寝ている私を、お父さんとお母さんが撫でて微笑んでいる。
ただ、それだけのだけの夢。
くだらない感傷の生み出す幻想だ。
だって両親がそんな風に優しくしてくれた事など、一度としてなかったのだから。
唐突な話だが、バーノン叔父さんがイカれた。
ホグワーツから帰ってきたこの頃、本当にハリーはそう思っている。
プリペット通り4番地。
朝食の席で、今朝もまたいざこざが始まった。
「バーノン! また私に無断でギャンブルに行ったのね! 財布からお金が減っていたわよ!」
「ちょ、ちょっと借りていただけだよペチュニアや。ポーカーで勝ったらちゃんと返すつもりだった……まぁ珍しくダメだったんだが。そ、それでもどうにかなる! だからペチュニアや、あともう少し小遣い増やしてくれんか? どうかね?」
「バーノン! 最近の貴方は本当におかしいわよ! 自分が何を言ってるのか分かってるの!? 可愛いダドちゃんの今年の学費も入金したばかりで、今月は生活費がカツカツなのよ!?」
「おかしい……? なんという言い草だ! わしがこの家にしてきた貢献を忘れたのか!? 先月はその勝った金で豪華なディナーを食ったろう!! あの味を忘れたか!! それにわしの稼いだ金なんだから、いくらポーカーをやろうとも許される筈だ……ペチュニアや、違うかね?」
ギャンブルが人をクズにするのだろうか。
もしくは元々持っていたクズがギャンブルによって暴かれるのだろうか。
長年連れ添った夫のこの所続く乱心に、もはやペチュニア叔母さんは感情を失った表情をしている。
「そうでしょうとも! 私のお金でもありますけれどね! ……ねぇ貴方、先月大儲けしたのは運が良かっただけなのよ。こんな生活続けてたら破産するわ。ダドちゃんの教育にも良くないし、もうやめて!」
「お前は何にも分かっとらん! 博打ってのはな、外れたら痛い目見るから面白いんだ!! それに今月にまだ入ったばっかりだ! 負けているとは言えん! ここから面白くなってくるんだ!」
本当にどうしてしまったんだろうか?
普通の円満な家庭、家に並べられたトロフィー。疲れた午後に一杯の珈琲、それさえあれば問題は無い。
そう豪語していた男が、一年ぶりに再会してみれば立派なクズギャンブラーの仲間入りだ。
どうやらホグワーツ近くのホグズヘッド・インでの短いながらも濃厚な生活は、彼の人生観を粉々にしてしまったらしい。
お陰で、ハリーへの八つ当たりや魔法に対する偏見は前よりもマシにはなった。
しかし、罵声が飛び交う回数は明らかに多くなった。
相も変わらずダーズリー家はギスギスしていて、ハリーの心休まる場所とはならない。
まぁハリーは、その矛先が自分に向かなくなっただけでも十分ではあるのだが。
「なぁハリー、パパどうしちゃったんだよ。お前の学校に行ってからずっとああなんだぞ。お得意のま、魔法でも掛けたのか?」
一年という期間で以前の二回りも横にも縦にもデカくなったダドリーが若干怯えながらハリーに囁く。
ハリーは答える。
「冗談よせよ、あれは魔法じゃない。純粋な病気さ」
キッチンの椅子の両脇からはみ出して垂れ下がる彼の尻。
未だに彼は、一年前にハグリッドに豚の尻尾を生えさせられた恐怖で怯えているらしいが、心配する必要は無いと思う。もはや立派なブタだ。
そのブタがハリーの返答に小声で食ってかかる。
「お、お前……パパの頭がパーになったっていうのか?」
「それ以外に何があるって言うのさ。会社から帰ってきては、速攻でウィスキー片手にカジノに出かけてるんだぞ。それも毎日。頭が変になったとしか思えないよ」
言い返す言葉が見つからないのか、ダドリーは口をパクパクさせている。
そりゃそうだ。会社の無い日ですら、朝から昼までをポーカーの研究にあてて、夜はその成果を試さんとばかりに出かけていく。
もはや
ダーズリー家にとって不幸だったのは、バーノン叔父さんがやたら滅多にポーカーが強かったことだ。
元々、バーノン叔父さんは名門スメルティングズ出身で会社でも社長まで出世した叩き上げ。
胆大心小な彼は、運やツキを殆ど勘定に入れず相手の心理を推理し、駆け引きをする理性と才能があった。
それがポーカーのゲーム性と本人の嗜好に上手く合致したのだろう。
ペチュニア叔母さんやダドリーからしてみれば迷惑千万な話だが。
最後のトーストが焼き上がった頃、バーノン叔父さんが重々しく咳払いをした。
「さて……みんなも知っての通り、今日は非常に大切な日だ」
ハリーは自分の耳を疑って顔を上げた。
実は、今日はハリーの十二歳の誕生日だった。
「今日こそ我が人生最大の商談が成立するかもしれん」
特に失望もなく、ハリーは自分のトーストに顔を戻した。
バーノン叔父さんの事だ、どうせあの馬鹿げた接待パーティーのことを言っているのだろう。
この二週間、彼はポーカー以外はその事しか話さなかった。
何を隠そう、どこかの金持ちの建築家が奥さんを連れて夕食にやってくる。
バーノン叔父さんは、穴開けドリルを作っている会社に勤めており、今日の話の風向き次第では山のように注文が取れると踏んでいた。
「そこで、もう一度みんなで手順を復習しようと思う。8時に全員位置につく。ペチュニアや、お前はどの位置だね?」
「応接間で、お客様を丁寧にお迎えするよう待機しています」
「よしよし、ダドリーは?」
「ドアを開けて差し上げる。そして言うんだ。メイソンさん、奥様コートをお預かり致しましょうか?」
ダドリーはバカみたいな作り笑いを浮かべてセリフを言った。
ハリーはテーブルの下に潜り込んで大笑いするところを誰にも見られないようにした。
「……それで? 小僧、お前は?」
咄嗟にハリーは普通の顔を装い、テーブルの下から出てきた。
「僕は自分の部屋にいて物音を立てない。いないふりをする」
「全くもってそうしろ」
バーノン叔父さんの声に力がこもる。
「メイソンご夫妻はお前のことを何もご存知ないし、知らんままで良い。夕食が終わったらペチュニアや、お前はメイソン婦人をご案内して応接間に戻り、コーヒーを差し上げる。わしは話題をドリルの方に持っていく。運がよけりゃ”10時のニュース”が始まる前に商談成立で署名、捺印しておるな。明日の今頃は大金をはたいて買い物だ! 島に別荘でも買うとしよう!」
そんな狸の皮算用な会話を聞き流しながら、密かにハリーはため息を吐いた。
幾らハリーへの八つ当たりや魔法への偏見が薄まろうとも、自分の立ち位置がこの家の鼻摘み者である事には変わりない。
悪いことはそれだけではない。
悲しい事にホグワーツの親友の二人も、夏休みに入った途端に手紙すらよこさなくなった。
魔法界から切り離されたような気持ちになったハリーは、気分転換の為に裏口から眩しく日が照らす庭に出る。
「ハッピー・バースデー、ハリー♪ ……ハッピー・バースデー、ハリー♪ ……」
カードもプレゼントもない。
夜にはキチガイ扱いされていないふりだ。
親友だった筈のロンやハーマイオニーもハリーの誕生日まで忘れている。
「誕生日なんだろ? 良い事の1つや2つあっても良いじゃないか、神様のケチ」
荒んだ気分でハリーは、どこまでも青い空にそう吐き捨てた。
この数時間後、ハリーは勿論、ダーズリー家すら巻き込んだ壮絶な悲劇が起こる事など露とも知らずに。
◇◇◇◇◇◇
命は尊い。
昔、孤児院でマザーが言っていた。
リカバリーが効かず、金で買い戻せ無いもの。それが命。
失った命は当然、戻らない。
だから尊く、大切にしなさいと。
────しかし、本当にそうだろうか? 殺して良い命も中にはあるんじゃないのだろうか?
「お嬢ちゃん、迷子になったんじゃなかろうね?」
例えば、目の前の男がそうだ。
小さく見るからに幼い
不潔な男だ。
いつ洗ったのかもわからぬような不潔なシャツとズボン。
伸び放題の髭と髪は脂ぎっており、まるでケダモノが服を着て歩いているよう。
「通してくれないかな? 少し急いでいるんだ。大事な買い物があるからね」
「買い物かい? 良いねぇ。だがねお嬢ちゃん? 小っちゃなガキが彷徨くには、ここら辺はちょっとばかり治安が悪い。だから俺も付き合ってやるって言ってんだ……」
無論、買い物に付き合うだけですまないのは、爛々と輝く瞳とガマガエルのように歪んだ大きな口が雄弁に物語っている。
周囲の人間を見れば似たりよったりの連中ばかりだ。
向かい側の古ぼけた店の入口ではみすぼらしいなりの魔法使い二人が、薄暗がりの中からボク達を見て、何やらボソボソ言っている。
少なくとも変態に絡まれたボクを助ける気がないのは明白だった。
脛に傷がある者しかいない場所ならば、多少の悪戯は見て見ぬふりをされるのが世の常。
男もそれを理解しているのか、ニヤニヤと笑いながらにじり寄ってくる。
「何を怖がっているんだい? 安心しなよ、怖いことするつもりなんてないさ」
あー面倒臭い、イライラする。
もういいや。やっちまうかコイツ。
男から一歩身を引いたボクは、追いつける程度の速度で路地裏へと逃げ出す。
「へへへ、待ちなよ」
角に入った途端、ボクは視線を左右に滑らせる。
周囲に人気はない。
近くに居酒屋でもあるのか、良い具合に騒音が路地裏にも漏れている。
(ちょっと雑だけど、これならいけるかな)
相手は成人男性だ。
未成年のボクは魔法を使ってはいけないし、真正面からの力技では勝てない。
故に頭を少し捻った戦い方をしなくてはならなかった。
少し遅れて、追いかけてきた男が路地裏に入ってくる。
「……こっちに来ないでよ。魔法警察を呼ぶよ」
「呼びたきゃ呼びなよ。魔法警察が来る前にさっさと終わらすからさあ……自慢じゃないがそっちの方は早いんだよ、俺」
「お願いだから来ないで……やめて……」
重要なのは演技力だ。
怯えるように見せかけて一歩だけ、ボクは後ずさる。
興奮したように息を荒らげた男は二歩、三歩とその間に詰めてくる。
「へへへ、大丈夫大丈夫……路地のゴミ数えている間に終わるからさあ」
表面上は恐怖に顔を歪ませながら、ボクは冷静に不幸な男を観察する。
賢くもなければ魔力も平凡。
おまけに欲に素直で、殺意に鈍感だ。
人気の無い路地に誘い込まれたというのに、警戒する素振りも見せない。相手を小さい子供だと舐めきっている証拠だ。
小さな鼠ですら猫に噛みつく事があるというのに。
まさに救いようがない屑。残念無念。
(あと、一歩)
タイミングとして最良なのは、思考が行動に出る一歩手前だ。
絶妙なタイミングで相手に予想を裏切る動きをされると、人間の思考は一瞬止まってしまう。
だから、逃げようと背を見せるボクは、敢えて襲いかからんとしている男に振り向いた。
「え?」
困惑した男。緩む前傾の姿勢。
予想通りの行動に、ボクは低い姿勢から鋭い蹴りを放つ。
相手の臑を狙った不意打ちは呆気なく決まり、男はその大きな身体をドシン、と転倒させた。
「ぐ……っ!?」
唐突な反撃に、男は何が起こったかも分からず激痛に足を押さえて身体を丸める。
杖を抜こうとする余裕はない。人は不意に訪れる危機には案外、対応出来ないものだ。
くぐもった苦悶の呻きをあげる男。
すぐさま立ち上がったボクは、彼に近寄ると────虫を踏み潰すようにその首を踏み抜き、完全にその命を絶つ。
「これでよし、と」
首の骨を踏み砕いたことを確信させる、己の足に残った鈍い感触。
それに満足したボクはよしよしと頷く。
派手な悲鳴が上がることも、噴水のように血が吹き出すこともない。
静かなゴミ掃除は楽ではないが、その分だけ成功すると達成感があるものだ。
「ったく、魔法が使えれば楽なんだけどなあ……イギリスだと”匂い”が残っちゃうからね。まぁこれも訓練の一環だと思って我慢するしかないか」
────人の命は大切に。
そんな当たり前すぎる道徳をボクは理解出来ない。
だってそもそも人を殺したことに対する罪悪感も恐怖もないのだから。
あるのは部屋の周りを飛ぶ蚊を潰したような達成感、些細な不愉快が解消されたことによる若干の安堵のみ。
ボクにとって、他人の命とはその程度のものでしかない。
「さぁて。とっとと学校に必要な物買って漏れ鍋に帰ろっと」
不愉快な人間を殺すことに抵抗を感じなくなったのはいつからだろう? 思い出そうにも記憶は霞のようにボンヤリとしている。
だから考えるのをやめる。だってそんな事はどうでもいい。
不愉快な人間はゴミと同じで、いるだけで不快だ。
ゴミがあれば綺麗に掃除したくなるのは、文明人として当然の心理。
ちなみにホグワーツにも勘に障るゴミが幾つかいるが、ボクはそれを見逃している。
彼処で行った殺人を隠し通せる自信がないからだ。
殺人は一応、イギリス魔法界という村社会のルールではいけないことだとされている。バレたらアズカバン行き。
当然、ボクは爺様のように苔塗れで薄暗いブタ箱を好む趣味はない。
殺せば世の中的にも精神的にもすっきりするだろうが、その結果として更にボクの生活環境が悪くなるならば少しの我慢はしよう。
「まぁ、嫌な奴と二度と会わないで済むというのは魅力的だし、いつか何かの拍子にうっかり殺っちゃうかもだけど」
念の為、フードを目深に被ったボクは路地裏からそっと出る。
先ほどの古ぼけた店の入口にいた魔法使い二人は、予想と違う結果に目をしぱしぱさせていた。
それらを一切合切無視したボクは、”
風が強くなってきた。空を見上げれば一面の曇天で、まるで今にも泣き出しそうだ。
「今日の予報だと夜は嵐だったっけか」
目指すは、このくねくね道の先にあるダイアゴン横丁。
その中心に佇む純白の大理石の建物、グリンゴッツ銀行だ。
金を降ろさなくては買い物も何も始まらない。
早いところ、大量のガリオンで懐を満帆にしなければならないのだ。
「早めに買い物を済ませたら……そうだなあ。”漏れ鍋”で糖蜜ヌガーをツマミに、ファイアウィスキーを呑むのも乙なもんだね!」
久方振りのショッピングの予定に、珍しくボクは浮かれていた。
────それこそ、数分前に生命活動を停止した男の事など既に頭から消えているくらいには。
「…………」
だからだろうか。
一連の騒動を影から見物していた男の存在に、ボクは最後まで気づかなかった。
◇◇◇◇◇◇
雷鳴轟く嵐の夜。
窓の外は雷光に照らされ酷いどしゃ降りの雨が反射する。
埃が積もり、あちこちに蜘蛛の巣が張っている部屋。
その中心にあるソファーに座っていた隻眼の男は、そんな外の風景を眺めてため息を吐いた。
男の名は、アラスター・ムーディ。
純血のスコットランド人魔法使いであり、”マッド・アイ”という二つ名とその強さで有名な元闇祓いである。
「嵐は嫌いだ。古傷が疼く」
ざんざんと窓を打ちつける雨を見つめながら、ムーディは残った唯一の瞼を閉じる。
思い返すのは過去。闇の帝王が席巻した、まさに嵐のような激動の時代。
人はとかく暴力の恐怖に弱い。
ヴォルデモート卿の時代は、まさに暴力の時代でもあった。
多くの魔法使いが死ぬか、尊厳や誇りを投げ出し生きる事だけを目的とする中、彼は闇の帝王の恐怖へと立ち向かい、今日まで生き延びた。
第一次魔法戦争時には実に様々な闇の魔法使いと激闘を繰り広げたものだ。
ドロホフ、レストレンジ、マルシベール……数え上げればキリがない。
それぞれが一癖も二癖もある上、中々に手強く凶悪な魔法使いだった。
「どうしようもない屑共だ。中でも記憶に残るのは……やはりというかヤツだな」
欠けて歪な形となった己の鼻とぐるぐる回る義眼を撫でて、ムーディはうっそりと笑う。
無数の闇の魔法使いたちでアズカバンの牢獄を埋め、史上最強の闇祓いとして名を馳せた彼は、ある闇の魔法使いとの死闘で鼻の一部と目を失っていた。
「エバン・ロジエール。こんな嵐の夜は、あのいけすかないニヤケ面を思い出す」
エバン・ロジエール。
魔法使いにしては珍しく杖無しの死喰い人だった。
通常、役職も存在せずメンバーの得意分野に応じて、異なる役割を与えられているのが死喰い人。
ヤツはその中でも戦闘員として活発に活動していた。
ベラトリックス・レストレンジやアントニン・ドロホフも凄まじい闇の魔法使いではある。
強力な魔法使いが幾人も彼らに挑んでは骸を晒した。
しかし、率先して闇祓いを狩るようなイカれた戦闘狂はロジエールくらいなものだ。
ヴォルデモート卿に殺されたという、マッキノン家、ボーン家、プルウェット家といった当時もっとも強力とされた魔法使いの一族。
よく誤解されがちだが、彼らはどこまでいっても一般人でしかない。
戦闘のプロである闇祓いには総合力でどうしても劣ってしまうのだ。
闇祓いに求められるもの。それは魔法力は勿論のこと、体術、死地での機転、殺しのセンス、集団行動、など沢山ある。
それらが一般より秀でて初めて闇祓いとなる資格が得られるのだ。
そんな軍隊としても例えられるプロの戦闘集団を相手に、積極的に戦いを挑むなど狂気の沙汰以外の何物でもない。
アントニン・ドロホフのような悪名高い死喰い人ですら、複数の闇祓いの相手は嫌がったくらいだ。
思えば、自ら闇祓いと積極的に激突するエバン・ロジエールは、味方の死喰い人からすら恐れられていた節がある。
恐怖という情も杖も持たないイカれた魔法使いを、数々の魔法使いは畏怖の念を込めてこう呼んだ。
────”
当時、動乱の時代ゆえに、死喰い人の殺害はバーテミウス・クラウチ・シニアにより許可されていた。
しかし、ムーディはなるべく相手を殺さず生け捕りにすることに重きを置いていた。
正直なところ、ただ殺すよりも生け捕りにする方が何倍も難しい。
実力差がある程度ないと出来ない芸当であり、危険な行為だ。
それでも何故、それを心掛けていたかといえば自身も彼らと同じ修羅道に落ちない為。
人を殺すという一線を越えたくはなかったのだ。
しかしエバン・ロジエールはそんなムーディに信念を曲げさせ、その体の一部すら奪ってみせた。
「恐るべき闇の魔法使いよ。あの純粋な悪意の結晶。とてもではないが生け捕りなぞ出来はしなかった……」
あの闇のような黒い外套とドス黒いシルクハットを、ムーディは今でも鮮明に思い出せる。
卓越した殺人の手際や殺しに特化した闇の魔法も。
死喰い人の中でも特に変わったあの男は、偏った純血主義も持たず生の渇望をただ死中に求めた。
激突する度に、闇祓い達に何人も死人が出たものだ。
そして、味方と敵の骸が増えれば増えるほどにヤツは笑みを深くした。
────悪足掻きはよせ、ロジエールよ。お前は既に1人だ。他の連中は皆、死ぬか儂らの縄についたぞ。大人しく投降するがいい!
────悪足掻き、ねぇ? なーんにも分かってねぇな。こっちは頭数なんかハナからアテにしちゃいないんだよ。絶望的な状況であればあるほどに、ヒトの生は輝きを増す。あんたになら分かって貰えると思ってたんだがなぁ
”
風にそよぐ草が、切れ目無く動く様から名付けられたイギリス最高位の闇祓い達による怒涛の波状攻撃。
一人の目標に対して、数人が順番に一人ずつ間断なく呪いを繰り出す戦術。
それでもエバン・ロジエールは七人もの闇祓いを道連れにし、最後はムーディの放った”悪霊の火”の中に消えた。
戦場となったルックウッド邸は、その凄まじい戦闘によって跡形もなく焼け落ちた。
それだけではない。その周囲すらも何十メートル四方にも渡って、黒焦げの焼け野原となった。
ムーディの記憶の中でもトップクラスの凄まじい戦いであった。
「あの日も風の強い嵐の夜だったな。やはり、こういう夜は亡霊共が騒ぐ」
下界で吹きすさぶ嵐。
古ぼけた戸がギシギシと不気味に震動する。
ヒューヒューという風の音は、まるで亡霊達が恨み言を言っているようだ。
耳障りではあるが、それが連中の未練から来る叫びならいつまでも聞いていられる。
「好きなだけ吠えるがいい。どのみち儂やダンブルドアの目の黒いうちは、お前らの野望は現実化しないのだから」
自分達がいなくなった後はわからないが、その時はもはやムーディには関係のないことだ。
誰にも分からない未来など興味はない。
よしんばヴォルデモート卿が復活したところで、ムーディは既に次世代の種を撒き終えている────それも特大の。
いっそ才能の暴力といっても過言ではないあの少女が、闇の帝王にどう抗うのか。
それ思い描くと若干愉快であり、ムーディは掠れた声で高笑いを始めたのだった。
──────……
コーバン・ヤックスリーには長年連絡がつかない用心棒がいた。
今現在、彼が失踪して凡そ十年ほど経つ。
別にそれ自体は特に問題は無い。
連絡がつかない理由は風の噂で耳にしているし、その壮絶な最期を聞いた時は、ここまで愚かな男だったか、と最早感心しながらも鼻で笑ったものだった。
……そう。問題なのは
問題なのは、そんな用心棒がちっとも悪びれた様子もなくヤックスリー邸に十年ぶりに現れた事だ。
嵐が吹き荒ぶ深夜。
人間は勿論、草木も眠るような時間帯にヤックスリー邸の門を潜った者があった。
複数のまったく違う鍵をかけた自慢の玄関。
コーバン・ヤックスリーという男は今までの経歴上、色々な恨みを買っている。
その為、館の顔とも言える玄関には、幾つもの防御魔法がかけられていた。
勿論、簡単な解錠呪文など無効にする。
だというのに、そんな館の鍵がゴトンゴトン……ガッチャリ!! という音と共に無情に外された。
「メメント・モリ」
そんな言葉と共に、玄関の向こうから姿を現した人物を一言で表すとするならば、”黒ずくめの男”という言葉が一番しっくりくるだろう。
闇のような黒の神父服に、足下まで伸びたドス黒いロングコート。
濃厚な死の香りがする。
夜の闇も相まって、まるで死神のようだ。
「……我を死から遠ざけよ」
内心驚愕しながらも、出迎えたヤックスリーは表情だけは何とか取り繕って合言葉を返す。
メメント・モリ……昔から”ある組織”で使われている符合だ。
新興の闇の魔法使いからなる秘密結社。
不死の知識の究明を目標とし、多くの謎をヴェールの向こうに隠した集団。
その手は広く、同胞の死喰い人達ですら一部のメンバーはヤックスリーのように二足草鞋をやっていた。
その合言葉を知っているという事実が、目の前の存在が幻覚や変身術で化けた類ではないと証明している。
「おや? 酷い顔をしてんなぁ。まるで亡霊でも見たような顔だぜ、ヤックスリーさんよ」
目深に被った黒のシルクハットを人差し指で上げた男は、ヤックスリーに笑いかける。
ざんばらの黒髪から覗く細い糸目は懐かしくも恐ろしい。
苦虫を噛み潰したような顔を隠しもせず、ヤックスリーは静かな声で訊ねた。
「何故、今になって現れたのかね……ロジエール」
「なぁに地獄には大した遊び相手がいなかったもんでねぇ。寂しさの余りに戻ってきちまったよ」
エバン・ロジエール。
無杖の魔法使いと呼ばれたかの魔法使いの最期は有名だ。
当時、幾つもの証言と関係者に持ち出された証拠により、ルックウッド邸が死喰い人によって”亡者”の製造に利用されている事を突き止めたアラスター・ムーディは、当時、魔法法執行部部長だったバーテミウス・クラウチ・シニアの許可の下、強引な家宅捜索に踏み切った。
恐るべき事に、こじんまりとしたルックウッド邸は一個中隊規模の魔法警察に囲まれたらしい。
鼠一匹逃げられなくなった包囲網、不幸にも館に居合わせたロジエールとその他の愉快な同胞達は徹底抗戦を決意。
その全員が突入してきた最上級闇祓い達と戦闘になり、壮絶な死を遂げた。
ロジエールも多くの闇祓いを屠り、アラスター・ムーディの片目と鼻の一部を奪うほど暴れ回ったが、多勢に無勢。
最期は悪霊の火によって骨まで焼き尽くされた筈だ。
だというのに今の彼からは、火傷の跡はおろか傷跡の一つも見つからない。
十年前と何ら変わっていない姿のロジエールは、近くにあったソファーにどっかりと腰を下ろした。
「聞いたよ。死喰い人辞めたんだってなぁ。利口な判断だ」
「当たり前だろう。いつまでも難破船にしがみつくほど愚かじゃないさ」
「ははッ! ベラトリックスやクラウチに聞かれたら五体満足じゃ済まない発言だねぇ」
ロジエールは翡翠の双眸を皮肉気に歪める。
確かにそうだ。自分達より洗練された残酷さを見せてくれるリーダーに惹かれた乱暴者共は、かの闇の帝王に惜しみない忠誠を捧げていた。
あの自己愛の化身のようなイカれた快楽殺人鬼の何処が良いのだろうか?
役人気質なヤックスリーからすれば、生まれながらの金持ちの考える事はよく分からない。
「私が死喰い人をやっていたのは、その方が美味い汁を吸えると分かっていたからだ。事実、あの時代に手に入れた人脈や魔法省のちょっとした裏事情は、今の地位を不動のものにしてくれている」
「あぁ。その点に関してはあんたの評価を上方修正しないとなぁ。俺っていう鬼札無しで、よもやここまで出来るとは夢にも思わなかった」
「ははは。それは勘違いだよロジエール。私が変わったのではなく、他が変わったのだ。平和な時代に生きようとする彼らは、殊更に杖を抜くのを躊躇う。大切な者を危険に晒すのを厭う。ヒトというのは予想以上に今ある平穏を維持したいものらしい」
平穏な日常というのはある種の麻痺毒だ。
闇の帝王の崩御から凡そ十年。
多くの闇祓いや魔法省の役人の質は確実に下がった。どいつもこいつも甘ちゃんばかりになった。
嘆かわしい。既存のモラルや人間関係のしがらみに囚われる魔法使いの何と多いことよ。
「クソみたいな平和ボケのお陰で、俺達みたいな人でなしはどの時代でも食いっぱぐれがない。ありがたいことだねぇ」
「その意見には賛成するが何事も限度がある」
現魔法大臣であるコーネリウス・ファッジがまさにそれだ。
これ以上なく無能かつ腰抜けで、とてもではないが魔法省を統べる器とはいえない。
当時の有力な大臣候補であったバーテミウス・クラウチ・シニアの失脚や、アルバス・ダンブルドアの推薦の固辞などが重なった、いわば繰り上がり人事の産物。
小心者で自己保身に走りやすく、権力欲も強いあの男が魔法大臣になったのは、イギリス魔法界にとって近年最大の不幸である。
「おかしな話さ。大臣という肩書きがなければただの愚か者に過ぎない男が、今の魔法省では稀に見る寛容な大人物として名が通っている。愚かな鳥はその巣までも汚す。ヘイウッドの言った通りだな」
「ははは、愚者の生は死より厭わしって感じだねぇ。よっぽど鬱憤が溜まっていると見える」
「その通り。あまりに愚かだと此方の想像もしない馬鹿をやらかすからな」
ワームテールの一件で骨の髄に染み渡るほど理解させられた。
約十年前、シリウス・ブラックに追い詰められた末に行われた偽装自殺。
凡そ、十二人のマグルを巻き添えにして盛大に吹き飛ばした奴は、指一本を切り落として地下水路に逃げ込んだ。
あの鼠のオツムに、そこまで機転を利かせられる中身があったのはヤックスリーにとって少々予想外ではあったが、それはまだ良い。
想像の範疇ではあったし、当時の闇祓いは優秀で、姿を隠した鼠一匹を追跡して殺すなど朝飯前だったからだ。
早々に見つかって奴は殺される。そう信じて疑わなかった。
誤算だったのは、ファッジの阿呆さ加減がヤックスリーの予想の上をいったことだ。
白昼堂々起きた大事件。目撃者のマグルは数知れず。
あの馬鹿な大臣の容量の少ない脳味噌は、マグルの目から奴の偽装自殺をどう隠蔽するかでパンパンになってしまった。
結果だけいうと、無実のシリウス・ブラックは不幸にもアズカバンにぶち込まれ、裏切り者のピーター・ペティクリューは死して英雄となった。
なんとファッジは、起きた事件そのものをよく調べもせずに書類上でワームテールを死人にしてしまったのだ。(しかもマーリン勲章まで授与したらしい)。
まさに無能の大盤振る舞いだ。あまりの馬鹿さ加減にヤックスリーは本気で頭痛を覚えた記憶がある。
(あの時は最悪だった。何もかもが思い通りにいかなかった。鼠一匹にあそこまで頭を悩ませる羽目になるとは)
死喰い人であり、結社の一員でもあるワームテールは、ヤックスリーが結社と死喰い人の二足草鞋をやっていたことを知っている数少ない一人だ。
ただでさえ口の軽い裏切り者、それも長年の親友でも保身の為に売るという折り紙付き。
いつ爆発するか分からない爆弾のようなものだ。
後ろめたい事があるヤックスリーとしては、彼を是が非でもこの世から消さなければならない。
とはいえ闇祓いは動かない。否、動けない。死人を探すほど連中は暇ではないからだ。
無論、ヤックスリーも結社の情報網を使ってワームテールを探索したが、初動が遅れたのが致命的で、その行方は杳として知れなかった。
恐らく地下水路に潜ったままなのだろう、足跡や目撃情報が極端に少なかった。
しかし、だからといってイギリス中の地下水路を探している時間もない。ヤックスリー自身も死喰い人の嫌疑でウィゼンガモット法廷への出廷が迫っていた。
以降、機を逸したまま全ては有耶無耶になり、今にまで至る。
お陰でヤックスリーは、自分の制御下にない所で事態が悪化していくことを殊更気にするようになった。
「まっこと人は疑り深くて小賢しいくらいが丁度良いな。平和ボケが過ぎるといざという時に使い物にならん」
ソファーの上で寝転ぶように姿勢を崩したロジエールが、ニンマリと笑いかけてくる。
「そういえば、昼に
「というと?」
「通りで薄汚ねぇ人攫いが十代前半の小娘を追っかけ回してたんだよ。勿論、周りはいつもの見て見ぬふりさ。当たり前だよなぁ? ああいう闇市場じゃ、隣の便器を覗き込まないのがマナーみたいなもんだし、そんなお人好しは少なくとも彼処にはいやしねぇ」
夜の闇横丁は治安が悪いことで有名だ。
闇の魔術に関する品物を売る店で溢れており、通りには脛に傷のある魔法使いが闊歩している。
そんな場所なので、ロジエールの言うような幼い少女が彷徨くことは自体は稀だ。しかし、起きている事に然程の驚きはない。
「通常なら悪趣味な連中の玩具にされ、遠くない未来に骨粉になる運命だ。でも違ったんだろう?」
「あぁ。人攫いの男は下半身にオツムが付いているような馬鹿だった。普通、闇の売人だったら気がつく筈なんだがねぇ……あのガキ、良く知っている眼をしていた。人殺しを何も躊躇わない奴の眼だ。明らかに堅気じゃねぇ」
ひっひっひっと喉を鳴らすロジエール。
ヤックスリーはそんな彼を半信半疑の目で見つめる。
「ふぅん……まぁお前の勘は往々にして当たるからな」
「大当たりさ。なんとそのガキ、怯えるフリをして人目のない路地裏に男を誘導した。その気になれば撒けるだろうに、わざわざ逃げる速度まで落としてな。そして、獲物が路地裏に入り込んだ瞬間、あっという間に魔法も使わず素手で殺しちまった」
その言葉にヤックスリーは僅かに目を細めた。
短絡的に殺人を犯す割には、妙に手口が
人目のない路地裏に誘き出したやり口もそうだが、杖を使わない殺り方が殊更にそう思わせた。
恐らく”匂い”を気にしてのことだろう。
イギリス魔法省では未成年が魔法を使えば直ぐに分かってしまう。
素手ならば、現行犯でもない限り追跡は困難だ。
何故なら場所が場所なので、死体は直ぐに他の脛に傷のある者達によって隠蔽される。彼らは職業柄少しの綻びでも気にする。
自らに非は無くとも、魔法警察の介入自体を嫌がるのだ。
「そのガキ、どんなガキだった?」
「透き通るような銀髪に、冷たい翡翠の瞳をしたおっかねぇガキさ。転がる死体を石ころか虫を見るみてぇな目で観察してた。ありゃあイカれてる」
楽しそうにロジエールはげらげら笑っている。
よっぽど気に入ったのだろう。彼は人を人とも思わないクズが大好物だった。
とはいえヤックスリー自身も、その物騒な少女の容姿に過去の記憶を少々揺さぶられていた。
────姉と過ごす時間は大事か?
────大事なのもそうだけど、楽しいよ!
(まさか、な)
いつも一緒にいた姉妹。
翡翠の宝石に金の髪、土に投げ出された幼い体躯。
鮮やかに脳裏に呼び起こされるそれを、ヤックスリーは頭を振る事で脳裏の隅へと追いやる。
「ロジエールよ。これからどうするつもりだ」
「それはこっちの台詞。言っておくけど、ここ数年内に
「さてね。まぁ殺されはしないだろう。ルシウスや私のような立場の死喰い人は、一時的に地位を追われかねないだろうが……結局は杖や忠誠よりも金や利権が物を言う。抜け殻のような魔法省。神輿のような魔法大臣。それを動かすのに我々の力は必要不可欠だからな」
やれやれとヤックスリーはため息を吐いた。
どいつもこいつも間抜け面を下げて、平和を勝ち取ったとただ笑っている。
今の魔法界が緩やかに死に向かっている事は何も変わらないというのに、水面下の危機に誰もが気付かず踊っている。
「”R”はなんと?」
「現状維持。大河は荒れども流るるままにせよ、これが結社の総意だ」
ふぅん、とつまらなそうにソファーに横たわるロジエール。
その視線は窓の外、吹き荒ぶ嵐夜へと向けられている。
「まずは全て嵐が過ぎてから、か」