死にたい少年が死神の画家に出会う話。

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駆け込みで誤字脱字が多いと思います。






綺麗とは呼べない

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕達の物語を語るのに相応しい言葉はなんだろう。

 

 

 運命共同体なんて言うのは、少し高尚過ぎる気がするし。

 心中なんて言うにはなんか少しドラマに欠けるというか、そんなに()()なものでもない。

 

 

 ああ、そうだ。

 これくらいの言葉がピッタリだ。

 

 

 

 

 

 

 僕達のこの恋を表すなら、そう──────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんでもいい。死ぬ前くらいは綺麗なものが見たかった。

 大して金も入っていない貯金箱から数枚の1000円札を取り出して街中をぶらつき、なんだか知らない画家の個展に入った。

 

 とても上手だとは思うが、どこか空っぽな絵の具の集合体を眺めつつ、ぼんやりと死んだらどうなるのかなぁと考える。

 

 

 僕はこの後、自殺をする。

 別に理由はない。確かに孤児という立場は高校生が背負うにはとても重いし、毎日毎日辛いことだらけ。好奇、同情、憐憫、侮蔑──────そして無関心。でも別にそれは死ぬ理由には至らない。

 

 ただ僕は、何となく死にたくなったんだ。

 

 

 

 

「……結構綺麗なもんだな」

 

 

 今まで嗜好品や贅沢品の類とは無縁な人生を送ってきたもの故に感性が死んでいて、こんなもの見ても何も感じないのかもしれないと思ったがそうでも無いようだ。

 芸術には不思議な力がある、と先人達が語ってきたその言葉は嘘では無いのだろう。けれどその力は小さな2つの磁石が引き合う程度のもので、強くなり過ぎた人間という生き物の心を引き止めることが叶わないのが大抵なのだろう。

 

 実際問題、目に入ってくる数々の芸術は何か感想を抱かせても足を引き止めることは叶わない。

 ただ綺麗な景色の一部として、素晴らしいものとしてなんの感慨もなく消化されていく。

 

 

 消化、消化、消化、消化。

 消化、消化、消化、消化。

 

 

 そして、出会ってしまったのは一枚の絵。

 

 

 題名は『灰色の夕焼け』。

 

 

 なんでそれに"出会った"と感じたかなんてそんなの分かりきったことだ。だってその絵は他の絵と比べてあまりにもヘタクソだったのだから。

 他の絵が知らない画家の個展に相応しいものならば、その絵は中学生のクラスでちょっと上手い程度の出来。多分、多くの人が『なんでこの絵がここにあるんだ?』って思った事だろう。

 

 大抵の人はきっとその絵に一瞬足を止めて、その理由を考える。そしてそれが途方もなく無駄な事だと理解するか、あるいは理解することを無駄と思い通り過ぎる。それか、理解できないものを理解しようとする酔狂なもの共。

 ただ僕は違った。無駄な事だと理解するほどの知性も、理解することを無駄だと思える程の知識も、理解できないものに挑むだけの度胸もない僕は、ただその絵が放つ不思議な魅力に足をその場に縫い付けられてしまった。

 

 どこかのビルの屋上から覗く黄昏。

 世界の全てが灰色に染まり、その中でも紅く輝く夕日を描いたその絵。美しいとか綺麗とか、芸術的とかそんな言葉が似合うほど上手な絵ではない。

 ただ磁石のS極とN極は誰に言われずとも引き合うように、僕はその絵に引きずり込まれてしまったんだ。

 

 

 

 

 

 

 まるで引きずり下ろされるみたいに、一筋の涙が頬を伝った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「きーみ。そろそろここ、閉まる時間だよ?」

 

「──────え? あ、うわっ!?」

 

 

 後ろから突然声をかけられて気がつけば、手首に巻きつけた安物の時計は日没時刻を少し過ぎたくらいにを示していた。まばらにあった人影もなくなり辺りには自分と、後ろから話しかけてきた女性しかいなくなっていた。

 なんてことだ。せっかく今日死ぬと決めて、あとは場所を探すだけだったのに。その場所も、今見つけたというのに。

 

 そう、この絵見たく綺麗で、どこまでも広がって全てを飲み込んでしまいそうな……

 

 

「夕日の見えるところで死にたい、だろ?」

 

 

 正しく心臓が飛び出るかのような驚愕。

 周囲を見渡し、人が自分と、今話しかけてきている女性以外いないことを再確認する。

 

 もしも衆人環視の中でこんなセリフを吐く奴がいたら、近づくなと教えるのが正しい倫理を持つ人間だ。

 でも生憎と、僕はそんな当たり前なことを教えてくれるほど優しい人間には恵まれていなかった。だから興味を持ってしまった。振り返ってしまった。二度と前を向けなくなるかもしれないと言うくらいの覚悟を持って。

 

「ありゃ、大学生かと思ったけど思ったより若い。もしかして中学生(チューボー)?」

 

 女性は死神だった。

 全身真っ黒な服に濡羽色の長い艶やかな髪。顔の左半分すら書くし、腰掛けた椅子すらも黒く侵食するその髪はまるで死神のローブのよう。

 でも、僕が彼女を死神と表現した理由はそんな見た目の話ではなかった。

 

 この人は、ああ、この人は──────。

 

 

 

「ところで少年。君、もしかしなくてもお金に困っているよね? どうせ死ぬんだったらいい話があるんだけどと、聞くかい?」

 

 

 

 読心、加えて怪しい話。見た目は一度語ればこれ以上言う必要も無いだろうが、立てば芍薬座れば牡丹、街を歩けば職質確定なこの女性。

 

「君は死にたいんだろう? 死ぬ前にパーッと豪遊するためのお金稼ぎにさぁ、私のとこでバイトをしないかい? 悪いようにはしないからさぁ」

 

 返答な待たない、話は聞かない、ついでに僕は高校生であるが中学生だと思い込んだ上で住み込みのバイト提案。

 少し話しただけでここまでろくでなしさが顕になる人間は初めてだ。こういう人間は自分の怪しさを隠す出来ないバカか、自分の怪しさを隠すことに意味を見いだせないアホか、怪しさを隠そうと思わないマヌケか、僕がまだ見ぬ狂人のどれか。そしてこの女は間違いなく最後に当てはまる狂人タイプだ。

 

 まぁどれにせよ、こういう類の人間からの提案は乗れば地獄までの片道電車。要は悪いようにしかならないということを短い人生でも十分理解している。

 

 

「……深山(ミヤマ) 宗司(ソウジ)。高校1年生、16歳だ。そのバイト、時給幾らだ?」

 

 

 なのに、あぁ馬鹿だなぁ。

 この時の僕が一番強く思ってたことは『こう見えて16の高校生(コーコーセー)だよオバサン』、なんて言うことだけだったんだから! 

 

「うわぁ、君もしかして社会経験ない? 悪い大人の言うことにホイホイついてきちゃダメだぜ?」

 

「アンタこそ、雇い主は雇った相手に何言ってもいい立場だと思ってんなら社会経験ないのかって答えるぞ。あと時給幾らだよ」

 

「もう雇われる気満々か。若いね〜少年!」

 

 何がおかしいのか、女性はケラケラと首元を撫でるような苛つく笑い方をする。

 ひとしきり笑った後、女性は立ち上がって僕の瞳をじっと見つめる。その際に気がついたが、かなりデカい。僕の身長が確か164cmだから……多分175は最低でもある。こんな人間に見下ろされるというのは非常に気分が悪い。

 

「うん。やっぱり見た目も合格。私は天子だ。『天使』の『テン』と『子供』の『コ』で『テンシ』。ちなみに年齢は27歳。よろしくソウタくん」

 

「ソウジです。あと、時給は?」

 

 差し出された右手に対して僕も右手を出して、契約成立の握手を行う。陶器のように滑らかで細い指の感触は、きっと永遠に忘れられない。

 

 

 

 さて、こうして自殺未遂を更に未遂の段階で言い当ててきた怪しい女の怪しい話に乗ってしまった僕であるが、この後すぐにこれを後悔することとなる。

 

 

 何があったかは詳しく言えないが、簡単に話せばバイト初日はタバコを吸いながらゲラゲラ笑うろくでなし女を見せられ、僕は背中に3つの円形の火傷と20万円を手に入れたという話だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日から僕の生活は一変した。

 

 いや、一変したと言ってみたかっただけであまり変化はなかった。変わらずに日本の高校進学率の高さと高校未卒業の扱いから惰性で決して多くない貯金を切り崩して通い、学校が終わったら一直線で駅に向かい、6駅隣のあまり人が降りない駅の山方面に歩くこと30分。山の中に突然現れる豪邸。そこが天子の『アトリエ』だ。

 

 アトリエ。そうアトリエだ。

 あのろくでなしこと天子は、個展を開ける程度には名の知れた芸術家なのである。それも絵画専門ではない。僕には詳しいことは分からないが、彫刻やらもやってるし、小説も書いている。他にもいろいろやっているが他はもう僕にはよく分からない。

 

 

 とにかく言えるのは天子は『天才』であり、『勝ち組』なのだ。それこそ、戯れに小僧のポケットに万札をねじ込める程に。

 

 そして天子は『最悪』であった。出会ってすぐのまだよく知らない高校生の背中に火のついたタバコを3つ押し当て、それを見て笑い転げる程に。

 

 

「お、今日も逃げずに来たかソウゴくん。じゃ、脱いで脱いで」

 

「ソウジです。興味無いのはわかりましたから、名前くらい覚えてください」

 

 僕の方からお願いすると、天子はポケットからクシャクシャになった万札を取り出して、それを僕の手に握らせる。これは『私の言うことを聞け』、つまり今回の場合は気にすんなという意味だ。一体どんな育ち方をしたらこんななんでも金で解決しようという人間が生まれるのか、金銭感覚が違いすぎて想像もつかない。

 

「いやー、背中に根性焼きしてやったのに次の日きっちり来た時は本当に驚いたけど、君って金の為ならなんでもやるんだね。プライドとかないの? ウケる」

 

 天子が僕に提示した『バイト』とは、天子の言うことをなんでも聞くという内容だ。

 そして天子のだす無理難題に応じて、僕には給金が渡される。バイトというのもおこがましい、人権的に問題しかないこんなバイトは人権が()()()()()存在しないような、低級な人間にしか頼めないだろう。

 

 要は金を出せば本当の意味で何でもする人形が欲しかったということだ。

 でも本当にそんなやついるとは思っていなかったらしく、背中に根性焼きされた次の日も普通に天子のアトリエに来た時には「キモイ」だの「頭おかしい」だの散々罵倒されたものだ。

 

「うわー……みんな痕になっちゃうねこりゃ。さてと、スケッチスケッチ」

 

 着ていた衣服を全部脱ぎ、生まれたままの姿となった僕を見て天子は鼻歌を歌いながら作業環境を整えていた。顔を半分隠すほどに長く伸び、床に着いてしまうのではないかという黒髪が楽しげに踊る。

 

 今更恥ずかしいとか思わないが、自分の体を見て少し嫌気がさしてくる。

 食費を切り詰めていたせいでガリガリなのはまだいいが、見下ろして見える範囲でも包帯、絆創膏まみれ。背中に目を向ければもっと酷い。

 

 最初、天子は僕の体をひたすらに痛めつけることを楽しんだ。

 新しいおもちゃを買った子供のように無邪気に、新しい玩具を買った大人のように丁寧に。最初は自分の手で痛めつけてきた。

 最初の根性焼きから始まり、縛った上で針で何度も何度も僕の腹を刺して絵を描いたり、ナイフで文字を刻んだり。おかげで体は汚いキャンバスへと成り果て、もう二度とマトモに銭湯やプールには行くことは出来ないだろう。

 

 そして飽きたら自分で小指の骨を折れだの、僕自身に自傷を求めてきた。

 誰かに傷つけられるのと、したくもないのに自分傷つけるのでは訳が違う。さすがに本気で嫌だったが、目の前に出された100万円を見ては覚悟を決めるしかなかった。

 安売り、だと思う人もいるかもしれないが、僕みたいな生産性のない人間の小指が折れるだけで100万円はとんでもない得なのだ。人間の価値が『何を成すか』によって決まるのだとしたらの話だが。

 

 僕が自分で自分を傷つけて悶えている様はそれはそれはお気に召したようで、しばらく財布の紐が緩んでいたがそれも飽きたのか、最近はただ僕を脱がせて、面白みのないこの体をひたすらにキャンバスに写している。1ヶ月以上をこんな異常な時間に費やしているというのに、頭がおかしくならなかった自分の強さには少し笑ってしまう。

 

 何となく、僕の裸体を一生懸命に左手に持った絵筆で表現している天子の顔を見た。

 長い髪で半分ほど隠れてしまっているが、よく整っている。常に全身を隠すような黒一色の怪しい服を着ているが、天子という女性は見た目もかなり良い。きっときちんと着飾れば10人中10人が振り返る、みたいな安っぽい美しさではなく傾国、純美、嬌艶、典麗、妖美、瀟洒……僕の語彙力では到底言い表せないような美しさを発揮するはずだろう。まさに天が二物も三物も与えた超人だ。どうやら人間性は与えて貰えなかったようだが。

 

「…………」

 

「…………」

 

 そんな美人が、僕の体をじっと見つめている。

 見つめては筆を動かし、また見つめては熟考する。些細な動きの度に彼女の髪が、胸が、肢体が揺れる。極度の集中からかじんわりとその肌が水気を纏い始め、呼吸により揺れが大きくなる。

 指先が動く。何かをなぞり、止まり、手袋に覆われた真っ黒な指先が踊る。別の生き物のように、妖精のように。

 

 ああ、いくら中身が最悪でもこれは仕方ない。下腹部に血流が集まっていくのを感じてしまう。

 

「…………ん、また勃起かい? ちょっとイメージぶれるから収めてくんない? ほら、トイレ使っていいから」

 

 ……本能だから仕方ないと思っていたけれど、こうして口にされるとなんだかとても屈辱的だ。聖職者が淫夢なんて存在を作り出した理由が分かった。性欲ってのは時に最大の屈辱を人に味あわせてくれるようだ。

 

「……別に、生理現象なんですからそのうち収まりますよ」

 

 口答えするとぐしゃぐしゃに丸められた紙幣が投げつけられる。

 僕はそれを拾い、自分の荷物の方へと投げ捨てて大人しくトイレへと向かうことにした。

 

 最悪だ。本当に本当に最悪だ。

 この1ヶ月もの間、何回最悪って思ったか分からないことも含めて最悪だ。

 

 本当に最悪。

 

 僅かな天子の匂いと芳香剤の香りが混じった狭い個室で、自らの陰茎を猿みたいに扱き、熱い情欲を吐き出す瞬間は今までの人生のどんな瞬間よりも気持ちがいい。

 

 

 

 

 あぁ、最悪だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そういえば君、なんで死にたいの?」

 

 黙秘、続いて素晴らしい手首のスナップとともに投げつけられるぐしゃぐしゃの紙。今回は5000円札で、その意味は『別に嫌なら喋んなくてもいい』。要はちょっと気になったけど別に知らなくてもいい、暇潰しということだ。先程から筆がほとんど動いてないし、集中力が切れたのだろう。

 

「……別に、理由なんてありませんよ。というか、理由って必要ですか?」

 

「必要だろう。死んだらもう美味しいご飯も食べられないし、猿みたいに自分のちんぽ扱いて気持ちよくなることも出来ないんだぜ?」

 

 一瞬で血液が沸騰する感覚を覚え、同時に紙幣が投げつけられる。

 

「僕が死んだらどうなるのか、何となく興味が湧いたんですよ」

 

「死んだらそれがどうなるのかも分からないのに?」

 

「まぁそうですね。親無し、金なし、才能なし。友人も彼女もいなければ大切なものも無い。社会の不用品みたいな僕が死んだらどうなるかなんて予想は付くけど、それでも知りたいんですよ」

 

「ふーん」

 

 僕の返答はお気に召さなかったようで、天子は手袋越しに自分の右手の小指と薬指を弄っている。これは彼女が苛立ってる時の癖だ。

 でも僕は多くの芸術に慣らされた上等な感性を満足させられるような詩を作り出すことは出来ないし、自分の気持ちを言語化することすら手間取ってしまうのだ。

 

 だってぶっちゃけてしまえば、最初に言った『理由がない』というのが本音だ。本当に理由はない。朝起きて、学校に行って、帰り道で何となく何処かの家からカレーの匂いが香ってきて、あぁ今晩は僕もカレーにしようかなって思うくらいに、朝起きて、人が死んだニュースを見て、あぁ僕も死のうかなって思ったに過ぎない。

 

「じゃあ次に聞くけど……手に入れた大金を使って死ぬ前に何したい?」

 

「…………」

 

 そんなもの、決まっているわけが無い。

 何も考えずに、何故か僕はこのバイトを受け入れてしまったけれど、それで得た大金の使い道なんて、全くと言っていいほど浮かんでこない。

 死ぬ前に何をしたいか、と聞かれたら僕は『綺麗なものがみたい』と答えるだろう。

 

「えっと、ルーブル美術館に行く、とか?」

 

「あそこやめておいたほうがいいよ。君は絶対にあそこで『綺麗なもの』を見つけることは出来ない」

 

「一応、芸術家ですよね?」

 

「もちろん。あそこにあるものが素晴らしいものなのはわかる。でも、私にはあそこにあるものを『綺麗』と思える感性が備わっていない」

 

 天子の声色が少し変わる。

 世の中全てを舐め腐った上擦った声が一段下がる。それだけでその声は罪人に判決を言渡す閻魔みたく、冷たく重い色となる。

 

 

「そして、私とよく似た感性を持つ君も、きっとあそこでは綺麗なものを見つけることは出来ないよ」

 

 

 君と私は同類、と。

 その言葉は暗にそう言っているように僕には聞こえてしまった。

 

 

 

 

「──────ッ! ふざけんなッ!」

 

 

 

 

 自慢なんかではなく、僕は生まれつき怒れない人間だった。

 怒ってもどうしようもないようなことがあるってことを理解している、聡い自分でいるつもりだった。

 

 でも、この瞬間初めてそれは単純に僕が『怒り』という感情を知らなかったからだと理解した。

 

 血液が沸騰とか、そんなものじゃない。正しく心臓が爆発して理性という軛を全てぶち壊しながら、肉体は真っ直ぐに天子の方へと向かい、その胸ぐらを掴んで地面に叩きつけた。

 

「っぅ、なんだよ。枯れてんのかと思ってたけど怒ることあるんだ」

 

「ッ!」

 

 何も考えられない。神経を伝う電流よりも強い熱が拳を振り下ろさせた。

 柔らかく、脆い何かを拳が捉える。射精にも似た快感が全身を貫き、口角がつり上がっていく。

 

 それから、どっと冷や汗が吹き出してきた。

 し今自分が自分の雇い主であり、自分よりも圧倒的に優れた人間を、ケモノみたいに押し倒してその美しい顔を一発殴りつけてしまったことを。

 

「…………あーあ、いったいな、もう」

 

 唇が切れて、左の頬が紅く腫れ上がっている。

 左の頬、今まで髪の毛で隠されていて見えなかった、顔の左半分。そこには端正な右側とはまるで天と地、陰陽のように対になってるみたく、フランケンシュタインのような傷跡が存在していた。

 

「あ……その」

 

 自分が如何に最悪なことをしたのか、右の拳に残る柔らかい感触が、その下にあった硬いものとぶつかって赤くなった肌が、赤誠に全てを物語る。

 

「……いや、人間なら誰だって言われたら嫌なことあるだろう。それが嫌な上司が言ってきたなら、我慢出来ないこともある。今夜はもう遅いし、泊まっていきな。それじゃ」

 

 いつも堂々と、世界で自分が一番偉いかのように振舞っていた天子の体が小さく見える。

 何かに怯えるように、片付けもせずに早足に部屋から出ていった彼女の背中を、僕は見つめることしか出来なかった。

 

 

 

「…………最悪だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぐちゃぐちゃに壊したかった。

 

 全部壊してやりたかったんだ。

 

 全てを持った、恵まれた子を。

 

 

 

 ぐちゃぐちゃに、ぶち犯してやりたかったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「少年、セックスはしたことある?」

 

「…………ないですけど」

 

 次の日、髪の毛で隠れてはいるものの左の頬が明らかに腫れていた。

 その癖して、いつもの笑顔で、少し舌足らずになりながらもそんなことをおほざきになりやがった。

 

「え、もしかして童貞(ドーテー)? ひゃー! 初心(セイシュン)!」

 

 ぶん殴ってやりたい、と思いはするものの流石に昨日の本当の本当に、抑えられないくらいの『ぶん殴ってやりたい』という感情と比べてしまえば偽物。全然我慢出来る程度のものでしかない。

 

「うーん……じゃあ1000万」

 

「は?」

 

「1000万払ったら、セックスしてあげる」

 

 …………。

 

 ……………………。

 

 …………………………。

 

 

 …………悪くない。そう考えてしまった。

 

「あ、股間は正直だね。トイレ行ってきていいよ」

 

「大丈夫です。すぐ収まります」

 

 天子は顔は……まぁ別に傷跡があるくらいでそんな悪くなるようなことも無いし、普通に美人だし、体型もかなり良い。そう、見た目に関してはほぼ完璧に近い。

 

 それに、きっと彼女の裸は凄く『綺麗』だ。

 人生の最後に見るものとしては、かなり上等なものだろう。

 

 でも1000万は高いな。既に結構溜まってきたが、それは最初の方の肉体を痛め付ける分の高額な支払いのおかげなのが大きく、普通にこのバイトを続けているだけじゃそれなりの期間かかるだろう。

 

 いや、それよりもだ。

 

「なんで急にそんな話するんですか? その、殴ってきた相手に抱かれたいんですか?」

 

「失礼だな。私はどっちかって言うとSだぞ」

 

 知ってっから聞いてんだよ。

 

「まぁ、本音を言うとね。私は君の『本性』が見たいんだよ」

 

 そう言いながら、天子は僕に見せつけるように腫れた顔を指で優しく撫でる。

 

「君には理性を捨て、獣のように暴れて欲しいんだよ」

 

「前みたいにブチ切れてぶん殴って欲しい、ってことですか?」

 

 彼女はやたらムカつく顔で肩を竦める。どうやら相当ぶん殴って欲しいらしい。そこまで言うなら殴ってやろう。今度は右の頬を、確実に砕くように勢いをつけて。

 

「や、待って待ってストップ! さすがにもう1発殴られたらやばいから! ……なんで私が君の裸を描いていると思う?」

 

「あんたが変態だから」

 

「惜しい! 6割正解!」

 

 そう言いながら、天子ノユビサキカゆっくりと真っ黒なシャツのボタンを外す。当然の結果として、その下にある程よく膨らんだ胸元が露わになった。

 

 …………? 

 

 

 

「!?」

 

「ひゃー、そんな初心(ウブ)な反応されたらコッチが恥ずかしくなっちゃうだろ童貞(ショーネン)

 

 そんな訳にもいかないだろう。別に僕の反応は目の前でいきなり女性が脱ぎ出したら誰でも取るであろう反応の範囲だ。そもそもこの場合は僕が初心なのではなく、脱いだ女の方が狂人なのだから。

 

「興奮したかい?」

 

 口を閉ざす。

 丸められた日本銀行券が投げられる。

 

「少しでも興奮、したかい?」

 

 恐る恐る、怒られるのを恐れる子供のように頷く。

 

「そういうことだよ」

 

 どういうことか分からない僕を他所に、天子は近くの本棚を思いっきり蹴飛ばした。

 足を痛そうに抑える彼女を他所に、振動に耐えられなかった何冊かの本がバタバタと地面へと落ちていく。振動に耐えた本も、足の痛みから復活した天子が1冊ずつ丁寧に落としていく。

 

「人間の本性は、獣だ。上辺では芸術だの神だの説いておきながら、結局求めているのは快楽(リビドー)だけ。昔から、そう昔からそうだ! 芸術って付ければ裸を描写してもお咎めなし! 自分の自慰を描き散らしてもノープロブレム!」

 

 地に落ちた本の山を踏みながら、天子は悪魔のようなことを口にする。賛美歌を歌うように、呪いを吐くように、覚束無い足取りで知識の山を踏みにじる。

 

 参ったな。

 こういう詩的に、抽象的に表現されると何が言いたいのか全然分からない。何度も言うが、僕に芸術的な教養は備わっていないのだ。

 

「えっと、つまり……16歳男児の裸が見たかった、ってことでいいんですか?」

 

「そうだよ。それもね、傷付いてボロボロで、今にも朽ちてしまいそうで裸を見せることに抵抗のある、初心(プリティ)な子ね」

 

「なるほど。アンタやっぱり最低だよ。全ての芸術家に頭下げて来い」

 

「1億くれたら行ってあげるよ」

 

 

 本当に最低だ。

 

 

 だって、ほんの少しだけ、最低で理解できない最悪な彼女を理解出来てしまったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 松代 天子。

 所謂ペンネームであり本名は不明。年齢も不詳。基本的に顔出しはせず性別もあまり知られていない小説家兼画家兼彫刻家兼……とにかくたくさんの顔があり、そのどれもでそれなりの成果を出している。

 

 そんな小説家としての天子の代表作、これがなかなか面白い。さすがに小説くらいなら幾らか読んだことがあるが、それでも国語の教科書に載ってるページ数でもげんなりする僕が、面白くて最初から最後まで一気に読んでしまうくらいには面白かった。

 

 なんというか、スルスルと心の奥に入ってくる文章。それを摂取するということになんの抵抗もないどころか、自分の一部が『戻ってくる』ように感じると表現した方がいいような、読み心地の良い小説だった。

 悔しいが、これが売れているという事実に非常に納得してしまう。

 

「まさに天上人って感じだな」

 

 自分から呼んでおいて、「あ、今日は買い物行ってくるから留守番でもしてて〜」などとほざくのは自分を天上人だと思ってるくらいの不遜さがないと出来ないだろうが、実際天上人なのだから仕方ないのだろう、と窓の外のこのアトリエという名の屋敷の大きな門を見てそう思ってしまう。

 

「…………」

 

 ふと、部屋の端に転がされた幾つかのキャンパスが目に入った。

 確かアレは没と言って投げ捨てられたモノだろう。もう結構長い期間付き合わされているのに、天子が描いた絵はそう言えばここでは見せてもらったことがない。

 

 確かこういうのをカリギュラ効果とか言うんだったろうか。

 禁止されているものほどその禁を破りたくなってしまう。皮肉なことに、これを僕に教えてくれたのは天子だ。まぁ知らなくてもきっと僕は同じ行為をしていただろうけれど。

 

 転がっているキャンパスの一つを手に取って、僕はそれを裏返す。

 1つ目は何も描かれていなかった。期待外れの落胆と、何故か少しの安堵が生まれた。

 2つ目はそのまま僕の裸が描かれていた。なんの面白みも無い体だと思っていたが、弘法筆を選ばず。どうやら天才は素材に拘らないらしく、顔が僕のものでなければそれが僕だと思えないくらい、『らしい』絵がそこにあった。

 

 それは確かに素晴らしい絵だった。自分が嫌いな僕が、自分が題材な絵なのに額縁に入れて飾りたくなる程度には。

 

 でも心が動かない。

 あの個展で見た、磁石が引き合うように僕の心を掴んだあの絵とは、まるで『別の人が書いた』かのような相違性。

 盗作、なんて言葉が頭を過ったけれどそれは違うだろう。近くで天子を見てきたからこそ言えるが、天子には間違いなく才能がある。あれはそういう歪み方をした人間だ。そうであってくれないといよいよ擁護のしようがない。

 

 そんなことを考えていたせいか、推理小説のページをめくるみたいな緊張感を忘れて僕は3つ目のキャンパスを裏返して、そして同時に右腕が千切れた。

 

「は?」

 

 理解が追いつく前に腹と足に激痛が走り、僕の体が聞いた事もない音と共にその場に崩れ落ちた。

 

 聞いたことが無い音、なんて言う表現しか思いつかない。

 だって自らの腹が裂けてそこから内臓が零れ落ちる音なんて、聞いたことなくて当然だろう? 

 

「あ、あぁぁ!?」

 

 何かを叫ぼうとしたが、どこから来てるかも分からない激痛が喉から出る言葉を無様な悲鳴に変換してしまう。右眼が、足が、解けるように体から離れていく。

 

 何が起きたかもわからずに、そのまま僕は物言わぬ肉塊へと成り果てる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 腰を抜かして数分経ち、ようやく僕はそれが()()()()()()()()()の姿であることを理解出来た。

 現実の僕の腕は千切れていないし、腹も裂けてない。天子に付けれた傷跡はあれど、致命傷としか言えない残酷な傷は存在しない。

 

 こんな馬鹿な話があるだろうか? 

 僕は、天子の描いたぐちゃぐちゃの死体となった僕の絵を見て自分が本当にそうなったように錯覚してしまったと言うのだ。

 

 改めて絵を見るがこれは酷い。この場合の酷いは天子の人間性の話だ。

 まさかあんなへらへら笑いながら被写体が腕がもげて足がちぎれて腹が裂けて目が腐り落ちた死体を描いているとは、どんなメンタリストも読み取ることが出来ないんじゃないんだろうか?

 

 そして、遅れて恐怖がじわじわと生まれる。

 天子は欲望に忠実な人間だ。もし、もし彼女が僕を本当はこの絵の通りにしたいのだとしたら……? 

 

 絵の中で苦悶の表情を浮かべ息絶えている僕と目が合う。

 もしもこの絵の通りの未来が僕に待ち受けているとしたら? 

 

 さすがにいくら死にたいとはいえ、こんなに痛そうで苦しそうな最期はごめんだ。天子がやるかやらないかでいえば、あの女はやるやつだ。下手すれば今も僕をこの絵みたいにバラバラにするための道具を鼻歌でも歌いながら選定している可能性だってある。

 天子が勝ち組だとしたら僕は存在する価値もない人間だ。きっと、殺されたとしても僕が『天子に殺された』という事実は闇の中に消されることだろう。

 

 

 

 ……恐怖が心を染め上げ、思考を無理やり働かせ、今度は何かどす黒いものが心を汚していく。

 

 殺されるくらいなら、殺られる前にやってしまえばいい。

 そうだ。天子は所詮は女だ。いくら社会的に天子の方が強くとも、彼女は僕に胸ぐらを掴まれて押し倒されれば何も抵抗できないくらい弱い相手なんだ。

 一度封を開かれれば、邪悪というものは止まらない。そうだ、もっと早く気がつくべきだったんだ。天子が誰かと連絡をとっているようなところはほとんど見ない。2ヶ月以上もこのアトリエに出入りしてるのに、僕以外の人を招いている様子もない。もしも急に死んだとしても、しばらくは誰も気が付かない。

 最初から痛い目を見る意味も、大人しく命令に従う理由もなかったんだ。僕は、ただマヌケな女を1人殺してしまえば大金を持って何処かへと逃げて、綺麗なモノを見た後で死ねばそれで終わり。どうせこれから死ぬのに、殺人がダメとか法律とかそんなモノ考える必要も無い。あのふてぶてしい態度からは考えられないくらい、風が吹けば消えてしまいそうな細い腕をした女なんて、力で組み伏せることはあまりに容易いだろう。

 

 

 

 

 そんな思考の端で、僕はまた凄惨な死体と化した僕が描かれた絵を見る。

 残酷で、悪趣味で、最悪を煮つめたかのようなその絵を見て、僕は思わずこう呟いた。

 

 

 

「最悪だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 死にたいことに本当に理由がなかった。

 ただ何となくそう思い、ただ漠然と行動に移した。意味がわからないかもしれないし愚かと笑われるかもしれない。それでもそれが全てだった。

 

 

 ただこの世には、たった一つが全てを上回ることだってあったと言うだけなんだ。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

「今日は服を着てていいよ」

 

 それだけ告げて、天子はいつものように絵を描き始めた。こういう日に限っていつもの質問や無茶振りは飛んでこない。降り注ぐ雨の音が、天子の細やかな所作の音を描き消している。

 

 思考が告げる。

 殺るなら今だ。油断している。ポケットの中の小さなナイフの感触が脈を打ってるように鮮明に感じ取れる。

 

 ザァァァァ、と降り注ぐ雨の音の合間。ほんの一瞬だけ生まれたその隙間で時計の針が時を刻む。それを合図にするかのように、僕は自らの足に力を──────

 

 

「あ、そう言えば聞きたいことがあるんだけどさ」

 

 

 込めた瞬間、天子に声をかけられてタイミングがずれ、思いっきり椅子から転げ落ちてしまった。

 

「…………? え、なんで急にずっこけたの? まぁ別になんでもいいけど。質問していい?」

 

「ど、どうぞ……」

 

 ナイフの感覚はしっかりとポケットの中に収まっている事に安堵しつつ、焦りや緊張が顔に出ないように深呼吸をしながら体勢を戻す。

 

「あの絵。君の死体の絵を見てどう思った?」

 

 また椅子から転げ落ちそうになる衝撃を全力で噛み殺す。

 だがいくらなんでもその質問は卑怯だ。そんな質問されてしまえば、どれだけ隠そうとしても嫌な脂汗が肉体の反応として滲み出る。心を読まれているかのような不安はどうやっても隠せない。

 

「安心してよ。私別に読心とか出来ないからさ。そんなこと出来たらこうして話をしないだろう?」

 

 今まさに読心みたいなことをしてきたくせにどの口でそんなことを言えるんだろうか? 

 

「別に話さなくてもいいけど……じゃあこうしよう。今回は答えてくれたらそれに応じて君も何か私に質問していいよ。答えられることは可能な限り答えてあげるから」

 

 いつもなら日本銀行券の暴力でこちらを黙らせてくるはずの天子が、突然そんなことを言い出した。もしかして、1000万でセックスさせるという約束が今になって怖くなったのだろうか? まぁ天子がそんなこと考えるってのは一番ありえないことだけど。

 

「僕は、あの絵を見て……」

 

 だから、その話に乗ることにした。

 僕は天子のことをあまりに何も知らない。天才で、性格が悪くて、あとは性格が悪くて……性根が腐ってて……それくらいしか知らない。

 そこに知的好奇心が湧かないかと言われれば嘘になる。それに……

 

「あの絵を見て? どう思ったんだい?」

 

 長い髪の間から覗く瞳はまるで鏡のようで、黒の中に映る情けない僕の顔が見える。それも含めて全てを見透かされているかのような圧迫感は嘘をつくと言う思考すら消し去ってしまう。

 

 何を期待してその口角を釣りあげているんだろう。

 僕がなんと答えたら、彼女は最も喜ぶんだろう。

 

 

 ああ、でも。なんにせよ。

 

 

 

 

 

 

「すごく、綺麗だと思いました」

 

「…………ぇ」

 

 

 

 

 そうだ。最悪なことに、僕はあの苦悶の表情を浮かべ殺された僕が描かれた絵を見てその美しさに見惚れてしまったんだ。

 別に僕が自分を美しいと思うナルシストな訳じゃない。正直に言ってしまえば、僕はファンなんだ。

 

 あの日、あの古典で崩れ落ちてしまいそうな灰色の夕焼けの絵を見た時から、ずっと画家である松代天子の絵のファンなのだ。

 

 

「は、ははっ! マジで!? 君ってば自分が殺されてる絵を見てそんなこと思うタイプだったの!?」

 

「いいえ。僕はあの夕焼けの絵を見た時から貴方の絵が大好きなだけです」

 

「──────ッ、そうかぁ。あの絵をかぁ」

 

 よく回る天子の口が、油を差し忘れたように鈍くなる。

 その理由は分からない。だって僕は天子について何も知らない。

 

「次は、僕が質問していいですか?」

 

「……いいよ。何が聞きたいの? ちなみにバストは」

 

「あの夕焼けの絵がアンタの描いた絵だったとしたら、他の絵は誰が描いたんですか?」

 

 ずっと気になっていたんだ。

 僕は天子の絵が好きだ。だから、天子の絵を一通り調べたし、他の作品も調べた。置かれていた小説も読んだし、転がっていた没の絵まで見た。

 

 そこまでして、僕が『天子の作品』と思えたのはあの夕焼けの絵以外だと僕の死体の絵のただ一つだけだった。それこそ、別の人が描いたことを疑うほどに僕が受ける印象が違ったんだ。

 

「なに、まさかこの私に盗作の疑いでも?」

 

「そうだ」

 

 天子の作品の特徴として、僕が『天子の作品』では無いと感じたものほど、世間での評価が高いというものがあった。

 それを知ってしまえば、盗作を疑うのだって仕方がないだろう。だって、僕が『天子の作品』と認められたのはあの夕焼けの絵と僕の死体の絵なんて言う、誰にも見向きされなかった2作だけなんだから。

 

 

 

「……いや、違うけど? あれ全部私が描いたよ?」

 

「……マジで?」

 

「うんマジ。さすがに全部盗作は無理でしょ」

 

 

 

 まぁ、その通りではあるのだが、なんだか釈然としない。嘘を言ってるとも思えないけれど、それがどうしても真実だと認められない。いや、()()()()()()

 

「君は、本当に私の作品が好きなんだね」

 

「認めたくないですけどね」

 

「そんな君に免じて、本当のことを教えてあげるとしよう」

 

 突然天子は立ち上がり、僕の方へと歩いてきた。

 一歩、一歩と近づかれる度に、立っている天子と座っている僕の身長差がはっきりしていく。2人とも立っていても天子の方が大きいのだから、当然僕が座ったままならばその身長差は更に大きくなる。

 

 目の前に来た段階で天子は足を止め、腰を折って顔を僕の耳元に近づける。

 吐息が耳を撫で、耳を澄ませば彼女の柔肌の下を流れる血液の音すら聞こえてしまいそうな至近距離で天子は口を開いた。

 

 

「私の作品ね、ほとんどパクリなの」

 

「…………はぁ」

 

「反応薄くない? 天才芸術家のとんでもない秘密なんだから、もっと驚いてもいいし、これをダシに私をゆすってもいいんだぜ?」

 

 僕としては最初から天子の作品と認めていなかった作品が盗作かパクリかでパクリと知らされてもそこまで驚くようなことでもないし、天子をゆするのに大層な秘密なんてものは必要ない。

 

 ポケットの中のナイフの感覚は消えていない。

 

「それにしても、よくバレないもんですね」

 

「そりゃ流行ってる作品を一通り見て、流行ってる要素を抜き出して大衆向けにアレンジを加えてお出ししてるからね」

 

 それはもう、パクリとは言えないのではないだろうか? 

 彼女の中身を出さずに、流行を取り入れて作っただけのそれは僕としては『天子の作品』と呼べない紛い物だとしても、大衆の誰もそれの元となった作品が何なのかは気が付かない、きっと言われたって気がつけやしない。

 

「いいや。これは芸術家としては致命的だ。私がそのまま描いた絵は、誰も見ない。いや、そもそもの話としてね」

 

 

 雨の音が、部屋から消えた。

 光も音も、全て天子の呼吸に飲み込まれてしまったんだ。

 

 それ程までに、何か、重力の籠った言葉が口の中に溜められて、出すことを逡巡する間が僅かに開き、そして紡がれる。

 

 

「私は芸術家として、()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 宮野 天子(てんこ)は、自分を恵まれた人間だと思っていた。

 家が裕福とか、家族が優しいとか、そう言ったことが理由ではない。

 

 彼女はピアノが好きだった。それはもう産まれる前から決まっていた本能のように。そして彼女はピアノを好きなだけ弾くことができる環境で育った。

 大好きなピアノの練習をすればみんなが褒めてくれる、みんなが笑顔になる。表彰される度に、見えない幸せが積み重なっていく。

 

 彼女は家族の笑顔が好きだった。父も、母も、妹のことも大好きだった。

 そして何よりピアノを弾くことが好きだった。

 

 

 さて、そんな元気溌剌、順風満帆、才色兼備な彼女の人生は一体どこで狂ってしまったのかといえば、それは1つの交通事故。

 運転手はなんと運転中に心臓発作を起こして、彼女を撥ねたあとそのまま亡くなってしまいました! しかも病気があったり、生活習慣が悪かったわけでもない、本当に不幸にも心臓発作を起こしてしまった憐れな被害者。

 

 ではもう1人の被害者の彼女はと言うと……彼女は本当に恵まれた子でした。なんと、それなりの速度で車に撥ねられたというのに二箇所の傷を縫うだけで済んだのです! 

 

 

 

 

 

 

 

 

「顔と腕。顔だけならまだ良かった。ただ、腕は神経がイカれていた」

 

 天子は右手の小指と薬指を触っていた。

 見たこともないくらい苛立っていて、見たこともないくらい悲しそうなその表情を見て、僕はなんと言えばいいのか分からずただ息を呑んでいた。

 

「ほんの僅かな痺れ。1秒未満の反応の遅れ。でも、宮野天子には致命的だった。彼女は一瞬で人生の全てを失い、ピアノで得てきたものを全て失った。まず、彼女は自暴自棄になって誰彼構わず当り散らして信頼を失い、両親は今まで彼女とピアノの為にかけていた時間と愛を妹へと捧げるようになって居場所を失い、失う事に耐えきれなくなった彼女は逃げるように家を出て、全てを捨てた」

 

「…………」

 

「生きる為に私は最初小説を書いてみた。全然ダメだった。だから、世間で流行ってる作品を一通り見て、それからそれらの作品を少しずつパクって……そうしたら面白いくらいに話がトントン進んで、あっという間に売れたんだよね。私、どうやら誰かの才能をパクることに関してはピアノと同じくらい才能があったみたいで」

 

 部屋の端で散らばっている自身の作品へと向けられる天子の眼はあまりに鋭く、とてもでは無いが自らが生み出したものへ向けるようなものではなかった。

 

「そうした作品を積み重ねていく度に、自分の居場所が無いことを思い知らされる。ピアノのない私は、この世界に居ないのと同じなんだと知っていく」

 

 剥き出しの感情を吐き出していた天子の顔に、突如貼り付けられたような笑みが浮かぶ。そして、そのあまりにミスマッチで気持ちの悪い笑顔を湛えた瞳が僕へと向けられる。

 

「例えば、そう、あの日フラフラと現れた親無しの子供みたいに、私には居場所がなかった」

 

 ドクン、と心臓が跳ねる。

 ポケットの内側の感触が熱を帯びる。

 

 

 

 

 

「君と私は、同じなんだよ」

 

 

 

 

 

 気が付けば獣みたいに叫んで、天子を押し倒し、組み伏せていた。

 驚きもせず、ただ成されるがままの彼女をああ、傷があっても綺麗な顔立ちだなぁと他人事みたいに考えながら、本能がポケットの中から遂にナイフを取りだした。

 

「……脅されても金は渡さないし、犯そうとするなら舌を噛み切ってやるよ」

 

 そうやって笑顔で語る天子を見て、何かを悟る理性よりも先に本能がナイフを振り下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なんでそんなことするかなぁ」

 

「──────バッ、バッカじゃねぇの!?」

 

 

 振り下ろされたナイフが天子を貫く前に、自らの左手でそれを止める。めちゃくちゃ痛いし、なんか痛いし、もう訳わかんないくらい痛いのを腹から声を出してどうにか我慢しようと試みるけどやっぱり無理で、ナイフを引っこ抜いてから転げ回る。そしたらめちゃくちゃ血が吹き出して抜かなきゃ良かったって後悔する。

 

「うん。馬鹿だよ。どう見ても君は馬鹿だよ少年」

 

「うるせぇな! 僕はお前に馬鹿だって言ってんだよ! さすがに気がつけよ! アホ!」

 

 これに関しては僕も今まさに気がついたことなので人の事を言えないが、とりあえず痛みを忘れる為に今は馬鹿みたいになんでも叫ぶしかないのだ。

 

「いや、理解してるから馬鹿だなぁって思ってるんだよ。だって君……」

 

 

 そうだ、僕は──────

 

 

 

 

 

 

 

「私の事が大嫌いなんだろう?」

「天子の事が……好きなんだよクソがッ!」

 

 

 

 

「…………ふぃ?」

 

 

 何語かも分からない天子の素っ頓狂で可愛い声が聞こえたが今は気にしてる余裕はない。とにかく、叫んで叫んで痛みを掻き消す。

 

「僕だって嫌だよ! 好きになった相手がさぁ! 性格最悪でいきなり根性焼きしてくるし、ナイフで趣味の悪い絵を体に刻んでくるし、下品な言葉めちゃくちゃ使うしでさぁ! もう泣きたくなることもあったけど、一目惚れだったんだよ!!!」

 

「いや、待て。急に何を言ってるんだ?」

 

 初めて見た時から、彼女は死神みたいに僕の心臓(ココロ)を持っていってしまっていた。思えば一目惚れしていたからこそ、僕はこんな怪しくて性格の悪い女にホイホイついて行ったんだ。でもそれが認められなかった。認められなくて、ずっと目を逸らしていた。

 

 でも残念なことに僕はこの女にゾッコンなのだ。本当に残念なことに! 

 

「じゃ、じゃあなんで私と同類扱いされて殴りかかってくるくらい、それこそ理性が無くなるくらい怒ってたんだよ!?」

 

「僕は僕が嫌いなんだから、好きな人を僕と同類扱いされたら怒るだろ! 分かれよ!」

 

「分からないよ! 君頭おかしいだろ!」

 

 親無しの能無しに教養を求めるなって話だ。自分がおかしい人間であることくらい百も承知。僕は天子みたいな性格の悪い人間が嫌いだし、天子みたいな金でなんでもどうにかしようとする人間は嫌いだし、天子みたいな人を平然と傷つける人間は嫌いだし、と言うか痛いのは嫌いだ。

 

 でもそれ以上に、僕はあの夕焼けの絵と天子に一目惚れしてしまった。惚れた弱みという言葉を今までバカにしていたが、自ら体感することになって初めてわかった。これは『弱み』としかいいようがない。

 

「えっ、じゃあ何? 仮に私の事が好きだとして、惚れた相手に惚れた相手を馬鹿にされたことに怒って惚れた相手を殴ったり、刺し殺そうとしたりしてたの君?」

 

「そうだよ!!!」

 

「……ハハッ、いや、もう頭がおかしいとしか言いようがないでしょ。なんだよそれ。馬鹿だよ。ソウタロウ」

 

「ソウジです」

 

 天子はその場に寝転んだまま、天井を見つめ続けてポツリと言葉を漏らした。

 

 

 

 

「──────私も君に、ソウジに一目惚れだった。だからこそ、嫌われたかったんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 死ぬことに理由はない。

 ただ、居場所がないと思っただけだ。

 

 名声が多くなる度に積み上がっていく虚無感に耐えられなかった。ハリボテの個展の中で、誰にも見向きされない私の本音を眺め続けるその時間は、拷問のように息苦しかった。

 時計が時を刻む度に、自らの存在の無意味さが思い知らされる。いっそ、この場で首を括ってしまえたらと思ってしまうほどの時間がどれくらい経った時だったろうか。

 

 

 君が現れたんだ。

 

 

 

 あの日、誰にも見向きされなかった『灰色の夕焼け』を、私の慟哭を見て泣いてくれたのは君だけだった。

 

 好きになるって、そういうことだろう? 

 

 

 私は君のことを本気で美しいと思ったんだよ。

 だからこそ、私は、私という最悪な人間は同時にその美しい君を、心の底から妬んだ。

 

 私の慟哭を見て涙を流せる純粋な君を汚してしまいたかった。古い鏡を見せられているかのような苦痛に耐えきれなかった。

 

 大好きな君に嫌われよう。

 愛らしい君を痛めつけよう。

 好まれる言葉を反転させよう。

 

 美しい君を、私を殺すことで完全に汚させてしまおう。

 

 

 私は君に嫌われようと、君に殺してもらおうと必死だったんだぜ? 

 なのに、まぁ、その結果がこれだなんて。本当に私は恵まれていないよ。

 

 

 

「……惚れた弱みなんて、クソ喰らえだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「めちゃくちゃ手が痛い」

 

「まぁ痛いだろうね」

 

 僕はひとしきり叫んで、天子はひとしきり泣いて、しばらくしてようやく僕の手の処置が終わった。さすがに自分でぶっ刺しましたって病院にはなんか行きたくないし。

 

「それで、どうするんですか?」

 

「いや、何を?」

 

 その、だって、僕達。

 

「……両想い、ですよね?」

 

「まぁ、そうなるよね」

 

 すごく認めたくない。これを認めると、天子が汚されてしまうようで認めたくないけれどそれはお互い様だろう。

 

「…………」

 

「…………」

 

 いつものようにドーテーだのウブだのからかってきてくれる天子はどこにもいない。顔を真っ赤にして、そっぽを向いてしまうアラサーしかそこにはいなかった。

 

「その、本当に私が好きなの?」

 

「…………そう、ですね」

 

「27よ?」

 

「ギリギリセーフ」

 

「…………マジかぁ」

 

 何かを試すように天子は髪の毛を分けて顔の傷跡を見せたり隠したりを繰り返すけれど、それで気が変わったりは残念ながらしなかった。悔しいが、僕はこの急にアホっぽくなったアラサーに本当に惚れているらしい。

 

「じゃあ、なんだ。恋人……なる?」

 

「アンタ……いや、天子がいいなら」

 

「なりたい、けどさぁ」

 

 有史以来最悪の雰囲気で生まれて初めて恋人ができてしまったらしい。もうちょっとロマンチックな感じを想像していたのに。

 

「恋人って、何するの? キス、とか?」

 

「はぁ、多分」

 

「…………する?」

 

 してみた。

 柔らかい。あと、なんかいい匂いがする。舌を絡めると、本当に繋がってしまったかのような錯覚に陥る。あとレモンの味はしなかった。

 

「……しちゃった」

 

「しましたね」

 

「…………勃ってる?」

 

「まぁ、はい」

 

「……シたいの?」

 

「はい」

 

「ごめん……無理」

 

 ここに来て突然の生殺し。

 

「ほら、ドーテーのテクじゃ怖いし……」

 

「あ、実は僕童貞じゃありません」

 

「え?」

 

 昔男児好きの変態に無理やり犯されて卒業しているので、正確には既に僕は童貞ではない。言いたくないので誰にも、天子にも言ってないが。

 

「…………正直怖いです。はい。私処女なので」

 

「…………」

 

 

 なんか、もう

 

 

「「……ははっ、ははははははは!!!」」

 

 

 

 どちらが先に笑い始めたかは分からないけど、僕達はお互いの顔を見て笑ってしまった。

 なんだこれは。なんなんだこれは! 

 

 めでたく結ばれたカップルだと言うのに、道程があまりにロマンが無い! 

 こんなラブストーリーを見せられた日にはもしも僕が観客ならばポップコーンを投げつけてやるところだ! 

 

 それでもこれくらいが僕にはお似合いなのかもしれないと、また大声で笑い合う。

 

 

 そんな、綺麗とは呼べない僕達の恋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここから先は語ることは多くないだろう。

 僕は天子と両想いになった。だからといって何かが変わった訳では無いが、強いていえばキスをするようになった。

 

 セックスはしていない。天子が案外臆病で、そういう雰囲気になっても最終的に泣き出して無しということになってしまったからだ。

 

 ただ絵を描く天子を眺めているのは楽しかったし、話すのも楽しかった。きっと僕は、人生全てを良かったと言えるくらい、綺麗なモノを見ただろう。

 

 

 

「明日、死のうと思うんです」

 

「……そうかい」

 

 

 だから、僕は死ぬことにした。

 死ぬ前に綺麗なモノを見たかった。それがこの時間の意味だったのだから。

 

「1人で、死ぬのかい?」

 

「まぁ、そのつもりですが」

 

「私も死ぬ、と言ったら止める?」

 

 僕は首を横に振った。

 こういうわけで、僕達は服毒心中をすることにしたんだ。

 

「元から私も死ぬつもりだったからね。まさか、殺して貰おうと思っていた相手と一緒に死ぬことになるとは思わなかったけど」

 

 天子が用意した薬は、2粒飲めば眠るように死ねるらしい見たことも無い薬だった。

 

「さて、もう飲んでしまったから後に退けないけど、本当に良かったのかい?」

 

「飲んでから聞くのかなり性格悪くないですか?」

 

 そこまで言って思い出したが、天子は性格が悪いのだった。

 

「……私は君と過ごした時間は楽しかったよ。もう一度生きてみようと思うくらいには」

 

「僕は、どうなんでしょう」

 

 天子と過ごした時間は痛かったし苦しかった。

 でもそれ以上に美しかった。最初から痛いことや苦しいことが死を望む原因でない以上、何が起きてもきっとこの気持ちは変えられないのだろう。

 

「……すみません。僕の自殺に付き合わせて」

 

「いいんだよ。その、セッ……出来なかったから、最後くらいカップルらしいことしてあげたかったしね」

 

 カップル、そうか。僕らはカップル。恋人同士なのか。

 でもやった事を思い出しても、キス以外は奴隷と主人くらいの事ばかりが頭に浮かんでしまう。それは恋人同士と呼ぶには、あまりにも美しさが足りない。

 

「……心中、って言えるほどかっこいいものじゃないですね」

 

「じゃあ言い換えるかい? 運命共同体とか」

 

 少し握力の弱い天子の右手が、僕の手を弱々しく、懸命に握ってきた。

 

「いや、それは少し高尚すぎる気も……」

 

 応えるように、僕も強く握り返そうとしたがそれを妨げるように強い眠気が襲ってきた。もう二度と目覚めることのない、最後の眠気が。

 

「──────じゃあ、こんなのはどうだい?」

 

 子守唄のような誰かの優しい声が聞こえる。

 脳の働きがゆっくりと止まっていき、それが誰の声なのかもわからなくなってしまったけれど、確かにその言葉だけは聞き取ることが出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「死なばもろとも」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あぁ、それくらい汚い方が僕達にはお似合いだ。

 

 



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