炎柱の煉獄康寿郎が死んだのは新緑の萌える皐月の頃であった。
この知らせを聞いた時に、
自らの力の及ばぬところで、これまで確かにあった土台のようなものが、ゆっくりと変化していこうとしているような気がした。
煉獄康寿郎は勝母とほぼ同時期に柱になった。
自分よりも八歳年下の勝母にも礼儀正しく、豪快だが篤実な人柄であった。
急遽招集された柱合会議で、次の炎柱について決まった後、勝母は晴れ渡った空を憂鬱に見つめた。
どこまでも澄み切った抜けるような青空―――…。
まるで故人の心を映したかのようだ。
「花柱、どうした?」
ぼんやりと空を見上げる勝母が珍しかったのか、声をかけてきたのは鳴柱・桑島慈悟郎だった。
同じように空を見上げて、きっと亡き人のことを思い出したのだろう。
「清しい男だったな…」
「……誠に」
勝母が静かに頷くと、ふっと痛ましそうな顔になる。
「……ここに来る前に、
「珍しいですね、最近では」
「うむ。風柱様が新たな技を開発されるので、東洋一も手伝っているらしい。他流派の技も見て、色々と試行錯誤しているのだろう」
「新たな技…」
勝母は少し驚いた。
風柱である
腹に痼のようなものがあるのか、度々下血していたりする。
勝母も何度となく診察し、薬を処方もしているが、果たして快方の見込みがあるかと聞かれると、首を振るしかなかった。
しかし病気があっても、周太郎の剣技への執着は失われぬらしい。感心に値する。
「やはり…風柱様はただならぬ方でございますね」
「うむ。しかし正直、煉獄が死ぬなどとは思わなかった。あれほどの男であっても敵わぬとは…上弦の鬼は、同じ十二鬼月とはいえ下弦とは次元が違うと考えた方が良かろうな」
「そうですね」
話しながら見たこともない上弦について考えてみる。
この百年近く、柱が下弦の鬼を討伐した例は枚挙に暇がない。
勝母もこれまでに三体近くを滅殺しているが、さほどに手間取った覚えはなかった。
だが、上弦の鬼を討ったという話は、この百年近く記録にない。
むしろ、幾人もの隊士、それに柱が上弦によって殺されてきた。
いずれ…自分も討たれるのかもしれない。
「東洋一が…相当に落胆していた。煉獄とは同期だし、色々と考えることはあろうな」
「…多少は落ち込んでも、いずれ同期の死に発奮するでしょう。そういう男です。そうでなくては、鬼殺隊士などやっていられない」
慈悟郎は苦笑いを浮かべた。
「ふ…厳しいのぉ、花柱」
「鬼に人の情けなど通じませんからね」
「そうだな。ま、今回はとうとう
慈悟郎の嘆息に、勝母は眉を寄せる。
「我らの代で終止符を打てれば…とは思いますが…」
言いながら、以前に風柱である風波見周太郎と話した時のことが思い出された。
―――――無惨が鬼となり、産屋敷家に呪いを残してから数百年、鬼殺の隊士達の大望は未だに叶えられていない……
鬼と、鬼殺隊。
両者は天秤棒が揺れ動くかのように、危うい均衡のもとで戦いを繰り返している。
一体、いつまで続くのか。
歴代のお館様も、柱達も考えたことだろう。
―――――本気で無惨を殺すことを考えるのであれば、彼女の存在はまさに奇貨だ…
周太郎が語った、鬼に助けられ、鬼を助けたという話。
未だに信じられないが、噂では周太郎は自ら組織した別働隊に、鬼を探索させているのだという。
あるいは本気で、そのかつて命を救われたという女の鬼を探しているのだろうか…。
考えていると、曲がり角から現れたのは件の風柱の息子である風波見賢太郎だった。
「あ…花柱様、鳴柱様」
少し気まずい表情で賢太郎は深々とお辞儀する。
「賢太郎。最近、よく来るな。お館様にまた呼ばれたのか?」
「はい。お邪魔しております」
「邪魔などと思っていない。お館様がお前を呼んでいるのだから、我らがどうこう言う立場ではない」
勝母には小さく体を屈ませる賢太郎が卑屈に見えた。
どうにも気に食わない。
「花柱、ただの社交辞令だ。さほどに目くじらたてることもなかろう」
慈悟郎が朗らかに言うと、勝母は押し黙った。
「そういえば…
眞沙子、というのはお館様である産屋敷
どちらかというと優柔不断な輝久哉に対して、はっきりした物言いをする女性で、四歳年上の姉さん女房というのもあって、頼られる存在らしい。
「はい。そのせいか…また多少、心細くなられるようで」
「ハハ。父となられるに頑是ないことよ。ま、そなたも近いうちに父となるのだし、同じ子を待つ身として、色々と話し合いたいこともおありなのだろうな」
慈悟郎はポンと賢太郎の肩を叩き、横を通り過ぎる。
勝母も同じように通り過ぎようとした時に、呼び止められた。
「花柱様」
「……なんだ?」
「遅くなりましたが…浩太の…
「気にしていない」
「彼は…鬼狩りとして生きることに誇りを持っていたのです。そのために、日々研鑽して懸命でした。だから…腕を失って相当に苦しんだのでしょう。私がもっと…気にかけて、相談に乗っていれば…と、悔やんでおります」
長々と言い訳を聞いて、勝母はくるりと賢太郎に向き直った。
「賢太郎」
憮然と呼ぶと、賢太郎は俯いていた顔を上げる。
「お前は奴と仲良かったのか?」
「それは…幼い頃より一緒に育ちましたから」
「そうか。それは心配だろうな。さほどに気になるなら探しに行ってはどうなのだ?」
「……え?」
「ここに来てお館様とひねもす囲碁をしている暇があるなら、大事な幼馴染を探しに行った方がいいと思うがな。少なくとも東洋一は私を探し当てた」
「………」
「まぁ、勝手に出奔して謹慎処分をくらった柱の言うことを真に受ける必要もないが」
皮肉げに頬を歪めて、勝母は歩き去った。
賢太郎はしばらく悄然と立ち尽くしていた。
◆◆◆
その日は深夜に帰宅した後、昼過ぎまで寝ていたのだが、久しぶりに香ばしい匂いに誘われるように目が開いた。
「………パン」
つぶやいて起き上がる。
ふんふん、と鼻が動いて間違いなくそれがパンを焼く匂いとわかると、カッと目が醒めた。
「……なんでいるんだ?」
すぐに着替えて台所に向かうと、案の定、
「おはようございます。もう昼ですけど…昨夜も遅くまでお仕事だったようですね」
ニコニコと笑う旭陽に、勝母は急に動悸が高くなるのを感じて、悟られぬように深呼吸をした。それからキッと睨みつける。
「何の用だ?」
「用は…こうしてパンを焼いて、シチューを作って、勝母さんと久しぶりにお食事を一緒にしようと思ったんです」
「……いきなり、なんだ?」
旭陽の笑顔はいつもと変わりないが、どことなく寂しげにも見える。
そう見えてしまうことが、勝母には不安だった。
「ま、あちらで待ってて下さい。持っていきますから」
旭陽はその時は答えず、料理を続けた。
忙しく立ち回る姿に声をかけづらく、勝母は仕方なく居間へと向かった。
既に旭陽と話がついているらしく、志摩が手際よくお膳や食器の用意をしていた。
「…あいつ、どうしたんだ? ここのところは料理だけ作って置いて帰ってたじゃないか」
旭陽は約束どおり、花鹿屋敷から自分の家に戻った後も、時折料理を作っては持ってきてくれたが、たいがいは勝母が不在というのもあって、志摩に託して帰っていた。
その際に作ってきた料理の説明を記した書附を残していくのだが、勝母はその万年筆で書かれたクセのある字を読むのが少し楽しみになっていたりする。
志摩は頬に手を当てて首をかしげた。
「私にもよくわかりませんが、でも、勝母様に御用がおありのようですよ」
「用? なんの?」
「それがわからないのです。勝母様に直接言いたいそうで」
勝母はますます落ち着かない気分になる。
やがて出来上がったらしく、旭陽がシチューのお鍋を持って現れた。
「あ、志摩さん。台所にパンの籠が置いてますから、持ってきてもらえますか?」
気安く頼むさまは、もうずっと当たり前にそこに住んでいたかのようだ。
向き合って座り、食べ始めてからも旭陽は本題に入らず、最近見た芝居やら落語やらの話を楽しげに話すばかり。
その雰囲気は懐かしかったが、勝母には歯がゆい。
「それで? 早く本題を言え」
ずっぱりと尋ねてくる勝母に、旭陽は苦笑した。
「勝母さんは、やっぱり鋭いですね」
「なにがだ?」
「嘘がつけないです」
「なんでお前と私の間で嘘がいるんだ? とっとと言え」
「………」
旭陽はしばらくぼーっとしたように勝母を見た。
「おい!」
勝母がイライラして怒鳴りつけると、ハッとしたように我に返る。
「すみません。なんか…嬉しいことを言われて舞い上がってました」
「はぁ?」
勝母はシチューをすすりながら眉をひそめた。
相変わらず、おかしなことを言う奴だ。
旭陽は皿に残っていたシチューをパンで拭って、最後にそのパンを食べると、おもむろに頭を下げた。
「すみません。勝母さん……しばらくパンもシチューも作れないんです」
「……あぁ、そうか」
勝母は頷きながらも、どうしてか体の中心が冷えていくのがわかった。
「理由、聞かないんですか?」
「聞いてどうするっていうんだ? ようは面倒になったんだろ」
「違いますよ! 僕は勝母さんにおいしいって言ってもらうのが楽しみで作っているんですから。これからだって、本当は毎日こうして作りに来て、一緒に食べたいくらいです」
「じゃあ、どうしてだ?」
勝母が問うと、旭陽は寂しげに笑った。
「来月には、
「………」
「それで、今日から横浜の先生の御宅でしばらく厄介になって、独逸語を集中して学ぶ予定なんです。医学用語は概ねわかっているんですが、なにせ日常会話はまだまだですから」
「そうか…」
勝母は反射的に答えていたが、どういう顔をしていいのかわからなかった。
頭ではわかっている。
旭陽は自らの意志によって、より己の勉学の道を極めるために旅立つのだ。その勇気と情熱を讃えて送り出すのが、当然のことだろう。
だが、その国の名前はあまりにも遠い。
勝母には想像もできぬほど、遠い外国だ。
「それで、今日は最後の晩餐ってわけじゃないけど…久しぶりに一緒に食べるのもいいかと思いまして……押しかけました」
アハハと恥ずかしそうに笑う旭陽に、勝母はムッと怒った。
「馬鹿なことを言うな。最後の晩餐な訳がないだろうが。帰ってきたら、もっと珍しいうまい料理を作ってもらうぞ」
「そうですね。レシピを増やしておきます」
旭陽は穏やかに笑って、パンを食べていた。
勝母は途中からシチューの味がわからなくなっていたが、それでもおいしいと言った。たぶんおいしいに違いないのだ。
「それじゃあ…失礼します。お元気で、勝母さん。必ず、ちゃんと体を労って無理しないで下さいね」
帰る時になって、旭陽は手を差し出しながら言った。
「……なんだ、この手」
勝母が尋ねると、旭陽が言った。
「握手ですよ。互いの右手を握り合って、なんというか…ありがとう、とか、頑張りましょう…ってことでするみたいです」
「それを私とするのか?」
「駄目ですか?」
勝母は一息ついて、ぐっと丹田に力をこめた。
思いきって旭陽の手を握ると、あの日と同じ温かい柔らかな感触が伝わってきて、それがしばらく自分から離れてしまうことに泣きそうになる。
口を引き結んで涙をこらえた。
こんなことで感傷的になるなど、恥ずべきことだ…! と内心で己を叱咤する。
「それじゃあ…」
手が離れて旭陽が立ち去ろうとする。
「おい!」
勝母は思わず呼びかけた。
旭陽が振り向いても、何を言っていいのかわからず口を開けたまま逡巡する。
旭陽が微笑んで言った。
「大丈夫ですよ。きっと帰ってきますから」
「……絶対だぞ!」
声が震えそうになるのを必死に隠すために、勝母はほとんど怒鳴るように叫ぶ。
「はい。じゃあ、行ってきます」
手を振って、旭陽は照りつける西日の、眩しい光の中に消えていった。
<つづく>