ドイツに滞在して実に5日過ぎようとしていた。この4日間がどうだったかと言うと……楽しかったさ。思う所はあれど、フラッシュと一緒にいれて良かったし、お父様とお母様にはよくしてもらったし。
……ただまぁ、色々思惑が見え隠れしてたのは否めない。
実はドイツに来てからフラッシュは一切日本の事について語らなかった。ドイツにいるんだから普通じゃないかと言われればそうだけど、フラッシュは嫌でも日本の事を思い出さないといけない立場だ。学業だとか、レースの予定についてだとか。いつもなら俺に相談するような事を一切話さなかった。
そしてフラッシュ夫妻は俺の稼ぎを全てユーロに変換すればドイツのトレセン学園近くにあるような一等地の家を買っても全然余裕があること、家を買うなら家具を喜んで送らせてもらうと話してくれた。
……………。
フラッシュもフラッシュ夫妻も、まるで俺の意識をドイツにのみ向けようとしているかのようだった。
だけど人間の思考ってのは結構頑固なもんで。
フラッシュの思惑とは真逆の事を。俺は…まだ仕事について考える頭があった。
この5日目の夜……俺はフラッシュの部屋にある自分のキャリーバッグの前で身を屈めて整理をしていた。そこへ…自室の扉を開いてフラッシュが帰ってきて。
「お帰りフラッシュ」
「ただいま戻りました、トレ……」
俺が荷物整理をしているのに気付いたフラッシュは立ったまま硬直した。
「…フラッシュ?」
「……トレーナーさん、何を」
「そら荷物整理だけど…」
「…………」
フラッシュの耳が横へ向けて絞られる。
「…………」
「…荷物整理なら、いつでもできるじゃないですか」
「今は今後の…ドイツでの予定を考えましょう?」
「いやでもフラッシュ」
「さぁ」
有無を言わさぬ凄みを発しながらフラッシュは俺の背後に屈み、そのまま抱き着いたかと思えば後ろにグンッ、と引っ張り、俺はキャリーバッグから引き剥がされた。
「ちょいちょいちょい。何でそんな無理やり」
フラッシュはその勢いのまま、押し込むように俺をベッドに座らせた。フラッシュは俺の左隣に腰を降ろし。
「トレーナーさん、明日はベルリンに行きませんか? 美味しい食べ物がたくさんありますよ」
「フラッシュ……」
「ああ、フランクフルトの方がいいですか?」
「フラッシュ」
「景色を見に行くのもいいですね。ドイツには歴史的な建造物がたくさんあります」
「フラッシュ?」
何とか話を逸らそうとするフラッシュを俺は逃さない。旅行には終わりがあるんだよ、フラッシュ。
「………」
「…フラッシュ……そろそろさ、俺も仕事とかフラッシュのトレーニングとかレースについて考えないといけないしさ。フラッシュも自分のキャリアについて考えないといけないだろ」
「フラッシュもわかるっしょ?」
「それに、俺もフラッシュも、今回の旅行ですっげぇ仲良くなれたと思うし。これでもう十分だろ」
「…………」
「…………」
フラッシュは俯いて黙り込んでしまった。
「……フラッシュ?」
「…それだけでは、足りないのです」
「えぇ…?」
「あなたは……私と……私と……予定には…あなたが…」
右手で額を押さえ、何かをブツブツと呟き続けるフラッシュ。その姿はどこか、うっすらとした狂気のような物を孕んでおり。
「…おぉい?」
「……ここは優良物件ですよ…? トレーナーさん」
「父も母も、あなたに対してとても好印象です。このまま留まり続けても、決して文句は言わないでしょう」
「私も、一切の文句はありません」
「とても、いい環境下であなたは過ごす事ができるんです」
「それにドイツでトレーナーさんは仕事に困りませんよ。ドイツのトレセン学園も慢性的にトレーナー不足なので、トレーナーさんを引く手は数多です。あなたは私を育ててG1を取らせたと言う実績もあります」
「だから…だからっ」
「いや」
フラッシュの耳が後ろ向きに絞られた。
「お父様とお母様とフラッシュの気持ちは嬉しいんだけどさ……ほら、俺にとっては住み慣れた環境が一番いい環境だからさ」
「…………」
「フラッシュ…?」
スン、とフラッシュの顔から表情が消えた。
「……あなたは……」
ズズズ、とフラッシュの右手が俺の首に伸びる。
「フラ、フラッシュ?」
「あなたはトレーナーとして、自分に完璧を求め過ぎです」
フラッシュの右手が俺の首に触れるか触れないか、既の所でフラッシュの右手は止まった。
「…いえ」
フラッシュは何かを飲み込むようにして…それを誤魔化すように、苦笑いを浮かべながら右手を下ろした。
「……そうですよね、トレーナーさんの故郷は日本ですし……あなたには、まだ日本で仕事が残っていますから」
「う、うん」
「……帰りのチケットの予約、今からしましょうか」
「フラッシュ!」
「すみません……あなたの気持ちも、考えずに」
「いや、俺もあんなよくしてもらったのに……」
「…とりあえず、どっちが悪いかは置いといて…JALでいいんだよな?」
「はい」
「……私も、日本で最後の仕事ができてしまいましたね」
「?」
「最後ってどういう…」
フラッシュに聞いてみるが、フラッシュは俺に苦笑いを返すだけだった。
この話の後、俺とフラッシュですぐにチケット購入に取り掛かった。結果、出発は来た時よりも速い三日後になった。
…チケットの購入をしている最中のフラッシュは…物凄く静かだった。
この日の夜…フラッシュは夜遅くまで予定表を睨みつけながら、何かを消したり書き加えたりしていた。
そして、帰国の日。フラッシュ夫妻に車で空港まで送ってもらった。
家の者でも無いのに物凄く別れを惜しんでくれました…。
『お世話になりました…』
『いえいえ。あなたのおかげで、家に暖かさが増しましたよ』
『とんでもない』
『では…娘を、これからもどうか』
『もちろんです』
『…あわよくば、彼女が自立するまで一緒にいてもらえたりは』
『それは…フラッシュが望むならば』
『…ええ、ええ。娘はそのつもりのようですよ』
『え?』
『ではトレーナーさん、日本を楽しんできてくださいね』
『は、はい?』
『また今度』
『あ、はい、また今度』
………何だこの雰囲気!? まるで巣立つフラッシュを…。
俺がまたドイツに来てくれる前提の話だったし、もしかしてドイツの方ってそうやって話を進める文化なのか…?
俺は日本の土に埋まりたいんだけどなぁ。
フラッシュ夫妻とはターミナルで別れて、俺とフラッシュはそのまま飛行機に乗り長いフライトを楽しんだ。
機内では…相変わらずフラッシュとはベタベタだった。
…フラッシュからのアプローチがいつもより弱いと感じた俺は、末期なのだろうか?
日本に帰国し、それからは何も無くすぐに仕事に戻った。
トレセン学園に行ってまず最初にやることと言えば理事長さんとたづなさんに顔を出すことだが、何故かたづなさんと理事長に酷く驚かれた。
まるで死人が生き返ったかのような反応だったし…全く失礼なもんだわ。俺は生きてるよ!!
「驚愕! よく帰還できたな、トレーナー君!」
「えぇまぁ最初から帰国するつもりでしたけど」
「いやはや私はてっきり…」
「理事長」
「おっと、すまないたづな」
「…………」
「さて、トレーナー君。また仕事に戻ってきてくれた事を嬉しく思う。今日からまた精進してくれ」
「はい」
「では、下がっていいぞ」
「失礼します」
理事長からお許しが出たので、俺は一礼して理事長室から退出した。…その数秒後、たづなさんが続けて理事長室から退出してきた。
「…トレーナーさん」
「うぇ? たづなさん?」
「…………」
「何です?」
「…誰もいない部屋に一人でいる時は…気を付けてください」
「えぇ?」
「……失礼します」
そう言って、たづなさんは俺の横をそそくさに通り過ぎて言った。
たづなさんの警告? が頭の中を反復している間に…たづなさんの背中は見えなくなっていた。
学園の同期にも挨拶して回ったり手続にをしていたらいつの間にか夕方になってしまっていた。
「しーごとしーごと」
学園に帰ってきてやることもやったので、ようやく持ち場に戻る事ができた。今、俺は自分のトレーナー室前にいる。
ドアノブに手を掛けて引くと扉はすんなりと開いて。
……あれ、俺って旅行前にトレーナー室に鍵掛けたっけ。どっちだっけ。…まぁいいや。
特に深刻に考えることも無く、俺はトレーナー室へと踏み入れた。すると、虫の報せか何かか。先程のたづなさんの言葉が頭に浮かんだ。
一人の時は気を付けてって。いやいや、トレセン学園程セキュリティが厳重な場所もないだろ。
たづなさんの言葉の意味を考える前に、俺は自分のトレーナー室へと入室した。もちろん、中には誰もおらず。いつもと変わらないフラッシュの優勝レイだとか、トロフィーとか、書類の置いてあるトレーナー室だった。
「どっこいしょ」
いつもの場所に戻れて懐かしい気持ちになりつつも、感傷に浸っでいる場合ではない。俺にはフラッシュのために働くと言う使命があるのだから。定位置にある仕事椅子に腰掛け…さて、仕事にとり…か…か……。
「…………?」
仕事に取り掛かろうと机を見下ろしたら、見知らぬ物体が置いてあった。
それは……。
「……フラッシュの予定表?」
そう、フラッシュの予定表が俺の作業机のど真ん中にドンと置いてあった。
…どうしてここに? いつもはフラッシュが持ってるはずなんだけど。
まさかどこかにフラッシュが潜んでいるのではと頭に過り、部屋中を見渡してみるが、フラッシュの姿は無く。そして再び、予定表に目を落とす。フラッシュが忘れてったのかな。タイミング的には今日の朝頃?
………そう言えば…フラッシュの予定表ってこんなに分厚かったっけ?
俺がフラッシュをスカウトした時は市販のまだ埋まり切ってないルーズリーフだったはずだ。今俺の目の前にある物は…大学のちょっとした教科書程度の分厚さがあった。多分、ルーズリーフを継ぎ足し継ぎ足しして…。
にしても…どんな予定を立てたらこんな分厚くなるんだ? これは数年…いや数十年先も書かれてそうな分厚さだぞ。自分の将来設計か? それとも俺との予定か? いやまさかそんな。前者だと思うけど…。
いやでも…。
だめだ、予定表が気になってノートパソコンに目が行かない。
「……………」
…別に…いいよな? これは予定表であってメモ帳じゃないし。それにフラッシュはいつもこの予定表を見ながら俺に予定を共有してくれるし、それってつまりまずい事は書かれてないってことだよな。
それにこれじゃ気になって仕事に手が付かない。
うん、これは仕事のため必要な事だ。
……そもそも綺麗に机に置いてあるってのが作為的だわ。もうフラッシュが読んでくださいって言ってるようなもんだろ。
俺はフラッシュの予定表を手に取り、最初のページを開いた。
…何処かでフラッシュが笑ったような気がした。
それで…1ページ目は一日のルーティンみたいな物が書いてあった。何時に起床、とか何時に朝食、とか。
2ページ目は基本的なトレーニングの流れについて。ここは何回か改訂が入ってるな。それが5ページ目位まで続いていた。
この辺りだけ色褪せているため、フラッシュが日本で立てた最初も最初の予定なんだろう。
5ページ目以降は最初の3年目以前の予定で、模擬レースや試験についての予定が多かった。…1ヶ月も前からテスト勉強始めるタイプか、フラッシュは。
それで……トレセン学園からPDFで配られるような予定が続き…10ページ目。おっ、俺がフラッシュをスカウトした日だ。懐かし。
この日以降から俺を含めた予定を作るようになってるな。初めてだからか時間的余裕の多い予定が多くを占めてる。
32ページからメイクデビュー後だな。…ず、随分と綿密に俺との予定を組むな。俺がトレセンに来る時間に合わせてるし。
86ページからは2年目か。……ちょっと俺との予定多過ぎないか? 年越し、初詣、正月、ゴールデンウィークにシルバーウィーク、ハロウィン、バレンタインのロイヤルストレートフラッシュじゃん。
…フラッシュだけに。
…………なーに考えてんだ。どこぞの会長じゃあるまいし。
思えば日本でのビッグイベントをコンプリートしたのは2年目からか。
さて、156ページからは3年目だけど……正直ゾッとした。レースに関する予定の綿密さは変わらない、むしろより洗練されてるけど、俺に関する予定がレースよりも事細かいってどうなんだ?
……直近の予定にようやく辿り着いたぞ。温泉だ。
…俺の身長いつ知ったんだ…? 俺が見下ろしやすい底の靴の購入て。そこまで考えてたのか……。…ドイツでは悪い事言っちゃったな。ここまで…ここまでとは。
温泉からドイツ旅行の予定だけでフラッシュは何と40ページ以上も書き込んでいた。厳密には予定じゃなくて間に挟まるプランも加味したページ数だけど、いくらなんでも緻密過ぎやしないか。
それでまぁ、日本への帰国でいったん筆は途切れた。ここまでで307ページか。って言うか3年目から明らかにページ数増え過ぎだろ。どうなってるんだ。
もう終わりかと思って人差し指を栞にして予定表の厚みを確認すると……。
「………………」
……何でまだ200ページ近くページが残ってるんだ?
直近の予定からさらに後があるぞ……。
……俺は好奇心を抑えられずさらにページを回った。4ページ程の白紙ゾーンを抜けた先には…4年目(未定)と書かれたページがあったた。
4年目か………ん?
【ドイツトレセン学園に転入届を提出。トレーナーさんの転職も同時。転入後はオープン戦等でドイツのターフに脚を慣らすこと】
…ちょっと……おかしくないか?
4年目からは何故かドイツでの予定ばかりになっている。……まさかフラッシュは俺をあのままドイツに留まらせるつもりだったのか…?
……5年目(未定)は……相変わらずドイツでの予定だ。
さらにページを捲って行くと、6年目と7年目もドイツで過ごしてる前提のようだった。
そして8年目で……引退、か。で、何々…【ドイツへ移住して数年の間トレーナーさんがプロポーズするように仕向け】……。
いやいや。
「………………」
さらに読み進めてみると…。
【自分から行くことも検討】とも書かれていた。
…ページをまた捲れば、今度は引退後の生活についてだった。
【式はなるべく速い方が望ましい。私の価値が高い内にトレーナーさんと一生を共にする約束を果たしたい】
【挙式後、ケルン大聖堂やベルリンの壁跡地等を観光し、すぐにレースの勝利金で静かな街に引っ越し。もしくはトレセン学園に近い街に引っ越し。そこでケーキ屋を始める。現在住んでいる家と同じような構造で、3、もしくは4LDKとする】
【身の回りの事を片付けた後は最後に第一】
パンッ、とトレーナー室に乾いた音が響いた。
「……………」
あれ以上見ることができず俺は思わず思い切り予定表を閉じてしまった。
…フラッシュ、随分と先まで考えてるな…。一応、それなりに気に入られてるかもしれないって思ってたけど、ここまでとは。
それよりも、これは…まずいぞ。フラッシュの予定では俺はもうドイツにいなきゃいけない。
フラッシュの性格的に予定を崩されるのは相当なストレスなはずだ。俺はかなりまずい状況にいるのかも。わざわざフラッシュの前で突っぱねちゃったし。フラッシュの様子がちょっと変だったのはそのせいか…。
……俺はフラッシュの予定表を持ったまま思考停止してしまった。
あぁー……何か、何か考えないと…。
俺は何気なく予定表の最後のページを開いた。するとそこには……1月(修正)と書かれたページがあった。内容は…。
【帰国後、縄を入手(なるべく頑丈で縛り易い物)。市販の睡眠薬(致死量ラインを調べておく事)を購入。入手後、トレーナーさんを説得。複数回に渡り説得できなかった場合、上記を使用を視野に】
「………………」
嘘だろ。
【入手した物はトレーナーさんの思いもよらない場所へ隠蔽する(トレーナー室)。説得を試みる日時は】
…説得を試みる日時は……今日だと記されていた。
次回、トドメ。