タマモクロスは、叶わないであろう願い事を書いた短冊を笹にかけた。
トレーナーは、叶わないであろう願い事を自分で叶えるために笹にかけるふりをした。
七夕の夜。人のいない、灯の無い、音の無い展望台。天の川銀河の中から見つめる天の川。
タマモクロスとトレーナーはそれぞれ同じような願い事をした。
ただ、それが叶うかどうかは本人たち次第である。
7月は夕暮れでも気温が下がらず、バス停の椅子は道路からの照り返しで厳しい熱を纏う。
その椅子に座り、揺らぐアスファルトを見つめる浴衣の男がいた。男は1人バスを待っていた。
定刻より遅れて到着したバスは、満員も満員で男は静かに乗降口近くに立った。車内のほとんど全員が、同じ目的地へと向かっている。
今日は7月7日。七夕祭りへ向かう客を乗せて、バスは定刻より遅れて発車した。
7時を回った頃、祭りが開かれる河川敷の近くに到着とたしたバスからは次々と乗客が降りていく。浴衣の男も人の波に流されるようにバスから降りた。やがて、静かになったバス停の椅子に男はまた座った。夜だろうが冷えないアスファルトを見つめながら、ぼんやり祭りの音に耳を澄ませると、それを掻き消すような声がした。
「アホ、遅いねん。待ちすぎて背が伸びるかと思ったわ。20センチくらい伸びたんとちゃうか?」
「んー、そうは見えないなあ。むしろ縮んだ?」
「縮むか! やかましいわ! 行くで!」
射的で使われるコルク弾のような速さで、男に激しいツッコミを入れたのはタマモクロス。
そしてその男こそ、タマモクロスのトレーナーである。トレーナーは1言謝ると、タマモクロスに手を差し出した。タマモクロスはその自分より大きな手のひらを、訝しんで見つめた。
「なんや? お駄賃でも欲しいんか?」
「いや、手を繋ごうと思ってさ」
手を繋ぐという言葉に、タマモクロスは髪まで赤くして再び強烈なツッコミを喚いた。それでもトレーナーは、ただただ冷静に手を差し出す。
「ほら、人も多いし迷子になったら大変だから」
「なるか! 迷子になるのはそっちやろ!」
「じゃあ、なおさら手を繋がないとね」
タマモクロスは自身の誤りに気がつくと、地面をジタバタと踏み鳴らし、そして意を決してその手を掴んだ。背の低いタマモクロスの小さな手が思いの外熱く、トレーナーは一瞬歩みを止めた。それを誤魔化すために、トレーナーは目線を繋いだ手からその上にあるタマモクロスの肩へと向けた。距離にして、そう遠くはないのだが。
「浴衣、似合ってるね」
「な、な、急に何を言いだすねん! アホ!」
トレーナーが身にまとう紺色の浴衣とは対照的に、タマモクロスは白いアサガオの浴衣だった。
「うん、似合ってるよ」
「ただの古着や。別に珍しくもあらへん」
「古着でもなんでも、とても似合ってるよ」
「う、うっさい。何回、同じ事言うねん」
髪どころか、白い浴衣まで赤くなっていた。
七夕祭りの会場は、入口を抜けると広がる夜店の道から始まり、その奥にある巨大な笹へ願いの札を結びつける流れになっている。
トレーナーは、両側にズラリと並んだ夜店を見ながら、何を食べたいかタマモクロスに聞いた。
「別にいらないわ。こういうのは高いし、たこ焼きなんてウチが作った方が美味いに決まっとる」
たこ焼きの部分は置いておいて、トレーナーはタマモクロスの発言に少し眉を上げた。
「もしかして、お財布の事気にしてる?」
「き、気にしてへんわ!」
「今日は全部私が出すから、好きなものを食べて良いんだよ。射的でもくじ引きでも良いし」
「そんなん、いつもトレーナーがやってる事と変わらへんやん。せやから、たまには……ウチが」
「私にご馳走したいと?」
タマモクロスはこくりと頷いた。トレーナーがいくら持っているのか尋ねると、か細く千円という返事が帰ってきた。ただし、その千円は決して安い金額ではない。タマモクロスにとって、遊ぶために使う金額として千円は大金も大金だ。
トレーナーには、2つ選択肢があった。1つは、いつものように自分が払う事。そしてもう1つ、このもう1つをトレーナーは選んだ。
「タマが私に買ってくれるなら、何でも良いよ」
「言質取ったで。何でも食べるんやな?」
「ああ、食べるよ。ここで待ってるからさ」
そうして、タマモクロスは人混みの中へ飛び込んでいった。トレーナーは手のひらに残った体温を少しだけ名残惜しく思った。
10分して、タマモクロスは大事そうに焼きそばを持って戻った。その顔はどこか晴れやかだ。
「遅かったね。迷子になった?」
「ちゃうわ! 1番安い店を探すのに時間かかっただけや。けどオッチャンの腕は信用出来るで」
「でもなんで焼きそばなの?」
「そんなん、1番腹に溜まるからや。コスパや」
「じゃあ、いただきます」
蓋を開け、割り箸で焼きそばを啜るトレーナーを、タマモクロスは微笑んで見た。見ている事に自分で気がつき、また顔を赤くした。トレーナーは焼きそばに夢中でそれに気がつかなかった。
トレーナーがその視線を察知した時、容器の中の焼きそばは半分に減っていた。
「食べる?」
「い……い……いる」
今度は、タマモクロスがトレーナーに視線を送られるのだが、背の高いトレーナーからの視線に気づかないわけもなく。タマモクロスは焼きそばをほとんど味わう事も出来なかった。
再び手を繋いだ2人は、会場の中心へと進んで行く。その道中、トレーナーは綿あめとりんご飴をタマモクロスに買って渡した。タマモクロスは黙ってそれらを食べた。味はしなかった。
射的と、くじ引きと、金魚すくいで散財しようとするトレーナーをタマモクロスがしばいた。
少々悪辣な店主達がタマモクロスを睨んだのは言うまでもない。ヨーヨー釣りは許された。
熱い、と愚痴をこぼしたタマモクロスのためにトレーナーはかき氷を買った。味はしなかった。
笹までもう目の前という所で、トレーナーは足を止めた。タマモクロスが足を止めたからだ。そしてその理由に気づいた。髪飾りの夜店だった。
「どれが、ほしいの?」
「えっ……?」
「気になったのがあるんでしょ?」
その言葉に、タマモクロスはゆっくりと並べられた髪飾りへと近づいた。そして、その中から1つ取ると、備え付けの鏡の前に立った。数秒して、元の場所に戻すと何事も無かったかのように夜店から離れた。耳は、静かに垂れていた。
──ゼロが多すぎる。
その呟きがトレーナーの耳に入ったかどうかはタマモクロスには分からない。ただ、何も気づいていないようなトレーナーの姿に、タマモクロスは少しだけ安堵した。そしてそれが悔しかった。
「いらないの?」
「せやな。なんかギラギラしとるし、ウチの好みには合わへん。あんなん買うのは世間知らずのお上りさんだけや。ほな行こか」
それきり、トレーナーは髪飾りの事を口に出さなかった。タマモクロスは何事も無かったかのように笹を目指して進んで行く。
列に並んで待ち、1人1枚の短冊を受け取る。
机には色とりどりのペンや筆記具が置かれ、それぞれ思い思いに願い事を書いている。
机の端に座ったタマモクロスは、自分の細い腕で短冊を隠しながらペンを走らせた。走らせて、その視界にトレーナーの姿が無い事に気づいた。
不安、恐れ、迷子。迷子は否定する。仕方なく1人で笹の葉に短冊を結びつける。短冊が柔らかい風にひらひら揺れるのをじっと見ていた。
「──タマ」
その声に耳が、尾が跳ねる。しかし、すぐには振り向かない。心の底から怒っているからだ。
「どこ行っとったんや。短冊つけたんか?」
トレーナーの弱々しい肯定に、タマモクロスは鋭く息を吐いた。また、短冊が揺れた。叶わない願いを書いた短冊が、ひらひらと揺れていた。
バス停までの道、人の大波が出来ているが2人の手が繋がる事は無かった。
タマモクロスはなぜ自分がこんなに怒っているのかまるで理解出来なかった。寂しかったから、不安だったから、また誰にも届かない願い事をしてしまったから。どれもそうだとは言えない。
トレーナーは非常に不機嫌なタマモクロスを、気にしていないように振る舞った。しかし、その体がどこかへ消えてしまわないよう、視線は常に下を向く。無意識に手の中の物を握りしめて。
街の方へ行くバスの停留所。誰かが、空を見て息を漏らした。そこにあるはずの星々が他の明かりに紛れて見えないからだ。綺麗な天の川を見たいと、誰もが思った。そしてまた来年は見たいねと、安易な願い事を口にするのだ。
ただ2人、山道を登るそのトレーナーと、その手に強引に引かれるタマモクロスを除いては。
頭上に広がる綺麗な天の川を気にするほど、今のタマモクロスは冷静ではなかった。
突然わけも分からずに手を引かれれば誰だってそうなるだろう。余りにもわけが分からず、自分の理不尽な怒りさえ忘れてしまいそうになった。
「──タマ」
とても弱々しい声だった。まるで、何かを控えて緊張しているような。そんな声だった。
「アンタ、ウチに何する気やねん」
「見せたいものがあるんだ」
「見せたいもん? 何言うとんねん」
「それと」
「ゴニョゴニョ言わず、はっきり言わんかい」
「浴衣、とても似合っていて可愛いと思う」
「……何を急に。さっきも聞いたわ」
再び、山道から声が消えた。
ここでタマモクロスは1つ思い出す。トレーナーが浴衣を褒めるのはこれで3度目だが、その後に続く言葉は始めて言われたという事を。
その言葉を噛み締めようとするが、上手く歯が合わない。開いた口は荒い呼吸を繰り返す。
「トレーナー……今、なんて言ったん?」
問に対する答えの半分は、タマモクロスの視界に広がった景色が答えてくれた。
展望台に明かりはなく、眼下の灯りは祭り会場のものだろう。そして空を見ずとも分かる星達。
天の川が降り注ぐ、下界の音も届かない展望台の椅子にトレーナーは腰掛けた。その手に引かれて──いや、自らタマモクロスは隣りに座った。
天然のプラネタリウムに、タマモクロスからは笑みすら溢れる。しかし、トレーナーの笑みは空ではなく隣のタマモクロスへ向いていた。
「これが、ウチに見せたいもん?」
「そうだよ」
“次”に移りたいトレーナーも、この景色にそれを忘れて星灯りの祝福を受けていた。天の川銀河の中にある地球から天の川を2人は見つめた。
なので、トレーナーが“次”に移ったのはそれからしばらくしてからとなった。
目を閉じて、と言われたタマモクロスは平然とした顔で不安を隠せずに目を閉じた。トレーナーは懐から取り出した物を、タマモクロスの髪へと器用に取り付けた。器用というのは、それが短冊であったからに他ならない。
目を開けたタマモクロスが、自分の髪につけられた紙片を短冊だと認識するのに時間はかからなかった。そしてその短冊はトレーナーが書いて、意図的に笹へつけなかった物だと理解する間に、天の川は数回以上瞬きをした。
さらに言えば、その短冊の文面を読み、理解する間に、いくつかの星が寿命を迎えたであろう。
それほど、そこに書いてあるものは想定外であり、感情が抑えられなくなるほどに嬉しいものであった。涙を抑えるには、もう手遅れだ。
【タマモクロスに想いが伝わりますように】
何も言わず、何も言えずに、短冊を抱きしめたタマモクロスにトレーナーは再び目を閉じるよう言いかけて、やめた。既に閉じていたからだ。
懐から出したもう1つの物を、優しく髪へ取り付ける。その星々の意匠が、星々からの鈍い鈍い光を纏っていた。その髪飾りが、タマモクロスからさらに感情を奪った。とうとう自分も感情を堪えきれなくなったトレーナーは、その小さく震える熱い肩をやや強引に引き寄せた。
「これが、私の願い事」
「アホ……願ってないやん」
「願っていても橋が出来ないから、自分で天の川を渡ってみたんだ。織姫さん」
「こんなん、滅茶苦茶やん」
「髪飾り、似合ってるよ」
「うっさいボケ。こんなん買って、こんな高いもん買って。アホ。トレーナーの……アホ……」
トレーナーの浴衣がタマモクロスの涙で濡れるように、タマモクロスの髪もまた、トレーナーの涙によって微かであるが濡れていた。
「願い事……叶ったかな」
「叶っとる。とっくの昔に叶っとる。ウチがそれを知らんふりしただけや。アホ」
「今のアホはどんなアホなのさ」
「ウチを嬉し泣きさせるアホ男はアホや」
トレーナーは困り果てていた。
ここまで来たはいいものの、さらに“次”へ進む勇気が湧かなかったからだ。そうしている内に、それをタマモクロスに見抜かれてしまうのだ。
「言いたい事があるなら、はっきり言ってくれんとウチ嫌や。アホならアホらしくアホ正直に言わんかい。織姫みたいに離れてまうで」
覚悟を決めたトレーナーは、天の川に不滅の橋をかけるべく口を開いた。言葉は決まっている。
「──好きだよ。タマモクロスの事が、好きだ」
ただし、タマモクロスの泣き声でその言葉が掻き消されたとしても、それはトレーナーの責任では無いだろう。なったら理不尽に他ならない。
少しばかり落ち着いたタマモクロスは、少しだけ冷静になって考えた。ここから、自分がどうすれば良いのかを。あれこれ考え、そもそも自分はあれこれ考えるのが苦手な事に気づき、あれこれ考えるよりも行動に移した方が良いと結論した。
その結果、タマモクロスは自分の細くて短い腕を必死にトレーナーへ回そうとするのだったが、それよりも先にトレーナーが腕を回した事で全てが無駄に終わった。あとタマモクロスに出来る事と言えば、信じられないほどに照れきった顔を下へと向ける事だった。それも、無駄に終わった。
他に人のいない、静かで灯りの無い展望台。
そこで泣き笑いながら抱き合う2人が、何をどうしたのかは天の川と髪飾りだけが知っている。
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