天皇賞秋。サイレンススズカは自らの走りに自らを破壊された。数多のライバル達の中でも、一際素晴らしい脚を持って生まれた彼女は、未来を大いに期待されたウマ娘であった。
連戦連勝、異次元の逃亡者、この世代の主役はサイレンススズカ。そう謳われたスズカの怪我は、衝撃的で、悲劇的だった。
若き新規精鋭と謳われるトレーナー、そのトレーナーの育てるウマ娘は異次元の逃亡者、サイレンススズカ。メディアからするとこれ程取り上げやすい組み合わせもないだろう。故に、スズカの怪我は瞬く間にニュースとなった。
私が非難されることは無かった。メディアは随分と私に同情的に記事を書いた。
それが、この上なく痛かった。まだ総叩きされ方が……。
思い返してみると、彼女の脚について考える余地は、あった。秋天以前、彼女はとてもとても調子が良かった。調子が良過ぎた。普通、ウマ娘は理由は様々にせよ不調になることが多い。しかし、スズカにはそれが一切無かった。
トレーニングでタイムを測る度、更新して行く彼女に笑みを深めた物だ。
スズカは中距離を、ほぼ一切変わらぬハイペースで走り抜ける事ができた子。最終直線では自分より前には絶対に行かせない、この景色は私の物だ、と言わんばかりに、さらに加速した子。
その選手生命を縮めるような走りがいけなかったのだろう。よくよく考えてみれば、その走り方は脚に凄まじい負担を強いる物だ。スズカの走りは少しずつ、ゆっくりと、スズカを蝕んでいたのだ。走る度に脚の寿命を縮める。
破滅的走り。今ではそう考えてしまう。
スズカの脚は神様がくれたものだ。スズカは天才だ。スズカは稀代のウマ娘になれる。そう思い、スズカのために効率的で最適なトレーニングを考え、努力を惜しまなかった、実行した自分を呪いたい。
何故気付けなかった。無理をさせていると察知できなかった。
盲目、盲信。いや、信仰に近いか? スズカもこの地球に生まれた存在。完全無欠な訳が無かったんだ。スズカの脚を完璧にケアしているつもりになっていた。……私は、調子に乗っていた。
スズカが脚を壊した時の事はあまり覚えていない。覚えているのは、スズカが脚を壊したと脳が理解した瞬間の吐き気、スペシャルウィークとほぼ同時に飛び出した自分、血の気の引いていく顔、スズカの元へ駆け付け、その脚から目を逸らしたこと。そしていつの間にかいた自分の部屋。
記憶はそこからはっきりとしている。それ以降はトレセン学園に連絡をし、スズカが病院に着いたこと、命に別状は無いこと、自分がしばらく休職になることを伝えられたこと。
トレーナー用マンションの自室で呆然としている自分がいる。
自分が今後の事を考えている時、スマホに着信が入る。……たづなさんからだ。……意を決して電話に出る。
「…もしもし。私です」
「ああっ、トレーナーさん!やっと繋がった…」
聞こえて来たのは焦りを含んだたづなさんの声。
「トレーナーさん、何度お電話を掛けても出てくれませんでしたので……」
…どうやらまだ自分はショックから抜け切れていないらしい。たづなさんからの再三の着信に気付かなかったとは…。
「…すいません、たづなさん。……スズカは……スズカの脚は…?」
「ぁ……はい。スズカさんは、大丈夫です。…ですが…脚は」
スペシャルウィークと共に見たスズカの脚を思い出した。思わずまた吐き気が自分を襲った。
何故彼女が。どうして。もっと夢を見させて欲しかった。ずっと魅了されていたかった。勝利を分かち合いたかった。喜ぶ姿を、側で見ていたかった。
「ッッ……そう、ですか。……スズカの……様子は?」
「はい。スズカさんの様子は…落ち着いていました。落ち着いていましたが……表面上だけ、かもしれません」
「…トレーナーさん」
「……はい」
「…会いに行ってあげて、ください」
「…………はい」
しばしの沈黙。沈黙を終わらせたのは自分だった。プツリ、と着信を切る。
スマホを持つ腕が力無く、重力に逆らう事なく垂れ下がる。
…たづなさんの口から、スズカも、スズカの脚も問題無い、と言う言葉が発せられるのを期待する自分がいた。
奇跡は起きなかった。神様は、スズカに与えた分だけ、スズカから奪い取ろうと言うのか?
私はもう成人だ。誰かに頼り、守られる時期はもう過ぎた。スズカはまだ若い。私が大人として振る舞う番が、来たのだろう。
もし自分の自惚れでなければ……スズカがトレセン学園に来て、最も長く時間を共にしたのは自分だ。一緒にいて、あげなければ。
左手に巻かれた腕時計を見る。15時23分。今夜は一晩スズカの病室で過ごそう。ハラは決まった。
スズカのためのトレーニングノート、取材のメモ、レース用書類の入ったリュックを背負う。
ふと、寝室の鏡を見る。明らかに寡黙そうな顔。特にこだわりの無い、短く切り揃えられた黒髪。飾り気も何もない黒いスーツ姿の自分がいた。酷く痩せこけたような気がした。ぶんぶん、と頭を横に振り、そそくさに寝室を出る。玄関に到着し、スニーカーを履き……ドアノブに手を掛ける。
「……スズカ」
消え入りそうな自分の声は、きっと扉の開閉音に掻き消されただろう。
トレーナー用マンションを出て、手頃なタクシーを捕まえスズカのいる病院まで、と頼んだ。タクシー内での時間はとても長く感じられた。
病院に着くや否や、タクシードライバーに1万円を渡し、そそくさに扉を開け逃げるように病院へと走り込んだ。ドライバーの静止する声が聞こえたが、無視した。
病院のエントランスは結構広かった。
「……すいません」
「はい、どうされましたか?」
「スズ………サイレンススズカさんの病室は何号室でしょうか」
「サイレンススズカさんの病室………あっ、サイレンススズカさんのトレーナー様…でしょうか」
「はい」
「トレセン学園の関係者様から事情は伺いました。サイレンススズカさんは第2病棟の219号室にいらっしゃいます。第2病棟へは受付から右手へ曲がり、そのまま真っすぐ行くと第2病棟へ到着します」
「ありがとうございます」
実に手短な会話。スズカの居場所がわかると早足で受付を後にした。
「……お大事に」
「……はい」
スズカの病室前に着くまでは早かった。…スズカの事しか考えていないな、さっきから。
スズカの病室前に着いたは良いが……情けないことに扉を開ける勇気がない。スズカは怒っているだろうか? それとも泣いているだろうか? 自分を恨んではいないか? どうして止めてくれなかった? と。
……スズカに会うためにここへ来たのだ。悶々としている暇は無い。スズカに何と言われようが…受け入れるまでだ。
ガララ、と扉を開く。栗色の長髪を靡かせて、ゆっくりと、水色の瞳がこちらを向いた。
「スズカ」
「トレーナーさん」
声が重なった。
「あ……スズカ。あの…」
「……椅子が、ありますから。お掛けになってください」
「……うん」
スズカの指差したパイプ椅子を持ち、カタン、とベッドの隣に置く。それに腰掛け、リュックを床に降ろした。
スズカは患者服を着ていた。
スズカの顔を見ることができない。今、スズカに言うべき事を思案する。そして、思いの外その言葉はすぐに見つかった。
「………ごめん」
「………フフフッ」
「ッ、スズカ?」
「すぐ、謝ってくれると思っていました」
右手で口元を押さえ、スズカが微笑する。
「えっ、あ……うぅん…」
「トレーナーさんは、ことあるごとに謝りますから。今みたいに、ね?」
スズカに完全に自分の癖を把握されてしまっていた。なんだかむず痒くなり、右手でガリガリと自分の頭を掻く。
スズカなりに、私を気遣ってくれたのだろう。…見舞いに来たのに、何をやっているんだ、私は。
「……スズカ、脚は…?」
沈黙が答えとなる。しかし、スズカの口から聞くまでは、まだ信じない。
「……もう、走れない、そうです」
俯きながらスズカが話す。その姿は、何処か寂しそうで、悔しそうで…。
「……私が……私が止めていれば…!」
いたたまれなくなった自分は、両手で膝に爪を立てながら懺悔する。自分の思考が黒く沈んで行く。
「よく、考えてみれば、スズカの骨折は防ぐ事ができた……。スズカのあの走りは、ウマ娘の限界を超える物だった………気付ける兆候はあった!! 私が…気付いてあげられたら……スズカは………」
「……こんな事にはならなかった」
「……………」
スズカは何も喋らない。ただ黙って私の懺悔を聞いてくれている。
「スズカがレースに勝って行って……私は……敏腕新人トレーナー等と囃し立てられた。はっきり行って、嫌な気分じゃなかった。私は……スズカが完全無欠だと思い込んでた。盲目になってた。スズカに限界なんて無いって思い込んでた。だから色んなレースに出走させた……。それが…スズカの脚を蝕んでいた」
「……止めてください」
「私が驕らなければ…私がもっと冷静でいれば…」
「…止めてください」
「私は……私はスズカを……スズカを壊した____」
「止めてください」
スズカがベッドから身を乗り出し、強い力で私の左手を両手で掴んだ。そこで、我に返った。
「……自己評価が低くて。よく自分で自分を貶すのは、トレーナーさんの悪い癖ですよ。それに」
「私のためにここまで頑張ってくれた人を…悪く言われるのは、許せません」
…スズカ。どうして君は、そこまで優しいんだ。
「……ごめん」
「気を付けて、くださいね」
まったく、と言った様子でスズカは乗り出した身を元へ戻した。
「………スズカのために、来たのに。スズカに慰められてしまったよ。情けない」
「……いいんですよ。会いに来てくれただけでも、嬉しいですから」
また、しばしの沈黙が流れる。すると、今度はスズカが意を決したように、私を見つめて口を開いた。
「…トレーナーさん。私はもう、いらないのでしょうか」
「…スズカ?」
「私は、レースの中に生きて来ました」
「エアグルーヴに、タイキに、フクキタルに、スペちゃんに。皆、大切な人です。でも、私が走れなくなったら。もう、皆の側にいる価値が、私には無いんじゃないかって。……トレーナーさんに、契約を解約されて…そのまま見向きもされなくなってしまうんじゃないかって」
「…スズカ。私はまだ数十年程度しか生きてないから説得力が無いかもしれないが……。皆がスズカと話してる時の顔は…サイレンススズカと言う存在が好きで、一緒にいる、と言うような顔だったぞ。スペと、エアグルーヴと話した事があるが……あいつらはスズカの事を自慢気に話していたよ。…本人のいない所で、本人を褒める人が、本当の友人だ。タイキシャトルも、マチカネフクキタルも、きっと同じさ。スズカが走れなくなったって、ずっと友人のままでいてくれるよ」
「……それに、そんな覚悟で私はスズカのトレーナーをしていないよ。スズカがトゥインクルシリーズを走り切って、プロの世界に入っても……ずっとトレーナーでいるつもりだった。君の走りを見ていたかったし……どこまで行くか見届けたかった。だから……スズカが立ち直るまでは、全力でお手伝いするさ」
「…トレーナー、さん」
スズカは俯いてしまった。……柄にも無くポンポンと口走ってしまったせいでこっちも恥ずかしくなってしまった。スズカに悟られないよう顔を逸しておこう…。
「……トレーナーさんは、これからどうするんですか?」
「…ん? これからか……」
「……まだ、考えてないな」
学園からは一時休職だ、と来ただけだし、今後の目処は立っていない。だけど…。
「…でも…スズカと一緒に居ようとは、思ってる」
「…そうですか」
スズカの耳がぴょこぴょこと動くのがわかった。…少し嬉しそうだった。
病室を見渡して、壁掛け時計が目に入った。18時51分。病室に来て、もう随分経ったらしい。
「…今日は帰らなくても大丈夫なんですか?」
「今日は看病するつもりで来たから。ずっと一緒にいるよ」
「…ありがとう、ございます」
「…………なぁスズカ」
「はい」
「何か欲しいもの、あるか? ジュースとか、お菓子とか、なんでもあげるぞ」
……なんでもと言う言葉を聞いた瞬間スズカの耳がピンッ、と張ったような気がした。…気の所為かな。
「……手を。握ってもらえますか?」
「…手か? それだけでいいのか?」
「はい」
「……わかった」
スッ、と差し出されるスズカの細い右手。それを握るためにカタンッ、とパイプ椅子ごと体をベッドに近付ける。
随分と安いものを…と思ったが、スズカがそう言うんならそうしてあげるのが自分の勤め。割れ物を扱うように差し出された右手を、握った。……ちょっとひんやりとしている。手越にわかるスベスベ、モチモチとした感触。
……はっきり言ってウマ娘は絶世の美女ばかりだ。そんな珠の肌を……。…等と考えている自分の邪念を払う。何考えてんだ。
スズカの手を握って、ちょっとした沈黙が流れる。
「……スズカの手、ひんやりとしていて気持ちいいな。………………スズカ?」
とりあえず煩悩を払おうとスズカに話しかけるが、返事がない。……どうやら寝てしまったらしい。すうすうと寝息を立てている。
…寝ているスズカも美しいものだ。睫毛、長いし…。
自分は器用に寝ているスズカの右手を握りながらパイプ椅子をどけて…スズカの寝ているベッドの横に、膝立ちになる形で体を付けた。そして胸から上辺りをベッドに乗せる。これなら明日は体が痛くなるだけで済むだろう。一息付いてから、目を閉じた。
目を閉じる瞬間、ベッドから視線を感じたのは気の所為だろう。
次回、今後について話し合う二人。