トレーナーさんが病室から去り、病院は静寂に包まれる。
……もし、明日の朝。トレーナーさんが来なかったら、どうしよう。捨てられちゃったら、どうしよう。義務感で、私に付き合ってくれているだけなら、どうしよう。
今からでも病室を飛び出して、地を這ってでも追いかけてみようか、という欲求に駆られた。
私の力なら、トレーナーさんを組み伏せられる。そのまま引きずってこの部屋まで持ってこれる。私の物にできる。
…………何を考えているんだ、私は。
「スー………フー………」
深呼吸して、嫌な思考と、パンクしそうな頭を落ち着ける。
…トレーナーさんはそういう人じゃない。考えるのは、止めよう…。
月明かりが病室の窓から差し込んでいた。
一昨日までなら、綺麗だと感じることができたかもしれない。
月が酷く、私を嘲笑っているように見えた。
私は目を瞑った。
_______________翌朝。
ボーッと。ぼんやり、無地の壁を見つめ続けている。……前までの私なら、朝起きて、顔を洗って歯を磨いて着替えて…そのまま朝練に行っていた。……やることがないと、こんなに暇だなんて。
……そろそろ、朝6時。…来てくれ…ますよね…。
コンコンコン。
ぎゅんっ、と首が凄い速さで扉を向いて。
「どうぞー」
ゆっくりと扉が開かれ…トレーナーさんが現れた。
ああ、来てくれた。良かった。
「おはよう、スズカ」
「おはようございます、トレーナーさん」
トレーナーさんの様子は…やっぱりげっそりしている。
トレーナーさんが病室をキョロキョロと見回し…昨日座ったパイプ椅子に腰を下ろす。
「スズカはよく眠れた?」
「はい。…トレーナーさんが一緒にいてくれた時程じゃありませんが」
「ははは…また、しばらくは一緒にいるから」
「…フフ……なら、しばらく快眠できそうですねぇ…」
本当に。快眠できそう。
「………さて、スズカ」
「はい」
「リハビリ、頑張ろうか」
「…はい。頑張りましょう」
そういう訳で、トレーナーさんとのリハビリ生活が始まった。私の担当の医師からは歩けるようになるまで回復すれば御の字と言われた。……一応、そこまでは回復するかもしれないんですね。…走る所までは、ピンポイントで……。
はっきり言ってリハビリ生活はとても辛かった。私の左脚は文字通り粉砕されていたので、まずは真っ直ぐ立つ事から始めた。
その次は、手すりに掴まって歩行の真似事をした。
…歩くのって、こんなに難しかったんだ…。
左脚を前に踏み出すと踏ん張れずに、そのまま倒れそうになる程に、私は歩くことができなかった。と言うか、歩行の感覚を忘れてしまっていたと言うべきか…?
トレーナーさんが側で支えてくれていなかったら、私は骨折を増やしていたかもしれない。
トレーニングやレースで、諦める事をしなくて本当に良かったと思う。
リハビリを嫌でも毎日したため、本当に少しずつではあるけれど…歩けるようにはなっていた。5歩から10歩、10から20歩へ。
リハビリ期間中に、スペちゃん、エアグルーヴ、フクキタル、タイキがお見舞いに来てくれた。……とても、嬉しかった。
「ス”ス”カ”さ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”ん”」
「よしよし、スペちゃん…」
スペちゃんが私のベッドの横で大粒の涙を流しながら私の右手を両手で握る。そんなスペちゃんの頭を私は左手で撫でる。
「もう、走れなくなっちゃったけど、私はちゃんと生きてるから…」
「うぐ…えぐっ…あの…あの時は……本当に……」
「大丈夫、大丈夫だから…」
いつもと様子の変わらないスペちゃんを見て正直安心しちゃった…。
それから、スペちゃんに最近どうか、とか、食べ過ぎてないか、とか、勉強頑張ってるか、とか。色々とお話をした。
リハビリも手伝ってもらったし…久々に、心から笑えたような気がした。
そして、去り際。
「スズカさん。私、スズカさんの分まで頑張りますから。スズカさんが退学しても、絶対に忘れませんから!だから……えぇっと…………頑張ってください!」
「…ふふふ…スペちゃん。ありがとう。頑張るわね」
「はい!……じゃあ、スズカさん。また来ますから。お大事にー!!」
「えぇ。またね、スペちゃん」
スペちゃんが遠ざかって行く。
スペちゃんは、私が見えなくなるまで、手をブンブンと大振りで振っていた。私も、胸元でフリフリと振り続けた。
その日は歩数を大幅に更新できた。トレーナーさんはとても嬉しそうだった。
……スペちゃんが幾分も大きくなったような気がする。精神的にも大きくなった気がする。
…それが、ちょっぴり寂しかった。
一週間も経たずに、新たなお見舞いが来てくれた。今度はエアグルーヴとタイキとフクキタルだった。
「スズカ。見舞い、遅れて申し訳なかった。本当はすぐにでも行きたかったのだが…。…脚の事は…残念だったな」
「スミマセンデシター…」
「ごめんなさいスズカさん…!!どうか怒って丑の刻参りなんてしないでくださいぃぃぃ……!!どうせなら皆でお見舞いに…っていう事になって…そしたらこんなに遅くななっちゃったんですぅぅぅ……!」
「ううん、いいのよ、皆。来てくれるだけでも、本当に嬉しいから…」
今日の病室はとても賑やかだった。まぁ、一度に3人も来ればこうもなろう。……この賑やかさは、とても好き。
「その様子だと……あまり変わりないようだな。良かった。リハビリ、頑張ってくれ。欲しい物があるなら、できるだけ…望みを叶えよう」
「オゥ! エアグルーヴ! お見舞いは好敵手として当然……って言ってましたケド、やっぱりスズカが心配だったんですネーー!? エアグルーヴは優しいデース!!」
「なっ……タイキ!? ここは病室だぞ…! 静かにしろ…!」
「ぷっ」
学園でもよく見たやり取りをまたここでも見れるなんて。失礼だが吹き出してしまった。それを見たエアグルーヴは違うんだスズカ、と色々言い訳をしていたが、私がニコニコ話を聞いていると諦めてそっぽを向いてしまった。
「それで…スズカさん……お見舞いの品を用意しました……よっと!」
ゴトン、と病室の机にフクキタルが腕に抱えることができる程度のサイズの段ボールを置いた。
「フクキタル……それは…?」
「おい、貴様、本当にスズカにそれを渡すのか…?」
「それは何デスカー?」
「これはですね〜…スズカさんの早期退院を助ける…開運グッズです!!」
フクキタルが段ボールの中身を取り出した。
…不気味な人形に……よくわからない文字の書かれた御札……そして毒々しい色の水晶球…。
………呪物に見えてしまった。でも、せっかく用意してくれたから…。
「あ……あは……ありがとう、フクキタル。だいじ……にさせてもらうわ」
「はい!リハビリ頑張ってくださいね!スズカさん!」
「はぁ……まぁ、そういうことだ、スズカ」
「頑張ってくださいネー!スズカー!」
「えぇ……ありがとう、皆」
この後3人とはレースやトレーニングについての話した。あの時はどうすれば勝てたか、とか、私に土を付けたかった、とか、走行フォームを綺麗にしたい、とか。
この話になるともう、私も皆も止まらず……気付けば、もう夕方だった。
3人はまた来ると言い、それぞれ挨拶を済ませて、病室から帰っていった。
………皆、前へ前へと進んでるんだ。……私も…未来について考えないといけない、か。
その日から、私は病院内を辛うじて誰にも支えられずに行き来できるようになった。ここに至るまで、半年も掛からなかった。
…トレーナーさんと、皆のおかげだ。
__________退院の日。
「退院おめでとうございます!スズカさん!」
「ありがとう、スペちゃん…皆」
「いやはや、開運グッズのご利益があったようですねぇ〜!」
「あ、あはは…。多分……助けになってくれた…かな…?」
「はぁ………スズカ。もうお前と走れないのは残念だが……お前の走りは決して忘れない。私達のライバルでいてくれて、ありがとう」
「たまには連絡くださいネー?スズカー?」
「うん。皆のレースには、なるべく行こうと思ってるから」
「……………」
「…………」
私達の間に沈黙が流れる。…これで、終わりかな。
「…じゃあ、スズカさん。お元気で!」
「はい。さようなら……皆」
私は軽く皆に手を振る。それが合図となり……皆、ゆっくりとした足取りで、病院の敷地から去っていった。
スペちゃんは今回も私が見えなくなるまで手を振り続けていた。
「………なぁ、タイキ」
「なんデスカー?」
「…スズカの目…」
「あ、あぁ…。何だか……ちょっと……怖い色をしていましたネー…」
「う”ぇ”っ”。あ、あれって私の見間違いじゃなかったんですか…!?」
「…どうやら気のせいじゃないらしい」
「……大丈夫かな……スズカさん……?」
半年以内に……リハビリを終わらせる事ができた。担当の医師が言うには、半年以内にあの骨折が治ったのは奇跡なのだそう。
病院の関係者の方々に挨拶を済ませて今、私は病院の正門前で、トレーナーさんと一緒に並んでいた。
……本当に、ありがとうございました。
「……トレーナーさん。お世話になりました」
「いいんだよ、スズカ」
正門に来る少し前、スペちゃんとエアグルーヴとタイキとフクキタルがお祝いに来てくれた。
レースをたまに見に行く、とちゃんと約束した。これが今生の別れじゃないけれど…寂しい気持ちは抑えられない。
「……スズカは、もうどうするか決めたか?」
予てより聞きたかった事なんだろう。
リハビリの期間は長かった。だから、答えを出すことができた。
もう走れないのなら、潔くそれを受け入れよう。また、1からのスタート。……それには。支えてくれる人が必要だ。
「……はい。私は……普通の人として、生きて行こうと思います」
「……そう…か。うん。わかった」
トレーナーさんが残念そうに俯く。
「エアグルーヴに、タイキに、フクキタルに、スペちゃん。皆元気そうで…。皆、前を向いていて、キラキラしていました。…私も、前を向かなきゃ…って。……今まで走る事が私の使命で、1番の楽しみだと思っていましたが……同じ位私を夢中にさせてしまうことも、しばらく前に見つけられたので」
「…スズカはもう次の目標が決まったんだなぁ。偉いなぁ……」
えぇ、見つけましたよ。私のすぐ隣に。
「…フフフフ……はい」
口元を押さえて、私はクスクスと笑う。正直、今の私に残っているのは人との繋がりだけ。だから、もう、決めた。自分の気持ちに正直になろう。
私はトレーナーさんが大好き。今の私がいるのは、トレーナーさんのおかげ。トレーナーさんは気負って、きっとこのまま私から遠ざかってしまうだろう。………そんな事は…………させない。…どうにか、ずっと一緒に過ごせる方法を考えなきゃ。
トレーナーさんと、目が合った。
私は満面の笑みを浮かべながらトレーナーさんをみつめる。
「ッッ」
「……?トレーナーさん?」
トレーナーさんが、僅かにたじろいた。その姿に、きょとんと首を傾げる。
「あっ……いや……あは…はは。す、スズカの髪の毛、綺麗だなって」
「ふぇっ。あ……ありがとうございます…?」
ほ、褒められた。どうして…?で、でも、嬉しい…。
「……す、スズカ。学園に…荷物を取りに行こう…か」
「…はい、そうしましょう」
私達は病院の正門を出て、歩道を歩く。そこで、トレーナーさんがタクシーを捕まえる。
タクシーの中では、トレーナーさんと他愛もない話をした。
……運転手さんの視線がうるさかった。
_________数十分後。
タクシー内で少しして…いつの間にか、もう学園の前に到着していた。…やっぱりトレーナーさんと一緒にいると時間の流れが速い。
カチリ、とメーターに金額が表示される。トレーナーさんは財布を取り出してぴったりの金額を運転手さんに渡す。
運転手さんとのやり取りも済んだのでタクシーを降り…トレーナーさんの一歩後ろを歩く。
トレセン学園の地を、踏みしめる。
…久しぶりの学園。いつ見ても、大きい。久しぶりなものだから、いつもよりずっとずっと大きく感じられる。
トレセン学園にいることは、私にとって当たり前だった。
三女神像に、規則的に植えられた桜の木、夕日に照らされて、光を反射する窓、そして道行くウマ娘達の笑顔や声。それらが合わさって……この空間は、とても…とても綺麗だった。
…もう私にとってはもう夢の跡地だ。
「………今日で最後なんですね。学園へ来るのも」
「…ああ、そうだな。荷物を片付けたら、こことはお別れだ」
歩いていると、やがて三女神像の前に着いた。……見守ってくれて、ありがとうございました。
そこから、ボーッとトレーナーさんと話しながら……スペちゃんと私の部屋の前に到着した。ガチャリ、と扉を開く。
部屋には誰もいなかった。…いない方がありがたかった。
さて…荷造りの準備をしよう。
ガチャリと押し入れを開き、予備の制服や私服を掻き分けて2つのキャリーバッグを取り出す。その中に、私物をポンポン放り込んで行く。……案外、私の私物って少なかったんだ。本当に私は走る事にしか興味が無かった事を突き付けられ、苦笑いしてしまう。
ベッドシートやら毛布やら、枕やらを詰め込んだ後はクローゼットの中身に取り掛かった。……途中で、勝負服と制服を手に取る。
……もう、着ることも無いんだ。
おしゃれとか、多少は興味があったけど…結局、この2着が1番しっくり来たな…。
全ての思いをしまい込むように、ボフッとキャリーバッグに詰め込んだ。
トレーナーさんと荷造りしたため、時間は掛からなかった。
「……さようなら、エアグルーヴ、タイキ、フクキタル、スペちゃん……トレセン学園」
「……………」
「………じゃあ、スズカ。ちょっと理事長に色々伝えて来るから。正門で、待っててくれ」
「……はい…」
……私は…名残惜しいんだろうな。心のどこかで、ここに残りたいって考えちゃってる。
いつまでも残る訳にはいかないので……キャリーバッグは私が一旦預かり、そのまま正門へと向かう。学園を隅々まで眺めながら歩いたため、正門まではすぐに到着した。
…後は…トレーナーさんが来て、終わり。
両手を腰辺りで組む。
さて……どうやったら、トレーナーさんと一緒になれるかな?お願いしても、絶対に首を縦には振ってくれない。……やっぱり多少無理やりに行くしか無さそう…。トレーナーさんには悪いけれど。
邪な思考をしている内に、背後から何かが走って来る音が響いた。
「………っふぅ、スズカ。おまたせ」
「…トレーナーさん。いえ、待ってなんかいませんよ」
くるり、と振り返る。
「よし…じゃあ、スズカ。駅まで、行こうか」
「………………はい」
トレーナーさんと一緒に、タクシーの荷台にぎゅうぎゅう、とキャリーバッグを押し込む。押し込んだ後はそのままタクシーに乗り…トレーナーさんが行き先を言おうとする。
…これが最後で最大のチャンスですね。
ごめんなさい、トレーナーさん。
私はトレーナーさんの口元に手を添え、そのまま座席に押し戻し、押さえ付けた。
「……ドライバーさん。トレーナー用マンションまで、お願いします」
有無を言わさぬ語気で運転手さんにそう伝える。
「……わかりました」
運転手さんは素直に従ってくれた。…これで、よし。
トレーナーさんの口元から手を離す。
「ッッ、す、スズカ、どういう……!?」
トレーナーさんが、どういうことだ、と目を見開いて言いかけた所で、口が止まった。
………どうしたんだろう。
「……トレーナーさん?どうなさいました?」
「い……や……」
「………フフフフフ……変なトレーナーさん…」
「………………」
トレーナーさんは私をしばらく見つめた後、黙ってしまった。
…私、言いましたよね。夢中になれるものを見つけたって。
タクシー内は先程と打って変わって静かだった。
無言のまま、タクシーは走り続け……やがて、トレーナー用マンションの前へ到着した。
トレーナーさんが押し付けるようにお札を運転手さんに押し付けて…タクシーから出る。私もそれに続く。
「……退院、おめでとうございます」
「…ありがとうございます、ドライバーさん」
呆然としているトレーナーさんを横目に、私は荷台からキャリーバッグを取り出す。それを確認した運転手さんは、バタンと扉を閉めてそのまま走り去って言った。
もう薄暗いマンションの前。私はトレーナーさんの隣に並ぶ。
「スズ…カ。どういう…つもりだ…?」
恐る恐る、トレーナーさんが聞いてくる。何故こんなことをしたのか、と。
「どういうつもり…とは…?」
「実家に…帰らなくていいのか。ここにいていいのか」
「………そんなこと、どうでもいいでしょう?」
実家の事なんかどうでもいい。今はとにかくトレーナーさんと一緒になりたい。
「なっ、よくな」
「トレーナーさんのお部屋は何号室でしょうか」
「…スズカ。ふざけるのも」
「トレーナーさん」
トレーナーさんの顔を下から覗き込む。
「………216」
「216号室だよ」
「……フフッ……素直に教えてくれれば良かったのに」
最初から、こうしておけば良かったんだ。
「さぁ、行きましょう」
もう、逃さない。離さない。
トレーナーさんの右手を…ガシリと掴む。
「トレーナーさん」
次回、落としにかかるスズカ。