虎ノ門ヒルズ。皇居の南側にそびえる三本の高層ビルは、初夏の空よりひときわ濃い青色の偉容ですっくと立ち並んでいる。もう数年も経てばさらに一本の淡藍色の巨塔が緑のスカートを広げて並び、はじめに建った森タワーのオーバル広場からの眺めをいくらかふさいでしまうだろう。
「あー、あいつですね? いっぱい工事してるんご」
オーバル広場の西の端、環二通りの真上で辻野あかりが指をさす。青りんご色のワンピースが長い裾と短い袖から風を吸って膨れた。ひらけた視界の左半分、“狭い果樹園くらいの”土地は重機と鉄骨の低い茂みだ。遠くに六本木ミッドタウンがブルーグレーにかすんで見える。
「あと二年のうちにあそこが四九階建てのビルになるそうよ」
プラスチックカップのコーヒーを両手にした和久井留美が、二歩うしろから答えた。結露の冷たさを避けて蓋とコーヒーの液面との少しの隙間をつまんでいる。一歩踏み出したパンプスの揺れはカップに涼しげな声をさせた。
「なんだ、そんなに先なんだ」
この景色はまだいつでも見られる。身を乗り出し首まで伸ばして、貴重そうな“ひらけた都心の街並み”を目に焼きつけんとしていたあかりは、手首の紙袋より軽く態度と体をひるがえした。留美の手にしたコーヒーに顔を近づける。
「こっちじゃないや」
白い開襟シャツの明るい胸許を鼻先で横切り、もう片手のほうのストローをあかりはくわえた。横着ぶりに笑う留美を不思議そうにあかりが見上げる。コーヒーは飲みながら、目だけで。
「よくわかったわね」
「わかりますよーっ」
からかわれて、あかりはやっと上半身を起こした。
「そっちは口紅ついてますもん」
「いまので見分けつかなくならないようにね」
「だいじょぶです。私、口紅つけてないんで」
自分のコーヒーを自分で持たせようとした留美の意図はあかりに伝わってはいないが、持つ気のないことは留美に伝わった。言外の会話の成り立ったことを、そもそもあったことを知らぬまま、あかりは身体を大きく反らせて伸びをした。
「つけても似合わないですし」
「お仕事ではつけてるでしょう?」
「自分でやるとなんかちがうなって。毎朝メイクさんが塗ってくれるなら、私だって口紅つけてちょっとかっこよくなりたいです」
留美は記憶のなかからあかりの姿を何枚か拾い上げた。それは特集記事用のカットであったり、ライブでのパンツスーツであったり、砂浜のラムネ売りであったりした。レトロなワンピース姿もあったが、それは化粧の有無という差異をもっていま目の前にある。いずれもメイキャッパーの手でしっかりと顔を整えられていて、
「あかりちゃんは“かわいい”じゃないの」
「えーっ。留美さんみたいにかわいくなくてかっこいいほうがいいですよーっ」
無自覚な暴言に留美は紅唇をすこし歪めたが、すぐに優美な弧をえがきなおして、あえてかわいくないことを一ついう。
「かっこよくなりたいなら、自分のことは自分でできるようになることね」
口紅のついていないコーヒーがブロックアイスの崩れる音を、あかりの鼻先にたてた。きょとんとしたりんご色の瞳の前でカップのかいた汗が一筋、二筋とつたう。
「あっ、わかりました!」
……これは意図が理解できたという意味で、それに従う意志は行動で示された。結露だらけのカップで手を濡らし、ハンカチを巻いて、とコミカルなアクションをはさんで落ち着くのを待ってから、留美は先を促した。きょう虎ノ門を訪れたのは、ビル街を眺めるためではないのである。
オーバル広場から東の通りへは二つのルートがある。一つは森タワーの脇を抜ける水路のスロープ。もう一つは、いま二人の選んだ森タワーのなかを通るものだ。それはたんに陽射しを避けたいというだけではなく……。
「へえ……。これも猫なんですね」
桃色づいた手で白い球体をぺたぺたと触りながら、あかりはいかにも物珍しそうにいった。虎ノ門ヒルズのマスコットキャラクター、トラのもんの像である。耳とちゃんとした尻尾のある真っ白いドラえもん。ところどころに黒の縞がはいっている。藤子プロと共同で作られた、二二世紀のビジネスロボットだ。
「留美さんの猫判定広いんご~」
「……」
コーヒーを一口ゆっくり飲みこんでから、留美はトラのもんの顔に手を添えた。留美から渡されたスマートフォンを構えたあかりが、カメラ画面を凝視しながらあとずさる。フラットな靴の、それでも少し分厚いかかとをタイルの溝に一度ならずひっかけては、留美の眉根を寄せさせた。
「撮りますよーっ。はい、りーんご~」
シャッターボタンを押して、あかりは唇を尖らせる。画面のなかの留美が小首をかしげる。首ごとスマートフォンを傾けて、もう一枚とあかりはいった。
「はい、チーズ」
「……りんごじゃないの?」
「あれはスベったなって。忘れちゃってください、かっこよくキメて欲しいんご~!」
一〇枚も撮ってようやくあかりが“こんなもんかなあ”と納得したところで、二人はトラのもんに別れを告げた。自動ドアから階段へ抜けて初夏の空気のなかにもどると、あかりがまた大きく伸びをした。留美は半袖の腕を撫でる。乾きすぎていた空気にひりついた肌へ、風がさっと塗っていった快い緑の微粒子を袖の内側へ広げた。
「うーん、なんか、大都会ってけっこう田舎っぽいですね」
推敲を経ずに飛び出すあかりの言葉を、留美はそれなりに理解できるつもりだった。あくまでそれなりである。“すべて”と“それなり”の間隙に倒れこんだときは、いまのように怪訝な顔になるのだった。
「ずっと歩いてきたのにずっとこのビルの前だなーって。ほら、田んぼとか畑の前を歩いてるみたいな気分で……あっ、わ、わかります? 田んぼ」
「わかるわよ。そういうことね……」
「そうなんですよー。まだ伊藤さんちの前~っとか」
脚より口を忙しくしながら、カフェレストランの前を過ぎると、二人の行く手の右手にビル街がとぎれる。そこを曲がるとすぐに、大きい鳥居と急峻な石段が狭い空を支えるように立ち上がっていた。
愛宕山。標高二五・七メートルは東京二三特別区内の最高峰である。築山も含めるならば戸山公園の箱根山が四四メートルで大きく上回るが、天然の山という揺るがぬ地盤が愛宕山にはある。これを一息に登りきるのは斜度四〇度の“出世の石段”。いまを去ること約四〇〇年。この頂上に咲く梅を馬で駆け上り手折って来いと徳川家光が家臣らに命じた。だれもが果たすこと叶わぬなか、
「こんなの馬だから登れたんじゃないですか?」
「山羊だったらそうねといってあげたけど」
犬の散歩をしに来たおじいさんが、こともなげに石段を踏み上がっていく。見なかったふりをして、あかりはまわりを見めぐらした。
「エレベーターとかないんですか?」
「……ないわよ」
嘘である。南側、愛宕山をつらぬくトンネルの近くに一基だけ設置されている。それを隠したのは意地悪ではない。たんに階段を、景色の変化を見ながらのんびりと登りたいだけである。とはいえあかりの足取りの危うさを思い、わずか八六段で二六メートルを登る大石段の前を留美は辞した。すぐ右手側に隠れるように、ゆるやかな階段が曲がりくねっておなじ頂上へ伸びているのだ。
それでもあかりは不平を鳴らしたが、すぐに靴音のほうが大きくなった。登りきって、両手が地面につきそうなほどうなだれて息を吐き出す。肩をつかまれ腰を押されて背筋が伸びると、ひときわ濃くなった緑の風があかりの火照りを冷ます。青々とした藤棚、小ぶりの池に目も涼ませて石の小道を行けば、イロハモミジの陽の光にさんざめく門があり、数歩で賽銭箱の前である。
「就職が決まったとき以来よ」
「しゅうしょく……あ、秘書の」
「ええ」
「出世できたんですか?」
小銭いれを開く音が静かな境内にひびく。小さく肩をゆすり、留美が銀色の硬貨を賽銭箱へ。あかりもそれを見習う。ただし、赤銅色の硬貨で。
「ええ、いまこうしてね」
「おお……うーん……?」
「かわいい後輩もできたし」
「はぇー」
自分のこととは思っていないあかりである。
「あかりちゃんもいずれ後輩を連れてくるかもね」
「うーん、でも私、どうせ神さまに頼むなら……」
留美は返事のつづきを待って三秒、自分には来ないものだと気がついた。りんご色の目が参拝の作法をせがんでいる。二礼、二拍手。右手のくぼみに左の親指のふくらみを合わせると音が鳴りやすい。そうして指先を揃える。
「山形のりんご、いっぱい買ってください」
「……そのお願いは、人間にいったほうがいいわね」
「出世のご利益なら知名度向上だってできるはずんご」
下界のビル群とは対照的に、こぢんまりとした境内である。一礼して右手へ去れば、池の端にくるりと回ってもどってくる恰好になる。
「ほんとうのご利益は火除けなのよ、愛宕さま」
「えーっ、じゃありあむさん連れてきたほうがよかったですね」
「あかりちゃんはじゅうぶん愛されてそうねえ」
留美の言葉の最後は悲鳴でかき消えた。留美自身の悲鳴である。くわえていえば、黄色い色がついている。
「猫ちゃん……! お昼寝してるわ……なんてかわいい……」
「はぇー、ぜんぜん気づかなかったんご~」
池を囲う茂みに一歩だけ踏みいって、白い猫が丸くなっている。無心にスマートフォンのシャッターを切る留美を、あかりは自分のスマートフォン越しに見た。ここでツーショットを頼まずに自分でやってしまうのも、申し出もしないのも、それぞれのらしさではある。しばらく上半身を揺らしていたが、尖らせた唇できれいな弧をえがきなおし、あかりは一度だけシャッターボタンを押した。
「ふうーん……」
撮った一枚を見返して、あかりは意外そうにつぶやいた。
「留美さんもかわいいんだ」
(了)
※pixivにも同じものを投稿しています。