窓から射し込む光で、朝が来たのだと
白い日光に照らされる顔には、痣のように濃い隈が出来ていた。
一睡もしていない。出来なかった。身体は憔悴しているのに眠気が湧いてこない。そして頭は過ぎるくらいに澄み渡っていた。だからこそ、昨日のことがぐるぐると、頭の中をずっと回っている。
人を、殺した。
それは人生で見ても、普通に生きていれば概ね起こらない出来事だ。一度でもあれば、人の有り様全てを歪めてしまう。
それが、昨日起こった。
ショックのあまり、自分がどう家に帰ったのかも朔月は憶えていなかった。自分の部屋に入って、ベッドに座り、そして寝ることもせずずっと座ったままでいた。
それ以上に彼女に出来ることはなかった。凄惨な死に様が視界に焼き付いて離れなかった。今も鼓膜の中で断末魔がリフレインしている。してしまったことは戻らない。奪ってしまった命は返ってこない。「ごめんなさい、ごめんなさい」と譫言のように繰り返し呟いて、自分の鼓動を感じる度に失われた命を実感して。心の中で懺悔し、しかし誰にも許されない。自分も許せない。
そんな時間を過ごし、彼女は朝を迎えた。
「ぁ……」
枯れたか細い声が漏れる。まず頭に浮かんだのは学校。行かなければならないという義務と行って日常に浸りたいという欲。そして自分にそんな資格はないという嫌悪。
「でも……休み、か……」
だがそもそも今日が日曜日であることを思い出し、失意ともホッとしたようにも取れる表情で溜息を吐いた。するとくぅ、という腹の音が響いた。
生命という物は動きたがる。例え陰惨な体験をしたとしてもそれは変わらない。
朔月は朝食を取ることにした。
下のリビングに降りる。早い時間が幸いしてか、二人の両親は起きてきていなかった。あるいはそもそも、この家に帰ってきていないのか。どちらでもいい。今は顔を合わせたくない。
キッチンを探すと幸運なことに買い置きのカップラーメンが残っていた。ケトルで湯を沸かし、注いで食べる。こんな時でも食事は心に癒やしをもたらしてくれる。温かさが胸に染み込むように広がって、凍てついた身体を溶かすように浸透していく。
朝食を終えたらシャワーを浴びることにした。自分の身体を嗅いでみると少し臭う。脱衣所で裸になり、着っぱなしだった制服に消臭剤をスプレーする。洗うだけの心の余裕はない。どうせ今日は着ないのだからとたっぷりかける。いつもなら大切な制服にこんなことはしないのだろうなと自嘲しながらハンガーに引っ掛けて、朔月は風呂場に降りた。
蛇口を回すと、温かくなるまでまだ時間のかかる冷水が頭の上から降り注いだ。頭が冷える。朔月はそれを浴びながら、髪を垂らして壁に手をつき、項垂れた。
「――はぁっ……!」
殺した殺してしまった人を彼女を志那乃を竈姫をどうして殺したくなかった私は悪くないノーアンサーの所為だ違う自分が剣を振り下ろさなければでもそしたら自分が死んでそうあるべきだった誰かの命を奪うくらいならでも死にたくなかったそれは我が儘だ自分なんて生き残るべきじゃなかった願いの為に死んだ方がこんな自分よりずっと価値があったでも真衣とナイアは守らなきゃそんなのは爽がやってくれるでしょでもあの子に殺させていいのかなら自分が背負った方が結果的にはいや自分を肯定するなよこの人殺しがなんでこんなことにこんな辛くて苦しくて痛くて惨めで――
「ふぅ、うぅ……!」
柔肌を伝う水滴に瞳から溢れる水が加わって、泣き崩れた。ぺしゃりと床に落ちた内腿から伝わる濡れた感触が心地良い。でもそれすらも血溜まりに錯覚し、自分が抜け出ることの出来ない沼に嵌まっているかのように感じた。ボロボロと流れる涙が止まらない。水を吸って重くなった髪が視界を覆う。見通せぬ闇を暗示しているかの如く。
「うぅ……あぁ……!」
身体を強く抱きしめて嗚咽を漏らす。パシャパシャという間抜けな水音と混じって響くそれは不快な音楽のようだ。耳に残った惨劇と合いまり、朔月の脳を揺らすオーケストラとして轟く。背筋が寒くなる。魂が凍る。
「ううぅぅーーっ!」
温かくなり始めたシャワーを浴びながらそれでも、凍てついた心の芯は、もう。
朔月は苦悶のような泣き声をしばらく上げ続けた。
切り裂かれた筈の頬に流水が染み込まないことには、終ぞ気付かずに。
シャワーを終え身体の汚れを洗い流した朔月は下着姿でリビングに戻った。そのまま過ぎ去って自室のある二階へ上がろうとして――机の上にある違和感に気付く。
「? なに、これ。こんなのあったっけ……」
目を落としたテーブルの上には鍵があった。さっきカップラーメンを食べていた時には無かったはずの、見たことも無い鍵だ。金属で出来たブレード部とプラスチックのような材質の持ち手部分で構成されている。車の鍵のような印象を受ける。だが目につくのは持ち手部分の装飾の精緻さだ。それは彫刻のようだった。緑色で描かれた塔と、その周りに纏わり付く龍魚。何かが記憶を掠めるが、それよりも声をかけられ跳び上がる方が早かった。
「それはご褒美よ」
「っ! ……の、ノーアンサー」
朔月が鍵に意識を移しているいつの間にか椅子に座っていたのはノーアンサーだった。いつも通りのナイトドレスを着流し、朔月の家にあったマグカップで紅茶を嗜んでいる。
「なんで、ここに……!」
警戒するように身構える朔月。その姿はまるで威嚇する小動物のように頼りなく弱々しい。その姿を嘲笑うように口の端を持ち上げながら、ノーアンサーは対照的な常の余裕を保ってその問いに答えた。
「説明よ、説明。……別にとって喰おうなんてそんなことを思ってたりはしないわ」
それとも、と。
ノーアンサーは悪辣な笑みを浮かべて。
「食べて欲しかったのかしら。そんな据え膳みたいな恰好しているからには」
「っ!」
自分の下着姿を思い出し、朔月は顔を赤くして自分の身体を抱きしめた。その恥ずかしさを隠すようにして、
「……早く、要件を言ってよ。説明だってゆうなら」
ふいと顔を逸らしながら、そう促した。
「ふふっ、冗談よ。さて――これは、グレイヴキー」
「グレイヴ、キー?」
紅茶を置いたノーアンサーは話を切り替えて、テーブル上の鍵を朔月へ向け動かした。目の前までやってきた鍵を見て、首を傾げる朔月。ノーアンサーは龍魚のレリーフをコツンと叩くと続けて説明した。
「勝者である貴女へのご褒美よ。いえ――殺人者へのトロフィーと言った方が正しいかしら」
「っ!!」
真実を突きつけるような物言いに、朔月の顔が恐怖と後悔の色で染まる。先程シャワーでも洗い流せなかった悔恨が再び朔月の心臓を襲う。
愉快げに口角を持ち上げるノーアンサーは説明を続けた。
「これは竈姫の力の欠片。残滓。あるいは墓標ね」
「ぼ、ひょう……じゃあ、これ……!」
そして朔月は気付いた。緑色のレリーフは、自分が殺した相手――竈姫を表したものなのだと。
「ひっ……」
思い至った朔月は怯えて後退った。カタンと触れた椅子が揺れる。壁に背をつけて、へたり込むことだけは無かった。
「貴女はこの力を使うことが出来る。マリードールと同じように触れれば自然と使い方が理解できる筈よ。これを使えば、貴女は戦いを有利に進めることが出来る……」
「や、やだ……」
「あら?」
「嫌だ!」
小首を傾げるノーアンサーに対し、朔月は頭を抱えて叫んだ。
「やだ、やだ!! やめて、私はもう戦いたくない! 殺したくなんかない!」
喉が裂けんばかりに喚く。それが偽らざる朔月の本音だった。
戦いを止める、なんて淡い決意は蝋燭の火を消すかのように吹き飛んでしまっていた。
人の死を、覚悟していた事象を目の当たりにして、しかも他ならぬ自分が引き起こしてしまったこと。
掛け替えのない筈の命が、誰かの人生が、呆気なくそこで途切れてしまったこと。
志那乃の死に関わるあらゆる事象が、朔月の心を苛んでいた。
「もうやだよぅ……」
弱い音を弱音というならば。
今の彼女が紡ぐ、全ての言葉がそうと言えた。
「……まぁ、貴女の意志は関係ないのだけれど」
ノーアンサーはそう言い残し、飲み干したマグカップを置き席を立つ。ナイトドレスの裾を揺らし、壁に尻をつけ座り込んでしまいそうな朔月へ近づくと怯えるその頬を撫で上げた。
「このライダーバトルの結末は二つ。勝って願いを叶えるか、死ぬか」
「私は……!」
「それに運命は、貴女の手には無い」
揺れる銀髪の下で瞳は、深い色を湛えていた。それは深海のような、あるいは宇宙の果てのような底の見えない、光を吸い込むかの如き深みだった。
「貴女の運命は、既に定まっているのだから」
深淵のようなそれは、およそ人間が決して抱えるような物では無かった。人外であったとしても、仮にも人の言葉を操る者が持っていて良い物なのか。
「ひっ……!」
目を合わせた朔月は飲み込まれ、喉を引き攣らせる。恐ろしいと思った。人の生き死にに、何の感情も抱いていないその色が。まるで羽虫が殺虫剤で藻掻き苦しんでいく様を見つめるような、平坦さが。
弱った心に刷り込まれるように、その瞳の印象が強く焼き付く。逆らえない。この存在には。
カタカタと肢体が震え出す様を見届けたノーアンサーはフッと頬を緩め、手を離して踵を返した。
「ふふっ、失礼したわね。紅茶ごちそうさま。まぁ、その分は健闘を祈るわ」
ヒラヒラと手を振って、リビングの扉を潜って気配を消す。外へ出るドアの開閉音は聞こえなかったが、いなくなったことは朔月にも分かった。そして同時に、今もまた自分は彼女の掌の上なのだと。
「……はぁっ、はぁっ」
息を吸い込む。まるでさっきまで仕方を忘れていたかのようだ。いや、それは今も同じ。過呼吸気味に胸を動かし、下手くそに息を整えようとする。
ズルズルとへたり込み、膝の間に頭を挟む。段々と呼吸が落ち着いてくると、自然と涙が溢れた。
「私は、私は……!」
悔恨の言葉は誰にも聞かれずに溶けて消える。
テーブルの上では、朝日に照らされた緑の鍵が何かを咎めるように輝いていた。
結局、外に出ることにした。
気晴らしをしよう、なんてつもりでは無い。ただ、家にいたまま出ることが苦痛であっただけだ。
身を包むは白いブラウスと茶色のタイトスカート。落ち着いた色合いのラテコーデ。夏らしくもない装いは彼女の心情を映し出しての物だ。
スカートと同色のハンチング帽を目深に被り、小さなポシェットを供に陽射しの中に身を乗り出す。高くなり始めた陽光が痛いぐらいに降り注ぎ、赤らんだ目に染みた。
「……どこに、行こう」
歩き出しながら朔月は呆然と呟いた。いつもならこういう時友人に遊ぶ約束を取り付けるが、自罰がそれを差し止める。のうのうと遊びに出かけるなんて、自分が許せない。となれば、人間関係のほとんどを友情で構成している朔月は何の宛ても無かった。
結局思いついたのは、とにかく人の多い方へ流れることだった。
人の中に埋もれれば、自分の罪悪も薄れる気がして。
「………」
ハンチング帽のつばで目線を隠し、人の波を縫うように渡り歩く。住宅街から商店街へ。小道から大通りへ。その日は日曜日らしく遊びに出かける人間がごった返していて、人が途切れることは幸いにして無かった。
そして最終的に辿り着いたのは動物園だった。
「……懐かしいな」
かつて朔月も来たことのある、この辺りでは大きめな動物園だ。勿論、親とではなく友人とだが。
料金を払い朔月は入園した。ゲートを潜った途端、獣臭が空気に溢れる。
人によっては噎せ返るようなそれも、朔月は嫌いでは無い。
「見て回ろう、かな」
楽しもう、というつもりは無かったが、かといってただボーッとしているのも奇異の目で見られてしまう。取り敢えずは怪しまれないように、順路通りに見て回ることにする。
小型から大型まで、様々な種類の動物たちが客の目を楽しませる為に配置されている。寝転がる虎に水浴びする象。プールの中を競争するペンギンに果物を取り合う猿山。愛らしい姿は図らずも朔月の胸の傷を少しだけ癒やした。
日が一番高い場所まで昇った頃。朔月はシマウマが展示されている場所へ行き着いた。手すりの内側で、白黒のストライプに染まった馬が穏やかに草を食んでいる。平原を模したスペースの中を、そこそこのスピードで駆けている姿もあった。
「……やっぱり馬だから、走るのが楽しいのかな」
なんとなしに、そんなことを呟く。完全な独り言だ。
だが、それに答える声があった。
「実は、シマウマって馬の仲間じゃ無いんですよ?」
「……え」
少し弾んだ様子の、しかし嫋やかな少女の声が朔月の言葉を訂正する。朔月はその内容と突然声を掛けられたことの両方に驚いたが、少女の声は構わず告げた。
「シマウマって実は、ロバの仲間なんです。ほら、尻尾の形が馬よりもロバに近いですよね? 耳の形も……。他国の言語だとシマウマのことを、『縞模様のロバ』と言うこともあるらしいです」
「知らなかった……」
「ロバその物が馬の近親種なので、馬の仲間というのも完全な間違いじゃ無いんですけれども」
そこまで聞いたところで、朔月は声の主が隣にいることに気付いた。どんな人物なのか気になってシマウマに落としていた視線を上げる。
黒い革靴に白のソックス。灰色のコルセットスカートにフリル付きの黒いブラウス。可愛らしさと高級感の同居したファッション。
育ちが良さそうだな、と感想を抱いた朔月は更に目線を上げて顔を見る。そして瞠目した。
「え……」
サラリとした艶やかな黒髪。銀色に輝く馬を模した髪飾り。
整った大人しそうな横顔は、怯えていた印象しか無いけれど――。
「真、衣?」
「へ? ……朔月さん!?」
それは間違いなく、共にライダーバトルに翻弄される同士の姿だった。
「驚きましたよ。まさかこんなところで朔月さんと会うなんて」
「私もだよ。でも、そう言えばナイアは全員市内の人間なんじゃ無いかって言ってたっけ。そう考えると、会っても不思議じゃないのかも」
シマウマの前で思わぬ邂逅を果たした二人は、動物園内に建てられたカフェのテラスにいた。パラソル下のテーブル席に着いた二人は、正午であることもあって軽食をつまみながら話すことにした。
二人はコーヒーと紅茶、フライドポテトを前に並べながら偶然の出会いに感嘆し合う。
「でもなんで、動物園? って、それ言ったら私もそうか……」
「朔月さんは……その」
何か言おうとして、真衣は気まずそうに口籠もる。その様子に察した朔月はこちらも苦い顔で頷く。
「うん……気晴らし、なんてする資格ないけど、でもじっとしてられなくて……」
「そう、ですか」
二人の間に沈黙が落ちる。空気を変えるため、真衣は自分のことを話すことにした。
「私がここに来たのは、動物が好きだからです」
「……へぇ、そうなんだ。そう言えば、シマウマにも詳しかったもんね」
話題に乗ってくれたことにこっそりホッと息をつきつつ、真衣は続ける。
「えぇ。特に馬が好きで……この動物園にはいないんですけどね。だから代わりにシマウマを見てました」
「馬が好きなの?」
意外、と言えば意外だ。見るからに繊細な大和撫子という風な真衣としては。猫や犬を可愛がってそうなイメージを持っていた朔月としては予想外だ。
真衣ははにかんで答えた。
「はい。習い事の一環で乗せてもらって以来、ずっと好きなんです。だから一族の所有する牧場に行くのが一番の楽しみなんですけど……思い立ってはいけませんから」
だからここに来たんです、と真衣は苦笑した。
しかし朔月としては、何でも無いように言われたその内容に目を丸くせざるを得ない。
「い、一族の所有する牧場……真衣って、もしかしてとんでもないお金持ち?」
「あれ、ご存じありませんでした? 王道家は、代々政治家一族ですよ」
サラリと。
告げた答えは家柄を鼻に掛けるような嫌みもない。ただ当たり前のことだと。
「現在の当主である祖父は引退間近ですが、それでも政党幹事長です。父はその次期候補。兄も政界入りを果たしてます。結構メディアに取り上げられているので、てっきりご存じかと」
「う、その、政治に興味ないから……」
朔月は赤くなって羞恥した。しかし無理もない。年頃の少女の前には政治より楽しいことがたくさん転がっている。
「お嬢さまだったんだね、真衣は。すごいなぁ」
素直に羨望する朔月。
夢想したことはある。何度も。
自分が生まれた家が違ったら、と。
もしちゃんと愛してくれる両親の下に生まれていたら。もし他に頼れる親戚のいる家に生まれていたら。それともせめて、物質的には豊かになれる家柄に生まれていたのなら。
もっと、幸せになれたのだろうか、と。
だからそれを手にしている真衣のことは、素直に羨ましかった。黒い嫉妬とは無縁の、ただの羨望。
しかし真衣はそれを受けて自嘲的に頬に手を当てた。
「……まぁ私は、何にもなれないただの小娘ですが」
「え、お嬢さまなんじゃ……」
「旧くて厳格な家ですから、子どもの発言権なんてありません。みんな生まれた時から役割が決まっているんです。長男は跡取り、次男は補佐件予備。長女次女は……有力な家との縁を繋ぐ、政略結婚の道具」
胸に手を当て、憂鬱そうに呟いて。
「それ以外に価値なんてない。何かする必要も、許しも無い。――私は、王道の家に生まれたという以外は何の意味も無い女なんです」
そう、断定的に。
艶やかな睫毛を伏せて彼女は己の無価値を語った。
「―――」
朔月は、ただ絶句する。
語った事。その内容。そして、それを事実と受け止めている彼女に。
それに気付いた真衣は、慌てるようにして謝った。
「あ、ごめんなさい! こんなこと語っても困りますよね。ですから、私は全然すごくないというだけで――」
「……真衣は」
弁明を、遮る様にして。
朔月は問う。
「真衣は、どうしてライダーバトルに参加したの?」
「………それは」
唐突な疑問だった。それは問いを発した朔月も理解していた。
だが、どうしても今気になったのだ。
ライダーバトルに参加する為の、おまじない。それは七人ミサキを殺すという誓いだ。単なるおまじないであると信じていたとしても、その内容は舌の上に乗せるに残酷すぎる。
朔月は激情のままに唱えた。他の少女たちは、まぁあまり気にしないタチであることは見て取れた。
しかし、彼女は。真衣だけは、疑問だった。
だって剣を握るだけでパニックを起こしてしまうほど、争いが苦手なのに。
その疑問が、今になって発露した。三日目の戦いを経て、今の発言を以て、確信に変わる。
この子は好んで戦いに飛び込むような性格では、絶対に無い。己の闇ですら、自分以外を傷つける物言いをしない少女なのだから。
「付き合いは短いけど、それだけで分かるほどだよ。貴女は戦いが嫌いだって。それなのに、どうして……」
「……嫌い、とは少し違うんです」
ポツリ、呟くようにして、
「苦手、とも。……私は、戦えないんです」
煮詰まった泥を吐くような苦々しい表情で、答えた。
「? それって、どう違うの?」
首を傾げる朔月。
戦いが嫌い・苦手と、戦えない。その差異が、分からなかった。
しかし真衣は違うのだと首を横に振る。
「全然、違うんです。私は……今まで、戦ったことがないんです。一度も」
「……一度も?」
「はい。生まれてこの方、私は大切にされてきました。それは愛しいからではなく王道の血脈という貴重な血を引いているからではありましたが、それでも蝶よ花よと育てられました。物質的な不自由は何一つ無く、多くの使用人に傅かれ、求めれば全てが与えられる生活……」
「……いいなぁ、って思うけど」
確かにいいものでしょうけど、と真衣は頷きながら、
「だからか、幼い頃の私は自分の欠点に気付きませんでした。ただ当主……お爺さまに頷いてさえいれば良かったんですから。誰も私に逆らわない。何もかも満たされているから、我が儘も無い。だから、気付かなかった――学校に通って、曲がりなりにも社会と触れるまでは」
言葉を紡ぐ。呪いの一節のように忌々しく。
「最初に気付いたのはクラスメイトの一人が隔意を示した時でした。大仰な物では無く、子どもながらの……訳も無く気に入らない、その程度の物。ですけど私はそれに、縮こまることしか出来ませんでした」
「それは……別に」
変なことじゃないと朔月は聞いていて思う。別に、気の弱い人ならば……。
しかし真衣はそうじゃないと続ける。
「それ以後も、私は反発や争い事の一切に意志を示すことが出来ませんでした」
真衣を気に入らないと突っかかってくる人間は、何も言わずとも取り巻きが退けた。
誰かと競争する羽目になれば、必ず辞退した。
争い事に巻き込まれる気配があれば、出来るだけ遠のくように行動した。
それを、続けてきた。
「いつの間にか、私は戦うという選択肢その物を取れなくなってしまいました。逃げる、避ける、従う……例え自分がいくら損をしようとそれを選ぶ。優しい、といえば聞こえは良いのかもしれません。けど度が過ぎれば、逃避で、奴隷根性です」
憎々しげに語る真衣。しかしその黒い負の情念は、全て自分だけに向けられていた。
彼女の語るとおり、他人へは決して向けない。いや、向けられない。
まるで禁じられているかのように、一切。
「ついには……私は、本当にやりたいことですら、諦めるようになっていました」
「本当に、やりたいこと?」
朔月の疑問に、真衣は憧憬の遠い、しかし透き通った眼差しで答える。
「はい。私は……馬が好きです。さっき言ったとおり」
真衣は頭につけた、馬の髪飾りに触れながら続ける。
「彼らは力強く駆けます。逞しい四肢で、気高く。例え高原にあっても、人間の家畜であっても、それは変わらない。どこでだって彼らは走ることを愛し、美しき誇りを損なわない。……私とは、違って」
そんな彼らに、と。
真衣は本当に大切な宝を明かすように、言った。
「関わる仕事がしたいと、願うようになりました。厩舎員、騎手、獣医……などでも、とにかく馬と関われる仕事がしたいな、と」
「……いいことじゃん」
朔月は肯定的に頷いた。真衣の願いは、何も悪いことでは無いと思ったから。
好きなことを仕事にしたい。それは誰もが一度は願う将来図であると。
しかし真衣は、首を横に振った。
「……でも私は、王道家の人間です」
ハッとして朔月も思い出す。
彼女は、生まれた時から役目を負わされていると。
「そんな自由はありません。何を言っても、きっと……私の言葉は封殺され、どこかへ嫁がされるでしょう。そこでもきっと、私は嫁としての働きしか許されない。だから、私の願いは叶わないんです、絶対」
「でも、言ってみなくちゃ――」
「だから!」
朔月の言葉を遮るように。
真衣は吠えた。
「それが、出来ないんです、私は! 好きな物のために言い争うことすら、私は!」
「あ……」
そこで、戻ってくる。
戦えない、という話に。
「本当に、好きなのに。好きな、筈なのに。……出来ない、んです」
ポタリ、と。
テーブルの上に雫が落ちる。
「そして、悩んでいる内に、私は……本当に馬が好きなのかすらも、分からなくなって……だってそれが本当に譲れない物なら、戦える筈、なのに」
「それ、は……」
朔月は、きっと戦える。
だって、ライダーバトルのきっかけがそうだった。思い出のギターを勝手に捨てた母親に、反発して……あの時は結果的に家を飛び出したが、もっと許せなくなれば、自分はもっと争うことも厭わないだろう。
だから、真衣は自分とは違う。だから、想像しか出来ない。
想像しか、出来ないけれど。
「おまじないを、唱えたのも」
「……はい」
それは、分かったから。
朔月の呟きに、真衣は頷いて、
「戦い、たかったんです。その力が、欲しかった」
故に、唱えたのだと。
答えた。
「おまじないに縋ってでも、私は戦う力が欲しかった。いえ、力じゃなくてもいい。戦える心でもいい……とにかく、戦えるようになりたかった。好きな物を好きと言えるように」
「そっか、それで」
「はい。でも」
真衣は顔を上げながら涙を拭う。すると今度は瞳に戸惑いが浮かんだ。
「あんな、殺し合いをするだなんて思いませんでした。そして、あんなに自分が無様だとも」
確かに、と朔月は失礼ながら頷きそうになる。
ライダーバトルに巻き込まれて、自分の命が危機に晒されても、真衣は戦うことが出来なかった。変身しても、出来たのは覚悟じゃなく、ただ我を忘れて暴れること……それは、戦っているとは言えない。少なくとも、彼女の願いのように自らの意志で立ち向かっているとは、とても。
「戦い、たいの?」
「それは……はい」
迷って、真衣は頷いた。
朔月の前でそれを肯定する意味を、理解しながらも。
「私も、こんな残酷な争いは望んでいません。けど、また何もせずに流されるくらいなら……私は」
殺戮に賛同したわけでは無い。
だが、何もせずに殺されるくらいならば。
「戦いたい、です」
「……そ、っか。真衣は、戦いたい、んだね」
真衣の抱えている物を聞いた朔月は、溜息をつきながらカップに目を落とす。注がれたコーヒーは既に冷め切っていた。
「でも、私は……」
コーヒーの表面。鏡面のように自分の顔を映すそこに、朔月は己以外を幻視した。燃え尽きて消し炭になった、人であった筈の存在を。
「私は、もう、誰も……!」
「朔月、さん」
気遣うような眼差しが震える肩を見つめる。
戦うために一歩を踏み出そうとする少女。
踏み出してはならない一歩を踏み出してしまった少女。
戦うことでしか叶えられない願いがある。
されど、戦いは消えない傷を残した。
「真衣、私は……」
あるいは願いの無い少女が初めて抱いた強い情念だったかもしれない。
しかしそれは、少女が願った物では無かった。出来れば、抱かずにすませたかった物だった。
「誰も、殺したくないよ……!」
静かな慟哭。切なる願い。
戦うことを止めようとした少女は、望まぬ引き金を引き、その為に戦うことすら諦めようとしていた。
それでも、夜は来る。
今宵もまた、少女たちを望まぬ戦場へ誘う為に。