テイオーが俺の部屋に住み着いてどれ程経っただろうか。
俺はもう、テイオーがいつも身近にいることが当たり前となってしまっていた。俺がそう認識してしまう位に、時間は経過していた。
朝起きればテイオーが俺の顔を覗き込んでいて、夜寝る時は同じベッドで手を繋がれて寝る。テイオーの手は鎖か。それとも天使の誘いか。
…テイオーが俺に関わらない日は一切無かった。
トレーナーとして仕事をしている時以外は、家から出ることもできない。テイオーがくっ付いて離れてくれないから。
テイオーが生活必需品を買ってきてくれるため、本当に仕事以外では外に出れないのである。…日の光を浴びないと…どんどん、元気が無くなっていく気がした。
今日は…テイオーと過ごし始めて何日目の朝なんだろう。
……目を瞑って考えてないでさっさと起きよう。さっきから日の光が瞼を叩いてうるさい。瞼は重いが……無理やりこじ開ける。
「おはよ、トレーナー」
「……おはよう、テイオー」
目の前いっぱいにテイオーの顔。今日もテイオーは俺が起きるまで待ってくれていたようだ。
「ん……」
テイオーが俺の体に覆い被さり、胸元に頭を擦り付ける。…俺は甘えたがりな犬を相手するように、左手で頭を撫でてあげた。…テイオーの髪はきめ細やかで触り心地がいい。まるでシルクみたいだった。
…こうしている間は、テイオーは全く危険な兆候を見せない。目にも光があるし、本当にかわいいものだ。
ただ……目の前で他のウマ娘の話や離れる素振りを見せると途端に目から光が無くなるし、時折暴走して俺を組み伏せたりする。
これは一緒に暮らし始めた最初の頃の話だ。最近は……もっと酷くなり始めていた。一緒に過ごせば、いつかは良い方向に向かい始めるだろうと、俺は希望的観測をしていた。……人はそこまで単純ではないという事をこうも思い知らされるとは。
住み始めの頃は時間に対してある程度寛容だったが…今ではトレセン学園から帰ってくるのが遅くなっただけでも光の無い目で俺を玄関で出迎える。そこからは俺の匂いを嗅いで、質問攻めだ。
何で遅れたの。
桐生院? たづなさん?
他のウマ娘と会話してない?
ボク、悪いことした…?
ボクから離れないで。
とまぁ、こんな感じだ。桐生院トレーナーとたづなさんと飲んでた、なんて言ったら俺は手足を折られてしまうだろう。
匂いを嗅がれて俺以外の匂いが検出されれば、俺は右手をガリガリされる。…もう、あの人達とは一緒に過ごせないな。
……テイオーの様子がおかしくなっていると言ったが、それは俺も同じだった。俺も最近おかしい。最初はテイオーから逃げたいと思うこともあったが…今では全くそう思わない。
…縛り付けられるのが当たり前になってしまったかのように。さらに、テイオーが不安定になっていくに連れて、俺はテイオーのイエスマンになり始めていた。絶対にノーとは言わない。…言えない。
テイオーが何をするにしてもいいよ、いいよ、いいよ。……それでテイオーが喜んでくれる。だから俺も絶対にいや、と言わない。今まで理性でいやと言っていたことでさえ……今では…。
いや、と言おうとすると、何故か右手が震えるのだ。テイオーに治らない傷痕を付けられた右手が。
テイオーの意に沿わない事をしようとすると、右手の震えが止まらなくなる。脳が拒否反応を起こす。テイオーを傷付けるな、テイオーを悲しませるなと。
…体や頭が、俺にテイオーに隷属されろと指示してくる。
「ねぇ、トレーナー」
テイオーが見上げるようにしながら俺を呼んだ。
「うん…?」
「トレーナーに言い寄ってくる子、いない…?」
「大丈夫、いないよ」
「…良かったぁ…」
俺は今担当の子がいない。テイオーが持つことを許してくれないのだ。
「トレーナーは昔、ボクの走りは他の子と比べるまでもないって言ってくれたよね。あれ、噓だったの?」
「い、いや……本心からだよ」
「……ふーん。これ、何」
テイオーはバサリと書類の束を俺の前の床に投げ捨てた。……選抜レースで活躍した子のチェックリストだった。写真付きの。
…どうしてテイオーは俺が新しい担当を探しているって分かったんだ。そしていつこのチェックリストを見つけ出したんだ…?
「あ……それ……は……」
それを出されると俺は何も言えなかった。…別にやましいことは何もしていないのに。
「こんなモノ……いらないよね。だってボクがトレーナーの一番なんだもん」
「このっ、このっ……!!」
テイオーは床にあるチェックリストを憎々しげに睨み付けると、何度何度も脚で踏み付けた。チェックリストは見るも無惨な姿になっていき………そして、再び手に持ち…ビリビリと、破り捨てた。…顔写真はより念入りに、ね。
「…トレーナーがボク以外を担当するとか……許さないから」
……テイオーの目には怯えも含まれていたような気がする。
このようなことがあった。テイオーは俺が他のウマ娘と関わるのを極端に嫌がった。…テイオーはまだ、俺と共にターフで切瑳琢磨していたあの時から抜け出せていないのかもしれない。一番なら、ずっと見ていてくれ、か。
……思えば、あの頃から束縛は結構強かった気がする。…だけど…楽しくもあった。あの夢のような日々を考えたら、それも仕方がないことだと思う。
……いや、それとも。単に俺がテイオーの前からいなくなるかもしれないという恐怖からくる口実、言い訳でもあるのかもしれない。
だから、俺には担当がいない。基本、学園の書類仕事をしている。
あのトウカイテイオーのトレーナーだったと言う事もあり、俺のスカウトを所望し、トレーナー室の扉を叩く子ははっきり言って絶えない。…全て断っているが。落胆した様子でトレーナー室を去る子達の背中を、忘れることが、俺にはできなかった…。
……トレーナーとしてそれはいかがな物か。
理事長やたづなさんは俺の様子を見てか何かを言う様子は無い。…ひたすらに申し訳なかった。
……テイオーの事を考えると、結局俺は何もできないんだけどな。
以前と比べて、ずっとずっと怠い体を動かして起き上がる。
「?」
「テイオー。ご飯にしようか」
「ん…うん」
テイオーはスルリと俺から離れ、ベッドから飛び降りて寝室から出て行った。
さてと…俺も行こう。
「ごちそうさま〜」
「ごちそうさま」
顔を洗い歯を磨いた後、朝ご飯は目玉焼きを二切れを食べた。味付けは胡椒。テイオーが作ってくれた物だ。
……前まで楽々平らげてたのに、最近はやけに飲み込み辛い。
「美味しかった…?」
「美味しかったよ」
「ふへ………今、新しい料理をお勉強中だからさ……楽しみに…しててね」
「新しい料理かぁ。楽しみだなぁ」
テイオーの耳がわかりやすくパタパタと跳ねた。
…実に平和な会話。できれば、こんな会話をずっと続けていたい。テイオーの不安定な姿なんて、見たくない。…不安定になる原因は俺にあるんだが。
「…トレーナー。今日のお仕事は…?」
「今日は土日だからお休みだよ」
「!」
テイオーの耳がピコーンと張った。
「なら、一日中一緒にいられるねっ」
「…そうだな…」
「じゃ、トレーナー」
テイオーは椅子から降りて俺の頬に向かい……右手を掴んだ。
右手が震える。
「お部屋、戻ろ?」
「……うん」
ぐい、ぐい、と引っ張られながら…俺はテイオーと一緒に寝室に戻った。
テイオーはベッドにボフッ、と倒れ込み、俺はベッドの横に腰掛ける。
こういう場合、基本的にはテイオーと駄弁る事になる。ほとんど昔話だが。
…今日のテイオーはスマホをやりたい気分だったらしい。うつ伏せになりながら足をバタつかせ、スマホを指で弾いている。
人のスマホを覗き込む勇気が俺には無かったため、ボーッと部屋の角を見る。……何も無い。
大の大人が、休日に何もしないとなると情けなくなるな…。
くるりと部屋の窓の方を向き…テイオーの担当になるまで、思い浮かべていたトレーナーとしての日々を部屋の窓に幻視する。
……テイオーと3年間、しっかり走り切りたかったな。…色んな不運があったけど、とても充実して楽しい時間だった。毎日テイオーのためにレースの分析をして……レースに勝てば互いに喜び合って。…今の俺は……楽しいのか?…いや、楽しいはずだ。だってテイオーと一緒にいるんだから。…楽しいはずだ。きっと。
……窓に映る自分の顔が見えた。……睨み付けている。
「ねぇ、トレーナー」
部屋に来てしばらくして、テイオーが声を掛けてきた。慌ててテイオーの声がした方を向く。
テイオーの目には光が灯っていなかった。
どう、して。どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
「あ……テイオー?」
「…何見てるの?」
「え……窓…見てたけど」
「……外、出たいの?」
「…そ、そう言う訳じゃ」
ああ、やめてくれ。その目を俺に向けないでくれ。
体が萎縮してしまうような……とぐろを巻いた大蛇に体を縛り付けられたような。とにかく、体が言うことを聞かない。見たくない、のに、嫌でもテイオーの目に釘付けになる。
「…………」
テイオーはうつ伏せに寝た状態からくるくるとベッドの上を転がって床に降り、窓の前まで歩いて……シャッ、とカーテンを閉めた。そしてカーテンの前で俺に振り返り…。
…カーテンが閉められたことで部屋が一気に薄暗くなる。……その薄暗い部屋の中で、何故かテイオーの光を映さない目はギラギラと輝いているように見えた。…いや、黒をも飲み込むような色をしているから、暗い中で余計目立つから、輝いて見えるのか。
「…だめだよ、トレーナー」
「だめ」
「トレーナーは、ボクといるの」
一歩、一歩、ゆらりと俺へと歩み寄るテイオー。尻尾は力無く垂れ下がり、耳は後頭部に向かい張ったり、垂れたりし忙しなく。
そのまま…くっつきそうな距離で、俺の右隣に腰掛ける。
テイオーはガクガクと震える俺の右手を左手で持ち……くり、くり、と掌を右手の人差し指の爪でなぞる。
「っ"ぁ…」
………爪で引っ掻かれている訳でもないのに、何故か神経を剥き出しにされたかのような痛みが右手から脳へと突き抜けた。
何だよ、コレ。傷はもうほとんど治りかけなのに。……なのに凄く痛い……!
幻肢痛? いや、脳の錯覚?? ……わからない。わからない。……わからない…!!!
「トレーナー」
「ボクを見て……ボクだけを見て」
横からテイオーが俺の顔を覗き込む。
ガクガクと震える右腕を左手で押さえ込み……俯きながら、俺は何度も何度も頷く。
「お願い。ボクを見捨てないで…」
テイオーは俺の肩を掴んでそのまま一緒にベッドに引き倒した。
テイオーは俺の首元に頭を寄せる。…テイオーの表情は見えない。
「………ごめんなさい…ごめんなさい………」
テイオーの両手が俺の背中に巻き付けられる。…ギギギギ、と両手に力が込められ、背骨が軋む。
…テイオーの声は懇願するような…命令するような…どちらも混ざったような声色だった。
「ぐ……ぅ……………」
「…あぁ、好き、好き、大好き」
俺は断続的に来る背骨の鈍痛に耐えながら……呻きながら、ただ、テイオーを抱き締め、頭を撫でることしかできなかった。
……………その日はずっとそのままだった。…ご飯も、食べなかった。
背骨の痛みが消えたのは夜の23時頃。……俺は死ぬように眠りについた。
「……………………」
テイオーからベアハッグを食らってから数日後。俺は学園からトレーナー用マンションへの帰路についていた。
今日に至るまでの数日間に、俺は新しいスマホを購入した。……さすがに、この現代でスマホが無いのは死活問題だと気付いた。まず、誰とも連絡が取れない。そして、暇潰しに動画も見れないから暇に殺されそうになっていた。
テイオーに見つかったらどうするって?
ウマ娘との連絡先は一切持っていないから、きっと大丈夫だろう。…大丈夫なはずだ。…さすがに…自分で物を買う位は許してもらえるよな…。
……ブンブンと頭を横に振り、嫌な考えを振り払う。
…速く帰ろう。テイオーに怒られてしまう。
早足に自分の家まで戻ったおかげで十分もしない内に扉前に着いた。…ギィィィィ、と扉を開く。
「おかえりなさ〜い、トレーナー」
「ただいま、テイオー」
テイオーは玄関前でずっとスタンバっていたようだ。……もう驚かない。
「……………スンスン」
そして、匂いチェックだ。……ウマ娘は鼻が効く。心臓に悪い…。
「…何だか美味しそうな匂いがするな」
「うん!今日はシチューを作ったんだー!」
「お、シチューか。これは美味そうだ…」
「はやくはやく〜、冷めちゃうよ〜」
テイオーはリビングへと消えた。…俺も続こう。
リビングへ入れば…テーブルにはホクホクのシチューが2つ。……やっぱりテイオーは天才だな。見るからに完璧に作られている。牛乳だとかのバランスが完璧じゃないとこんな美味しそうには作れないだろう。
…椅子に座ろうと一歩踏み出した所で…。
「あれ……」
「ん?」
「トレーナー…胸ポケット」
テイオーが胸ポケットを指差した。
「あ、あぁ…これか……。…新しくスマホ、買ったんだよ」
「………ふーん」
テイオーはシュバッ、と胸ポケットからスマホを奪い取った。
「…あの……テイオー……」
「こうして、こう、と……。…トレーナー、パスワードは同じにしちゃだめだよ…」
テイオーはロックをまた容易に突破し……連絡アプリを開いた。…テイオーの眉が寄る。
……俺は冷や汗が止まらなかった。
「………桐生院トレーナーに、たづなさんに、理事長に……学園の関係者。…やたら、女の知り合いが多いね」
「い、いやぁ……学園関係者の男女比率がちょっとおかしくって……」
「………トレーナー」
「…………」
「この人達、ブロックして」
「……………それ……は…」
テイオーがスマホを水平に持ち両手で端と端を握る。
「や、止めてくれ……。わかった、わかったよ、ブロックするよ」
「……はい」
テイオーが俺にスマホを返す。…連絡アプリの友人欄にある桐生院をタップする。……ブロック。…次は、たづなさんをブロック……最後に、理事長を…。
……………俺……サイッテーだ。
「……ブロック……したよ」
「……うん。ありがと、トレーナー」
テイオーは最終チェックをして機嫌が治った様子だった。
「……ねぇトレーナー」
「?……」
「学園、辞めない?」
「………え?」
「ボク…気付いたんだ。…学園があるから、トレーナーはボク以外に現を抜かすんだって」
「ボクから目を逸らすんだって」
「…いや、テイオー…さすがに、それは」
「……………」
バサッ、とテイオーの尻尾が強く波打つ。
「仕事しないと……給料が貰えない。テイオーを養えない」
「……ボクさ。お金だけは有り余ってるんだよね」
……G1で何度も勝利したウマ娘は確かに大金持ちだ。…テイオーの獲得賞金は確か……7億超えだったかな。
「……テイオーのお金を使う気にはなれない」
それでも。俺はそこまで腐る気にはなれなかった。……しかし右手は否応なしに震え始めている。
「…ボクが貰ったお金はさ。トレーナーのお金でもあるんだよ」
「いいや。それはテイオーのお金だ」
テイオーが脚を賭けて手に入れた獲得賞金は絶対に貰えない。絶対にいらない。
…パタリとテイオーの耳が伏せられた。
「……ボクにはね。もう、トレーナーしか残ってないんだよ」
「ボクが今まで安定して暮らせたのはね。走れたからなんだ。…走れないボクに、価値なんて無いんだよ。走るトウカイテイオーにこそ価値があるんだぁ」
「…いや、旬が過ぎただけで、まだ利用価値はあるかもね」
「…………完治不能の怪我をしたウマ娘をすぐに捨てるトレーナーって、結構いるんだよ。もういらなーい…ってね。お金にならないから。……でも、トレーナーはボクを引き止めたでしょ。それってつまり、ボクに価値を見出したからだよね」
「………走れなくなったウマ娘のその後とか、知ってる?」
「やめろ、やめてくれ、テイオー…」
それ以上聞きたくなかった。……俺自身も、そういう類の話は聞いたことがある。…ウマ娘の輝いている側面にのみ目を向けていた俺は…その事実から目を背けていた。
「……お願い、トレーナー。……一生……一生ボクの隣にいて。…ボクの全部、あげるから」
テイオーが俺を見上げる。その瞳には怯えと恐怖が含まれて、震えていた。
「……………ぁ……」
言え、止めろ、言え、いえ、ヤメロ、止めろ、イエ、やめろ………言え、いえ、言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え…………言え。
「……………わかっ…………た……」
「………えへっ」
ぼふっ、とテイオーは俺に抱きつき…俺を見上げながら弾けるような笑顔を浮かべた。………何だか、この笑顔を見れただけで……もう全部良かったような気がする。
「トレーナー。もうずっと一緒だからね。……学園、辞めるならさ…引っ越さない…?誰にも見つからない…遠い所に…」
テイオーは夢見心地な顔で早速今後の計画を俺に話し始めた。……ああ、それは……とても、良い案だと思うな。
「うん……そうしよう……」
「……フフッ、フフフフ………ご飯にしよっか、トレーナー」
「うん………」
フラフラと……椅子に腰掛ける。テイオーは俺の対面に座った。
「いっただーきまーす」
「…いただき……ます」
左手でシチューを掬い、スプーンで口へと運び…咀嚼する。……冷めてるけど美味しい。
「……美味しいな」
「やったっ」
テイオーはそれを聞いて嬉しかったのか、シチューをパクパクと早口で食べ始めた。
……その様子を見ていたら、不意にテイオーがスプーンを止めた。
「………ねぇ、トレーナー」
「ボクのこと……好き?」
「……ああ。もちろん………大好きだよ」
「………トレーナァ♪」
そうだな。このまま、テイオーと一緒に腐って行くのも、悪くない。…きっと、幸せなんだろうな。
……俺は、ここで気付いた。もう、どうしようもない位に、自分が狂っていた事に。…いや。最初から、こうだったのかもしれない。
…だけど……テイオーと一緒なら。もう、それだけでいいんじゃないか。おかしくなった自分なんて、どうでもいい。俺はテイオーが好きなんだから。
俺の頭の中は…全てを放棄するかのように、モザイク色に塗り潰されていった。
次回、幸せ?なトレーナー。