「学校終わったら、どこかで話さない?」
それが
ドアを潜った鼻っ面にそれをかまされれば、いくら爽でも「は、はぁ」と気の抜けた感想にもなる。
「えっ……今日?」
「うん!」
「用事……は別にないけど」
頭の中で漠然と考えていた予定と比べながら答える。
「お昼ご飯……食べてから?」
「え、今日半日だよ?」
「いや、でも、お弁当は食べるでしょ」
爽はバッグの中から風呂敷に包まれた弁当箱を出して言った。意外にもその風呂敷はピンク色に星を散りばめた、中々ファンシーな柄となっている。
「可愛いね」
「えっ、あっ……別にこれはアタシの趣味じゃないから」
指摘されたことに顔を赤らめ、サッとバッグの中へしまってしまう爽。朔月としてはただ意外だっただけで、可愛い趣味だと思うのだが。
「ご飯……私は終わってから食べに行く予定だったけど」
朔月はいつも、昼食は購買で買っている。ただ土曜学級の購買は閉まっているので、土曜日は同じような平日は購買派の友人と遊びに行くついでに食べに行ったりしていた。
ただ今日は、爽を逃がさない内に捕まえたいので……。
「えっと……あぁそうだ。屋台で買うから、屋外で一緒に食べるのはどう?」
「屋台? お祭りとかあるの?」
「いや、普通の日でもやってる奴」
「……まぁ、アタシはいいけど」
爽は一応、頷いた。転校してきたばかりの爽には他の友人との予定も無い。これから誘われるかもしれないが、朔月が一番乗りだから断る理由も無い。
だが。
「……何話す気?」
「えっ……とぉ」
そう問われ、朔月は少し気まずく目線を逸らす。その理由が分からず爽は首を傾げた。
実は、何を話すかはまだ決めていない。
とにかく、対話をしなければならないと朔月は考えた。
殺し合いだなんて、絶対しちゃいけない。だが爽の覚悟は堅硬だ。
ならまずはその理由を問い質すべきだ。しかし、人を殺してまで叶えたい願いだなんてそう簡単に打ち明けてもらえるとは思えない。それに朔月はまだ昨日(正確にはおととい)知り合ったばかりで、しかも斬り合った中だ。普通に考えて秘匿する。その秘匿を打ち破って話してもらうことが今日誘った目的だが、具体的な手段はまだ全然思いついていなかった。
「ま、まぁ、ライダーバトルの話、かな?」
なので朔月はそう言って誤魔化すしかなかった。まるっきりの嘘でもない。
「……まぁ、いいけど」
曖昧な回答に釈然としない気持ちを抱えながらも、爽は頷いた。
「うん、じゃあ、また後でね!」
「あ、うん、後で」
取り敢えず約束は成立したと見て、朔月はその場を後にした。長く話しているとノープランのボロが出そうだったから、ちょっと足早だった。
と、いうわけで。
二人は今市内の並木通りを歩いていた。
風に揺れる木陰の中を朔月が先導している。ついでなので、目的地へ行きながら街案内もすることにした。
「この辺は飲食店が多いんだ。ほら、あの赤い暖簾のお店見覚えない? テレビで紹介されたこともある行列の出来るラーメン屋なんだけど」
「ごめん知らない」
「そっか。……あ、じゃああっちは? ネットで星四つのカレー屋さん」
「そっちも知らない。……っていうか」
ウキウキの朔月についていきながら、爽はこれまでの案内文句を思い返した。
学生割引の効く蕎麦屋。お洒落な内装のイタリア料理店。マンゴーがおいしいフルーツパーラー。スイーツバイキングがたまにあるデパート……。
「朔月って、もしかして食いしん坊?」
「ふぇっ」
その指摘に朔月は目を丸くした。まったくの無自覚であった。
確かに朔月は、飲食店しか紹介していなかった。
「い、いや別にそういう訳じゃ……あ、っと、こっち」
弁明しようとした矢先、目的地を見つけてしまう。それは公園の入り口だった。中に入れば緑の原っぱと、それを囲うように通る煉瓦で舗装された道。遊具がない代わりに大分広い、ちょっとしたレジャーをするなら持って来いな、どこにでもありそうな公園だった。土曜日の昼下がりに相応しく、家族連れがキャッチボールしたり小学生の集団が自転車で競争していたりする。
その一角へと二人は立ち寄っていく。
「ここだよ、ここここ」
「……あぁ、うん。屋台だね」
そこにあったのは祭りの日に出るような屋台だった。何でも無い休日だというのに何故か出ているそれは、一つだけポツンと公園の端に鎮座していた。
鉄板の上でヘラの焦げを落としている中年の店主は近づいてくる二人に気付くと、陽気に声をかけた。
「いらっしゃい。って、朔月ちゃんか」
「うん! おじさん、いつもの頂戴!」
跳ねるような調子で朔月が話しかけると、店主も慣れた様子で応じた。顔見知りのようだ。
「あいよ。後ろの子のは……」
「あの子はお弁当だから。大丈夫……いいよね?」
「え、あぁうん。いい、かな……」
「はいはい、一つね」
爽が答えるのを確認し、店主は鉄板の上に具を並べ始めた。その中に黄色い麺が入るのを見て爽も店の正体を悟る。というか、屋台の隣に立つ旗に書いてある。
「焼きそばか」
「うん。いつも土日、ここにお店を出してくれてるんだ」
「ふぅん……あれ、ソース入んないの?」
「私がいつも頼むのは塩焼きそばだからね」
「へぇ、珍し」
そんな雑談をしている内においしそうな匂いが立ち昇り、調理が完了する。
「出来たよ」
「おじさんありがとう!」
店主は出来上がった焼きそばをプラスチックの容器に詰め、割り箸と共に輪ゴムを引っ掛けてから朔月に手渡す。朔月はその代わり、財布から取り出した硬貨一枚を交換した。
「あいよ。またね」
「うん、また明日か、来週!」
元気よく返事し、朔月は手を振ってその場から離れた。勿論爽もついていく。
「さて、どこで食べるー?」
「人気のいないところがいいんじゃない? ライダーバトルの話するなら」
「あぁ、そっか」
ライダーバトルについては他言無用というルールを思い出し、朔月は首を巡らせた。周囲は子どもやそれを見守る親がいっぱいだ。
「ここじゃまずいよね……まぁ、移動しながら考えようか」
「ん」
コクリと頷き、爽と朔月は並んで歩き出した。
暖かな日差しと楽しげな子どもたちの笑い声は、公園にとても穏やかな空気を作り出していた。まるで時間が緩やかに流れているように錯覚してしまう程。
そんな中で二人はお昼を食べるに相応しい場所を探しながら、他愛もない会話を交わす。
「ぽかぽかいい陽気だねぇ~」
「そうね。今日は湿度も丁度良くて過ごしやすいから」
「夏よりも春っぽいよね! 爽はどんな季節が好き?」
「ん……冬かな。ホラいつもアタシが着てる服……」
「あー、ね。やっぱアレ暑いんだ」
変哲のない、普通の会話。それが朔月は一番好きだ。特に、相手のことをもっと深く知れるような話は大好物だ。
それが例え、戦う宿命にある相手だったとしても変わらない。いや、だからこそ、朔月はこの会話がより尊いものに思えた。
もっと知りたい。もっと話したい。そんな欲求に突き動かされ、口はどんどん滑らかになっていく。
「さっきのさ」
「うん?」
「なんで塩焼きそば? ソースより好きなの?」
だから、爽の質問にもするりと答えた。
「んー、好きってより、安いからかな。量もあるし」
「貧乏?」
「違う違う」
苦笑しながら首を横に振る。
「その、ご飯代がお小遣いだから、食費をなるべく抑えようってね」
「ご飯代がお小遣い? それどういう意味?」
「えっ、どういうも何も、そのままだけど……」
首を傾げた爽に朔月は説明する。朔月にとっては別段隠すようなことでもない。物心ついた頃からの習慣。彼女にとってのごく当たり前な常識。
「机の上に千円置かれて、それで一日の食事をやり取りするの。で、他にお小遣いがないから、なるべく節約して貯めて、服とか買ったりお洒落したり……って、そういう意味だよ」
「……何、それ」
朔月は平然と言った。彼女にとってはそれが幼少からの普通だったから。
一方で爽は愕然とした。
ピタリと、足が止まる。釣られて朔月も立ち止まるが、何故止まったのかは分かっていない。
「……爽?」
二人が立ち止まったのは、丁度木陰の下だった。だからか、朔月から爽の表情は見え辛い。だが少なくとも、笑顔では無さそうだ。
「そんなこと、あり得るの? 一日、夕食も? ……親がいない日は、ってこと?」
「いや……いつもだよ。三百六十五日。朝昼晩」
「……お母さんは? 仕事で忙しいの?」
「仕事はしてないんじゃないかなぁ」
朔月は、自分の家庭が異常な自覚がある。両親が不仲で破綻しているという自覚が。
しかし、余所から見た場合、どういう風に思われるかの自覚は無かった。そしてそういう自分のズレも。
「最近は家にいないことも多いけど、それは若いツバメに会いにいってるからだと思うし……。まぁ貢ぐお金をお父さんから引き出すぐらいなら自分で働けばいいと思うけどね」
サラッと。
そう告げる彼女の顔には哀愁すらない。
ただただ、ウンザリしているだけ。
「だからまぁ、ただ貰えてないだけだよ。でも日に千円って結構な額だと思うし、そこまで貧乏って訳じゃ……爽?」
「……それ、おかしいでしょ」
滔々と語って、そこで朔月は気付く。
爽の声がこれまでに無い程、動揺した声音をしているということに。
「え?」
「だって……家族でしょ? なのに、なんでご飯作って貰えないの?」
「まぁ……酷い親だとは思うけど」
「酷いドコロじゃない!」
朔月はビクリと跳ね上がった。この短い付き合いの中でも、爽がクールな性格をしているということぐらいは分かっていた。
なのに今、彼女は取り乱している。
ただ、家族の仲が良くないという話をしただけなのに。
「そんなの、親じゃないでしょ! なんでご飯を一緒に食べないの? なんで不倫なんてしてるの? お父さんは何しているの?」
「え、いや、その」
詰め寄らんばかりに問い質す爽の姿を見て、朔月は自分が彼女の何かに触れてしまったことを理解した。だがそれが何かまでは分からなかった。
だから、素直に答えるしかない。
「お父さんも、愛人いるから……見て見ぬ振りしてるだけだと思う、けど……?」
「……何よ、それ」
信じられない。
そう、爽の見開かれた目は語っていた。
「は、朔月は、それで平気なの……?」
「え、まぁ……流石に平気じゃないよ」
そこでようやく朔月は、自分の家庭環境にショックを受けられているらしいということが分かった。
成程、確かにこの環境に文句を覚えてなければ頭がおかしい。理由が分かった朔月は苦笑しつつ弁明した。
「ムカつくし、喧嘩は余所でやってほしいよ。この間も物を捨てられて悲しくて、こんな人たちと家族なんてヤダなぁって思ったし。だから早く、出て行きたくてしょうが無いよ」
本心だ。
喧嘩しているのは嫌だし、この間ギターを捨てられた時は本当に悲しかった。こんな親の元へ生まれてきたことに絶望した。独り立ちしたら、さっさと縁を切りたいと心の底から思う。
強い自分に変身して、抜け出したい。それがおまじないに祈った願いだから。そんなごく普通の願い。
「だからまぁ、普通だよ。普通に親は嫌いだよ」
これで、誤解は解けた筈だ――そう思って、爽に微笑む。
だが爽は、より一層ショックを深めた顔で呆然としていた。
「なんで……」
「ん?」
「なんで、悲しくならないの?」
首を傾げる。いや、今悲しいと言った気がするけど。
「いやだから、悲しいよ? 宝物が捨てられて本当に――」
「違う、違うでしょ」
爽は首を振った。何故か彼女の方がずっと悲しそうに。
「なんで、仲良くないことに悲しくならないの?」
「え――」
仲良く?
何故?
「だって、家族ってそうじゃないよ。お父さんとお母さんは仲が良くて、時に喧嘩しても、謝って、それで一緒に食卓を囲ってまたいつも通りになって……それを繰り返して、けどいつも笑い合えて。嫌いなこともあるし、嫌になることもあっても、でもそれ以上に大好きで、割り切れなくて。……それが、家族じゃないの?」
一陣の風が吹いたことで枝が揺れ、木漏れ日が揺れた。そして朔月は気がつく。木漏れ日で反射した爽の瞳が、潤んでいることに。意志の炎を燃やしていた、彼女の瞳が。
「なんで……愛されていないことが、悲しくないの?」
「愛されていないこと……」
確かに、それを悲しんだこともあった。
他の家庭を知れば知る程に。
テレビをつけて知る温かい家庭の映像を見る度、自分とのギャップに泣きそうになったこともある。友達が家族のことを語る度に微妙な顔しか出来ないのも確かだ。家を飛び出して誰にも追いかけて来て貰えないことを、寂しいと思ったこともある。
だけど、
大前提に。
「でも私も、あの人たち嫌いだし」
そう、キッパリ告げた。
「………ぇ………」
爽は絶句した。言葉を失い愕然と立ち尽くす。その様子にいっそ心配になりながらも、朔月は疑問に答える。
「そりゃ私だって愛されたいけど、あの人たちにして欲しいとは思わないよ。性格最悪だし、疎まれてるし。この間なんて生まれなきゃ良かったとまで言われたんだよ? 自分に価値がない気がして、ホントに苦しかった。……そんな人たちを」
脳裏に浮かぶのは、冷たい目ばかり。いいことをしてもらえた記憶なんて、一片もない。
「そんな人たちに愛されたいとも、愛したいとも思うわけないじゃん」
「……そんな」
「それよりどうしたの、爽? なんでそんな……」
今度は朔月から爽に質問した。それ程に朔月の目には爽の様子が異常に見えたのだ。
殺し合っていた時以上にショックを受けているように見える。
「……取り敢えず、人のいないところに行こうか」
すぐに立ち直れなさそうにしている爽を見て、朔月は彼女の手を引いた。
いつも気の強そうにしている爽も、ただ喉を詰まらせそれに従うだけだった。
木漏れ日が揺れる。
穏やかな日差しには似つかわしくない、乱れた気持ちを抱えて彼女たちはその場を去った。
「落ち着いた?」
そこは人気の無い神社の境内だった。
くすんだ鳥居と蟲が平気で這う社。公園の奥にこぢんまりとある空間だが、実を言えばこちらが主だった。神社の麓の空間に公園が出来た、というのが正しい。
だがまともな参拝客はいなくなって久しい。めっきり寂れてしまった境内だが、それでも日に焼けた青いベンチの上を軽く拭けば、くつろぐ空間ぐらいは確保できた。
そこに二人で並んで座りながら、朔月は項垂れる爽へ声をかけた。
「……うん、ごめん。取り乱して」
「ううん。私の方こそなんかごめん」
そこでまた、会話が途切れる。
相変わらず朔月には何故爽が悲しんでいるのか分からない。どうやら自分に理由があるようだが、それについてとんと心当たりがなかった。
気まずく思い、空気を変えようと朔月はバッグの中に手を入れた。
「丁度いいから、ここでお昼を食べようよ!」
朔月はバッグの中から白い容器を取り出した。
「じゃーん! ちょっと冷めちゃったけど、それでもおいしい塩焼きそば! 量もあって、コスパ最強だよ!」
「……それも、ご飯代を節約するため?」
朔月としては明るく振る舞ったつもりだったが、爽の気分は上向きにはならなかった。
変わらず沈んだ様子の彼女にどうすればいいか分からないながらも、朔月は頷いた。
「まぁ……そうだね。いつも半分くらいは残せるようにはやり繰りしてるよ。友達と食べに行く時は奮発しちゃうけど」
なので朔月の食事はいつも質素だ。なるべく安く買える惣菜を中心にして、時には自炊する。家に買い置きするべき食材もご飯代の中から賄うのでどうしても贅沢はできない。
そう素直に告げる。
「でもそれが不味いとは限らないし、結構おいしい物食べてると思うけど」
「……そうかも、しれないけど」
爽は少し悩んで、同じように自分の昼食を取り出した。ピンクの布に包まれた弁当。可愛らしい星柄の結び目を解けばやはりピンク色な、二段重ねの弁当箱が露わになる。
箱を開けると、色とりどりのおかずが目に入った。
「わ、おいしそうだね!」
朔月は賞賛した。弁当の中身は本当においしそうだった。
唐揚げに、シュウマイ。ポテトサラダにミニトマト。小さい箱の中に出来るだけのバリエーションを作ろうと考え抜かれた、豊富な食材が詰め込まれている。弁当故全部冷めてしまっているが、それでも問題なく美味に食べられそうだ。二段目の主食であるご飯にはふりかけがかかっていた。
色彩豊かな弁当に朔月は素直に感嘆し、しげしげと眺めた。
「へぇ~、綺麗だね」
「……これ、お母さんが作ったの」
言いにくそうに、爽は言った。
「そうなんだ。あ、だからピンクは自分の趣味じゃないって言ったんだね」
「うん……お母さんが朝早く起きて、お父さんと弟の分も一緒に作って、アタシがいつもやめてって言ってるピンクの弁当箱に詰めて……」
それが、と。
「それが普通だと、ずっと思ってた」
そう、爽は信じていた。
家庭というものは、幸せなものだと。
「……そうじゃない家庭があるってことぐらいは、知っていた。親の仲が悪かったとか、そもそも片親がいなかったり、とか。……でもそういう人たちはみんなそれを悲しんでたりとか、愛されたいとか、そう、思ってると、思ってた……」
だけど違った。
朔月が語る家族は、もっと冷め切っていた。
「家族の仲が悪くて、悲しいと思ってるのが一番辛いことだと思ってた。でもアンタは、朔月は……そうとすら、思えない」
「あ……」
そこでようやく朔月は。
爽が悲しんでいる一番の理由を知った。
家族の仲が悪いこと。そしてそれ以上に……朔月が仲直りしたいとも思ってすらいないこと。
家族としての絆が完全に途切れているにも関わらず、それを繋ぎたいとすら思ってないことが悲しいのだ。
血の繋がりとは、家族とは、もっと良いものだと爽は信じていたのだ。
勿論、中には上手くいっていないところもある。一生拗れたままで終わる関係があることも、知ってはいた。
しかしそれでも、憧憬や、あるいは愛憎が少なからずあるものだと思っていた。家族仲を修復したいと願う気持ちが、どこかにあるものだと。
だけど朔月にはそれすら無い。
「それは、それって……すごく、悲しいことでしょ」
そうして爽は、遂にポロリと一筋の涙を流した。
とても愛情深い人だ。
爽の涙を見た朔月はそう思った。
朔月の家族なんて、他人も他人だ。それなのに悲しんで、心を傷つけて、泣くことが出来る。普通じゃあり得ないことだというのは朔月にだって分かった。
この子は、本当はとても傷つきやすい人なんだ。人のことを想える人なんだ。人を殺すという覚悟を決めた姿ばかりを見てきたから分からなかったけど、その心根は……悲しいくらいに、優しい人なんだ、と。
朔月が爽の本質に触れた瞬間だった。
だけど、そう判断出来たのは心の冷静なごく一部のことで。
実際の朔月はポロポロ涙を流し続ける爽に大いに動揺していた。
「わ、わわ……え、えぇと」
あたふたと、間抜けなパントマイムを演じている。絵に描いたような大慌てだ。
どうしようどうしようと考え、ふと思いつく。
された記憶はとんと無いが、しかしそれで安心出来る人はいると知識では知っている。
が、まだ知り合って三日程度の自分がやっていいのか。嫌がる人も多いんじゃないか。とか余計なことを考えしばらく葛藤し。
意を決し、爽のことを優しく抱きしめた。
「えと……その」
やってみたはいいものの言うべきことは相変わらず見つからず、言い淀んで。
それでも背に回した手を強めながら言葉を探す。
「ありがとう……なのかな。私の為に泣いてくれて」
抱きしめられながら爽は朔月の肩で首を横に振る。
「礼とか……違うよ。アタシが、勝手に悲しくて……」
「それでも、だと思う」
制服越しの体温が、感触が伝わった。温かくて、想像していた以上に華奢で、そして心臓の音が響いて……抱いている少女の命が伝わってくる。
「友達は沢山いるし、みんな大切だけど……けど、それでもこんな風に泣いてくれる人はいなかった」
同情してくれた子もいるし、共感してくれた人もいた。
だがそれでも、爽のように悲しんで涙を流す程の人はいなかった。
「だからちょっと……ううん、すごく嬉しい」
自覚していなかった闇に、優しく触れてくれた。
それは朔月にとって初めての感覚だったから。
「改めて、ありがとう。私のために……きっと、代わりに泣いてくれて」
「……うん」
そう言われては、爽も頷くしかなく。
しばらくはそうして、抱き合いながら過ごした。
それから大分時間が経って。とはいっても日差しの色は変わらない程度の時間。
密着することで溶け合った体温が煩わしくなった辺りで、ハッと気付いたように二人は身を離した。顔が赤らんでいるのは暑さの所為ではあるまい。
気恥ずかしくなった二人は互いに目線を逸らした。
「えと……急にごめんね」
「ううん……別に……」
二人の間に妙な空気が流れる。涼夏の気温に相応しくない生温さだ。朔月と爽はそれぞれモジモジ、ブラブラと脚を持て余し、気まずく沈黙しあった。
なので空気を変えようとして手元にあった物を思い出すのはそれ程不自然なことでもない。
「あ、そ、そうだ! ご飯! お昼ご飯食べないと!」
「そ、そうね」
朔月は輪ゴムを解いてプラスチックの容器を開き、爽は抱き合っている間もずっと弁当の蓋を開けていたことを思い出し微妙な表情になって、それでも目を見合わせて同時に手を合わせた。
「「いただきます」」
それぞれに箸をつける。色々あったが、好物を食べれば顔がほころぶのは普通のことだ。
「ん~♪ やっぱりおじさんの焼きそばは冷めてもおいしい!」
「………」
箸で麺を絡め取り、キャベツや肉片ごと口に運ぶ朔月。それをじっと見て、爽はおもむろに唐揚げを一つ摘まみ、朔月の眼前に突き出した。
「……え?」
「ん」
突然のことにキョトンとする朔月に、爽は更に突き出した。それでも反応の鈍い朔月に業を煮やし、遂にはその言葉を口に出す。
「あ~ん」
「え……あ、あぁ!」
得心した朔月は言われた通りに口を開く。子どもに大人気な揚げ物は口の中に消えた。もぐもぐ咀嚼し、朔月は目を輝かせ頬を挟み込んだ。
「ん~! おいしい! ニンニクが香ばしい感じ!」
「お父さんと、弟がそっちのが好きなんだ。アタシは口臭が気になるから微妙なんだけど、多数決で」
「へぇ~、弟さんがいるんだ」
初めて知った情報だ。だがそれを口にした爽は若干苦い顔になる。
「……どうしたの?」
「いや……何でも無い」
「そう? ……あ、そうだ」
小首を傾げ、しかし言いたくないなら無理に聞き出すまいと流した朔月は、自身の塩焼きそばに箸を突き立てクルクルと回した。
「はい、お返し。あ~ん」
「……あ~ん」
そうして差し出された物を爽は、自分からやり出した手前断る訳にもいかず、気恥ずかしそうにしながらも素直に口を開いて受け入れた。
ぱくり、もぐもぐ、ごくん。
「……ん、確かにおいしいかも」
心なしか目を輝かせ、爽は頷いた。その反応に朔月は嬉しくなる。
「そっか、よかった!」
自分の好きな物を共有出来るのは誰にとっても嬉しいことだ。
その後二人は何度か交換し合った。爽が色々なおかずを提供するのに対し、一種類しかない朔月が心苦しくなって公園の自販機に飲料を買いに走る一幕などがあったが、それ以上の大過もなく昼食を平らげた。
「「ごちそうさまでした」」
また、二人揃って手を合わせる。それぞれの食器を片付け、ベンチに座り直す。ボロ神社の境内に、満腹な人間にしか発することの出来ない緩んだ空気が束の間流れる。腹がくちた満足感で空を見上げ、朔月は溜息をついた。
「ふぅー、おいしかった。爽のお母さん料理上手だね」
「ん、まぁ……だからうるさいんだよね。アタシも料理覚えろって……」
「あはは。いいじゃん。弟さんに作ってあげたら?」
なんとなしに言った言葉。
それが爽の表情を曇らせる。
「あっ……変なこと言ったかな」
今日爽が感情の七面相を見せたことで、朔月も爽の表情が分かるようになっていた。そうして察知し自分がまた失言してしまったと謝る姿勢を見せたが、爽は首を振ってそれを止めた。
「ううん。……まぁ、もう、アンタには……朔月には、もう話してもいいかな」
何かを堪えるように息を吐く。その後、覚悟を決めるかのように口を開いた。
「アタシの弟……
「うん」
「ちょっと歳が離れてて……小学生で。まぁだから姉としては可愛い奴なんだよ。いつもつい甘やかしちゃう」
「いいことじゃん」
兄弟姉妹のいない朔月からすれば微笑ましい話だ。羨ましい、とまでは感じないのは、家族という存在に対する悪印象の所為だろうか。
「サッカーが大好きなんだ。それこそ暇さえあればボールを蹴ってた。それで当たり前のように将来の夢はサッカー選手でさ。ジュニアチームで頑張ってた」
「……頑張って、た?」
「……ん」
爽は振り子のように揺れる自身の脚に視線を落とした。ゆらゆら揺れるそれを視界に収めながら、別の何かを見つめるような様子で、ポツリ、溢れるように呟く。
「でも、歩けなくなった」
さぁっ、と風が吹いた。しかしそれは、二人の間に張り詰めた空気を浚ってくれるようなことはなくて。
「……え……」
「オーバーワーク、って奴。頑張り過ぎちゃったのかな。靱帯と筋肉が酷く傷ついて、車椅子になった。事故でも事件でもない。誰も悪くない。リハビリさえ頑張ればまた歩けるようになるって、お医者さんは言ってる。……でも」
それでも、と。
爽は悔しげに拳を握りしめて。
「サッカーは、もう二度と出来ない」
「……それは」
何かを言いかけ、しかし朔月は何も言えなかった。夢を失った快の立場にも、それを眺めるしかなかった爽の立場にも、どちらにも共感出来なかったから。同情は出来ても、知った風な口は絶対にきけなかったから。
「そう知らされた時の、快の表情が忘れられない。あんなに元気な子が、あんな……!」
だけどその絶望が、爽の心をどれだけ深く傷つけているかぐらいは何となく分かった。そして朔月は気付いた。
「まさか……爽の願いって……」
人の為に泣ける爽。愛情深い爽。家族という存在が幸せな物だと信じていた爽。そしてそんな爽が、ライダーバトルで振る舞う無慈悲な姿。その全てが繋がっていく。
「……そうだよ」
隠さずに、爽は肯定した。
「アタシの願いは、弟をもう一度サッカーできる身体にすることだ」
顔を上げた爽の瞳には炎が宿っていた。堅硬な意志。やり遂げる覚悟。傷を焼き潰してでも進む勇気。
そしてその薪となっている、情愛。
朔月は理解した。
爽がどこまでも優しいことを。そしてその優しさを家族へ一番に向けていることを。その為ならどんな汚名だって被る覚悟があることを。
だからこそ、ノーアンサーの誘いに乗り、ライダーバトルに参加し、そして人を殺す決意を固めた。
全ては――
「奇跡でも無い限り絶対無理だって言われた。だったら奇跡を起こしてみせる。その手段があるのなら、アタシは何でもする」
爽は立ち上がった。脚が動くから、立ち上がる。そうして少しベンチから離れて振り返り、まだ座ったままの朔月と真っ直ぐ向かい合う。
「だからアタシは――絶対止まれないんだ」
正真正銘の愛。
「……そっか」
それを前にして朔月はただ見上げ……諦めたように呟くしかなかった。
立ち上がることは、出来ない。
戦いを止めたかった。
純粋な良心として。そして知り合った爽を殺したくないと思ったから。
だから戦わなければならない理由を、願いを聞き出せば、どうにかなると思って――でも。
「そう、なんだ」
どうにもならないと、分かってしまった。
ここで、「人を殺して弟が喜ぶの?」とか、「大切な家族なら、信じて待とうよ」とか綺麗事を述べるのは簡単だ。
だけどそんなこと、人を殺すだけの決意を決めるくらい悩んだ後なら、とっくに過ぎ去ってしまっている筈で。
もう選んだからこその、覚悟なのだ。
ならばもう、止められない。止める資格が朔月には無い。
だって朔月には、彼女を止めるだけの
家族の絆の途切れた朔月では、その大切さを論じることが出来ない。
空っぽな
「じゃあ……」
それが分かってしまったから。
そこから零れたのは、ただの心の叫びに過ぎない。
「……私も、殺すんだね」
諦観のような呟きだった。
全部受け入れて、諦めて……それが現実なのだと、夢見ることを止めた声音。
「っ……!」
優しい爽は朔月にそう言わせてしまったことに傷ついて、しかしそれでも覚悟という炎でその傷を焼き潰して。
真っ直ぐ、視線を逸らさずに告げる。
「……そうだよ。アンタは……アタシが殺すんだ」
ざざぁっ、っと勢いよく風が吹く。
夏にしては妙に心地よい風は、そこにあった何もかもを、吹き曝せずに通り過ぎて。
見つめ合う二人はただただ――悲しそうな目をしていた。