病弱ながらも、これまでの実績からいえば、十分に柱としての要件は備わっていた。
だが、縫が柱になることはなかった。
「叔母上、お早うございます。具合は……」
入ってくるなり、枕が目の前に飛んでくるのを、勝母は掴み取ると、ゆっくりと縫の側に歩いていって、布団の上にその枕を置いた。
縫は勝母が隣にいるのを感じ取って、ブンと手を振り上げたが、それは勝母の肩をかすめただけだった。
「叔母上……また、血が上ったら、目が痛くなるのではないのですか?」
勝母が静かに尋ねると、縫は唇を噛み締め、瞳に爪をたてる。
二ヶ月前、縫はとうとう下弦の鬼を成敗した。
だが、その戦闘で縫は両目の視力を失った。
ようやく柱として、祖母と同じ位置にまで行けると思った縫の歓びは奈落へ叩き落された。
戦闘後、隠が縫を救出した時、縫の目からは大量の血が流れ、瞼は赤く腫れ上がっていたらしい。
その後、腫れがひいてようやく目を開くことが出来た時、目は薄紅色となって、中心で血豆のようになった瞳孔は動かなくなっていた。
その目に何も映らず、光を感じることもない。
縫は自分が失明したと理解した時、絶叫した。
いつまでもいつまでも絶叫を繰り返し、床にも壁にも頭を打ち付け、見えぬままに動き回って、縁側から転び落ちて足を捻挫し、
手に負えぬ…と勝母は縫の
初めて叔母に向かって手を出したのだが、倒れ込んだ縫があまりにも身軽であったので、どうにも自分の気持ちを持て余した。
この程度であれば、いつでもやり込めたのだろうが…今となっては耐えた自分を褒めるべきか、馬鹿正直と嘲笑うべきか…。
はっきりと鬼殺隊の除隊を申し出ることはなかったが、縫に任務が与えられることはもうなかった。
両目の失明と精神錯乱の気があることを、志摩が
もはや自分に隊士としての価値が一分もないことがわかると、縫の卑屈さは傲慢なまでに膨れ上がった。
勝母が縫の前に姿を見せる度に、髪を振り乱し、憑き物おろしの巫女のように、憎悪のまま支離滅裂なことを口走った。
「勝母! 貴様は…いずれ死ぬのだ。殺されるのだ。自らの父の手にかかって……母や弟と同じように殺されて……喰われる。ケッ、ケケッ! そうだ! そうだ! 喰われてしまえ!! お前なぞ、喰われてしまうがいい!!」
「お前は鬼の娘だ。お前の父は鬼となったのだからな…父の業を背負って、鬼殺隊に入って…せいぜい白眼視されるがいい!!」
「いつまでものうのうと生きて…お前が今ここにいる意味がわかっているのか!? お前の役目は父を殺すことだ! お前の父を…
「どうしてあの男は…あの鬼はいつまでもお前を生かすのだろうなァ? えぇ? とっとと殺して喰らえばいいものを。お前、あの男と実は通じているのではないのか?」
「なぜ黙って見ていた? 母を喰い殺されるさまを見ておきながら、貴様は何もしなかった。貴様は母も弟も見殺しにしたのだ! その上、祖母までも捨て置いて。家族を助けることもできなかった貴様が鬼殺の隊士など、片腹痛いわ!」
「お前は復讐のために、自分の父を殺す……ケケケッ……この親殺しめ。お前の行末にあるのは地獄だ。お前は幸せになどなれぬ。お前は永遠に孤独で、永遠に嫌われて、永遠に不幸だ。哀れよな……惨めに死んでいけ……ケケケケッ!!!」
そんな生活の中でも、勝母は黙々と修練を行っていた。
もはや縫に教えてもらうことはなくなっていた。唯一の事を除いて。
◆◆◆
半年が過ぎた頃、勝母は縫の前に端座し、頭を下げて告げた。
「一月後には、最終選別に向かいます」
縫は横たわったまま、ギロリと勝母を睨みつけた。
「……ふん。鬼に喰われるがいい」
「そのような事にはならないと思いますが……行く前に、最後に叔母上より教えて頂く必要があります」
「………」
熱に浮かされた縫の赤い顔にニヤリと狡猾な笑みが浮かぶ。
「教えぬ…教えぬぞ……あれは…私のモノだ」
「……ずっと布団の下に置いているようですが……そんなことをしていれば、湿気で
「…知ったことか」
縫は言いながら、布団のその部分に手を置いた。
下に置いてある帳面の感触を確かめているのだろう。
縫は己の行った修練についても、鬼の毒の精製についても、詳細に記録を残していた。
そうしておかねば、自らの復習ができないというのもあり、備忘録ということでもあったのだろう。
だが、簡潔明瞭に目的と手順について記されたその書物類は、学ぶ者にとっては一級の価値を持った有用なものだった。
そんな縫であるから、例の終ノ型についても、必ず記録として残してあるであろうことは容易に想像できた。
勝母は静かに深呼吸して、じいと縫を見つめた。
縫はこちらを見ているが、勝母とまったく目は合わない。
最近ではやたらと涙が垂れるらしく、今も本人も気付かぬままに涙が頬を伝っていた。
「……わかりました」
つぶやくなり、勝母はグイと布団を引っ張った。
ギャッと悲鳴を上げて、縫が転がる。
その隙に布団の下にあった帳面を取り上げた。
縫はすぐさまに勝母に掴みかかろうと立ち上がったものの、駆け寄ろうとして布団に
「返せ!!」
縫が叫んだ。
怨念が籠もったその叫びに、勝母は白けた目でチラリと見ただけだった。
ようやく縫から手に入れたその紺表紙の帳面をペラペラとめくると、
「やはり湿気で…墨が滲んで文字が読めなくなってますよ。せっかく叔母上が尽力されて創り出した技なのに…後世に伝えることもできません」
と、残念そうにつぶやく。
縫は頬を歪ませて、皮肉な笑みを浮かべた。
「お前などに……いや、誰もこの技を遣うことなど出来ん。これは覚悟の技。死することよりも辛い覚悟の上に成り立つ技よ」
「…………どうぞ」
勝母は帳面を縫に渡すと、縫はすぐに自らの帯の中へと無理矢理押し込んだ。
「愚か者めが……これこそ、花の呼吸の最後にして至高の大技であったのだ。ケケ…ケケ…お前は一生、この技を手に入れることもなく、父に殺され喰われるがいい……ケケケッ」
「………残念です」
勝母は無念を滲ませて辛うじて返事すると、叔母の部屋から出た。
後から出てきた志摩が、昔は祖母の部屋だった場所まで来ると、嘆息して肩を落とした。
「本当に……どうしてああまで頑ななのでしょうか。それが達様にも結局気に入られなかったというのが、おわかりにならないのですね」
「おばば様はあれで、あの人の真面目なところは買っていたと思うけど…」
言いながら、勝母は懐から取り出した帳面をめくる。
志摩はギョッとした。
「え? え? 勝母様…あれ……さっき縫様にお渡しになったのでは?」
勝母は読み進めながら、頷いた。
「ああ…蔵にあった雑記帳を渡した」
「ま…あ……」
志摩が驚きのあまり言葉をなくしているのを見ると、勝母はクスリと笑った。
「何を驚くことがある?
「志摩には、勝母様がそうした
「………叔母上も、もう少し感覚が鋭ければ、これとあれが別物であるとは、すぐにわかったろうに。大事な大事な虎の子の書附の見分けもつかぬ……この感覚の鈍さが叔母上の剣士としての限界であろう。ただひたすらの努力だけで、よくも生き残ってこれたもの……」
勝母は既に縫の能力を冷静に見極めていた。
その眼差しの鋭さに、志摩は唾を飲み込んだ。まだ子供の筈なのに、柱であった頃の達の姿が重なる……。
パラパラと概ねを読み終えて、勝母はしばらく虚空を黙って見つめた後、フッと笑った。
「志摩…叔母上のあの目、鬼にやられたのではないぞ」
「…どういうことでしょう?」
「この技よ。よくも終ノ型などと名付けたものだ。自らの目に血の流れを集中させることで、相手の動きの極限まで読む……そうして鬼の隙見て首をとる技よ。終わった後には、鬼は死ぬが…自らの視力もまた失う」
志摩は縫の目を思い出し、顔を顰めた。
下弦はそこまでの犠牲を払わねば殺せぬ鬼だったのか、それとも縫の剣士としての才能の限界が早かったのか……。
「まさに身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、だな。自らの身を削って……おばば様なら、このような技は考えもつかぬ。叔母上にしか創り出せぬ………因業深き御技」
「このような技…伝えていくことなどできません。遣ったが最後、次はない」
志摩は首を振って呆れて言ったが、勝母は考え込んでいた。
「そうでもない。いずれ無惨か……もしくは自分にとって何としても殺さねばならぬ鬼が現れた時には、役に立つだろうよ。それまではただ脳髄に叩き込んで、想像の中でしか稽古できないだろうが……」
志摩はそっと目を伏せた。勝母の言う『何としても殺さねばならぬ鬼』が誰を指すのかは、明らかだった。
鬼を殺すことが使命の鬼殺の剣士であっても、この宿命はあまりにも酷すぎる。
早く、誰か…勝母以外の柱か有能な隊士によって、五百旗頭卓磨が殺されないだろうか。
「それにしても……」
勝母は書附を見つめながら、クスクス笑った。
「覚悟の技…という割に、当人にそのお覚悟はあったのかな? 失明を覚悟して遣ったのであろうに、ああまで心が壊れるとは。脆い方だ」
「……まことに」
「いずれにしろ、無理して藤襲山の前までに片付けねばならぬものでもなかったな。このような技であると知っていれば、去年には向かっていた……」
「では…やはり、行かれるのですね?」
「当然だ。遅すぎたくらいだ。叔母上のお
一ヶ月後、勝母は藤襲山へと向かった。
戦績において、五百旗頭勝母はほとんどの鬼を殺し回ったと言われる。その年の受験者は二名が初日に死亡したものの、残りは全て合格した。
◆◆◆
最終選別から帰るなり、志摩は疲労困憊した様子で深々と頭を下げて告げた。
「……縫様は、もはや人としての
勝母は眉を寄せただけで、返事することなく縫の部屋へと向かった。
襖を開けた途端に、臭気が鼻につく。
縫は布団の上で例の雑記帳をじっと見つめながら、何事かブツブツとつぶやいていた。
いつからそうしているのか……。浴衣の紐も解けて、下半身があらわになっている。
布団の上には
「……志摩、着替えを」
後ろについてきた志摩に言うと、ゆるゆると首を振る。
「できませぬ、勝母様。無理にしようとすれば、まるで狼のごとく噛みついてきて、あらゆるものを投げつけてくるのです。ぐっすりと寝入るのを待つしか……」
「そうか。お前には無理か…」
勝母は縫の側に歩み寄ると声をかけた。
「叔母上」
「……………」
「叔母上、着替えましょう。随分と濡れて、気持ちが悪いでしょう?」
「……………」
縫は返事をしなかったが、勝母がその肩に触れると、カッと目を見開いて、手近にあった枕を掴んで投げつけようとする。
勝母は投げられる前に枕を取り上げると、無言で縫の鳩尾を打った。ウウッ! と呻いて、縫はコロリと汚れた寝具の上に倒れた。
「志摩…盥に湯を入れて持ってこい。それと着替えと、何か…
手早く指示して、勝母はすっかり痩せ細り、痛ましいばかりの姿になってしまった叔母を見つめた。
この叔母にひたすら虐め抜かれた日々が、今となっては思い出せない。思い出として記憶にすら残したくないのかもしれない。
勝母は刀が届き、初任務が言い渡されるまでの間、ほとんど縫の介護をして過ごした。
夜中でもいきなり起き出して徘徊し、時に屋敷の外に出ることもあるために、つききりとなった。
時々、志摩が代わることもあったが、そうすると縫はいつまでも寝なかった。勝母を探して屋敷中をうろつきまわる。結局は勝母が手をとって、寝床に誘い、隣で眠るのを見るしかない。
以前はひたすらに勝母を怒鳴りつけ、嫌味を言い、怨念を吐き散らかしていた叔母が、たった十日間ほど留守にしただけで、まるで赤子のように自分に懐くようになったのが、勝母にはただただ奇妙だった。
何が一番おかしいかといえば、自分がそういう叔母を受け入れてしまっていることだった。
ひどく居心地が悪いのに、遠ざけることができなかった。
◆◆◆
ある日のこと。
また夜に徘徊を始めた叔母の後を、勝母は静かについて歩いていた。
無理に寝かしつけようとすると、夜泣きする赤子と一緒でいつまでも泣いて喚きたてるので、疲れるまで歩かせて、それとなく屋敷へと向かわせた方がまだしも楽であった。
気をつけて見ていたが、ふと目を離した拍子に縫は小さな用水路に落ちてしまった。
「あ……あぁ……」
用水路の水流は意外に強く、やせ細った縫はあっという間に流されていく。
勝母はあわてて追いかけて、どうにか下流の川幅の狭くなったところで縫を引き上げると、息をついてから地面に寝そべった縫に声をかけた。
「……大丈夫ですか?」
「…ふふふ……ふふ」
縫はまるで少女のように笑っていた。初めて見るその邪心のない笑顔に、勝母は戸惑った。
「…前にも助けて下さいましたね、姉上」
縫がかつての幼い…少女の頃の記憶のままに話しかけてきた時に、勝母は自分が母と勘違いされていることに気付いた。
「…………」
絶句した勝母を、縫は見えていない目で見つめる。
いつしか白く濁り始めた瞳は、何も映さない。ただ脳裏に浮かぶその姿のまま、人を見ている。
「姉上はきっと…母上と同じに強い……花柱となられます。私は露払い程度にしかなれぬでしょうが…姉上と一緒に戦えるよう…精進致します」
それはかつて、縫が結に言ったことだったのだろうか。あるいは、言いたかったことなのだろうか。
―――――お前さえいなければ、姉上は隊士となっていた。我らは共に鬼を葬って………
そう遠くもない昔、縫に言われた言葉が甦る。
あれは、縫の願い。
体弱くして生まれ、役に立たぬと蔑まれても、文字通り血反吐を吐きながらつらい修行を乗り越えた先に、縫が夢見た…将来。
ようやく勝母は自分が縫に恨まれる理由に思い至った。
自分という存在そのものが、彼女から全ての希望を奪ったのだ。
病弱な縫をひたすらに庇い続け、励まし、孤独な心に寄り添っていたのは結だけだった。
縫にとっての唯一であった結が、ある日突然に知らぬ男の元へと自分を置いて出て行き、帰ってきたと思えば今度は、その腕に抱いた赤子が自分よりも大切にされる…。
誰も…結ですらも、縫の絶望に気付かなかったことだろう。
それこそが、縫にとって最もつらく哀しい現実だった。
勝母はだが、縫を憐れとも思えなかった。
心があまりにも硬く冷えて固まって、麻痺していた。
ただ、隙間をぬうように涙だけが
濃密な紺の闇に、雪が舞い落ちてくる。
父が鬼となって、母と弟を殺し喰い、祖母を惨殺した冬から、もう何年が過ぎたのだろう。
未だに雪の降る夜は、勝母を震撼とさせる。
ブルリと体を震わせると、横で叔母が小さくくしゃみした。
「…寒い……寒いです。姉上」
縫は大袈裟にブルブルと身を震わせて、勝母に笑いかける。
陰鬱な顔で勝母は縫をまじまじと見つめた後、つぶやいた。
「……叔母上」
「………」
首を傾げる縫に、勝母はもう一度言った。
「叔母上……私です。勝母です……」
「かつ…も?」
「…………
久しぶりのその名を口にした途端、縫の顔は豹変した。
赤い痣が一気に熱を持って炎を纏うかのように浮かび上がる。
さっきまで少女のようにあどけなかった表情は、般若のごとく醜く歪んで、
「お前がなんでいる!? お前が……あの男はなぜお前を殺さない!? なぜ愛しい妻を殺しておいて、愛してもおらぬ娘を喰わなかったのだ!!!?」
勝母は再び凍りついた。
縫はズルズルと這い寄ってくると、勝母の足を掴み、太腿を、腰を、腕を、ゆっくりと蛇のように絡みついて、やがて首を両手で巻いた。
「死んでしまえ! 死んでしまえ! お前など…いずれ……鬼に殺されるのだ!!」
勝母はしばらくそのまま縫を見つめていた。
自分を殺さんとしているのに、あまりにか細い手は、ただ震えるばかり。
『あぁ。そうだ……私はいずれ鬼に殺される。それでいい…本望だ』
勝母は心の中でつぶやいた。
両手で縫の手首を掴み上げると、縫は幼い子供のような甲高い声で悲鳴を上げた。
「ヒイィッ!! 痛い! 痛い!!!!」
手加減しなかったので、もしかすると骨が折れたかもしれない。
勝母は痛がってうずくまる縫を無表情に見ていた。
「痛い、痛い、痛いよォォ」
泣き叫ぶ縫は、再び童女に戻っていた。
「行きましょう……縫」
勝母はそっと呼びかけて、縫の手を取った。縫が握り返してくる。
勝母が歩き出すと、ひっくひっくと、しゃくり上げて泣きながら、手を引かれてついて来る。
勝母はまた涙が零れそうになって、ギリと奥歯を噛んだ。
最後の最後で、結局この叔母は逃げたのだ。
自分のつらさから、見たくない現実から。
どこまでも卑怯で、弱く、不快な人間。
尊敬と真逆の位置にいながら、肉親であるというその一事だけで、勝母はこの叔母を棄てることもできない……。
五日後、縫は息を引き取った。
あの日、濡れた体で雪の中を歩き回って風邪をひき、そのまま肺を患って死んでしまった。
その日に、鴉が初任務を告げた。
「火葬して、すぐに墓に入れておいてくれ」
「……それでよろしいのですか?」
「葬儀などして、誰が弔いに来るというのだ? せいぜい懇意にしていた怪しげな薬問屋が
言ってから勝母は口の端を歪めた。
「さすがに…キツい物言いだったか。母上が見れば……なんと薄情な娘だと、嘆かれるだろうな」
「そのようなことは…」
志摩は首を振ったが、確かに勝母の言う通り、縫の為に涙を流す者など一人もいないだろう……と思うと、あまりに孤独に逝ってしまった故人を憐れんだ。
だが、志摩もまた縫が死んでホッとしている…というのが本当のところだ。
「……行ってくる」
志摩の切り火に見送られて、勝母は夜の中を駆け始めた。
<つづく>