目指した。

 

そして人類はパンドラの箱を開けることになる。

 

 

 

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最初に異変が訪れたのはボストーク湖直上に建設されたボストーク基地の職員たちだった。奇妙な風邪のような症状が広まり、瞬く間に施設の職員が全て寝込むことになったのだ。風邪の原因のウィルスがいない南極では珍しい流行だった。南極風邪、と誰かが呼び始めたこの病気は症状としては間違いなく風邪だった。症状の重い人間もいれば軽くすむ人間もいた。幸いなことに死者は出なかったが、夏も終わりが見えてきたこの時期に流行が発生するのはいささか不自然なことだった。

 

次に発生した事態はより深刻だった。真冬の極夜のさなかに体長70cmもある謎の甲殻生物が南極点にほど近いアムンゼン・スコット基地へと突っ込んできたのだ。分厚いガラス窓を突き破り飛び込んできた真っ黒で脚の多いその化け物は基地内を暴れ回った。多数の観測機器が被害を受け、捕獲を試みたスタッフは重傷を負った。最終的に基地の人員が総出で修理資材として置いてあった角材で袋だたきにしてようやく動かなくなったその生物は、明らかに南極にふさわしくない異質な生命体であった。

南極に冬が訪れている間、外界との人員の交流が存在しないアムンゼン・スコット基地であるが、通信回線は存在する。この奇妙な出来事はすぐさま南極の外へと報告されたが、何かのジョークだと思われたのかさほど話題にはならなかった。それもそのはず、謎の生物は滅多打ちにされその生涯を終えると、死骸となったその体は恐ろしい速度で分解をはじめたのだ。保存のための努力もむなしく、サンプルとして得られたものはドロドロに腐った液体だけであった。

 

南極に大型の昆虫様生物(Insect Like Huge Creature)が存在した、というだけでも荒唐無稽な話であるのに、その証拠となる死骸が存在しないとなれば公式の報告も怪しげな都市伝説並みの説得力しか持たなかったことも理解できる。

現在では人類とヒュージの初接触とされているアムンゼン・スコット基地襲撃事件であるが、当時の扱いは怪しいオカルト雑誌に取り上げられた程度であり、世間の興味を引くには至らなかった。

 

そして南極の長く暗い冬が明けたとき、本当の破局が訪れる。世界で初めてヒュージとの大規模な衝突に至ったその戦いは、航空機も火薬も存在しないごくごく原始的なものとなった。

 

「南極戦役」

 

後年、人類史にそのような名前で記録されることとなるその戦いは、名前とは裏腹に戦役を名乗るほどの大規模な戦闘は発生していない。

当時の南極は南極条約に基づき武器類の持ち込みが極端に制限されていた。特に危険な猛獣がいるわけでもない南極においては武器の使用用途そのものが存在せず、形だけの武器持ち込み禁止であったが各国にはあえて条約を破ってまで武器を持ち込むような理由があるわけでもなかった。

そのため、単純な思考回路で人間を襲うごく初期型のヒュージ(現在ではスモール級未満に相当するクラス)であっても、多くの人間が存在する基地を蹂躙し得た。

当然ながら、人類側もただ黙ってヒュージの餌になっていたわけではない。アムンゼン・スコット基地を襲撃した謎の存在の報告は公式な物であったから、基地の外へ出かける場合には可能な限り大人数で行くなどの対策もとられていた。

 

しかしながら、南極の夏、11月に入ると立て続けに基地が襲われていった。

上述したアムンゼン・スコット基地も、最初の一匹の襲撃は辛くも撃退したものの、西暦2002年11月に発生した10匹前後のヒュージによる襲撃によって壊滅し、基地に滞在していた215人のうち50人のみが救助された。

アムンゼン・スコット基地はまだマシな方だった。南極各地に点在する小規模な観測基地は滑走路を持たないものも多く、救援を求める通信を受けて駆けつけると瓦礫の山とわずかな血痕しか残されていない、などという事態もあった。

この悲劇は各国の南極観測隊が脱出を開始し、南極の両側にある昭和基地及びマクマード基地へと退避をはじめた矢先の出来事だった。

 

南極戦役におけるヒュージとの戦闘は全てこの2つの基地を中心に行われたと言える。両基地は南極中からの避難者を収容し、人員が全て退避するまで防衛戦闘を行った。

航空機を用いた迅速な脱出も計画だけはされたが、計画を立て輸送機の準備をしている間に滑走路近郊はヒュージの跋扈する地域となってしまい断念された。当時のヒュージはまだ熱線を吐くことを知らなかったが、障害物の全くない滑走路では単純に暴れ回るだけのヒュージでも単なる人間の手に負えるものではなかったからだ。当時の南極では武器といえばそのあたりの資材を加工した棍棒がせいぜいで、あとは発電用燃料を転用した火炎瓶がある程度であった。

 

航空機による脱出が断念されたため、夏期の補給船を使用した脱出計画に主軸が移された。しかしながら、南極にいた人間が全て2つの基地に集中しそこから脱出すると仮定した場合、ここまで多くの人員輸送を想定していなかった港湾機能が飽和状態に陥ることは明白であった。その夏は例年よりも厚い氷が張っており、砕氷船の接岸が困難だったことも混乱に拍車をかけた。基地に接岸できないとなるとヘリコプターにより砕氷船まで移動するしかないが、接岸した船に乗り込むよりも効率は劣る。

かといって、ろくな武器も持たずに人を襲う謎の生物がうろつく雪原を移動して砕氷船まで向かうことは明らかに自殺行為だった。そして、いったん掴んでしまった安心を手放すことは難しい。各基地から避難したときと異なり、ジリ貧ではあるがある程度の安全の確保された大規模施設から命がけで脱出しようという命知らずはいなかった。

なにより、基地へ向かっている砕氷船はこれほどの大人数を想定しておらず、南極から全ての人間を退避させるだけの船が来るまでは耐えることが求められていた。

 

両基地で「脱出できるだけの船が来るまで持久する」という目標が立てられ、全ての人間が乗ることのできる船が到着するまでヒュージの襲撃から身を守りつつひたすら生き残ることを目標とした戦いが始まった。人類の南極からの完全撤退まではあと3週間。2002年12月始めのことだった。

 

 

大日本帝国が運営する昭和基地において、軍隊経験のある人間を指揮官として防衛組織を結成した後まず手をつけたのは基地周辺に防衛設備を整えることだった。

この時期のヒュージは単独行動の個体が散発的に基地に侵入してくる程度だったが、アムンゼン・スコット基地が壊滅した一件のような、群れとみられる個体群による襲撃にも備える必要があった。

 

基地の周囲には重機により堀が作成され、堀のこちら側には即席の壁として雪上車が隙間なく並べられ基地をぐるりと取り囲んでいた。昆虫のようなヒュージ相手にこれらの防衛設備がどの程度役立つかは未知数だったが、少なくともやらないよりはマシだろうと考えられていた。

堀と塀という古典的な防衛機構に加えて、最新のテクノロジーを利用した装置もわずかではあるが存在した。赤外線センサーを利用したペンギン撮影用の定点カメラを改造したその装置は、ヒュージの接近をいち早く察知することが期待されていた。ヒュージが赤外線を発しているのか、という根本問題はあったが。

それなりに頑強なものを築くことができた防御面に比較して、壁に取り付いたり、防衛機構を突破して侵入してきたヒュージを撃退するための武器はあまりにも心許なかった。

一人に一本配られたのは修理用の資材を転用した鉄パイプ製の棍棒。その他に潤沢にあるのは投石用の石くらいのもので、武器を支給された誰かは自嘲気味にこう呟いたほどだった。

 

「まるで第四次世界大戦だな」

 

 

数少ないまともな兵器として昭和基地に接岸していた大日本帝国の砕氷船から海賊対策で積まれていた自動小銃が5丁だけ基地に引き渡されていた。銃弾が少ないこともあり虎の子として使用されることになったが、遠距離からヒュージを攻撃することのできる武器はもっと多く必要だった。

このような限られた環境の中で様々なアイデアが出されたが、結局完成に至ったのは高圧ガスで弾体を射出する鉄パイプ砲ぐらいであった。急造のDIYでは限界があり、人力で投石するよりは遠くに飛ばすことができる程度の代物にしかならなかったが、火炎瓶の投射手段として重宝されることになる。

 

 

そのような暴徒が振り回すような武器しかない状態でも、最初の2週間は何とか持ちこたえることができていた。

人々は交代で休息をとり、散発的に侵入してくるヒュージを撃退し続けていた。堀と壁は応急的に作成したものにしては役立っていた。見た目は巨大化した昆虫であるところのヒュージだったが、大型化したせいかその登攀能力は下がっており、壁に遭遇して速度が落ちたところを囲んで殴る戦術が効果をあげた。

一日に一回程度は小規模な群れが集団で侵入を試みることもあったが、壁にたどり着くまでに火炎瓶と石を投擲し、群れを分断することで各個撃破の状況に持ち込むことができていた。これら投射兵器は一瞬の足止め効果しかなかったが、ヒュージの群れの足並みを乱すという点において非常に有用であった。

 

この頃のヒュージはその高い身体能力に任せて暴れるのみで統率のとれた行動をすることはなく、集団を「群れ」と呼ぶことができるのかも不明だった。ヒュージ研究が進んだ現代においては少しだけ力のある個体に追従していたとの考察がなされているが、これが真に的を射たものであるかは南極の凍土のみが知っている。

 

ともあれ、少数であれば安定的に撃退できるようになった結果、判明したことがあった。ヒュージの撃破には近接武器の方が有効というのもその一つである。この事実は投石と棍棒ではヒュージに対する効果がまるで異なることから見いだされた事実である。同じようなエネルギーをぶつけているのに投石では一瞬ひるませる程度のダメージであったが、棍棒で殴りつけた場合には一撃でヒュージの甲殻にひびが入ることも珍しくなかった。

 

当時はマギを観測するための手段もなく、現象から推察することが精一杯だったが、後年情報公開により明らかにされた資料では、防衛1週間目の日誌にはっきりと「投石等の遠距離投擲ではダメージは見られず。とどめを刺す場合は鈍器による殴打が有効である」と記載されている。

この事実は人類がマギの観測手段を得た後に詳細が解明された。ヒュージはいわゆるマギ防御結界をまとっており、スモール級未満のものでも例外はなく外見から想像されるよりも遙かに高い防御力を持っている。リリィは自らのマギでこれを中和しヒュージへと打撃を与えるが、同じことが南極戦役での防衛戦闘でも発生していた。

 

南極における最初の異変であるところの南極風邪であるが、これはヒュージ菌の感染による物であった。現在では人類がほぼ例外なく3歳までに感染するヒュージ菌は、この時初めて認識されたといってもよい。南極に存在する全ての人間が感染し、体調を取り戻すまでの時間があったことは幸いであった。

ごくわずかなマギとは言え、それによる結界の中和がなければ戦うことなどできなかっただろう。

現に体から離した瞬間からマギが抜けていく投石ではまったくダメージを与えられていなかった。遠隔武器であっても、自動小銃並みのエネルギーを持ってすればスモール級程度の防御結界は貫通も可能であるが、前述したように当時の南極にはそのような高エネルギーを投射する手段が欠如していた。

 

分断と各個撃破という戦法でヒュージ相手に適応しつつあった人類だが、最後の集団が乗り込むことのできる船の到着まであと一週間となったところで、恐るべき強敵が出現した。現在の分類でスモール級に属すると思われるクラスのヒュージの出現である。

現在の感覚では、防衛軍でも対処が容易なスモール級が一匹で防衛拠点に向かってきたところで、さしたる脅威とは考えられない。だが、時は50年前、場所は人類が未だヒュージの洗礼を受けきっていない南極である。ましてや近代火器に事欠く様な状況下では圧倒的な強者であった。

 

このスモール級ヒュージは内陸部での勢力争いに敗北し、餌を求めて進出してきたと考えられている。それまでに確認されていた70cm級のヒュージの倍はあろうかという体長を持ち、強固なマギ防御結界に加え熱線を吐くその個体はまさに悪夢だった。

中世の戦場にいきなり現代の主力戦車が出現したような物であった。人類にとって熱線を吐くなどという初めての敵との戦いであることも大きかった。それまでのヒュージは人類の脅威となり得るだけのサイズと身体能力を持ってはいたが、あくまでその脅威は物理的なものだけであった。ところがこのスモール級は『ビーム』などという空想の産物を突然現実に持ち込んできたのだ。心理的な不意を突かれた人類側の動揺は大きく、戦闘も後手後手に回ってしまうこととなる。結果として、自動小銃による集中射撃で討伐されたそのスモール級のもたらした被害は甚大なものとなった。

 

雪上車により構成されていた壁はそこかしこに穴が開いており、自動小銃も複数が破損で使用不能となった。さらに深刻だったのが人的被害である。昭和基地はたった一匹のスモール級によって、死者120名、重症者27名という被害を受けたのだった。当初は年極中の人間の半分が集結し、1000人弱を収容していた昭和基地もこの頃までにはかなり脱出が進み、残る人員は350名程度となっていた。

少なくなっていた人員に加え、そこに一挙に三分の一を超える規模の被害を受けた昭和基地の防衛線は崩壊とまでは行かずとも、穴だらけと呼ぶことがふさわしい代物にされてしまった。

そこからの戦闘は悲惨なものだった。もともと余裕のある体制ではなかったところに、いきなり人数が三分の二に減少したのだ。その分の負担が残りの人員にのしかかってくる。過度の負担をかけられた人員には疲労が蓄積し、疲労はミスを呼んだ。ミスは容易に死に繋がり、少ない人員はますます減っていき残ったメンバーの負担が増すという悪循環に陥っていた。

 

スモール級ヒュージの襲撃から5日後、昭和基地の放棄が決定された。ボロボロになってしまった設備はもはや防衛拠点としての用をなしておらず、そこに籠もっていることは徒歩での脱出と大差ない危険性だった。それならば、と南極を去るまでの日数が短くなる脱出という選択肢がとられたのだ。

 

脱出行に参加したのは当初100人強だった。これが砕氷船搭載のヘリコプターとの会合場所までのわずか二日間の行軍の結果、半分以下になった。

そしてようやく訪れた迎えのヘリコプターに乗り込もうかというそのときだった。

背後から襲ってきた突然の轟音に後ろを振り返ると、はるか地平線の向こう側から雲を突き抜け天へと上昇していく複数の輝点を見ることができた。

近距離であれば確実に目を灼かれていたであろうその強烈な光は、進行方向とは逆側に煙の尾を引いて進んでいく。数秒か、数十秒か。一同が突然の事態に驚きそれを理解することができずに動きを止めている間に輝点は空を厚く覆う雲の向こう側へと消えていった。

南極の生き残りたちが目の前で繰り広げられた謎の現象について考えるまもなく、我を取り戻したパイロットによってヘリコプターは砕氷船へと向かった。

 

そしてたどり着いた南極脱出船で知らされたのは、自らの縋っていた希望が単なる蜘蛛の糸に過ぎず、これから向かう先もまた地獄になるであろうという事実だった。

 

 

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南極戦役の最終盤において南極より発射されたアルトラ級ヒュージは、宇宙空間経由で世界中へと着弾した。水辺に落着したヒュージはそのままネストを形成し始め、地表に降り立ったヒュージは巣無しのアルトラとなって付近を荒らし回った。

大国同士の軍拡競争など無くなって久しく、大陸間弾道弾自体が技術要素の研究程度しか行っていなかった人類にとって、その拡散を防ぐことは不可能だった。

 

『ヒュージ』の名称が一般に定着したのもこの事件以後である。それまで南極で行われていた人類とヒュージの生存競争は当事者以外、世界中の人々にとって他人事であった。

南極で謎の生物に観測隊が襲われ死傷者が出ている、程度のニュースバリューだった南極戦役初期において謎の生物の情報源は国連の公式発表と以前のアムンゼン・スコット基地第一襲撃事件の報告書しかなかった。

アムンゼン・スコット基地の事件の報告書は熱心なオカルト雑誌によってしゃぶり尽くされており、報道各社はそこで使用され、マニアの間で広まっていた名称を使い始めた。大型の昆虫様生物(Insect Like Huge Creature)と報告書で表現された謎の生物は、そのありえない大きさが強調される形で『ヒュージ』と呼ばれるようになった。

 

 

かくして孤立した大陸からすら自力で版図を広げる能力を持つ人類の天敵は解き放たれた。

 

ヒュージを南極に封じ込めるにはどうしたらよかったのだろうか?

南極から撤退せずにヒュージを積極的に攻撃する? 否、CHARMすらない状況でヒュージに対する積極攻勢など不可能。

アムンゼン・スコット基地第一襲撃事件の段階で軍隊を投入する? 否、気候的に不可能。

ボストーク湖掘削計画を中止する? 否、いったどんな理由をつけるのだ? 謎の生命体が出現して人類が破滅の危機に瀕しますなどと真面目にのたまう狂人を誰が相手にするものか。

 

人類とヒュージの衝突は必然だった。そう結論づけた方が建設的だろう。

 


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