冬の星が煌めく夜。
濃紺の空はそのまま凍って固まったかのように澄んでいた。
鍔に結んでいた兎の土鈴がチリンと鳴り、暗闇に佇立する姿を確認する前に勝母は跳躍する。
一瞬の後には、勝母の立っていた地面がえぐられていた。
「……よかろう」
鬼がつぶやいた。
刻印されたかのような眉間の深い皺。
陰鬱な表情に変化はない。
月光の中に現れたその鬼の姿を、勝母は冷たく睨みすえた。
灰色の顔、紅い目。
片方には下・壱の文字。
人間であった頃から人並み外れて大柄な体格であったが、今はまるで仁王像かのように隆々とした筋骨に、肩から生えた角がまさしく悪鬼としか言いようのない醜い姿だ。
姿形にかつての父の面影は希薄で、勝母にとって唯一懐かしく思えたのは、鬼の持つ大刀だった。
日輪刀を青眼に構えながら、勝母は言った。
「お久しゅう…父上」
その言葉に鬼は目を細めた。
「強くなったようだ…」
低く唸るような声は、わずかに記憶に残るものと違わず勝母の耳朶を震わせる。
一気に感情が渦巻くのを、勝母は蓋した。
ギロリと睨みつけるなり、技を発動する。
花の呼吸 陸ノ型 渦桃
軽やかに跳躍しながら、凄まじい剣さばきで襲いかかる刃に、その鬼は愉しげに笑って、軽く大刀を一振りして一蹴する。
その剣撃の威力に勝母は一瞬、ヒヤリとなった。
さすがは岩の呼吸遣いであっただけある…一撃必殺の技。
まともに食らえば、常人よりも丈夫な勝母であっても、ただでは済まないだろう。
くるりと一回転して地面に着地するなり、鬼は構える隙も与えず攻撃してきた。
岩の呼吸 伍ノ型 瓦輪刑部
大刀が目に見えぬ速さで閃く。
ほぼ同時に振り下ろされたにも見える斬撃をギリギリで躱し、大きく間合いをとって見れば、さっきまで勝母のいた場所に四つ穴が空いていた。
フシュウゥウと、不気味に低い呼吸音が響く。
勝母は刀を握りしめながら、奇妙な高揚感が立ち昇ってくるのを感じた。
今ここで生きて、死ぬかもしれない瞬間に自分は
息を吸って、長く細く吐く。
ギリッと奥歯を噛み締めて、踏み出す。
花の呼吸 伍ノ型 徒の芍薬
九連続の攻撃が一点に集中する。
鬼は跳ね返そうとして、その華やかな、美しくすらある斬撃が意外にも重量を持って襲いかかってきたことに、初めて苛立ちの表情を浮かべた。
岩の呼吸 参ノ型 岩躯の膚
周囲からの攻撃を跳ね返しながら、間合いに入った相手を確実に殺傷する岩の呼吸の技。
だが、勝母は既にその技がくることを予想していた。
ググッと低く身を屈めて、鋭い気合を発する。
「ハアァッッ!!!!!」
花の呼吸 漆ノ型
足元すれすれから上に向かって、一突き。
渾身の力を込めた一撃をまともに食らい、鬼の態勢が崩れる。
技が乱れ、穴ができた。
勝母はすぐさま次の技を放つ。
花の呼吸 壱ノ型 椿の火影
ザンッ!
肉を断ち切る音がして、鬼の右腕が落ちた。
ドォンと腕と一緒に落ちた大刀が地響きをたてる。
だが勝母はそれでも攻撃を止めなかった。
飛鳥馬が腕を落とした後に、鬼の肩からは肉が再生すると同時に刀が出てきたのだと。
最終的には両腕が二つの刀となって襲いかかってきたのだと。
花の呼吸 肆ノ型 紅花衣
弧を描いた剣が左腕を落とす。
その速さと、華麗な技からは考えられない剣撃の重さに、鬼は忌々しげな咆哮を上げた。
円環の軌跡は留まることなく、そのまま鬼の首を斬り落とそうとしたが、一瞬にして首に表出した牙がガシリとその刃を咥えこんだ。
「くっ!」
勝母はそれでも力を加えて鬼の首をとろうとしたが、鬼が首をブンと振って、勝母を放り投げた。
空中で丸くなって、クルクルと回りながら受け身をとって地面に着地する。
スゥと息を吸い込む。
その間隙に鬼が凄まじい速さで迫ってきた。
既に腕からは肉の絡みついた大刀が二本生えている。
ガキイッ!
振り下ろされた二つの刀を、日輪刀で受け止める。
火花が散り、わずかに日輪刀が欠けた。
鍔迫り合いが続く中で、踏ん張った両足が徐々に地面にめり込む。
不意に鬼はニヤリと嗤った。
「……楽しいか…」
勝母は返事をしなかった。
ギロリと睨みあげると、鬼は低い声でつぶやく。
「楽しかろう…今、お前は…真実の戦いをしている。強者だけが許される世界で、戦っているのだ……」
「……戯け者が」
鋭く吐き捨てるなり、勝母は鬼の刀を横へといなしながら後方へと飛び退った。
だが鬼はすぐさま異様な速さで二本の大刀を縦横無尽に振るう。
花の呼吸 弐ノ型 御影梅
勝母は咄嗟に技を放ち、防戦した。
それでもすべて防ぎきれず、複数箇所が血を噴いた。
眉上の刀創から血が流れて頬をべったりと伝ってゆく。
脇腹の傷が深い。
ドクリドクリと血が溢れ出す音がした。
ぐっと脇腹を押さえこんで、内部の筋肉によって止血する。
一時的なものだ。長くは保たない。
早々に決着をつけなければならない。
勝母は再び息を素早く吸って、長く吐き出した。
しかし今度は鬼が勝母に技を使う隙を与えない。
岩の呼吸 壱ノ型 蛇紋岩・極刃
遮二無二振り回された大刀は蛇のようにうねり、空気を切り裂きながら勝母の方へと向かってくる。
素早く後方へと回転してこれを避けたものの、攻撃が完全に終了しないうちから鬼は目前に来ていた。
岩の呼吸 肆ノ型 流紋岩・速征
異様なる速さだった。
目の前を刃が横切ってゆくのを、勝母は自分がどうやって躱したのかも覚えていられなかった。
咄嗟に跳躍して間合いをとったものの、鬼は既に次なる技を発動している。
胸の前で交差していた血肉の絡まった大刀を頭上高くまで持ち上げた後―――
岩の呼吸 弐ノ型 天面砕き
裂帛の気合と共に振り下ろす。
単純なる動作だが、その急激な気圧変化で周辺の木の枝がパキパキ折れて空へと舞い上がり、振り下ろされた刀とともに、一気に勝母に襲いかかってきた。
花の呼吸 壱ノ型 椿の火影
ほとんど反射的に勝母は技を出していた。
岩の呼吸の弐ノ型は一点集中の技である。
その力の沸点となる一点を正確に見切って技を発動したが、それでも反発は激しく、勝母は後方へと弾き飛ばされた。
ドスリ、と太い幹に体が打ちつけられる。
やや遅れて、さっきの折れた木の枝がいくつか飛んできて、顔に当たった。
「……なにをしている」
鬼は不機嫌そうにつぶやいた。
「お前が…相手にしているものは…何だ?」
勝母はギリと歯を食いしばった。
木にぶち当たった時に頭を打ちつけたのか、一瞬、眩暈がする。
鼻の奥がツーンとなって吐き気がするのを飲み下して、勝母は立ち上がると日輪刀を構えた。
鬼はその姿を見て、目を細める。
「鬼狩りであるなら…小手先のつまらぬ
勝母はその言葉に震えた。
怒りとも、悲しみともつかぬ感情が一気に心を満たす。
「…
かろうじて返事した声は低かった。
スゥゥゥウと息を吸い、一気に吐くと同時に技を出す。
花の呼吸 参ノ型 零れ桜・散華
広範囲の攻撃であるその技は、通常の鬼であればともかく、十二鬼月を相手とするならば必殺の技となり得るものではない。
だが、勝母はその並外れた膂力と、肺の形を変えるほどの全集中の呼吸によって、攻撃力を増幅させていた。
よけることのできない無数の剣撃が花吹雪となって鬼に襲いかかる。
「ぬぅうっ!」
鬼は苛立たしげに刀で振り払ったが、すべてを撥ね返すことはできなかった。
鬼の目を斬り裂き、両肩にザックリと赤い筋が走る。
肉がベロリと剥がれかけたが、瞬く間に元通りになった。
と、同時に鬼は跳躍していたらしい。
気付けば勝母の目の前に迫っていた。
「……遅い」
ボソリとつぶやく声が聞こえたのと、振り下ろされた刀を日輪刀で受け止めたのはほぼ同時だった。
「……茶番は…いらぬ」
鬼は勝母の刀をはね返すと、次には呼吸の動作もなく技を繰り出す。
岩の呼吸 陸ノ型
その剣閃は目で追うこともできない。
「うぐっ!」
かろうじて致命傷を負わぬ程度に避けても、胸から右肩にかけてザックリと刃が入る。
飛び退って膝をつくと、ボタボタと大量の血が地面を濡らした。
勝母はハッハッと浅い呼吸をして、痛みを逃す。
死―――――
冷たく逃れようもない闇が足元に広がっていた。
初めての感覚だった。
これが……恐怖というものか。
だが相反する思考は冷静に今の勝母を見つめていて、既に次なる一手に向かっていた。
浅い呼吸。
死へと向かう呼吸。
全身へと送り出す熱を一点に集中させる。
チリチリとした痛みと膨張感。
ひどく乾いた瞳から、最後の涙が零れた。
花の呼吸 終ノ型 彼岸朱眼
パチリと閉じた瞼が次に開いた時には、勝母の両目は真っ赤に染まっていた。
縫の作り出した唯一にして究極の御業。
おそらく自分の知らぬ技であったからだろう。
鬼の顔は少し揺らいだ後、ニヤリとまた愉しげに笑った。
「……よかろう」
つぶやくと両腕の大刀を上段と中段に構える。
岩の呼吸 肆ノ型 流紋岩・速征
一撃必殺を旨とする岩の呼吸の中でも、とりわけ速攻性に富む技だ。
だが勝母にはまるで水中にいるかのように緩慢な動作に見えた。
叩き斬られそうになる寸前に、クルリと回転して躱す。
岩の呼吸 陸ノ型 双曲・囂々破
さっきはその剣の軌跡を追うことすらもできなかったのに、下手くそな操り人形を相手にしているかのようだ。
二つの刀が挟み込んで斬りかかってくる直前で、勝母は跳躍した。
花の呼吸 陸ノ型 渦桃
いつものように。
簡単に。
斬った。
ボタリ、と首が落ちた時、その鬼は喚くこともなく、ゆっくりと倒れる自分の体を横目で見ていた。
巨体が地響きをたてて倒れたと同時に、勝母の手から日輪刀が滑り落ちた。
カランと鳴った鈴の音で、我に返る。
同時にフッと闇に包まれた。
「………ち……父上!」
自分でも訳がわからぬまま叫んで、どこに向かうかもわからぬまま走りかけて、勝母は躓き、倒れた。
「父上ッ! 父上ッ!!」
必死に呼ぶのは、何故なのか。
ただ、急に寒くてたまらなかった。
凍えて震える指で闇を掻いていると、フワリと手を掴まれた。
「……何を…泣く…」
その低い声は、昔と同じだった。
だが、昔はあんなに冷たく聞こえたのに、どうして今はこれほどまでに優しいと思えるのだろう。
「
震えながら尋ねると、フッと笑ったような吐息が聞こえた。
「……強さを…求めれば…果てなき道へと進む。所詮、人の命など数十年、その盛りなど数年のこと。百年経っても、人が鬼に勝てぬ道理だ。私にこの道を与えた鬼もまた、剣士として…果てなき求道者であった……」
勝母はギリっと奥歯を噛み締めた。
風波見周太郎の見立ては正しかったのだ。
父は己の中にある夜叉を、至高の存在と思ったのか。
「母上を殺してまで望む道がそこにあったというのですか!?」
「……そう……結が…望んだのだ…」
「………」
勝母は絶句した。
誰より父を愛していた母。
父がいなければ生きていけないと…生きる意味がないと…思ったのだろうか。
「お前を…待っていた。……お前と…刀を交わす日が…来る…ことを…願って……。強くなった…もの……だ…」
勝母は徐々に手の中から消えていこうとする温もりを必死に掴んだ。
「あの時、私を殺さなかったのは、その為ですか……父上」
顔は見えない。
だが、勝母にはその時、父が微笑んだような気がした。
「父と…思うな……
ザワリと風が吹いた。
そうして、おそらく父は塵となって消えたのだろう。
勝母の手を包んでいた温もりは消え、再び冷たくなった指を、見えないが見つめる。
漆黒の闇の先で、縫の声がした。
―――――お前がすべきことは何だ?
冷たい憎悪と恨みに満ちた目。
幼い勝母の心を殺すために吐き続けた怨嗟の言葉。
―――――お前の生きる意味は何だ?
何度も何度も、聞かされた。
何度も何度も、言わされた。
―――――父を…殺します。
あの日の約束は…果たした。
母と、弟と、祖母の仇。
復讐。
望みは、叶った。
だが。
一体、何なのだろうか…この虚しさは。
なにひとつとして、喜びはない。
ただ、最期の父の言葉だけが耳の奥で繰り返される。
―――――……幸…
「……初めて、呼んで…くれ…た…」
つぶやいて、ヒクリと喉の奥が熱くなる。
徐々に視界が戻ってきた。
だが、そこに広がるのは大差ない闇。
いつの間にか…澄んでいた空は曇り、月も星もない。
一陣の風が涙に濡れた頬に冷たく吹きつけた。
座り込んだまま気の抜けた勝母の目に、白いものが通り過ぎた。
雪が、降り始めたようだ。
見上げれば、漆黒の空からぽつりぽつりと雪が舞い落ちてくる。
あの日と同じ、雪。
闇に降る、雪。
母が死んだ日も。
そして、父が死んだ…今日も。
視線の先で、日輪刀が地面に落ちていた。
取ろうと手を伸ばしかけて固まる。
真朱の刀身にこびりついた血の痕。
―――――父と…思うな……幸…
「……くっ!」
発作的に勝母は刀に拳を打ちつけていた。
刃に当たって血が出ても、何度も何度も刀を
ピシと音がして、とうとうその刀身に罅が入る。
「あぁ…あ…あ……あ…」
慟哭が夜の山に響いた。
再び勝母の目から光は消えた。
<つづく>