「ねぇトレーナー、ちょっとそこの本棚見てもいいかな?」
「別に構わないが、お前が面白いと思えるような本は置いてないぞ」
皐月賞後のある休日のことだった。
自室にある作業用のデスクでパソコンと向かい合っていると、テイオーからそんな言葉が掛けられたので軽く承諾する。
俺の部屋には見られて困るものなど何一つない、強いて言えば誰かに見られて困るのは目の前にいるこいつの存在だけだ。
「面白くなくたっていいんだ、トレーナーが普段どんな本を読んでるのか気になってさ。キミの好みをもっとよく知りたいからねっ!」
そうしてにこりと笑ってから、テイオーがポニーテールを翻しながら勢いよく本棚へと駆け出していく。
どうやら俺の趣味趣向を知りたくて仕方がないらしい、健気な奴だ。年の離れた妹のようでもあり、よく懐いたペットのようでもある――優秀な教え子にして俺の愛バ。
あの皐月賞での一件を経て――俺はテイオーと確かな絆を紡ぎ、深い信頼関係を築くことに成功した。
そのおかげかあれ以来よくあいつからの視線を感じている。目が合うと嬉しそうに微笑んでくるし、こちらの言うことも前より素直に聞いてくれるようになった。
少しでも離れようとすると激しく抵抗するのが問題と言えば問題だが、この程度の弊害は予想の範疇だ。
元々少なからずべったりしたがる性質は見られていたし、あんなことを言えばその傾向が悪化することくらいわかっていた。
だが、それを承知の上で俺はあいつに宣言したんだ。テイオーと最後まで走り抜ける決意をしたことを伝えなければいけなかった、それが覚悟というものだ。
つまらない逃げ道など用意して何の意味がある? 不退転のこの意志は――もう何があろうと崩すことは出来ないというのに。
(それにしても、まさか俺が担当ウマ娘と絆を結べるとはな……)
あいつが俺を見る眼差しにはいつも熱が籠っている。常にこちらの一挙手一投足に注目しているし、練習でも献身的に要求に応えようとしてくれている。
そこにテイオーとの強い絆を感じるのは、俺の一方的な勘違いや自惚れなんかじゃないはずだ。むしろこれが絆でなければ一体なんだというのか。
……担当ウマ娘とこんな関係になれるなんて、想像すら出来なかった。
俺は打算的で空虚な人間だ。物事を損得勘定だけで考えてしまうことが多いし、何をしても心が満たされることのない渇いた人生を送ってきた。
トレーナーを志したのだってくだらない動機だった、輝かしい夢や熱い情熱を抱いていた奴らとは比べるべくもない低俗なもの。
いつも心の何処かで罪悪感を感じていた、こんな俺がトレーナーなどという職業に就いていて本当にいいのかと。
トレーナーの仕事はウマ娘と夢をともにすること。肩に乗せる責任は重大だ、その重さがあの頃の俺には理解できていなかった。
だからこそ、深く考えもせずにトレーナーになろうなどと思ってしまったんだ。愚かな自分を後悔したことも多い、だがそれでも止まるわけにはいかなかった。
ここで何もかもを投げ出してしまったら、何のために競合相手の夢を踏み潰したのか。いつか俺を見たとき、せめてあいつらにとって誇れるトレーナーでいなければならないから。
ずっと、そうやって自分勝手な罪滅ぼしにも似た感情で働いてきた。これではスカウトも成功しなくて当然だろう、誰がそんなトレーナーに指導されたいと思うのか。
だが、今では違う――それだけじゃない。
俺は心からテイオーと一緒に夢を駆けたいと思っている。罪悪感でも責任感でもない、俺がそう望んでいるんだ。
トレーナーとしてあいつを支えていきたい、その感情には一片の偽りも誤魔化しもない。
他のトレーナーは、きっと最初から皆このような想いを抱いていたのだろうな。ならば、これでようやく俺も少しはトレーナーらしくなれたのだろうか――もしそうなら、これほど嬉しいことはない。
そんなことを考えながら、パソコンでトゥインクル・シリーズに出走しているウマ娘たちのレース動画を再生する。
過去のレース映像を眺めることで得られる情報は多い。トレーナーがその勝負に備えて担当ウマ娘にどのような訓練を施したのか、何を重視していたのかある程度推測できる。
どのような駆け引きが有効であり、勝てるウマ娘はどういう戦略を取っているのか。一番人気のウマ娘が敗北してしまうケースはなぜ起こるのかなどにも注意して観察していく。
「――トレーナー! なんなのこれ、どういうことかボクに説明してよ!」
しばらく画面を注視していたため、疲れた目をほぐしていた所だった。
テイオーがえらい剣幕で俺の前に戻ってくる。先程まで優しく微笑んでいた奴と同一人物だとは到底思えない変わりようである。
その手にあったのは犬の写真集だった。この前俺が買ってきた、世界各国の美しい犬を集めた犬好きなら垂涎の一冊。
……いや、どういうことなのかはお前が説明してくれ。犬の写真集が本棚にあったから何だというんだ。
最近は将来について前向きに考えることも多くなった。いつまでも学園の寮にいるというのも味気ないし、いつかは自分の家を建てたいと考えている。
そのときに庭に犬でもいれば賑やかで退屈しないんじゃないかと思って、今のうちに目ぼしい奴を物色しているだけだ。
とはいえ犬の写真集を本棚の表に置いておくのは俺のイメージに関わるため、目につきにくい奥の方に押し込んではいたのだが。
「こんな本を買うなんて――まさかいつか犬を飼うつもりとかじゃないよね?」
「何が気に入らないのかまるでわからんが、いずれは飼いたいと思っている。この寮を出て家を建てて、庭で犬を飼って日々を過ごす。ふっ、そんな生活も悪くないと思わないか?」
「いつになく穏やかな表情しないでよ、全然ダメ! 犬なんてトレーナーには必要ない、ボクは絶対に許さないからねっ!」
ぴしゃりと怒りを込めて言い放つテイオー。その眉は吊り上がり、ポニーテールと尻尾が本人の感情を代弁するかのように荒々しく波立っていた。
いや、許さないと言われてもな……。お前の許可なんて別に必要ないだろ、将来のことだし俺が犬を飼おうが飼うまいがそもそもこいつには関係ない。
しかし、そうやって頭ごなしに正論を述べたところで火に油を注ぐだけだろう。こういうときは根気強く説得の言葉を重ねることが大事だと、俺はこの一年間のトレーナー生活で学んでいた。
「そう言わずにお前も少しだけ想像してみろ。トレーナーとして遅くまで業務に励み、心身ともに疲れ果てた時に犬が元気よく出迎えてくれる。考えるだけで癒される光景じゃないか」
「まったくそうは思わないよ! そもそもトレーナーがそんな想像をしてるだけですっごく不愉快なんだからっ!」
テイオーはまるで取り付く島もない様子だった。何がこいつをこんなに不機嫌にさせるのか見当も付かない、犬を飼うという話だけでなぜこんな面倒なことになるんだ。
こいつが怒りを剥き出しにしている理由がわからない。ならば探っていく必要があるな、毎日のトレーナー業務で培われた観察眼を活かす時が来たようだ。
しばらく様子を窺っていると、テイオーが感情のままに言葉を吐き出していく。わなわなと小さな身体を震わせているその姿、果たしてどのような気持ちを抱えているのか。
「もしかして、飼った犬を抱きしめたり頭を優しく撫でたり身体をブラッシングしたりするつもりなの? 許せない、許せないよ……そんな羨ましいこと、ボクは絶対に許せないっ!」
「いや、そこまで羨ましいならお前も犬を飼えばいいだろう。両親はお前に甘いし、頼み込んで実家で飼ってみたらどうだ」
「羨ましいのはそっちじゃないよ! トレーナーのバカ! 唐変木! いつも頭が良さそうなこと言ってるくせにこういうときだけ鈍いんだから!!」
……あまりにも散々な言われようだった。つい先程まで俺とこいつは確かな信頼関係で結ばれていると思っていたが、やはりただの錯覚だったのかもしれない。
しかしこの理不尽さには何処か既視感があるな。あれは確か去年の梅雨の時期くらいだったか、こいつの不在時に他のウマ娘を少々指導したときの状況に酷似している。
あのときは自分という担当ウマ娘がいるのに、他の奴を指導したから腹を立てていたんだったな。先程のテイオーの言葉も踏まえると、凄まじくしょうもない結論が導き出された。
(こいつ、まさか犬に嫉妬しているのか――?)
バカらしいことだがそうとしか思えなかった。担当トレーナーである俺が、犬に現を抜かそうとしているのが気に入らなくてこうやって喚いているのだろう。
テイオーには結構好かれている覚えはあるが、まさか犬を飼おうとしただけでこれとは嫉妬深いにも程があるな。
まったく……現在飼ってもいない犬に嫉妬しているようではまだまだ子供だ、この分じゃ落ち着いた大人の女性になるのは遠い。
しかしまだ中等部の学生であるにも関わらずこの嫉妬深さに独占欲、なかなかに将来有望じゃないか。
こいつをいずれ嫁にもらう男が一体どうなってしまうのか、学術的な興味が湧いてくる。これは私見だが、幸せな結婚生活を送れるのかもしれないがそこに自由は存在しないだろう。
ま、それもまた一興。今まさに似たような生活をしている俺から言わせてもらえば、これはこれで案外悪くはない。
何事も慣れるものだ。こいつとこんな風にあれこれ騒ぎながら暮らすこの日々は、思いの外俺を楽しませてくれている。
いずれにせよ、こいつには結婚どころか恋愛すらまだ早い。つまらない男にくれてやるには惜しいウマ娘でもある、少なくとも俺が担当している間はこいつは渡せないな。
そういう“約束”をしたばかりなんでね、悪いが年頃の少女らしい恋愛は俺との契約を終えてからにしてもらおう。
「大体、犬なんて何処がいいのさ! 吠えるとうるさいし飼い主を見るとすぐに尻尾を振るし、散歩とか毎日構ってあげないといけないし邪魔なだけじゃん!」
思考を戻すと、未だにテイオーがぷんすかと悪態をついていた。やけに犬に対して敵愾心を燃やしている、同族嫌悪か? 俺からすればこいつも犬もそう大した違いはないんだが。
「犬なんかよりボクの方がずっとキミの役に立てるよ! 犬じゃ出来ないことだってボクならたくさん出来るんだから!」
テイオーが力強く俺に自身の有用性をアピールしてくる。こいつは飼ってもいない犬と張り合おうとしていた、お前の戦う相手は本当にそれでいいのか?
あまりにもツッコミどころが多すぎて、もはやなんと言っていいのかわからない。はっきりと言えるのは、こいつが未だかつてない程に掛かっているという事実だけだ。
「……ふぅ、仕方がないな。お前がそこまで言うならこの話は白紙に戻そう、俺だって是が非でも犬を飼いたいってわけじゃない」
「あ、あのさ……。そんなに犬の世話がしたいなら、代わりにボクの尻尾とかブラッシングしてみない……? ほ、ほら、ボクだって尻尾の色や艶なら犬なんかに負けてないし」
わずかな残念さを感じながら告げると、テイオーから思わず耳を疑う提案をされる。ウマ尻尾とはウマ娘にとって敏感な器官だ、それを恋人でもない異性にケアさせるなど正気か?
聞き間違いかと思い、まじまじとテイオーの顔を見てしまう。そこにあったのはさっきまでの憤懣やるかたないという表情ではなく、恥じるように目を伏せて頬を朱に染める姿だった。
まさか本気なのか……。だが、申し訳ないがこいつの尻尾のケアなんてまるで興味が湧かなかった。しかし、それを正直に言ってしまえば俺とこいつは戦争になるだろう。
しばらく固まって返事を渋る俺を見かねたのか。テイオーが小生意気な仕草で口角を高く上げ、挑発するように言った。
「ふーん、トレーナーって担当ウマ娘の尻尾のケアも出来ないんだ? そんなことで立派なトレーナーになれるのかな」
「……安い挑発だな、一山幾らで売られているジャンク品にも劣る価値しかない。だがいいだろう、今回だけはお前の思惑に乗ってやる」
俺はテイオーの要望を受け入れることにした。普段ならこんなつまらない挑発に乗ることなどないが、今回に限ってはいつもとは違う。
たとえ俺をブラッシングさせるための方便に過ぎないとしても、他ならぬこいつに少しでもトレーナーとして相応しくないなどと思われるのは気に入らない。
たかがウマ娘のブラッシング程度、この俺が出来ないとでも思っているのか? 今まで様々なことに取り組んできたが、俺が本気でやって出来ないと感じたことは殆どない。
ウマ娘の尻尾をケアすること自体、万が一誰かに目撃されれば社会的に極めて厳しい状況に陥ってしまうのが大きな問題だが……。
他のウマ娘になら頼まれても決して首を縦に振ることはないが、テイオー相手ならまぁまず大丈夫だろう。
こいつの根底にあるのは好きなものを渡したくないという、子供らしいただの嫉妬心や独占欲だけだ。加えて俺の方だって疚しい気持ちなど欠片もない。
何処から持ってきたのか、テイオーからウマ娘の尻尾用のブラシとローションを受け取り準備を整える。いや、本当になんでこんな物が用意してあるんだよ。
まぁいい、とにかく始めよう。自分で言っといて緊張している彼女を前に座らせ一言声を掛けてから、尻尾のケアを開始する。まずはその豊かな尾の根元を軽く掴んでほぐし――。
「あっ!」
「どうした、何か問題でもあるか? 生憎こんなことは初めてなんでな、無作法があったら遠慮なく言ってくれ」
「う、ううん。な、なんでもないから大丈夫……いきなりだったからびっくりしちゃってさ」
尻尾に触れた途端、電撃が走ったようにテイオーの身体が跳ねたので驚いて作業を中断する。この反応、力加減を誤ったか? もう少しデリケートに扱った方がいいのかもしれんな。
気を取り直してケアを再開する。今度はさらに丁寧に、壊れ物を扱うように尻尾の根元から毛先まで触って丹念に揉みほぐし手櫛で梳いていく。
「ふぁっ! あっ、ひゃあっ! と、トレーナー、ちょっと待って……」
「……おい、お前もう少しその声は抑えられないのか? 俺は本当にただ尻尾を軽く触っているだけだぞ」
「だって勝手に声が出ちゃうんだからしょうがないじゃん! 全部トレーナーの手つきがいやらしいから悪いんだよ!」
触ったら火傷しそうなほど、顔を真っ赤にさせたテイオーに駄目出しをされる。完全に謂れのない中傷だ、少し触るだけで我慢できなくなるこいつの堪え性のなさが悪い。
尻尾をほぐして手櫛でちょっと梳いただけでまるで性犯罪者のような扱い。そもそも俺は好きでこんなことをしているわけじゃない。
先ほど挙げた理由に加えてもう一つ。
立派なトレーナーになるには、担当ウマ娘の身体のケアはしておいた方がいいという判断に基づいた行為だ。
そう、俺はあいつらが誇れるような素晴らしいトレーナーになるために――。
……そこまで考えて、ふと現在の状況を確認する。仕事でもない休日に未成年のウマ娘を自室に連れ込み、その尻尾を好き勝手に弄ぶ。
(――トレーナーの姿か? これが……)
生き恥。その言葉が一瞬だけ脳裏を過ぎった。
俺は今、トレーナーとして相応しい姿でいられてるのか? トレーナーとして、ヒトとして何か道を踏み外してはいないだろうか。
バカな、俺はいつだって担当ウマ娘に対して真摯に向き合ってきた。正しい道をただひたすらに歩いているはずなんだ。
今更何を迷うことがある、そうだ――これは必要なことなんだ。担当ウマ娘の心身をケアするのがトレーナーの職務。
確かにこの絵面はお世辞にも良くはないだろう、だが俺がやっていることは何も間違っちゃいない。
……それから俺は、無心でテイオーのブラッシングに専念した。
触れるたびにいちいち声を上げるこいつをもう気にすることはなく。尻尾専用のローションを塗ってブラシで整えて、その尻尾の色と艶に更なる磨きをかける。
ようやく一通りの作業を終えたが、満足そうなテイオーとは裏腹に俺の疲労感は半端ではなかった。
「あぁ、気持ち良かったぁ……。ありがとね、トレーナー! ねぇねぇ、後でまたお願いしてもいい?」
「……尻尾のケアくらい自分でしろ。今回は特別だ、こんなことあまり他者が何度もやるもんじゃない」
「えぇーっ! いいじゃんか別にこれくらい、トレーナーのケチ!」
言葉とは裏腹にあまり不満そうな様子は見られず、テイオーは何処までも上機嫌だった。
尻尾のケアも無事に終わり。放心したように全身の力を抜いたこいつは、今俺の身体に背中を預けてもたれかかっていた。
幼い少女が父親にするような行いだ、本当にこいつは良くも悪くも子供らしい。
「ならさ、三冠を獲ってからのご褒美っていうのはどう? ボクたち二人ならきっと夢を叶えて最強になれるけど、やっぱり報酬があった方がさらに頑張れるじゃん」
「まぁ……それならいいか。素人のブラッシングなんかが褒美でいいならその程度付き合ってやっても構わない」
「やったっ! じゃあボク、これからはもっともっと頑張るよ! だからトレーナー、ボクたち二人で絶対に最強になろうねっ!」
もたれかかるテイオーが振り向いて俺の顔を見上げ、心底嬉しそうに顔を綻ばせる。慣れない俺がする尻尾のケア程度で、こいつのやる気が上がるんなら良い取り引きだろう。
夢を叶えられた後でなら、その程度いくらでも付き合ってやる。こんなこと本人には口が裂けても言えないが――俺は、夢を叶えて喜ぶお前の姿が見たいんだ。
そのためなら、どのような努力や苦労も厭わない。日本ダービーを間近に控えたこの休日で、俺はさらに想いを強固なものにした。