「やぁ、
三日ぶりに訪れた
見えないが、光を感じて勝母の瞼は揺れた。
「……何しに来た?」
剣呑に尋ねても、旭陽ののどかな口調は変わらない。
「もちろん、診察です。天狗さんにも頼まれていますから。お食事、召し上がってないようですね」
話しながら、ガサガサと何かを取り出す音がする。すぐにフワッと香ばしい甘い匂いがしてきて、勝母は思わず問いかけた。
「パン…か?」
「あ、やっぱり匂いがしましたか? 志摩さんから勝母さんが食べないって聞いて、焼いてきたんです」
「………」
勝母はゴクリと唾を呑み込んだが、その強い匂いのする方からプイッと顔をそむけた。
「いらん!」
怒鳴りつけると、旭陽はしばらく言葉を失っているようだった。
沈黙が流れたあと、急に大笑いが響く。
「アッハハハハッ!」
「うるさいぞ! なにを笑っているんだ!?」
「だって…すごいやせ我慢だと思って」
旭陽はヒーヒーと苦しそうに息をしながらも、まだクスクス笑っていた。
「笑うな!」
勝母がさらに怒鳴ると、かえって吹き出してまた大笑いする。
それ以上パンの匂いを嗅ぐのも腹立たしくて、勝母は立ち上がると、縁側へとスタスタ歩いていった。そのまま縁側を横切って庭に出ようとして、背後から抱きとめられた。
「危ない! 落ちるところですよ」
「うるさい! お前の言う通りなら、私は見えているんだから心配する必要ないだろう!」
「うわぁ。随分と皮肉なことを仰言るようになりましたね、勝母さん」
「離せ!」
「あ、お庭で散歩でもしますか? いいですね、今日はずいぶんと暖かいですよ」
「誰が…」
文句を言おうとしたが、急に体が浮いた。
突然のことで勝母は今の自分の状態が理解できなかった。
「なっ…おい! お前ッ、なにをしているんだ!? 降ろせ!」
あわてて足をバタつかせるが、旭陽は「よいしょ」と体勢を整える。
「危ないですってば。いやぁ、本当に痩せちゃいましたねぇ。こんなに簡単に僕に抱っこされちゃうなんて」
「うるさい! 黙れ!」
「はいはい。じゃあ、勝母さんもおとなしくしてくださいね。今、庭に降りるので、暴れられると、さすがに僕も勝母さんもひっくり返っちゃう」
暴れられて困るなら勝母を放り出せばいいのに、おそらくこの男は自分よりも勝母を庇おうとするのだろう。そうなればきっと怪我をするのはこの男の方で、暴れた勝母を非難することもしないのだ。
勝母はムッと押し黙ったまま、しばらく旭陽に身を任せるしかなかった。
「さっき、この庭を見て回ってから勝母さんの部屋にお邪魔したんですけど、以前よりも種類が増えましたねぇ。桜に負けないくらい、いろんな花が咲いてて。お庭をゆっくり見て回るだけでも楽しめます」
「……どうでもいい、そんなもの」
「
何気なく話す旭陽に、勝母はふと気になって尋ねた。
「そういえば…お前、いつ帰ってきたんだ?」
「帰ってきたのは、勝母さんに再会した日ですよ」
「は?」
「まぁ、はっきりと僕もいつ帰るのか家族に言ってなかったので、港に着いても当然誰の出迎えもないし、だったら先に勝母さんのところに行こうと思って」
つまり家族に帰国を知らせる前に、花鹿邸に来たことになる。
勝母は呆気に取られた後、一喝した。
「馬鹿! お前! 先に家族に無事な姿を見せるべきだろう!! あっちはずっと心配されていただろうに」
「え? でも、帰ってきても大して驚かれませんでしたよ。あ、帰ってきたのか~って。その日に早速、欄間の掃除させられましたし。あ、一応、晩御飯は好物を出してもらえました。ずーっと向こうの食事だったんで、本当に味噌汁がおいしくて」
勝母はあきれるしかなかった。
旭陽も含めて、那霧家はどこか超然としたような、肝の据わった人間が多い。お
「勉強はできたのか?」
「そうですね。まぁ、まだこちらでも研究は続けますけど」
「研究? まだなにか勉強するのか?」
「えぇ、最新の器材も手に入れましたしね。京都の方で教鞭を取らないか…っていう話もあったんですけど、僕、壇上に立って、話したりするの苦手なんですよね。緊張しちゃって。前にズラーっと生徒さん達が並んでると、もー、皆さん僕より賢そうな顔してて、怖くって。だからそのお話は断っちゃいました」
勝母はまたも唖然とした。
国費で留学させてもらえるぐらい頭がいいくせして、何を言っているのだ、この男は。
「教師など、誰にでもできることではないだろうに…お前もつくづく訳のわからない男だな」
「まぁ…僕は一研究者の方が性に合ってるんですよ」
旭陽の言葉は相変わらず迷いがない。
「それが……お前の目指す道なのか?」
勝母は旭陽に尋ねながら、同時にこれまでの自分に問うていた。
――――― 私の目指したものは何だったのだ?
旭陽は腕の中にいる勝母をじっと見つめた。
思い詰めた顔で、微かに震える唇が、痛ましい。
出会った頃の弾けるような充実した気力も、鋭く尖った眼差しもなかった。ひどく小さい、怯えたような、自信なさげな少女がいるだけだ。
旭陽は顔を上げた。
視線の先に、桜の木がある。もう満開だった。
薄桃色の花びらが光の中で散っている……。
「僕は…好きなことをしてきただけですから。特に何かになろうって思ったりしませんでした。今も、これからも、たぶん変わらないでしょうね。家族や、上の人からは独り善がりだと注意されますけど」
「そんなことはない。お前のやってることは、きっと誰かの為になることだ」
勝母は気弱そうに言う旭陽に発破をかけるように言った。旭陽はフフッと笑みを浮かべる。
「そうですね。本当に……ありがとうございます、勝母さん」
やけにしみじみと言う旭陽の口調に、勝母は眉を寄せた。
「なにが?」
「あの日、あの時、勝母さんに助けてもらえなかったら、僕はこうして自分の好きなことをすることもできないで、鬼に殺されていたでしょう。僕が好きなだけ勉強できて、
「………」
黙り込んだ勝母の脳裏に、旭陽と最初に出会った、鬼から助けた日のことが流れる。
それから次々に、これまでに斬った鬼、救えた命、救えなかった命、様々な人々の姿が流れていく。
最後に、見えなかった父の手が、勝母の拳の中に温かく甦る。
―――――
あのとき、自分は父を救えたのだろうか…?
一筋こぼれた涙の
「今、桜の木のところか?」
「はい」
「降ろしてくれ」
旭陽はすこし逡巡して辺りを見回し、勝母を平たい岩の上に降ろした。
「草履を持ってきます」
「いい。冷たくて気持ちがいいんだ…」
ひんやりした石の上で、早春の風に吹かれる。
さっきまで抱っこされていたせいで、思わずブルリと身が震えた。すぐにバサリと何かが肩に掛けられる。
「着てて下さい。暖かくなったとはいえ、その格好じゃ寒いです」
「重いな。なんだこれは?」
「外套ですが、重いですか?」
「………いや」
外套程度を重く感じる自分が、随分と弱くなったように思えた。
数ヶ月前ならば、振り払っていただろう。
だが今は、この温かさを手放せなかった。
そっと一歩踏み出す。
長年の修練の果てに硬くなった足裏に、柔らかな春の草を感じる。
「桜はこちらですよ」
そっと旭陽が手を取り、桜のある方へといざなってくれた。
硬い樹皮を手の平で感じていると、旭陽も同じようにペタペタと幹を軽く叩きながら、懐かしそうに言った。
「そういえば、この木には名前があるんでしたっけね? えぇと…『勝利』でしたっけ?」
「『必勝』だ」
「あぁ、そうそう! 勝母さんの姉妹の木でしたね」
「………」
勝母は見えない目で、おそらく満開であろう桜の木を見上げた。
「父が…私につけてくれた名前は
ボソリとつぶやく。
言ってしまってから、少し後悔する。どうしてそんなことを話してしまったのかと、自分でもわからない。
今となっては、志摩以外知ることのない名前。
二度と、誰に呼ばれることもない、捨てた名前。
旭陽は当然、勝母の心中など知ることもない。ただ心底驚いて、聞き返してくる。
「みゆきさんですか?」
「あぁ。幸せと書いてみゆきと読む。……似合わないだろう?」
「そんなことありません。とてもいい名前です。幸せであるように…と名付けられたのでしょう」
勝母は黙り込んだ。
同じことを言っていた母のことを思い出す。
――――― 幸…という名前は、あなたが幸せになるように…と願って、つけて下さったのよ。
「本当にそうなら……どうして、私は父を殺さなければならなかったんだ?」
誰に向けるでもなく問いかけた勝母の声は震えていた。
嗚咽を呑み込んだ顔が、奇妙な笑みを浮かべて歪む。
「鬼になって、母と弟を喰って、祖母を殺して…どうして私だけ生かした? 毎日、叔母の怨嗟を聞いて、父を殺すためだけに強くなった。復讐だけが、私の生きる意味だった。そうしてようやっと…望みは叶ったのに、私は……私は…何も、ない」
勝母は我知らず宙に手を伸ばしていた。
ハラハラと舞い落ちる花びらが、あの日の雪となる。
闇の中に降る雪。椿の木の横で立ち竦んでいた幼い自分。
復讐は果たしたと伝えても、振り返った顔は暗く……恨みに満ちた目で勝母を睨みつける。
ゆらり…と体が傾いた。
だが、倒れることはなかった。何かが勝母をしっかりと縫い留めるように、支えてくれている。
「お父さんを殺したくなかったんですね」
たった一言。
柔らかな口調でありながら、きっぱりと言い切った旭陽の言葉に、勝母の瞳から涙が滂沱と溢れた。
固く閉ざし、自分ですらも見えなくなっていた本心を、あっさり射抜かれた。
ううーっ、と嗚咽を止めようと唸ったが、無理だった。
「殺したく…なかった…」
泣きじゃくりながら、つぶやく。
「殺したくなかった…けど、鬼だから…私は…鬼狩りだから…母上の…仇だからっ…」
長く自分の奥底に押し籠めていた幼い勝母が、声を上げて泣き叫んだ。
「殺したくなかった! 殺したくなかった!! 殺したくなかったのに……父上ぇぇ」
七歳のときに母を失い、生きる希望をなくして茫然自失となっていた勝母に、叔母は生きるための力として『復讐』を与え、そこに絶えず『恨み』と『憎しみ』を注ぐように強要した。
つらかった。苦しかった。……寂しかった。
けれど叔母からの心無い言葉よりも、ずっと勝母を傷つけていたのは、自らの本心に目を背けてきた自分自身だった。
今、ようやくそれがわかっても、もう言葉は届かない。
自分は父を殺してしまった。
声も涸れ、涙が乾いても、勝母は虚ろだった。
このまま……目の見えないまま、闇に埋もれてしまいたい。……
旭陽は黙っていた。何も言わず、しゃくり上げる勝母の背を優しく撫でさすっていた。
静かで穏やかな春の日差し。
哀しげな
止まったような時間。
突風が吹いて、ザアァと葉擦れの音が沈黙を動かした。
「……幸さん」
不意に呼ばれて、勝母は顔を上げた。
何も見えないはずなのに、旭陽が微笑んでいるのがわかった。
「綺麗ですよ、桜」
旭陽の声に呼応して、ザザとまた葉が鳴る。
勝母に呼びかけるように。
ゆっくりと勝母は振り返った。
見ようと思ったわけではないのに、光が徐々に瞳の中にあふれてくる。
「…………ああ」
吐息と一緒に、呻くようにつぶやく。
淡雪のごとく、桜が春の光の中で舞い散っていた。
「綺麗だ。ずっと……気付かなかった」
旭陽の腕の中、勝母は恍惚とその美しい光景を見つめていた。
やがて緩慢な
<つづく>
次回は2023.03.04.投稿予定です。