高校3年生、夏。
トモちゃんの幼馴染、光(ひかる)は夏の間だけ女の子になる。
夏休みも終盤、受験勉強に励む彼らに、ちょっとした関係の変化が……

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光くんちゃん:夏の間だけ女の子になる茶髪ショートカットTSっ娘。英語以外の勉強はできるけどちょっとおバカな思春期の少年性癖絶対壊すマン。おっぱいは大きめ。クソTシャツが好き
トモちゃん:光くんちゃんの隣に住む男の子。色々拗らせ気味のムッツリ捻くれボーイ。最近男状態の光くんちゃんでもいいかなと思い始めてる


思えば彼女は

 夏だった。

 

 夏が来ると、幼馴染の(ひかる)は女になる。

 

 理由は、よく知らない。

 

 光とは幼稚園から一緒にいたけれど、これまで原因とか聞いたこともない。たぶん、聞けば教えてくれるのだろうけど、今の今までなんとなくその気が起きなかった。

 いや……一度聞いてしまったら、タチの悪い冗談みたいに彼女がいなくなってしまうのではないかと恐れていたのかもしれない。

 

 

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

「暑いなあ……」

 

 少し目を上げれば、光の薄く開かれた唇から愚痴が漏れるように吐き出されていた。

 図書館の隅、丸テーブルの向かいに座る光は「暑い……夏だもんなあ、暑いよなあ」と囁き声で繰り返している。そろそろ夕方と呼んで差し支えないほどの時間のうえ、エアコンが効いている室内だが、彼女にとっては少し物足りないらしい。手のひらで顔を扇ぎながらノートを埋める光の、女になって細くなった首筋に汗が伝うのが見えた。

 

「節電節電ってうるさい世の中だもんな」

 

 多分、設定温度が高いのかもしれない。俺がそう相槌を返せば、光は「でもさ、コンビニとかはキンキンに冷えてんじゃん」と口を尖らせた。

 少しクセがあるものの、艶やかかつ柔らかそうな栗色のショートヘア。同級生の女子が言うには()がよくないと似合わない髪型らしいが、昔から活発な光にはよく馴染んでいると思う。そんな彼女はううむと唸ると、なにか重大なことを思慮するかのように腕を組んだ。すると、宇宙をバックに猫を合成した柄のTシャツの胸元が腕組みによって強調される。もともとそれなりに、いや、平均以上にはあるふくらみが、グッと。

 

「……コンビニと図書館じゃあな。違うんだろ。色々と」

 

 俺は主張の激しいソレを、意識して無視しながら答えた。

 そう。そもそもコンビニなどの商業施設と図書館のような公共施設を同じ土俵で比べる方がおかしいのだ。人の出入りの頻度や、扱っているモノの違い。様々な要因が重なりあってコンビニはキンキンに冷えているのだろう。そうに違いない。

 俺はこの瞬間、生まれて初めて真面目にコンビニの空調に関して思いを巡らせた。

 

「そっかあ」

 

 光は力の抜けた声をあげると、腕を解き椅子の背もたれに身を預けた。理解はしたものの、納得はいっていないのか、彼女はシャープペンシルのキャップ側でこめかみを押さえつけながら暑そうにシャツの襟元をパタパタとさせる。

 

 ——その動きで、わずかに周りの空気が動いた気がして。

 

「っそんなもんなんだろ」

 

 俺はハーフパンツの上から己の太ももを抓って、努めてぶっきらぼうに返事をした。

 

 痛みに耐えるのと目の前の彼女から意識を逸らすため、俺は少し大げさに、棚に並ぶ背表紙へ視線をやった。色もデザインもバラバラな本たちが、ジャンルや著者名といったカテゴリーで整列して肩を寄せ合っている。古く退色したものもあれば、まだ真新しい艶を纏ったものもある。咄嗟に目を背けた結果だが、俺の胸になんとも言えない郷愁のようなものが流れ込んできた。

 

 高校最後の夏休み。

 その言葉の重みがのしかかる。

 

 俺たち二人は、希望進路が違う。

 お互い進学のつもりだが、俺は文系で光は理系。

 俺は地元の大学を、光は東京の大学を志望している。

 

 幼稚園から続いてきた俺たちの時間も、今年で終わりだろう。来年の今頃は、お盆で帰省した光と会ったりしているのかもしれない。漠然と、東京で数ヶ月を過ごした光は垢抜けているんだろうななんて妄想してしまった。

 

「あーもうダメだ、英語マジでわかんね。なあトモちゃん、ここのザットってどういう意味? なんでこんなとこにいんの?」

 

 俺の脳内に現れた、都会によって洗練された彼女とは程遠い、夏の間ヘビーローテーションしているせいでヨレヨレになったシャツを着た現実の光が参考書を向けてきた。そんな彼女は右手に持ったシャープペンシルの先で、文章題の中で丸に囲まれた英単語を指している。

 

「ああ、ええと、なになに——」

 

 身を乗り出して参考書を覗き込んだ時。

 女の子の匂いがした。

 

 

 

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 俺は。

 

 俺は、夏の間だけ会える彼女に、どうしようもなく惹かれていた。

 

 はじめて出会った時から、ずっと彼女に惹かれてたのだ。

 いや、そんな生易しいもんじゃない。有り体に言えば、一目惚れだった。幼児期の可愛らしい思い込みだと己に言い聞かせたこともあったが、どうにもその直感を覆すことは今までできていない。なにせ、季節が巡る度に深く、強く思い知らされるのだ。俺が、どれほど夏に焦がれていたのかを。

 

 

 

 光は、まだ幼稚園児だった頃に我が家の隣へ引っ越してきた。引っ越しには少し珍しい、真夏のタイミングだったからよく覚えている。その後、我が家に挨拶にやってきた時、おばさんの陰からはにかみつつ自己紹介をしてきた彼女を一目見て、俺は生意気にも天使が現れたと思った。

 

 家が隣で同い年となればすぐに仲良くなって、よく遊ぶようになった。しかし、夏が終わって『男に戻った』光と会った時はめちゃくちゃに取り乱した。俺は勝手に裏切られたような気持ちで、ちょっとの間絶交状態になったものの、どっちの光も、光であることに変わらないと気がつくと自然とまた遊ぶようになった。

 幼い頃なら、それでよかったのだ。夏がくる度に彼女に覚える執着も、喜びにも特別な名前なんて付いていなかったあの頃なら。

 

 

 

 今となっては記憶に靄がかかってしまい、細かなディティールを思い出すことは叶わない。だが、あの光景だけは強烈に焼き付いてしまっている。

 

 ——日本人としては明るい、すこしクセのついた髪に、丸い泉のような双眸。そして真夏の蝉の大合唱の中でも、しっかりと耳に届いた小さな声が、俺の脳裏から剥がれることはなかった。

 

 

 

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

「……トモちゃん、生きてる?」

 

 ん、ああ。

 

「ごめん、意識飛んでたわ」

「マジか、やばいな。でも実はオレも限界。もうさ、今日はいいんじゃねえかな?」

 

 彼女は予想よりも近い位置でニカっと破顔すると、ノートや参考書をいそいそと閉じた。

 問いかけのかたちを取ってはいるが、どうやら本日はもうおしまいのつもりらしい。

 

「そうすっか」

 

 光は小さく舌をだして「帰んべ帰んべ」と呻きながら、口調と裏腹な機敏さで帰り支度を始めた。机上に広げたものをざばっとデイパックに突っ込むと、すっくと立ち上がりそれを背負う。ミリタリー風の、オリーブ色のショートパンツから覗く健康的な足が眩しい。俺も無駄に大儀そうに立ち上がると、胸を張るように背筋を伸ばす彼女を一瞥してリュックを肩にかけた。

 

「そういやトモちゃんはガリガリキッズなら何味派?」

 

 光は鍔が真っ平らになっているキャップを被りながら、なんてことのない質問を投げかけてきた。

 

「俺? ええと、やっぱソーダかな」

「王道だな。コンビニ寄ってこうぜ」

 

 小柄な光は、丸い瞳を上目遣いにしてそう言った。近頃では、夏以外——男の時——の光にもグッときてしまうことが多々ある。こいつは、男としても小柄だからな。きっと無自覚なんだろうが、そういう所作は大変俺の心に悪いから控えてほしい。

 俺はにわかに騒ぎ出した胸の内を表に出さないよう「いいね」と答えて、立ち並ぶ書籍棚の間を出口へ歩き始めた。

 

 急に汗ばんだのは、たぶんエアコンの設定温度のせいではないだろう。腕時計のベルトが蒸れて気持ち悪い。俺は、どうかこんなキョドりがちな自分に気づいて欲しくないなと、歩調が早くなってしまっていたようだ。

 

「ちょ、ちょいまって。どうしたトモちゃん?」

「……あ、ごめん」

 

 カーペット敷きの床をサンダルが叩くパタパタという音を立てて、小走りの光が俺の隣に並ぶ。

 俺と歩調が合わないことを気に病んでいるのか、にへへと申し訳なさそうに笑いながら顔を覗き込んでくる。俺は彼女にそんな顔をさせてしまった胸の痛みと、あんまりにもダサすぎる自分の行いを恥じ、歩を緩めた。

 

「悪い。ちょっと考え事してた」

「あんまり考えてばっかだと抜けるぞ。髪が」

「その程度で抜けてたまるかよ」

 

 そんなやりとりを交わしつつ図書館から出れば、燃える様に色づいた特盛りの入道雲がところどころに浮かぶ青空が広がっていた。俺たちはとある地方都市の、日本中どこにでもあるような住宅街に住んでいる。特に高い建物に邪魔されることのない空は広い。しかしその空は飛行機雲によっていくつかの領域に区切られている。それに、出来てから時間が経った飛行機雲のようだ。伸びきった麺料理みたいに腑抜けた輪郭がみっともない。

 

 すでに日は傾いてきているが、呼吸をするのにも体力を使うような炎天下。数時間冷房にさらされてきたせいで怠けていた、体温の調節機能が急ピッチで仕事を再開し始めた。

 頬を撫でるあつい風は、熱せられた埃の匂いと草いきれ。

 

「んああ〜っつい……」

 

 どちらかともなく呻いた。

 横目で光のことを伺い見れば、すっかり目が死んでいる。

 

「早いとこ、コンビニ行くか……」

「うん……」

 

 俺は一言そう声をかけると、綺麗に整備されている図書館の敷地を横断すべく足を踏み出した。

 

(これ、舗装が白いから照り返しやばそうだな……)

 

 木陰のベンチで休憩している、まだ幼い子供を連れた親子を眺めてそう思う。実際に、ハーフパンツだから、地面から立ち上る熱気が直に伝わってくる気がする。背の低い子供だったら、全身でそれを受け止めることになるだろう。

 

「せっかくだし川から行こうぜ」

 光が親指で道の奥に見える堤防を指差した。俺たちの住む街の中央には小さな川が一本流れていて、その流れが街並みを二分している。家と図書館はちょうどこちら側だが、最寄りのコンビニは途中の橋を渡ってすぐのところにある。そのため、光は川沿いを歩いて行こうと提案しているのだ。

「そうだなあ」

 俺もその意見に異論はない。堤防の上なら、少し風が通るから気持ちも良さそうだ。俺たちはねっとりまとわりつく熱気から逃げながら道を通り抜けると、競うように川沿いの堤防を駆け上った。

 

 確かに、平地よりは空気が動いている気がする。あっという間に汗をかいた脚や腕が心地よい。

 二人で、幾度も歩いた小径を、ふざけ合いながらゆく。

 

「昔よくこの川でザリガニ獲ってたよなあ」

 

 光が、渇水状態で細くなった流れを見やって呟いた。釣られて俺も川面に目を向ければ、こんもりと植物が茂った河川敷の向こうに、イマイチ覇気の感じられない流れがのたうっている。しかし、光の表情は明るい。真っ平らなバイザーの帽子の下、くりくりとした目を細めて、何を見ているんだろう。

 

 また一筋、彼女の首筋を汗が伝うのを見て、俺は懐かしい思い出を一つ引っ張り出した。

 

「虫カゴとか持ってなくて、石で作った囲いに入れてたらカラスに食われてギャン泣きしたよな、光」

「そんなこともあったなあ、懐かしー!」

 

 彼女は思い出のエピソードに吹き出すと「あんときはバカだったもんなあ」と笑いながらシャツの袖を捲り上げた。弾かれる光の粒子すら錯視するように白く、スレンダーながら丸みをおびた肩が露出する。反射した日差しがひどく眩しい。

 

「日焼け止めは?」

 

 光は名前に対して日焼けに弱い。いや、名前に対してというのは少し悪意があるかもしれないが、特に女性状態のときはかなり防御力が高い日焼け止めを使わないとすぐに真っ赤になってしまう。

 それなのに、必ず一年に一度は油断して痛い目を見ているから救えない。

 

「もう夕方だしよゆーっしょ」

「俺知らねえからな」

 

 舗装を犯す勢いの青々とした植物の呼気と、乾いた藻の匂いを孕んだ風が俺たちの笑い声をどこかへ運び去る。

 

「そういや夏期講習、どうだった?」

 俺はふと彼女へ、数日まで行われていた予備校の様子について尋ねた。五日間とはいえ、最も親密な友が不在だったのだ。

「ああ。クソつまんなかったわ、アレ」

「予備校につまらんも楽しいも無いだろ」

「でもなあ。キモいやつにナンパされるし、結局英語ヤバイまんまだし……」

 

 いじける様に唇を尖らせた光が、両腕を頭の後ろで組む。

(ッ!?)

 光は丁度、Tシャツの袖を捲り上げていたから。まったく日に焼けていない、彼女の無防備な部分を目の当たりにしてしまった。

 咄嗟に視線を逸らすが、目の底に先ほどの光景がこびりついてしまっている。

 そのせいで、光が『ナンパされた』という不愉快な事実が霞んでしまった。

 いや、正直光がナンパされたなんて冷静ではいられない。いられないが、俺としては間近で目の当たりにした脇の衝撃が強すぎる。……え、光、ちゃんと処理してんの? もしかして生えない体質……? いや、ダメダメだな。思考回路が完全にムッツリスケベのそれだ。これはいかん。夏期講習のせいで急激に接触が減ったからか、光に対する耐性も減ってしまったのかもしれない。

 

「はーあ。ぼちぼち夏休みも終わりかぁ」

 

 俺が勝手に錯乱状態に陥っていると、光が気落ちした声音でそう言った。

 ひび割れた舗装に転がった小石を蹴飛ばすと、彼女は俺の少し前に出て「トモちゃんはなんかイベントあった? 高校最後の夏休み」と体を反転させて問いかけてきた。

 

「イベントね……特に何も無かったな」

 

 残念ながら、特に思い浮かぶ様な出来事はない。もともと帰宅部だったし、ほぼほぼ受験勉強に費やしてきた。まあ、息抜きに友人たちと遊びに出かけたりもしたので、そこまで息の詰まるようなものではなかった。

 

「うーわ寂しいヤツ。なんかこう、青春! みたいな甘酸っぱいのとか無えのかよ」

「いいの俺は。大学に全て賭けてるんだから」

 

 甘酸っぱいのときたか……。今目の前で悪い笑みを浮かべている子に、長いこと片想いし続けているというのはどうだろう。まあ、このことを本人に伝えるつもりもなければ、度胸もない情けない俺だ。そういった青春の一ページのような情景とはとことん縁がないだろう。これまでも、これからも。

 

「そういうヤツ絶対(ぜってえ)大学でも日和って何もできねえヤツだぞトモちゃん……」

「おおん?」

「大体なあ、トモちゃんはさあ、す、好きな人一人でもできたことあんのかよ」

 

 光は器用に後ろ歩きを続けながら、何とも言えないニヤケ顔で追撃してきた。なんだ、珍しい話題の展開だ。こういう時用の回答を用意していなかった俺は、無意識に左斜め上に視線を泳がせると、なぜだか湧き上がった反骨心みたいなものと一緒に口を開く。

 

「あ、ああ? い、いるが? それくらい……」

「へえ? ほぉん? 誰よ? フー(Who)?」

 

 するとどうだろう。一音発する毎に歩幅を緩めた光が、俺を下から睨み上げるように追求してきた。

 

「あ? ……誰でもいいだろ」

 

 急に距離を縮められたことにたじろぎながら、なんとか答える。

 

「ほおん? まあ、深くは聞かないでやるよ」

 

 どうやら、俺の苦し紛れはお気に召したようだ。光は再び悪い笑顔に戻ると、俺と肩を並べて歩き始めた。

 

「くそぉ。なんだよ光がこういう話すんの、調子崩れるわ」

「夏だからなあ!」

「……訳わかんねえ」

 

 

 

 

* * * * *

 

 

 

 

「あれ、車ないじゃん」

「お、マジだ。……あ、連絡入ってた」

 

 しばらくコンビニで涼み、アイスを食し飲み物を買って帰宅してみれば、母親の軽自動車がなかった。どうやら、歩いていたせいでスマホに入っていたメッセージを見逃していたようだ。

 

「なるほど。なんか婆ちゃんからスイカ取りに来いって連絡あったらしい。あと、今日は夜まで帰ってこないってさ」

 

 同じ県内に住む母方の祖母は趣味で畑をやっていて、定期的に採れた野菜などを取りに来いと連絡をよこす。自動車で片道三十分ほどの距離だが、呼び出されると決まって何かしら引き止められるから、俺は少し苦手だ。母からの連絡にも、今日は少しかかりそうだとある。

 

「光ん家はどんな感じ?」

「オレん家? 今日も遅いから適当に食っとけって」

 

 光の両親は共働きで、繁忙期になると夜遅くまで帰ってこないことも多い。どうやら、今日もそうらしい。彼女は半ば諦めた様に手のひらを顔の前でヒラヒラとさせた。

 

「そうだな……適当に作るから食ってけよ、晩飯」

「お、マジで? いいの? 親父さんは?」

「構わんよ。親父は今日遅番だし」

「マジか。じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 

 トモちゃんの飯うまいからなあ、とむず痒くなる様な事を言いながら、無防備にシャツの裾をパタパタとさせる光。そんな彼女を横目に、玄関横に置かれたプランターの中から鍵を取り出す。

 彼女がシャツの裾をつまんで前に引っ張る度、背中に下着のカタチが浮かび上がる。

 俺は、この目に映った物を脳みそで認識しないよう無関心装いながら、玄関を解錠して光を先に招き入れた。

 

「ん」

「お、さんきゅ。おじゃまー」

 

 自分の家のようにサッとドアを抜けた光に続いて玄関に入れば、先にサンダルを脱いだ彼女が膝をついて脱ぎ去ったそれを揃えていた。下を向いた彼女の首元、緩くなったシャツの襟ぐりから、二つの膨らみが——

 今日で一体何度目だろう。俺は片足を軸に百八十度回転して、その勢いのままドアを施錠した。

 

「なにそのターン」

「……ダンスでも始めようと思ってな」

「ぜってえ嘘」

 

 背後から、彼女の笑い声と小さな衣擦れが聞こえた。俺は小さくため息をつきながら鍵を玄関ドアに貼り付けてあるフックにかけ振り返る。

 すると、片方の足に体重を乗せ、腰に手を当てて立つ光がなんとも言えない表情でこちらを眺めていた。

 

「……なんだよ」

「いいやー、別に?」

 

 俺が片方の靴を脱ぎかけた状態のまま固まっていると、彼女はフンス、と鼻から息を吐き出して廊下の奥へ歩みを進めた。

 

「おいおい、なんだよ」

 

 なんとなく、そっけない態度が気になった俺は急いで靴を脱ぎ彼女のあとを追った。

 

「まだ飯まで時間あるよな? ちょっち遊ぼうぜ」

「え、ああ。じゃあ、俺の部屋行ってて」

「ういー」

 

 確かに、まだ夕食を作り始めるには少し早い時間だ。それに、さっきアイスを食べたばかりで、まだ他の食べものの事を考えたく無い気分でもある。

 俺は今のうちに母親へ、夕食は適当に作って食べてる、光も一緒にいるというメッセージを送っておく。無事にメッセージが送信されたのを確認すると、ぺたぺたと短い廊下を進み、二階への階段に向かう。

 

 すると、先に俺の部屋に向かっていたはずの光が、階段の途中で突っ立っていた。

 

「おおう。どうした?」

「えっ、いや、考え事」

「ハゲるぞ」

「ハゲませんがぁ?」

 

 図書館でやられたことの意趣返しだ。したり顔で先を行く光を見ていると、彼女は脇の下から俺を睨みつけ顔をイーッとした。これで高校三年生なのだ。あまりに子供じみた反応が愉快で、思わず吹き出してしまう。

 

 それにしても、なんかこいつ無駄にゆっくり登ってないか?

 

 普段なら一瞬なはずの階段が、嫌に長く感じる。古い壁紙と木、湿気の籠もった匂いの中に、どこか甘いような香りが混ざる。ゆっくり、足を進める度に、鼻先をかすめて行くそれが俺の思考をかき乱す。

 

 地味ーな嫌がらせか? 頭の隅に、光を非難するような考えが生まれた。

 しかし、彼女がそんなことをするメリットや動機が思い浮かばない。俺は一度足元を見ると、頭を二度小さく振ってつまらない考えを捨て去った。

 

 そして、そんなことをしていればすぐに俺の部屋にたどり着く。豪邸でもないただの古びた一軒家だ、極端な牛歩戦術でも使わない限り室内の移動に時間は必要ない。たぶん、光も暑過ぎてハキハキと動く気力が無かっただけだろう。

 

 

「どうぞいらっしゃーい」

 

 光が俺の部屋のドアを開け片手を腹へ、もう片手を部屋の中へ向け、畏まったフリのおどけたポーズを取った。

 

「俺の部屋でお前がやる意味よ」

「アッハハ。いいじゃんよオレがやったって」

「訳わからん」

 

 俺は、親友に招かれるまま自室に入るという、微妙に腑に落ちない経験をすることになった。

 

 そして、日中締め切っていた俺の部屋はムッとする不快な空気が満ちていた。これなら横着して網戸のまま出ればよかったと後悔しながら、東と南向きの窓を開け放つ。

 すると停滞していた室内の空気が風に押し出されて、首筋の汗を冷やしていく。

 

「部屋ん中クソあっちいの勘弁してほしいな」

 

 俺は風に乗ってやってきた蝉の大音声をバックに、光へ愚痴をこぼした。

 

「確か今日、今シーズンでいっちゃん暑かったんでしょ? 勉強してる場合じゃねえよなー」

 

 光は相変わらず無防備にシャツの裾をバタバタとさせて、テーブルに置いたコンビニの袋からペットボトルのコーラを取り出し笑った。すっかり汗をかいたボトルを手で拭った彼女は、しばしキャップと格闘すると「トモちゃんヘルプ」といって俺にそれを手渡してきた。

 

「貧弱貧弱ゥ」

「うーるーせっ」

 

 自分のベッドに腰かけた俺は黒い液体が満ちるそれを受け取ると、大した苦労もなく開封した。赤いプラスティックのキャップから気体の抜ける軽やかな音が響いて、少しスパイシーな香りが俺の鼻先を掠めた。

 

「あいよ」

「サンキュ」

 

 一度軽くキャップを締め直したボトルを光に手渡すと、彼女はニパっと破顔して、そのまま飛び乗るように俺の隣に腰を下ろした。

 

 シングルのマットレスが、不満げに軋む音をスタッカートで奏でた。

 

 ——どうしてわざわざ隣に。

 

 そう思ったのも束の間、光は開けたてのコーラを存分に喉で楽しんでいた。すでに西に傾いた太陽のせいで嫌に薄暗い部屋の中、彼女の白っぽい喉元が脈動している。

 それを眺めていると、どうしてだかひどく俺の喉が渇いた。

 たぶん、彼女の飲むコーラが羨ましいだけではない。女になって細くなった首筋が露わになって、俺の深いところの欲求が刺激されたのかもしれない。そんな邪な感情、光には抱いていけないと思いつつも、彼女の体温すら感じられるような距離感に生唾を飲み込まざるを得なかった。

 

「ぷっはー! ……飲む?」

 

 光が目を細めて感想を述べると、フリーズ状態だった俺の意識が回復した。

 

「ん、ああ。一口貰っていいか?」

「どうぞどうぞ」

 

 無造作に手渡されたボトルを、俺は無意識に受け取り、口元へ運ぶ。

 ひどく喉が渇いてる。

 開封直後のインパクトは薄れているかもしれないが、甘さと炭酸の泡が弾ける刺激はさぞかし心地いいだろう。俺は若干焦るようにその液体を喉へ流し込んだ。

 

「んん。ありがとな、俺もコーラ買えば良かった——」

 

 口の中の液体を嚥下しつつキャップを締め、光の元にボトルを返しながら礼を述べた時。すぐ隣に座る、意地悪そうな目をした彼女を目の当たりにした俺は口籠ってしまった。

 

 獲物を狙うような面持ちをした光の唇が薄く開く。

 

「これってさ、間接キスだな」

 

 彼女はほくそ笑みながらそう言った。

 

「い……いや、そんなの気にするような仲じゃないだろ、俺ら……」

 

 彼女の言っている意味はわかるが、その心理が分からない。

 今まで飲み物を分け合った事なんて何度もあるのだ。それこそ、季節が()であっても。

 

「なあ、トモちゃん……」

「……なんだよ」

 

 薄暗がりの部屋を背景に、彼女の白目がぬらりと光る。

 けたたましい蝉の鳴き声が、妙に気に障った。

 

「キス、できる? オレに」

「な……はあ? ひ、光に!?」

 

 何を言っているのか。

 

「無理に……決まってんだろ、男同士で……」

 

 ふざけているのなら、こんな残酷なことは今すぐやめてほしい。

 

「嘘つけ。トモちゃん、オレのこと好きなくせに」

 

 わずかに高く感じる声のトーンで、彼女は俺の胸の内に仕舞っていた感情を言い当ててしまう。

 その言葉を噛み砕いた俺の、身体中の汗腺がフル稼働して、汗が滝のように吹き出すのを感じた。

 

「……あ? なんだそれ、ふざけてんの? 笑えねー」

 

 喉が乾きまくる。言葉を紡ぐ度に、自分自身の心臓に釘を刺すような思いだ。

 俺のうなじに、嫌な汗がヌルリと流れ落ちる感覚がした。

 

「無理、すんなよ」

 

 今度は寂しげな色を纏った声音で呟いた光が、ずいっと、横座りのまま俺に迫る。彼女の吐いた息が、俺の二の腕に当たる。

 

「オレだって、友宏(ともひろ)のこと、結構好きなんだぜ?」

 

「な、なあ。ほんとうに、冗談なら今すぐやめてくれ……たのむよ……」

 

「いやだ」

 

 駄々をこねるような、冷たいような声色がして。

 さらに二十センチか、十センチか、光が迫った。

 ついに、むき出しの腕が触れ合い、ついに光は俺の太腿に跨った。俺の両手の上には彼女の手が重ねられていて、まるで恋人同士が乳繰り合っているような格好になる。

 

「ねえ、トモちゃん。オレって、気持ち悪い?」

 

 彼女は一言一言区切る様にそう言いながら、細く白い手のひらで俺の顔の輪郭をなぞっていく。身体中、そこかしこから伝わる熱いくらいの体温に、俺の思考はあっという間に霧散してしまう。

 

「……そんなわけないだろ」

 

 自分でも驚くくらいに掠れた声で、なんとかそれだけ絞り出した。

 そして、俺の言葉を聞いた光は、とても悲しそうに顔を歪める。すこし、俺の顔を包む指先に、力がこもるのを感じた。

 

 

「オレは、自分が気持ち悪い」

 

 

 いつのまにか光と俺の、額と額が触れ合っていた。

 

 長いまつ毛に縁取られた、冷たい水を湛えた泉のような双眸。その虹彩の、網目のような、険しい山嶺のような模様すら見える距離に、彼女がいる。もはや、触れ合っていない身体の部位からも、空気を隔てて体温が伝わってくる。

 

 

「だからお願い」

 

 

 何の?

 

 俺の唇には、そう聞き返す猶予すら与えられなかった。

 

 幾度も繰り返した妄想より、はるかに柔らかな感触。

 さっき飲んだコーラの味。

 鼻腔いっぱいに広がる、生きた彼女の匂い。

 互いの唾液と、ちょっとの二酸化炭素を交換しあう。

 

 

 俺は妙に冷え切った頭の中で、己の五感が伝える情報を持て余していた。視野の大部分を占領する彼女に、しなやかな髪の毛越しに見える見慣れた天井と明かりの灯っていないシーリングライト。そのどれもが、具体的な意味を成さない。

 光は何かに祈るようぎゅっと目を閉じ、彼女の細い腕は俺の首に回されていている。時たま強く吐き出される息に甘い色が混ざり、意外なほどに肉感のある四肢は俺にすっかり委ねられていた。

 

 なぜか、俺は、それがひどく悲しかった。

 心の底から、こうなりたかったはずなのに。

 よくわからない悲しみのような、虚しさのような感情が渦巻いて、彼女に触れることすらできなかった。

 

 

「んっ……ん……と、トモちゃん?」

 

 俺の異常に気が付いたのか、光が唇を離し、怯えたような表情で言葉を紡ぐ。

 

「光……おまえは、こんなことがしたかったのか?」

 

 我ながら、何の感情も乗っていないような声だった。喉から放たれた音が、たまたま意味のある音の羅列になったような。

 今、俺はどんな顔をしているのだろう。朱の差した頬のせいか、いつにも増して魅力的な光の視線が逃げるように泳ぎだしていた。

 

「そう、だよ? オレ、オレは、トモちゃんと、こういうことが、したかったよ、ずっと。……オレじゃ、だめなの? もしかして、嫌だった? オレが、気持ち悪いから?」

 

「ちがう。気持ち悪くなんかない」

 

「じゃあ、どうして……どうして触ってもくれないんだよ……」

 

 彼女の瞳から涙が溢れるのと、か細い声で「オレがバケモノだから?」と呟いたのはほとんど同時だった。

 

「ちがう!」

 

 この時、俺の中にあったのは漠然とした『怒り』のようなものだった。一体、どこのどいつがこいつを泣かせたのだろう。いつだって天真爛漫な彼女を曇らせるだなんて、とんだ不届き者がいたものだ。

 つまり、俺は自分自身に途方もない怒りを覚えていた。それこそ、自分を殺してしまいたいと思うほどに。あんまりにも情けなさすぎて、身体中の血液が突沸しそうになる。

 

「光……俺だって。俺だってな、ずっとお前のことが——」

「じゃあなんで今まで何も言ってくれなかったんだよ!?」

 

 俺の言い分を遮る、悲痛な声が部屋に響き渡った。

 彼女は俺のシャツの襟元を両手で鷲掴みにして、ただただ俯いている。

 どこか遠く、ミンミンと鳴いている蝉の声が、言葉を失った俺たちの間に満ちていく。その能天気な音階が気に触る。溢れ出しそうな衝動の出鼻を挫かれた俺の胸に、情けなさとざわめく不安が綯交ぜになって押し寄せた。

 

 しかし、どんな言葉をかければいいのだろう。無力な俺が沈黙を貫いていると、太腿にぼたりとあつい滴が落ちた。

 

「お、オレ、ずっと待ってたのに。それなのに、もう、高校三年で、さいごっ、最後の、夏なのに……!」

 

 窓の向こう、橙に染まりつつある青空を背景に、光の涙が溢れていた。逆光のその表情は、今まで見たこともないくらいくしゃくしゃで、悲痛な色に塗りつぶされている。

 光はグシグシと涙を手の甲で拭い、言葉を続けようとして唇を開くが、すぐに嗚咽で詰まってしまい意味をなさない。

 

 そんな彼女を目の当たりにした俺は。

 俺は——

 

 

 何も考えられずに彼女を抱きとめていた。

 

 すこしでも、言語化できないこの想いが伝わるように願いを込めた両腕は、情けなく震えていて、うまく力が入らない。俺は、鼻の奥を貫く刺激に耐えるため、みっともない震えを押さえ込むため、きつく奥歯を噛み締めた。

 そして、今度は俺の腕の中に収まった光の、華奢な身体の震えを覚えた。

 

「やっ、やだよっ……」

 

 いつのまにか、俺の腕に収まるくらい、体格に差ができていたんだな。

 長いこと一緒にいたはずなのに、今更そのようなことを実感する。そして腕の中で、光が俺のシャツの布地を握りしめた。それこそ、嵐に怯える小動物のような必死さで、どこかに飛ばされぬよう堪えるように。

 

「オレ……この、まま、終わりたくないよ……」

 

 俺は、酷暑にも関わらずに震えながら嗚咽を漏らす彼女を胸に抱きながら、腹の底になにか煮えたぎるような熱を感じていた。

 

「光……」

 

 気がつくと俺は、無意識のうちに彼女の上半身を覆うように、ベッドへ押し倒してしまっていた。俺の両腕の間で、すこし癖のついた明るい髪が、青っぽいシーツに広がる。

 

 光は、いつも綺麗だな。

 

 涙に濡れた頬を上気させた光の惚けた表情(かお)が目に入り、不思議とそんな感想が頭をよぎった。しかし、視界を占める彼女の領域はすぐにその割合を増す。

 そうして、光との距離がゼロになる。俺の内側に芽生えた熱は、今にも溢れ出してしまいそうだ。それこそ噴火のように、もう喉元まで迫っている。

 

「んんぅ!」

 

 もう、止まることなんてできなかった。無理矢理に唇を押し開ければ、大した抵抗もなく彼女は俺の舌を受け入れる。

 

「んっ」

 

 一度深く舌を伸ばすと、彼女の喉奥から蠱惑的な声が漏れ出る。光のあつい吐息や、柔らかな口内を堪能するたびに、俺の中の火は大きくなって、より深いところに落ちていくようだ。

 五分か、十分か、もしくはもっと短い間か。そのまま溺れるような口付けを続ければ、不慣れな俺たちは息も絶え絶えになってしまい、酸欠に喘ぐようにお互い口を離す。

 

「っはぁ……ん、光……俺だって、なあ。俺は、初めて会った時から、お前のことが、ずっと……」

 

 頭に薄い靄がかかったような、微熱にうなされているような、乱れた呼吸の間で声を絞り出す。

 

「……好きなんだよ」

 

 言葉にしてみれば、なんて短いのだろう。しかし、こんな短いセンテンスを口にするまで、一体どれだけの歳月を要しただろう。どれだけの想いを、胸の奥底にしまい続けてきたのだろう。自分自身のことなのに、待ち焦がれてきた時間をうまく思い出せない。

 それくらい、呆気ない言葉だった。

 

「トモちゃん、ありがと」

 

 見下ろす彼女は、先程までと打って変わって、満ち足りたような笑顔を浮かべていた。涙のせいで赤くなった目元とは趣の異なる紅で、ちいさな耳朶すら染まりきっている。そんな彼女が、ふと視線を下げた。それにつられて俺も顎を引けば、そこには俺のハーフパンツの股間を持ち上げる膨らみが。そして、ちょうど光の太腿へソレを押し付けているような体制だった。

 

「アッ」

 

 反射的に飛びのこうとしたが、いつの間にか縫うように繋がれた手によって押さえ込まれてしまい、さらに俺の分身を押し付けることになってしまう。それでも、光は何も気に留めないように微笑んで、俺の首元に手を伸ばして言葉を紡いだ。

 

「ねえ、夏の間だけでいいから。オレのこと、めちゃくちゃにして、愛して……」

 

 彼女の切なげな声を鼓膜で捕らえた瞬間、俺の目の奥で火花が散ったような気がした。

 

「光っ——」

 

 

 

 

* * * * *

 

 

 

 

「……ごちそうさまでした」

「……お粗末様でした」

 

 簡単な夕食を作り、二人で食べた。あんなことの後だから、如何ともし難い気まずさというか、こそばゆいような空気が満ち満ちている。それに、現実感がなくて、なんだか夢を見ていたような気すらする。しかし、目が合うたびに顔を赤くしてドギマギとしだす光を見ると、あの一時(ひととき)は現実だったのだと実感する。

 

「あ、食器、オレ洗うよ、って(いて)て……」

「い、いや、俺がやっとくから、光は座ってて」

「……うん……ありがと」

「……おう」

 

 立ち上がって食器を運ぼうとした光が呻き声をあげて、股関節を気にかけるような仕草をするから、慌てて静止して仕事を引き受ける。

 ぱぱっと食器をまとめてシンクへ運ぶ。光が使った食器を回収するとき、たっぷりと堪能したはずの彼女の匂いがして顔が熱くなったのを治めるために、気持ちゆっくりと器へ水を張る。

 

 何やらスマホを眺めている光を横目に水道の水を見つめていると「もう母さん仕事終わったみたい」と彼女が呟いた。

 

「そんじゃ、オレ、そろそろ帰らないと」

「おう。あ……お、送ってくよ」

「送るっても、隣じゃん」

「い、いいだろ、隣でも。こ、恋人なんだから……」

 

 帰り支度を整えた光が目を丸くして、一瞬のタイムラグの後けらけらと笑い出した。これでもかなり勇気を振り絞ったひとことだったが、なかなかに手厳しい……。でも、すっかり元の快活さで笑い声を上げる光を見ていると、腹の底にじんわりと温かいものが溜まっていくのを感じた。

 

「そんじゃ、お願いしようかなぁ」

 

 光はとても優しい微笑みを湛えながらそう言うと、俺の手を取って玄関へ歩き始めた。しかし、古くてこじんまりとした一軒家だ。大した歩数もかけずに玄関へたどり着いてしまう。俺はすこしばかりの物足りなさを抱えながらサンダルに足を突っ込むと、光に先んじてドアを開けた。すると、湿潤な夏の夜の匂いが鼻腔へ飛び込んでくる。わずかばかりの庭のどこか、エンマコオロギが鳴いている。どうしようもなく夏だ。

 

「まだ夜でも蒸すなあ」

 光が心底うんざりとした声音でぼやいた。

「そうだな」

 

 小さな庭を抜け、アルミ製の門を開け一度道に出る。そうすれば、すぐにでも光の家だ。なにせお隣さんなのだから。

 俺は小さな光の手を握りながら、隣り合って建つ二軒の家の間を眺めた。駐車場があるから、それなりに離れている様に見えるその空間。これまでは、近くて遠い、俺たちの関係みたいだと勝手に思ってみたりもした。しかし今となっては何も気にならない。むしろ、これだけ近いところに互いを想い合える人がいるのだと証明しているようで、胸の奥がムズムズとした。

 

 光の家は門がなく、ちょっとした階段を上った先に入口がある。俺から手を離した光が、一歩一歩もったいぶりつつ段を上がる。彼女はゆっくりとドアを引き開けるとこちらに向き直り、胸の前で手を振った。

 

「それじゃ、また明日。おやすみ」

「ああ。おやすみ。また明日」

「……ずっと、ずっと夏だったらよかったのにな」

 

 未だ明かりの灯っていない家の扉が閉まる時、光は何か憑き物が取れたような、それでいて疲れた笑顔でそう言った。

 夏休みが、終わろうとしている。

 俺は、空っぽになった右手を握りしめる。

 頭のてっぺんからつま先まで、焦燥感にも似たエネルギーが満ちるのを感じた。

 これだけで、この夏だけで、終われるはずがない……。

 

 

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 リビングから一歩出る。それだけで、近頃厳しさを増した寒さを感じる。冷え切ったフローリングはまるで氷のようだ。俺は足元からやってくる冷気に肩を縮こませながら玄関へ急ぐ。真新しいスニーカーへ足を突っ込むと、さっと靴紐を結んだ。

 夏の終わりに志望校を変えたのもあって、昨夜はそれなりに遅くまで勉強に集中してしまった。それで今少し遅刻しそうになっているのだから、我ながら締まらない……。

 急いで玄関のドアを開けると、鼻の奥がツンとするような空気と朝日が俺を出迎えた。

 

「わるい、お待たせ」

 

 片手を軽くあげて、家の門の前に佇む幼馴染に挨拶する。

 

「遅えよー」

 

「ごめんごめん」

 

「スカート、めっちゃ寒いんだからな」

 

「じゃあタイツくらい履けばいいのに」

 

「生足はJKの特権だぜ」

 

「オッサンくさい言い方」

 

「うっせ」

 

 ()()と過ごす、初めての冬だった。

 もう、夏に焦がれるだけの日々は終わったのだ。

 冬の装いもきっと似合うだろうと思っていた。

 肌を痛いほどに焼く炎天の一日や、茹だるような油照りの昼下がり。鼓膜を震わす蝉たちの大音声を振りほどいて。

 冬の低い太陽を背負った(ひかる)が、天使みたいにそこに立っていた。

 

 


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