彷徨している間にどこかで切った傷が膿んで、熱も出ていたらしい。
らしい…というのは、後になって志摩から聞いたからで、その日、昼過ぎに目覚めた勝母に最初に声をかけてきたのは、
「あ、おはようございます。あ、いえ…昼だから……
「…………」
起きて早々、意味不明なことを言われて勝母は言葉が出なかった。
旭陽は勝母の無言をどう受け止めたのか、あわててこちらに向かってくるなり、畳の上を座る態勢になりながら滑ってきて勝母の横で止まった。
「大丈夫ですか? 随分、お疲れのようですから…眩暈がするようなら、横になっていて下さい」
「いや…」
眩暈がするのは、お前の奇妙なおしゃべりのせいだ……と、言う元気もないのは、やはり気力が落ちていると言えるのだろうか。
そう思っていると、腹がキュウと鳴った。
「あ……」
まさかの間の悪さに勝母が顔を赤くすると、旭陽はますます晴れやかに笑った。
「良かった! ちゃんと胃腸は動いてるようですね! 食欲があるなら、食べられるでしょうから、すぐに用意しますね!」
返事も聞かないで、立ち上がると小走りに廊下へ消えていく。
勝母は呆然としたまま、しばらく旭陽の去った方を見ていた。
廊下の先には、紅葉が枝を伸ばして池に赤い葉を落としていた。
その先には離れの跡がうっすら見える。
あの後、縫が死んだのと前後して、すっかり廃屋となっていた離れは壊した。
今、あの家の名残となるのは、庭に植えていた椿の木だけだ。
勝母は暗い顔になり、手元に視線を落とした。
結局、岩の呼吸の鬼とは会えなかった。
そうでなければ、自分の拠って立つものがなくなってしまう。
叔母からの怨嗟によって、勝母にかけられた呪い。
自らの父を殺すことを誓った幼き日の自分。
だが、今回とても当初は東洋一達と出会ったわけで、今後、他の隊士や柱と遭遇する可能性がないわけではない。
それこそ東洋一がもう一度対峙することがあれば、あの男が負けるわけもない。全力で叩き潰すだろう。
あの鬼をおびき寄せなければならない。
だがそもそもあの鬼は、自分のことを覚えているのだろうか。
鬼は鬼となる前の記憶を失っていくのだという。
あれから既に十年が過ぎた。
勝母のことを忘れている可能性は高い。
覚えていても、成長した姿を見て果たして勝母とわかるのかどうか…。
「勝母さん! どうぞ食べてみて下さい!」
重苦しい空気をまったく感じない、旭陽の無遠慮な大声が響く。
勝母は長い吐息をついた後に、顔を上げてまじまじと旭陽を見つめた。
「? ……どうしました?」
旭陽はお粥の乗った膳を勝母の横に置いて、にこやかに笑っている。
「いや……なぜあなたがここに?」
そうなのだ。そもそもどうして旭陽が勝母の世話をしているのだ? ここは家だと思うが、志摩はどこに行ったのだろうか?
「勝母さんの看病を頼まれたんです」
「誰がそんなことを…志摩は?」
「志摩さんは今、ちょうど買い物に出かけておられますよ。もうすぐ戻ってこられるでしょう」
勝母は眉を寄せた。
いくら顔見知りとはいえ、本来、旭陽は客のはずだ。
客に病人の看病を任せた上、留守を任せるなど…用心深い志摩には有り得べからざることだった。
勝母が寝込んでいる間に、すっかり信頼されるようになったらしい。
「……色々と、ご迷惑をかけたようだ。すまなかった。もう、大丈夫だ。私は隊務に戻るから―――」
そのまま立ち上がろうとして、ぐにゃりと視界が歪む。
「勝母さん!」
旭陽はあわてて前に出た拍子に、膳を蹴飛ばし、用意してあったお粥が飛び散る。
一部が旭陽の足にべったりとかかった。
「アッ…ッツ!!」
顔を歪めながらも、旭陽は歯を食いしばり勝母を支えていた。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですか!?」
同時に問いかけて、勝母はキョトンとなり、旭陽はくすっと笑った。
「なんだか……前にも似たようなことありましたっけね?」
「……それより、お前、足…火傷してないのか?」
「大丈夫ですよ。服の上からですから」
言いながら、旭陽はじんわりと勝母を押さえつけて、寝床に座らせた。
「駄目ですよ。まだお仕事なんて出来ません」
「……ごはんを食べれば、元に戻る」
「勝母さん…」
ハアァーっと旭陽は髪をかきあげながら溜息をついた。
「いいですか? 小さな傷であっても、膿んで、敗血症で死ぬことだってあるんです。みくびってはいけません」
珍しく怒ったように言う旭陽に、勝母は少し圧倒された。
ボソボソと小さな声で反論する。
「ちゃんと…岩清水できれいに洗って、よもぎを貼っておいたぞ……」
旭陽はやさしく説き聞かせた。
「民間療法をバカにする気はありませんが、あなたは昨日まで傷がもとで膿んで高熱も出ていたんです。一ヶ月近く食事もまともに摂っていないし、お粥を一杯食べた程度で戻るわけがないでしょう」
「…だったら三杯食べればいいじゃないか」
「そういうことじゃありません。まずはお粥のように淡白なものから始めて、徐々に栄養価の高いものもを食べていくようにしないと、胃がびっくりしてしまいます」
だんだん母親に小言を言われている気分になってきて、勝母はプイとそっぽを向く。
「そんな軟弱な体質じゃない」
「軟弱と言っているわけじゃありません。普通はそうする…と言ってるだけです」
「私は常人よりは強健にできている。だから大丈夫だ」
頑なな勝母に旭陽がすっかり困った様子でいると、廊下を歩いてくる音がする。
二つ重なった足音を聞きつけ、勝母は眉間に皺を寄せた。
「よぉ。起きたか?」
東洋一がまず現れ、すぐ後ろから天狗の面を被った左近次が静かに頭を下げる。
「呼んでも誰も出てこないので、上がらせて頂きました」
「……あぁ」
むっすりと勝母は返事する。
間の悪い時に現れたものだ。
ざっと部屋の状況を見た東洋一は、唖然として口をあけた。
「お前……まさか…ホントに手ェ出したのか?!」
旭陽は即座に激しく頭を振った。
「ちちち、ち、違いますよ! お粥を運んできたら、勝母さんがもう仕事を始めるとか言い出して、立ち上がって眩暈を…」
「ちょっとフラついただけだ」
勝母が面倒そうに言うと、左近次は布団の脇にしゃがみながら冷たく言った。
「一ヶ月近くも隊務を抛擲された人をおいそれと戻すとでも?」
「……なんだ?」
勝母は少し驚いた。
無論、今回の失踪についての叱責は覚悟していた。後日、産屋敷邸を訪れて、御館様を始めとして柱達にも頭を下げて謝るつもりだ。
だが、そう事は簡単ではなかったらしい。
左近次の言葉に、今更ながら事の重大性を知る。
「今日は様子を見てくるように頼まれたんです。その上で処分を決定すると」
「処分…」
「当然でしょう。柱が隊務を投げ出して一ヶ月近くも行方を晦ましておいて、何の処分もないとなれば、隊士達への示しがつきません」
左近次の声は固かった。
話している間に志摩が戻ってきて、飛び散ったお粥と膳を手早く片付けて出ていくと、左近次は旭陽に向かって問いかけた。
「それで、見立てではどうですか? ご本人はすぐにも復帰される意気込みですが」
「無理です」
旭陽は即答した。
「天狗さんも言って下さい。さっきだって、立ち上がってフラついて。それで僕が咄嗟に支えようと思って、足をお膳に引っ掛けてお粥が零れてしまって…だから、違いますからね! お兄さん!!」
旭陽は必死になって東洋一に言ったが、言われた方は大して興味のない様子で、「へいへい」と耳をほじっていた。
「どれくらいの休養が必要です?」
「ちょっと待て! 左近次」
左近次が勝母を無視して旭陽にばかり尋ねるので、勝母は思わず大声で遮った。
「なんでそいつに訊くんだ!? 自分の体のことは自分がよくわかっている。飯を食べたら、すぐにでも任務に行ける」
天狗はこちらを向くと、「駄目です」とにべなく言った。
「医者の不養生とも言いますから。当人の見立ては信用しません」
「
そうだ。
そもそも起きた時から、なぜ旭陽がここにいるのか…ということが疑問だった。
「あ、俺が頼んだ」
暢気に欠伸しながら言ったのは東洋一だった。
「お前、おぶって帰ってきたら、このトンチキが門のところに立ってたから、ちょうどいいと思って」
「なにがちょうどいい、だ。勝手に」
「うるせぇ。人におんぶされて涎垂らして寝てた
「ハハハ。可愛かったじゃないですか」
うっと詰まった勝母を庇うつもりのなのか、旭陽がまたズレたことを言い出す。
「お前、本当に酔狂な奴だね。ま、そんな野郎でも、学校じゃ相当、頭が切れるってんだから…人は見かけによらねぇってことだ」
東洋一が言うと、旭陽は「そんなことは…」とはにかんだ。
困惑する勝母に説明するように、左近次がつけくわえる。
「医学校に入るというだけでも、大したものらしいですよ。全国からの俊英を集めているのですからね。その中でも那霧君は相当な秀才らしいです。本部からの情報を伝え聞いた風柱様が、そういうことであれば花柱の養生について
「なんで勝手に…」
「先に勝手なことをされた方に言われたくないですね」
こういう時の左近次の舌鋒は鋭い。
押し黙る勝母を横目に、左近次は再び旭陽に尋ねた。
「それで、どうですか? 任務に復帰するとして、いつ頃が適当ですか?」
「三週間あれば…」
「冗談だろう!? 三週間も寝て過ごせというのか!!」
勝母が血相を変えると、旭陽は困ったような、哀れんだような目で見てくる。
それがますます勝母には腹立たしい。
「五日で十分だ!」
「それはないですよ、勝母さん。最低でも二週間は……」
「二週間も何をしておけっていうんだ!! 寝床に根が生えるぞ」
「ですから、ずっと寝ておけという訳ではありません。今日はとりあえずお粥などあっさりしたものを食べて、それから栄養価の高いものを食べて体力を戻してから、体を動かして戻していくようにしないと…」
旭陽の説明は医学的知見として正しいのだろうが、勝母にはくどくどと鬱陶しいだけだった。
「まだるっこしい!」
一蹴するように吠えたが、旭陽は負けなかった。
冷静な口調で諌めて、話してきかせようとする。
「勝母さん。言わせてもらいますが、あなたは今回のことがなくとも、休養が必要です。確かに常人に比べて頑健な体をお持ちですが、そのことを
「そんなものはない!」
「……月のものはきていますか?」
つとめて平静に問う旭陽を、勝母は赤くなった顔で睨みつけた。
なんだって、そんなことを今訊かれるのか。
「あなたのような年頃のお嬢さんにメンスがないなんて、おかしなことなんです。血尿が出ていたこともあったそうじゃないですか。とにかく、二週間の休養は絶対に必要です」
いつになく強い、厳しい口調で旭陽が断言する。
左近次は頷くと、立ち上がって言い放った。
「では二週間、蟄居謹慎を命じます」
「なにィ!?」
「ハッハッハッ! こりゃいいや。無敵の花柱が謹慎とはねぇ」
東洋一が面白そうに笑うのを、勝母はとうとう我慢ならず脛を蹴りつけた。
しかし、すんででかわされる。
「おっ! やっぱお前、ちょいとばかり休んだ方がいいな。キレがないぞ、キレが」
「うるさいッ! 元はと言えばお前がこの男に頼むからだろうがッ」
「そうだよ。いい人選だ、と師匠に久しぶりに褒められたぜ」
「なにが……」
勝母がギリギリと歯噛みするのを、旭陽は気の毒そうに見ながら、とりあえず安堵の吐息をついた。
「正式には御館様からの書状が届くでしょうが…とりあえず、この処分は柱の総意ですから。いいですね、花柱」
左近次は念を押して言う。
「しっかりと治療に専念して、戻って来て下さい」
その声音は、いつも通りの優しいものだった。
面の中で微笑んでいるのも想像できた。
それでも勝母は、素直に頷くことはできなかった。
自分でも子供が駄々をこねているようだと自覚していたが、なんだか取り残されたような、落ち着かない気分だ。
軽く旭陽に会釈して左近次は出て行く。
東洋一も「じゃ、先生。頼んだよ」と、旭陽の肩をポンと叩いて出て行くと、勝母は布団にくるまった。
「勝母さん。お粥、食べないですか?」
旭陽が声をかけてきたが、返事をする気にもなれない。
腹立たしいし、苛々するし、情けないし、もう感情がぐちゃぐちゃで、しまいには泣きたくなってくる。
「……じゃあ、あとで食べましょう」
旭陽は静かに言って出て行った。
勝母は布団の中でただただ惨めだった。
鬼となった父を見つけることもできない。
迷惑をかけた分、挽回しようとしても許されない。
周囲の人間の優しさがわかるだけ、一層、自分が憐れで、まだまだ
早く、もっと…もっと、強くなって、ちゃんとした大人になりたい。
強く望むほどに、胸が引き絞られるように痛んだ。
<つづく>
次回は来週中に更新予定です。