乾いたターフを湿らせる   作:やわらかスマホ

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第二十話

「なるほど……それでは、トウカイテイオーさんのリハビリは順調に進んでいるということですか?」

「はい。もうギプスは取れてつい最近機能回復訓練を始めた所なのですが、経過としては予定通りに進んでいますよ。菊花賞への出走は十分に間に合う範囲です」

 

 梅雨が本格化を迎えてきた6月の終わり頃。

 季節が夏へと向かい徐々に気温が高くなってきたことに加え、雨量が増えることでじめじめとした空気が鬱陶しいこの時期。

 

 俺は、トレーナー室で記者から取材を受けていた。

 今は午前中のため、担当ウマ娘であるテイオーは授業の真っ最中だ。このフリーな時間を利用して、俺たちトレーナーは様々なことをこなす。

 

 トレーニングメニューの作成や出走計画の見直し、学園に提出する書類の作成、人手が足りなければ教員の手伝いをすることだってある。

 このマスコミへの取材応対も午前中にやるべきことに含まれる――テイオーとの練習が始まる午後までには、全ての雑事を終わらせなければならない。

 

 テイオーが骨折してからおよそ一か月の時が経過した。

 折れた脚の骨はもうくっついたために固定具であるギプスは外れ、今はリハビリに取り組んでいるところだ。

 

 骨がくっついたからといって、すぐに歩けるようになるわけではない。

 出来上がってすぐの骨はまだまだ脆いため、強い負荷が掛かるとすぐに折れてしまう。それに、長い間動かさずに固定されていた脚は著しく筋力が低下している。

 

 実際、テイオーは最初自分の脚で立つことすら出来なかった。

 ギプスが取れて喜び勇んでいたあいつの顔が、一気に苦いものに変わるのを見たのは記憶に新しいが……それが普通なんだ。

 

 再生したばかりの骨に負担を掛けないように、まずは立つことから始めていき、そこから徐々に歩行訓練へと移行していく。

 まともに歩けるようになって、松葉杖が不要になるのはさらに一か月は必要だと考えていいだろうな。こればっかりは焦っても仕方がない……じっくりと、慎重に行わなければ。

 

(――あんなことは、もうたくさんだ)

 

 テイオーが骨折したあの日に抱いた絶望は、今でも胸に焼きついて離れない。

 

 何もかもが順調に進んでいると思っていたが、全て俺の思い上がりだった。

 不幸中の幸いというべきか、なんとか菊花賞には間に合いそうではある。もしも、さらに骨折の度合いが酷かったら……そう考えるだけで肝が冷える。

 

 ……この失敗を俺は忘れることはないだろう、だからこそ今度は欠片も油断しない。

 

「あ、あの……どうかされましたか? お顔が少し……」

「――いえ、なんでもありませんよ。あまりこういう取材にはまだ慣れていないので、緊張してしまいまして」

 

 心配そうに声を掛けてくる記者に愛想笑いを浮かべる。

 

 記者は、「そうですか」とほっと胸を撫で下ろした表情へと変わった。しかし、なるべく顔には出さないようにしていたというのに随分と目ざとい……流石に記者というだけはある。

 この記者の名は乙名史悦子(おとなしえつこ)。月刊雑誌『月刊トゥインクル』を編集している若い女性記者だ。

 

 流れるような長く美しい黒髪をした奇麗な女性で、蹄鉄型のペンダントと常に肩に掲げているショルダーバッグが特徴的である。

 礼儀正しく誠実で、物腰も柔らかく、勤勉でその知識も並みのトレーナーを凌駕すると言われるほどに豊富。

 

 これだけなら眉目秀麗な容姿に加えて、穏やかで優秀かつ仕事熱心という、およそ非の打ちどころのない人物に聞こえるだろう。

 そこで終わってくれたなら何も文句はなかった。俺も男だ、彼女のような美人と話すのはもちろん嫌いじゃない。

 

 いつもは騒々しい子供ばかり相手にしているから尚更そう思う。それだけに本当に惜しいことに、この記者には多くの美点を台無しにするような悪癖があるのだが……まぁいい。

 

 そこからは、当たり障りのない世間話のような会話をした。

 

 基本的には俺が担当しているテイオーについての話題だ。彼女がいかに優れているか、どれだけファンに復帰を望まれているか。

 今年度のクラシックロードの主役とも言える彼女が、三冠制覇への最後の舞台である菊花賞に出走できそうで本当に幸いだということなど。

 

(主役、か……)

 

 熱心に俺の担当ウマ娘を誉め立てる、乙名史記者の口ぶりが軽く引っ掛かる。

 

 前に話をしたナイスネイチャのことが頭に浮かんだからだ。レースに出れば誰もが平等の立場であるし、主役も脇役もない……言うなれば誰もが主人公。

 誰だって自分のレースや人生においてはそいつが主役であるというのに、そんな言い方ではまるでテイオーの勝利しか望まれていないように聞こえてしまう。

 

 当然、ただの言葉の綾でこの記者にそんな考えは微塵もないだろう。俺がテイオーを担当しているからこう言っているだけで、他の相手の前でも変わらず礼を尽くすはずだ。

 くだらないことを思案するのはもうやめにするべきか。そもそもテイオーが主役であり、大勢のファンが勝利を望んでいるというのなら好都合じゃないか。

 

 テイオーのために、そして俺自身のために……障害になるものは踏み潰す。

 

 ナイスネイチャや他のウマ娘にどれだけ譲れない願いや尊い夢があるのだとしても、どんなことをしても叶えたいと感じるものは俺にもあった。

 

「ところで、貴方はご担当しているウマ娘と非常に仲が良いそうですね。休日ではよくトウカイテイオーさんと一緒に出掛けることも多いとか」

「えぇ、まあそうですね。とてもありがたいことに、彼女はこんな未熟な自分を慕ってくれていまして……。シューズなどのスポーツ用品を共に買いに行ったりしています」

「ふむふむ、トレーナーと担当ウマ娘の関係はレースにも影響することですからね。仲が良好なのは何よりなことです」

 

 乙名史記者がふと思いついたように訊ねてきたので、当たり障りのない返事をする。

 正直に言えば慕われているのか舐められているのか区別がつかないし、一緒に出掛ける用事だってしょうもないことが多い。

 

 だが、あいつとの関係性に問題がないのだと外にアピールするのは重要である。

 クラシック三冠制覇にあと一歩というところまで迫った天才ウマ娘、そんな彼女を骨折させてしまったのは経験も実績もない新人トレーナーときた。

 

 世間の人々はこれを聞いて果たしてどう思う? 誰だって少なからずこう思うはずだ。

 何も知らない無能な新人が、加減もわからず無茶なトレーニングを重ねて将来有望なウマ娘を潰した――と。

 

 実際に、それは全て間違っているわけではないのが頭の痛いところだ。

 怪我はどうしようもない事故のような側面もあるが、それでもトレーナーが注意深く観察していれば防げることだって多い。

 

 担当のウマ娘を骨折させておいて、ただの事故だったで済ませるような奴はクズだ。

 ウマ娘は自動車並みの速度で走行する。つまり転倒時の事故は命に関わる危険があるのだから、怪我だけは絶対に防がなければならなかった。

 

 本来ならどのような悪評であっても甘んじて受け入れるべきではあるが、それでも余計な横槍を入れさせるわけにはいかない。

 俺とテイオーにはしっかりとした信頼関係があり、アクシデントはあったものの今は二人三脚で再起に向けて励んでいる――周囲にそう思わせる必要があった。

 

「特に、今のテイオーはあんな状況ですからね。彼女が無事にレースに復帰し、三冠の栄誉を掴み取るために……。私は、彼女を支えて出来うる限りを尽くすつもりです」

「――! な、なんと……」

 

 俺の言葉を聞いた乙名史記者が驚きで目を見開き、小刻みに震える。

 そして、勢いよく音を立てて座っていた椅子から立ち上がったのを見て。俺は、いつもの病気がまた始まるなと辟易した。

 

「今、出来うる限りとおっしゃいました……!? す、素晴らしいですっ!!」

「……」

「脚の負担を少しでも和らげるために特製のシューズをご自分で開発・製作し! 精がつくようにディナーは必ず三ツ星レストランで食事を行い! さらには休みの日には疲労を癒すために日本各地の秘湯巡りまで行うつもりなんてぇ……!!」

「……」

 

 乙名史記者が持っていたペンを俺に突き付け、ひどく興奮した面持ちで叫んでいる。

 

 彼女は取材に熱が入ってくると、今回のようにこちらの発言から物事を深読みしすぎて、勝手に拡大解釈するという嫌な癖がある。

 美人で知識も豊富であり優れた女性だが、これが唯一にして最大の欠点だった。

 

「貴方にそこまでする覚悟がおありだなんて、感服いたしましたぁ……!!」

「……ははは、まぁそれほどでも」

 

 完全に自分の世界にトリップしている相手に対し、乾いた笑いで返す。

 こうなってしまってはこちらが何を言ってもロクに話を聞かないからだ。それなりに長い付き合いになるが、やはりこの記者はやばい。

 

 とにかく、この様子なら放っておいても俺に不利になる記事は書かないだろう……ならば、もはやこの程度は些事だ。

 状況を好転させるために利用できるものは全て利用する、全力を尽くすというのはそういうことなのだから――。

 

 

 

 

 

 

「やっぱりこの部屋は落ち着くねーっ、まるで実家のような安心感!」

「……おい、ソファに寝そべるのはだらしないからやめろ。少しは家主に遠慮したらどうだ?」

「まあ細かいことはいいじゃん、トレーナーの部屋ってことはボクの部屋でもあるわけだし」

 

 休日の昼下がり。

 

 寮にある俺の自室でともに昼食を終えると、腹が満たされて眠くなったのかテイオーがソファにごろりと寝そべった。

 その傍若無人な様子に呆れつつ注意するのだが、横になったままふざけた返事が寄こされる。というか何が実家のような安心感だよ。

 

 ここは俺の部屋であって断じてこいつの住処ではない。もっと正確に言えば俺のものですらなく、学園の所有物件を貸与されているだけだ。

 こいつは最近脚を固定していたギプスが取れ、代わりにサポーターへと変わった。それほど脚を気にしないでよくなったために調子に乗っているのだろう。

 

「それに前々から言おうと思っていたんだが、私物をいくつも置いていくのもよせ。歯ブラシだのコップだのはきちんと持ち帰れ、俺の部屋をお前の私物で埋めるな」

「えぇー……でもさ、いちいち持ち帰るのって面倒じゃない? どうせ何度も来るんだから、むしろこの部屋に置いてった方が『合理的だし効率がいい』よね、トレーナー!」

「くだらないことばっかり学びやがって……」

 

 テイオーが憎たらしいほどに良い笑顔を俺に向ける。

 

 何事も合理的に、効率的に行うべきだ――それは俺の口癖だし、ポリシーのようなもの。

 可能な限り無意味な行動を避け、最大効率で物事を進めることこそ結果に繋がる。そう教えてもいるが、こいつの自堕落な行動を正当化するものではない。

 

 この部屋には現在、テイオーの私物が溢れている。

 先に話題に挙がったような歯ブラシやコップ、外出用の服や靴。さらにシャンプーやウマ尻尾用のオイルなど様々な物が置かれており、もう誰の部屋なのかわからなくなりつつある。

 

「……楽をすることと、物事を効率的に行うことは似て非なるものだ。『急がば回れ』という言葉もあるように、目的を達成するためには遠回りが必要になる場合だってあるぞ」

「ふっふっふ、心配は無用だよトレーナー! こうすることで、ちゃーんとボクの目的達成には繋がってるんだからっ!」

「バカは休み休み言え。俺の部屋をお前の私物で満たすことで、何の目的が達成できるというんだ……」

 

 にやりと得意げに口の端を上げるテイオーだが、俺としては以前よりも口が減らなくなったことを嘆きたい気分だった。

 元々小生意気な部分はあったが、誰の影響か余計に屁理屈をこねるようになってきた。

 

 こいつは純粋無垢だしひたむきでまっすぐな分、好きになったものには一途になり染まりやすい一面がある。

 かつて“皇帝”シンボリルドルフの勇姿に魅せられ虜になったように、心を奪われたものに対して多大な影響を受ける傾向が見られる。

 

 大方、漫画かゲームに出てきた登場人物の真似でもしているのだろう。わかりやすいし単純な奴だからな。

 

「まぁ今回はこの辺にしといてやる。他にもお前に言いたいことがあるからな、というより次に言うことが本題だ」

「はぁ、また小言かぁ……。流石にちょっと多すぎるよ、エアグルーヴじゃないんだからさ」

「そう思うならもっと態度を改めてほしいもんだが……。とにかく、真面目な話だから寝てないで普通に座れ」

 

 ぶーぶーと文句を垂れるテイオーをソファに座らせ、会話がしやすいように俺もその脇へと腰を下ろす。

 ……すると。ささっと迅速にテイオーによってその距離が詰められ、両者が密着した状態となってしまう。

 

 近すぎると話しにくいため邪魔で仕方がないのだが、いちいち指摘するのももう億劫だった。

 何事も合理的かつ効率的に行うべきだ、と胸中で便利な呪文のように繰り返す。

 

「これからは、俺とお前にとって最も大事な時間となる。だからこそ、食事における栄養管理にも気を配っていきたい。つまり何が言いたいかというと――食事制限を行う、ということだ」

「しょ、食事制限ってもしかして……。マックイーンがよくやってるスイーツを我慢する、みたいなやつのこと!?」

「平たく言えばそうだな。好きなものを好きなだけ食べるのではなく、身体に必要な栄養素のみを摂っていこうという話だ」

 

 テイオーがまるで雷にでも打たれたかのように、激しい衝撃を受けた顔をする。

 こいつは高カロリーのにんじんハンバーグばかり食べたり、山盛りのデザートを平らげたり、甘すぎるはちみつドリンクを愛飲したりと不健康極まる食生活だったからな。

 

 それが出来なくなるかもしれないとなれば、当然ショックも一際大きいだろう。

 しかし、こいつの食事はあまりにもスポーツ選手のものとはかけ離れ過ぎていた。その天才性からある程度は目を瞑っていたが、今の状況ではもう許可は出来ない。

 

 好物を我慢させ調子を落とすリスクを抱えて、無理に栄養管理を行っても良いことはないと以前までは判断していた。

 だからこそ、程々に栄養が摂れているのを確認した後は、食生活に対して必要以上に口を挟むのは控えた。

 

 頑健な肉体を形成するには、適切なトレーニングを行うと同時に十分な栄養素を摂取する必要があるが、そこまでしなくてもこいつなら勝てるはずだと慢心して。

 

 ――愚かな思考だった、今では間違いだと断言できる。

 

「で、でも、ボク……いくら食べても太らないから大丈夫だよ?」

「太らないからって何でも好きに食べていいわけじゃない。トレーニングと栄養はセットで考えるべきものだ。いくらしっかりしたトレーニングを積んでも、栄養が不足していれば意味がないからな」

「それはわかるけどさ……だけど、今さらになってこんなの――」

「――違うな、むしろ今だからこそだ。お前の脚部不安が判明した今だからこそ、栄養管理を徹底的に行う必要が出てきたんだ」

 

 よほど食事制限が嫌なのか、テイオーが表情を曇らせてぐずる。

 こいつは旧家の令嬢であるし、何不自由なく暮らしてきたはずだからな。食べたいものを我慢するという経験自体がないのだろう。

 

 しかし、今回の件だけは何としても了承してもらわなければならなかった。

 身体を動かしているエネルギー源は食物から摂取される。皮膚や骨、内臓や筋肉、髪の毛のその一本一本に至るまで……身体の全ての組織は栄養素から出来ている。

 

 適切な栄養摂取をしないでトレーニングに励んだところで効果は薄い。俺はこいつの才能に目が眩み、それを軽視してしまった。

 テイオーはその柔軟性や走法の問題でもあるが、他者よりも骨が脆いのは確かだ。だからこそ、丈夫な体を作るためにも、今まで通りの食生活を送らせるわけにはいかない。

 

 ……こいつはまだ子供だ。叶うなら好きなものくらい自由に飲み食いさせてやりたかったが、もうそれは出来ないんだ。

 

 不安そうな表情でこちらを見つめてくるテイオーに対し、穏やかに優しく諭していく。

 

「聞いてくれ、テイオー。栄養管理は大事なことなんだ。何も毎日ってわけじゃない、レース後には好きに美味いものを食わせてやる。誰にも負けない筋力をつけるため、そして怪我に脅かされない身体を作るため……今は食事制限は欠かせない。全ては勝つためであり、お前が夢を叶えるためだ――わかるな?」

「夢を、叶えるため……。うん、わかった。ボク、トレーナーの言う通りにする」

 

 辛抱強くテイオーへの説得を続け、ようやく彼女の首を縦に振らせることが出来た。

 このようなことを無理強いしても何の意味もない。俺が断行してもおそらくこいつは従っただろうが、好物を我慢させられるのがやがてストレスへと変わり心身に悪影響が出るだけだ。

 

「あ、あのさ、食事制限はボクも仕方ないって思うけど……。でも、一つだけ聞いてもいい?」

「なんだ? 遠慮せずに言ってみろ」

 

 こいつにしてはおずおずと言いづらそうに質問してくるので、努めて微笑みを作りながら問い返す。

 彼女にとっては大きな決断だったのは間違いないため、それに免じて大抵のことは文句を言わずに受け入れるつもりだ。

 

「ねぇ、はちみーは? はちみーも飲んじゃ駄目なの? ボク、はちみーがないと死んじゃうよ!」

「……はちみーは、別に飲んでもいい。ただし、あまり飲み過ぎるなよ」

「――トレーナー! ボク、信じてたよ! トレーナーは絶対にボクにそんな酷いことは言わないって!!」

「……」

 

 感極まったのか、瞳に大粒の涙を浮かべたテイオーに抱きつかれる。

 何がその心に響いたのか知らないし知りたくもないが、もう何でもいいと思考放棄して俺はされるがままになっていた。

 

(なんなんだこの茶番は……)

 

 時々、俺は自分がトレーナーなのか保育士なのか、わからなくなるときがある。

 とにかく、これでテイオーも適切な栄養素を摂ることに同意してくれた。怪我のリスクはさらに一段階低下したわけだ。

 

 一歩ずつ、だが確実に歩いていこう。

 失敗を恐れず、前に進むことをやめなければ――必ず、望んだ結果はついてくるはずだから。

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