「どうした……それで終わる気か?」
朝から続けるよう言われた素振りは夕方になっても終わらなかった。
倒れた勝母の腕と足には、小石の入った袋が二つずつ括りつけられ、背にはまるで一升餅を背負うがごとく、漬物石が三つ入った袋ががっちりと紐でくくりつけられてあった。
その状態で、延々と素振りをさせられていた。
この時、
叔母の
「誰が終わっていいと言った? さっさと立て」
低く、冷たい声に肉親としての優しさは微塵もなかった。
祖母が言っていた。
勝母が赤子の頃、この叔母が抱っこすると、どんなにすやすやと眠っていても大泣きしていた…と。
おそらく、はっきりと自我が生まれる以前から、この叔母の自分に対する冷たさを感じ取っていたのだろう。
朦朧としながら勝母はそんなことを考えていたが、縫は勝母が睨んできたと感じたらしい。
掴んだ髪ごと、頭を床に叩きつけると、立ち上がって、その頭を踏みつけてきた。
裸足だが、修練を積んだ叔母の足は岩のように固かった。
ギリギリと、床にめり込ませようとばかりに、勝母の頭を踏み捻じる。
「師匠を睨みつけるとは、あるまじき弟子だな。え? お前は誰に教わっているのだ? 答えろ。誰だ、お前の育手は!?」
「………叔母…上…です」
「師匠であり、叔母に対してする目か!」
縫は勝母の腹を憎々しげに蹴りつけた。
道場の隅まで吹っ飛んだ勝母は、壁に背中をしたたかに打った後、ベタンと落ちた。
口から黄色い胃液が泡となって出た。苦さと臭気に勝母は顔を顰める。
嘔吐感はあるが、何も出てこないのは朝に握り飯を一つ食べただけだからだ。
「おやめ下さい!」
一方的な叔母の虐待を止めたのは、祖母の代からこの屋敷で働く女中頭の
縫は暗い目で、下から睨めつけるように志摩を見た。
「どけ、志摩。修練中ぞ。邪魔するなと、言うておるだろう?」
「こんなものは修練と申しません! ただの暴力です」
「黙れ! この程度でどうにかなる子供か? そやつは特別な体質を持っていると、貴様も褒めそやしていたろうが!」
「たとえ、勝母様が人並み外れて丈夫で力持ちであったとしても、傷つけていいというものではない!」
「どけ!」
「駄目です!!」
勝母は縫と志摩の言い争いを途中から聞いてなかった。
痛い。踏まれた頭も、蹴りつけられた腹も、打った背中も痛い。
このままでは駄目だ。このままでは、痛いだけ……。
ヒュウゥゥゥゥ……
息を深く吸い込む。
呼吸。全集中の呼吸。心を平らかにして、行えば……痛みも消える。
志摩は縫に向き合いながら、ふと背後から聞こえる呼吸音に「まさか…」と振り返った。
勝母が、床に這いつくばりながらも、呼吸による痛散を行っている。
志摩はゴクリと唾を飲み込んだ。心配よりも戦慄が走った。
この子供は朝から今まで一切休むことなく素振りをした挙句、実の叔母から暴力を受けている。
にも関わらず、まだ立ち上がろうというのか? ただの子供ではないとわかっていても、その体質以上に、不屈の精神力に志摩は目を見瞠った。
ゆっくりと勝母は立ち上がる。
木刀を青眼に構えると、力が出ない腕はプルプルと震えた。
「エイッ! ……エイッ!」
勝母は掠れかけた声で木刀を振る。
チッと縫が大きく舌打ちしていた。
◆◆◆
二年前―――――。
勝母はまだ幸せを幸せと気付かぬままに、享受していただけの子供だった。
「
と、呼ぶのは母。
振り返った勝母を見て、困ったような笑みを浮かべる。
「真っ赤な顔をして…」
言いながら、固く絞った手拭いで汗を拭ってくれる。「一体、どこに行っていたの? 姿が見えないから、心配しましたよ」
「志摩の手伝い!」
「志摩の?」
「腰が痛いというから、車を引いてやった!」
「車?」
首を傾げる母に、蔵から出てきた志摩はハッとしてあわてて頭を下げた。
「も、申し訳ありません。
「いえ、いいのだけど…この子、手伝いなんて言って、迷惑をかけてはいない?」
「いえいえ! とんでもございません!! お屋敷まであと少しという所で、石を噛んで動かなくなってしまって……」
「私がお米の車引っ張ったの!」
「ええぇ?」
母―――結は、思わず大声を上げる。
勝母の言うお米の車、というのは米俵が三俵乗った大八車のことだ。六歳の娘に引っ張っていけるものではない。
「そんな無茶をして……もし、車の下敷きにでもなったらどうするのです?!」
珍しく声を荒げる母を、勝母はきょとんとして見つめた。
手伝ったのに…怒られた。
シュンと肩を落とす勝母を、結が複雑な表情で見ていると、背後から朗々とした声が響いた。
「さすがじゃ、勝母。やはりお主は非凡なる子」
「おばば様!」
勝母が声を上げると同時に、志摩はハッと頭を下げて道を開けた。
結もまたその場で頭を下げる。
勝母におばば様と呼ばれたその白髪混じりの総髪の女は、隻眼の目を細めた。
スタスタと結と志摩の間を抜けて勝母の前にやって来ると、しゃがんでポンポンと頭をやさしく叩く。
「この際じゃ、勝母も遊びついでに修行を始めてみるか?」
「まだ早うございます!」
結があわてて声を上げると、女は肩をすくめた。
「子供など、どうせ近所を走り回っても足りぬほどの力が有り余っておるのだ。まして勝母は尋常の子ではないのだぞ。発散させてやらねば、かえって可哀相じゃ。……のぅ、勝母?」
言いながら、勝母の頭を撫でる。勝母はにっこりと笑って女を見上げた。
誰に教えられるわけでもなく、勝母は老女がきっと凄い人間なのだと感じていた。
まず明らかに醸し出す空気が違う。
歩く時も、御飯を食べる時も、煙管をふかしている時ですら、ピンと伸ばした背筋からは、見る者を圧倒させる何かしらの気が漂っていた。
相対する人間は、その気にたいがい及び腰になり、身が竦む。
しかし勝母にとっては優しいおばば様だった。
その顔には右目を失明させた傷の痕が眉上から頬までざっくりと残っていたが、痛々しさはなかった。
女にその傷を恥じる気配は微塵もなかったからだ。
◆◆◆
この女こそ、花の呼吸の創出者にして、元花柱・
達は、その剣技においても、胆力においても、頭脳の明晰さにおいても、女であることの非力さを補って余りある才能の持ち主であった。
当初、達が柱となっても、一年と持つまいと嘲笑っていた一部の隊士らは、五年を過ぎた頃にはその実力を前に平伏せざるをえなかった。
その頃には、達が柱となった時の柱は誰一人して残っていなかった。
すべてが死亡するか、負傷による引退を余儀なくされていたからだ。
だが、無敵と恐れられた花柱もまた年には勝てない。
己の技に翳りが出てきたことを悟ると、身を引くのは早かった。
既に自分の後継はいる…と安心していたのだろう。
だが、達が期待していた後継は花柱となるどころか、隊士となることすらなかった。
達には二人、娘がいた。
無論、結婚もせず、男から敬遠されていた彼女が自身の腹を痛めたのではない。
達の妹が産んだ娘達であった。
殺伐とした世界に生きる姉と距離を置き、平凡に生きていた妹は、双子を出産後に亡くなってしまった。
娘達の父親は嫁が死ぬなり一月と経たずに後妻をもらうような薄情な男であったので、達が娘達を引取りに訪れると、両手をあげて喜び、その日が初対面にも関わらず双子を譲り渡した。
斯くして娘達は選び取る権利すら与えられないままに、達の屋敷で気づけば継子として育てられた。
それぞれ、結、と、縫、と名付けられた。
結と縫は双子であるにも関わらず、明らかな差異があった。
結は普通に白く柔らかい肌をした愛らしい赤子であったが、縫は生まれながらに右半身に赤い炎のような痣が沈着していた。
しかもひどく癇が強く、病弱だった。
その時点で達の期待が自然と、健常に生まれついた結に傾くのは、ある程度仕方なかったのかもしれない。
◆◆◆
「あ……」
庭を横切る叔母の縫の姿を見つけて、勝母はあわてて祖母の後ろに隠れた。
達は不思議そうに勝母を見た後に、縫に声をかけた。
「縫、戻ったか」
ハッとしたように縫は声のした方を見た。
そこに達と、双子の姉、女中頭の姿を見ると、唇を引き結ぶ。
静かな足取りで近づいてきて、達の前に片膝をついて頭を下げた。
「ただいま、戻りました」
「うむ。首尾は?」
「……問題なく」
短く答える縫を、達はしばらく見つめた。
どうにか顔つきだけは平静を装っていたが、不自然に大きく、ゆっくりと上下する肩が、縫の今の状態を物語っていた。
達は軽く溜息をつく。
「もうよいわ。風呂で汚れを落としたら、早々に休め」
「………」
縫は俯いたまま返事をせず、ただ握りしめていた拳をより固くすると、立ち上がった。
下から睨め上げるように見た縫と目が合って、勝母は身を竦めた。
明らかな敵意。
物心ついた時から、この叔母が勝母を見る目は、いつも憎しみしかない。
「縫」
踵を返して立ち去ろうとする妹に、結はやさしく呼びかけた。
「あなたの着物、繕っておいたわ。また、破れたらいつでも言ってね」
「………」
軽く頭だけ下げて、縫は母屋へと帰っていく。
達はその後ろ姿を見送って、志摩に命じる。
「志摩。風呂の用意をしてやれ」
指示された志摩は「はいっ」と返事して、あわてて走って行った。
「やれやれ…あの様子では、また三日は寝込みよるわ」
溜息をつく達に、結はとりなすように言った。
「そんな言い方をなさらないで下さい、母上。縫は頑張っております。鬼殺の隊士となることさえ危ぶんでいたのを、ああして立派にお役目を果たしているではありませんか」
「なんとかやっている…というだけじゃ。あれでは早晩、鬼に殺られてしまいよるわ」
「そう言いながら、もう一年になりますよ」
「その半分は病で寝込むか、怪我で休んでばかり。今辞めたとて、育手となることもできぬであろう。つくづく……お主の代わりにはならぬ」
達はジロリと非難のこもった目を結に向ける。
結は困った顔になって、目を伏せた。
「お主であれば、十代のうちに隊士となって、今頃は柱としての最盛期であったものを」
「………母上」
結はすまなそうな顔になりつつも、謝ることはなかった。
◆◆◆
結と縫。
二人はまるで古事記にある咲弥姫と磐長姫のようだった。
一方は桜の花咲くが如く愛らしく美しかったが、一方は右半身に負った醜い痣と、そのいつも昏く人を睨めあげるかのような眼差しのせいで、まるで桜に纏わりつく蛇のようだと言われた。
しかも神話であれば美人薄命なのは咲弥姫であったが、現実には結が健常な体に達からの修練も難なくこなす天与の才があったのに比べ、縫は幼い頃からの病弱なところは治らず、厳しい訓練の後には必ず熱を出して寝込んだ。
当人はそれでも無理して行うこともあったが、そうするとかえって長引いてしまい、咳がおさまらず、幾日も苦しむ夜を過ごすことになった。
結は体の弱い妹を介抱してやりつつ、課された修練を行い、達と一緒に怪我をした隊士達の手当も行っていた。
元は本草学者の家に生まれた達は薬草の知識が深く、それを活かして隊士達の怪我や、病気の治療を行うこともあったのだ。
後になって、達は結にその手伝いをさせたことを悔やんだ。
そのせいで、結は隊士となる道を絶たれたのだから。
◆◆◆
「……身籠った…!?」
最終選別を前に結が言ってきた時、達は絶句するなり、ほぼ反射的に結の頬を打っていた。
畳に倒れ込んだ結の襟首を掴んで、達は激しく難詰した。
「誰だ!? そなたを手篭めにしたは!!」
「違います!」
「黙れッ!!」
再び殴ろうとした達は、初めて自分を睨みあげてくる結の視線の熱に、一瞬
「私は…私は、あの方の妻となります! 隊士にはなりません!」
結は立ち上がると、はっきりと言い切った。
「鬼であれ何であれ、私は殺生などしたくない! 母上が許さぬと
「………」
達は茫然とした。
それまで一度として自分に逆らったことのない結が見せた反抗以上に、実は鬼狩りになりたくなかったのだという事実が、達を打ちのめした。
「……勘当じゃ」
つぶやくように言うと、結はその場で正座して深々と頭を下げた。
「父に捨てられた我ら姉妹を引き取って育てて下さいました事、感謝申し上げます。どうか……縫のことは、お見捨てなきよう……」
縫はその時、また病床にあった。
短い書き置きを残して出て行った姉が、知らぬ間に妊娠していた上、鬼殺隊士にはならない…と言って勘当されたことを知ると愕然とした。
治りかけていた風邪がぶり返して、再び寝込んだ。
ようやく立ち上がるまでに回復すると、達の元へと、姉の勘当を解いてもらおうと出向いた。
しかし、あれほどに厳しかった義母は、今までにないほどに落ち込んでいた。
廊下で膝をついて声をかけられないでいる縫に気づくと、達は長い溜息の後に言った。
「……そなたであれば諦めたものを」
<つづく>
次回は2021.07.11.日曜日の更新予定です。