乾いたターフを湿らせる   作:やわらかスマホ

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第二十二話

「先日は本当に助かりました、トレーナーさん」

「いえ、大したことじゃないですよ。あの程度なら時間も掛からないですし」

「ふふっ、それは頼もしいです。でも、無理はなさらないでくださいね?」

 

 夏季休暇が終わり、暦が9月となってしばらくが経ったある日のこと。

 

 生徒が授業中である今のうちに、本日のトレーニング内容を見直そうと考えていたまさにそのとき、トレーナー室に来客があった。

 控えめで丁寧なノック音の後、俺の返事を聞いてから現れたのは――理事長秘書の駿川(はやかわ)たづなさん。

 

 この前忙しそうな彼女の仕事を軽く手伝ったのだが、それに対する御礼を述べるために来たそうだ。

 その場で感謝は伝えられたし別に大層なことはしていないというのに、なんとも義理堅いというか律儀な女性だと思う。

 

 もうカレンダーでは夏などとうに終わり、季節は秋へと変わっている。秋にはとにかくイベントが多い。聖蹄祭に、秋の代名詞であるハロウィン。お月見や紅葉狩り。

 後者に関しては個人規模で行うことがほとんどだが、前者の二つは学園を挙げて開催される大きな催し事である。

 

 ちなみに、『聖蹄祭』とはトレセン学園の生徒が主導となって催し物を企画・運営し、または参加するイベントのことだ。

 いつも応援してくれるファンに向かって、感謝の念を示す意味が大きいため『ファン大感謝祭』と呼ばれることの方が一般的である。

 

 要は普通の学園で言うところの文化祭だ。とはいえ、流石に生徒が全てを取り仕切るというわけにもいかず、俺たち教職に就いている者にも裏方の仕事が存在する。

 開催時期が間近に迫ってから、慌てて準備するのでは間に合わないしファンにも失礼だ。ハロウィンの時期とも近いため、早く全体の見通しを立てるに越したことはない。

 

 そんな事情もあって、たづなさんはそれらの下準備のために学園を忙しなく駆け回っていたのだが……。

 普段は沈着冷静に業務をこなす彼女でも、最近は余裕がなさそうに感じられたので見るに見かねて一部の仕事を肩代わりした。

 

 今回の件は、そのことに関しての改めての礼だそうだ。この女性には就任時に大いにお世話になったから、単なる恩返しのようなものなんだがな。

 

「それにしても、トレーナーさんは本当にご立派になられましたね……」

「……?」

 

 たづなさんが何処か遠い目をしながら呟く。

 感慨深そうな表情だった。昔世話をしていた子供が、いつの間にか大きくなっていたことを喜ぶ親戚か何かのような。

 

 どういうことか訝しむ俺の視線を察したのか、彼女は少し慌ててこう言った。

 

「ああ、申し訳ありません! 勝手に一人でしみじみとしてしまって……」

「別にそんなことは気にしないでいいですが、とにかく俺なんてまだまだですよ」

「ご謙遜はなさらないでください。初めて学園にいらした頃から貴方を存じている身としては、最近の立ち振る舞いには感激の念すら覚えます」

「……そう、でしょうか」

 

 たづなさんが自分のことのように誇らしげに、穏やかに微笑んでくる。

 後輩を可愛がっている……あるいは我が子を慈しむような母性すら感じられるその視線は、直視など出来そうもなかった。

 

「ご担当であるトウカイテイオーさんがあんなことになってしまい、期待していた周囲から心ない反応をされたこともあるかと思います。ですが、貴方はそんな状況でも決して下を向かずに走り続けている」

「……」

「さらにご自身が大変な時期であるにも関わらず、他人である私を気に掛けてくださった……まだ二年目の新人である、貴方がですよ? とてもお優しい方だと思いました――あまりにも優しすぎて、心配になってしまうほどに」

「……買い被りです。俺は、優しくなんて――」

 

 力なく否定する俺の言葉が、何処か虚しく部屋に響いていく。

 就任直後から思っていたが、なんなんだこの女性は。どういうわけか俺への評価がひたすらに甘く、ことあるごとに褒めてくる。

 

 本当に優しいのは貴方の方だろう。いつもやらなくていい仕事まで抱え込んで、見てて気分が悪くなるから少し手を貸しただけだ。

 大体、優しさなど何の役に立つ。優しいだけでは何も成し遂げられない。無能な善人ではなく有能な悪人が結果を出して成功していく、それが世の中だ。

 

 だからこそ、俺は俺のために行動している――くだらない勘違いはもうやめてくれ。

 

「……無理だけは、本当になさらないでくださいね? 手伝ってもらった私が言うのもなんですが、お疲れのようにも見えます。貴方が倒れてしまったら、トウカイテイオーさんだけではなく私だってすごく悲しいですから」

「――お気遣い、ありがとうございます。ですが今は追い込みの時期、多少の無理は通さなければ結果など出せないですから」

「そうですか……。じゃあ今度のお休み、気分転換で一緒にお出かけしませんか? 働きすぎはやっぱりいけませんからね。近所で良いラーメン屋を知ってるんです、お礼を兼ねて私が奢りますので!」

「い、いえ、それはちょっと……」

 

 俺の返答に一瞬だけ寂しそうな顔をした後、たづなさんはさも名案だとばかりに手を叩いてそう告げた。

 本来であれば、このような美しく心優しい女性と休日をともにすることは歓迎すべき事態ではあるのだが……。

 

 休日は資料研究などもあるし、何よりほぼ毎回欠かさずやってくる奴がいるため予定など空けられそうもなかった。

 無理にあいつの来訪を断って、後で何をしていたのか発覚した場合を考えると、たづなさんと出掛けるなどとても現実的じゃない。

 

 面倒ごとが容易く想定されるのに、わざわざ見えている地雷を踏みに行くなど愚か者のすることである。だからこそ俺は断腸の思いで、彼女の誘いを断ることにした。

 

「……すみません。休日は研究のため、レース見学に行くことになっていまして。また次の機会に誘っていただけると嬉しいです」

「――まあっ! レース見学ですか!?」

 

 断るために適当な理由をつけたのだが、たづなさんは妙な所に食いついてきた。

 いつも穏やかな彼女らしくなく、驚きに大きく目を見開いていき、その白い頬も瞬く間に紅潮していった。

 

「ぜひ、ぜひご一緒させてください! 何処のレース場で、どのレースを見学されるご予定なのでしょうか!? もし重賞だけ見て帰るというならそれはもったいないことですよ! それ以外のレースにだって熱いドラマがあるんです! そのことを貴方にもわかっていただきたい!」

「……す、少し落ち着いてください。貴方らしくもない」

「落ち着いてなんていられません! 私、これでもレースに関してはちょっとだけうるさいんです! 大事な大事な後輩である貴方が、レースの醍醐味をきちんとご理解なさっているか確認しないと! もしまだ重賞しか興味を感じられないのなら、ご理解いただくための努力は決して惜しまないつもりです! ですからレースを見学するというなら、ぜひご一緒させて――」

 

 たづなさんが非常に昂った表情で俺に迫ってくる。

 ウマ娘で言えば完全に掛かりまくっている、レースなら後半に耐えうるスタミナが残るのか懸念される状態だ。

 

 普段の彼女の姿とは程遠い様子、何処か既視感があると思ったが乙名史記者が暴走したときに似ていなくもない。

 俺の担当ウマ娘であるトウカイテイオーが、だらだらと湿っぽい仕草で不満を述べるときの面倒さにも近い。

 

 どうして俺の周りにはこういう女性が集まるんだ、頼むから冷静に話をさせてくれ。

 その点、以前に会話したナイスネイチャは癖がなく扱いやすいウマ娘だった。というか普通、あの手のタイプの方が多いはずだろ。

 

 俺はこの場を上手く切り抜けるための案と同時に、そんな益体もないことを考えた。

 

 

 

(くそ、思ったよりも手間取ったな……)

 

 レース見学という単語が出ただけで突然興奮したたづなさんを説得していたら、それなりの時間が過ぎてしまった。

 彼女は最後にはなんとか正気を取り戻し、しきりに俺に謝罪していたのだが。俺はもう不用意にあの女性にレースの話題を振ることはないだろう。

 

 失態で肩をがっくりと落としていた彼女に同情して、いつか一緒にレース見学に行こうという余計な約束まで交わしてしまった。

 テイオーのことを考えると気が重いが、たづなさんだっていつも世話になっている大切な女性だ――借りは返さなければ、俺の気が済まない。

 

 ビジネスの基本はギブアンドテイク、何かをもらったのなら対価を支払うのは当然だ。

 しかし、もう間もなくテイオーが部屋に来る時間だな。それまでには仕事を全て処理しておきたかったが、この分では明日に回すものもいくつか出てしまうだろう。

 

 テイオーの骨折は、今ではもう完全に治って芝でも全力で走れている。

 医者からもお墨付きをもらっており、また無理を重ねなければすぐに再度の骨折をすることはないそうだ。

 

 とはいえ、時速70キロで走るウマ娘にとってはただの練習だけで徐々に身体に負荷が積み重なっていく。

 ましてやテイオーの脚は一般的なウマ娘よりも折れやすい、これからも細心の注意を払う必要があるだろう。

 

 だからこそ、トレーニング内容に関しては一切の妥協が許されない。ただ適当に走らせていたのでは、いつかまた骨折してしまうのは明白だ。

 あいつの選手生命に大きく影響するため、これだけは見直しておかなければ。菊花賞ではスタミナがモノを言う、やはり走り込みやプール練習を増やすべきか?

 

 俺が見たところ、テイオーは明らかに中距離走(ミドルディスタンス)を最も得意としているウマ娘だ。

 スタミナを補強してやらなければ、長距離では最後の直線であいつの末脚を活かしきることが出来ないだろう。

 

 ただ、今まで数か月まともに走っていなかったためにスピードも衰えている。比重をどうするのかは難しい問題だな、まったく芝を走らせないというわけにもいかない。

 京都レース場で行われる菊花賞では、「淀の坂」と言われる高低差のある坂に二度も挑むことになる。その対策として、坂路トレーニングも増やさなければならないだろう。

 

 やるべきこと、したいことは枚挙に暇がない。何か効率的な練習でもあればと思案しているのだが、そのような都合のいいものも存在しないからな。

 目の前にあることを一歩一歩、確実にこなしていくしかないのが現状だ。

 

(それにしても……マズいな、本格的に眠くなってきた)

 

 たづなさんが退出してから、どうにも瞼が重かったのだがとうとう限界が近付いてきたか。

 これは別に彼女のせいというわけではない。元々、疲労困憊だったところに先のやりとりで最後のダメ押しが加わったに過ぎないものだ。

 

 俺がただ体調管理を誤っただけだが、何はどうあれもうテイオーがやってきてしまう。しかしこんな状態ではどうしようもないため、時間まで少し仮眠した方が賢明だろうか。

 

 ……そして最後の力でとある作業をしてから、襲い来る眠気に耐えきれず俺は瞳を閉じた。

 

 

 

 

 

 

「ごめーんっ! ちょっと遅くなっちゃった! 今すぐ準備するから――あれ?」

 

 予期せぬ用事が出来て遅刻してしまい、慌ててトレーナー室へと駆け込むトウカイテイオー。

 そんな彼女が目にしたのは、作業机に突っ伏して寝ている自身のトレーナーの姿だった。

 

 珍しいことにぐっすりと熟睡しており、滅多なことでは起きそうもなかった。

 自身がそうなってしまうのを予見していたのか、傍には『来たらすぐに起こせ、必ずだぞ』というメモ書きがまるでダイイングメッセージのように置かれている。

 

(疲れてるんだ。そうだよね、ボクがあんなことになっちゃったから……)

 

 トレーナーは凄いヒトだ、それは愛バである自身が一番よくわかっている。

 何でも出来るし、何でも知ってる。仕事に対する責任感も強いこのヒトが、あろうことか学園で眠ってしまうなんて、よほど疲労が溜まっていたに違いない。

 

 自分が骨折してしまったあの日から、トレーナーは殆ど休んでいない。

 学園の業務もあっただろうに、骨折のリハビリにはいつも付き合ってもらっていたし、休日にも彼の部屋にお邪魔してしまっていた。

 

 トレーナーのためを思うなら、本当はそんなことするべきじゃない。いつも彼の時間を奪ってしまっていたのも、こんなに疲れている原因の一つであるのは間違いないのだ。

 だけど、どうしても離れることが出来なかった――なぜなら、トレーナーが好きだから。

 

 すごく整ってて、作り物みたいに感じられるトレーナーの顔が好き。

 切れ長で冷たい印象を与えるけど、たまに優しく細められるトレーナーの瞳が好き。

 いつも不機嫌そうに閉じられているけど、笑うときは素直に笑うトレーナーの唇が好き。

 

 落ち込んだときに、励ますようにそっと頭を撫でてくれるトレーナーの大きな手が好き。

 事あるごとにからかってくるけど、本当はそれだって嫌いじゃない――あまり感情を見せないこのヒトと、距離が近付いている気がするから。

 

 というか、トレーナーのことはもう全部好き。

 だからこそ、一時でも離れたくない……迷惑なのはわかっているけど、この気持ちだけは抑えることが出来なかった。

 

(……トレーナーは、ボクのことどう思ってるんだろう)

 

 スカウトのときなど、愛の告白のような台詞を言われたことは何度もある。

 皐月賞では、「あれ、プロポーズされたのかな?」と思って心をときめかせたが、翌日には彼の様子は以前と同じに戻っていた。

 

 ようやく大好きなヒトと結ばれたと思ったのに、何とも肩透かしな結果だった。

 おそらくだが彼にとっては単なる決意表明のようなものだったのだろう、ちょっと紛らわしいにも程がある。

 

「……まさか、誰に対してもあんなこと言ってるわけじゃないよね?」

 

 聞こえていないのは百も承知であるが、それでも不満を示すために彼の耳元で囁く。自分の気も知らず、すやすやと気持ち良さそうに寝てるその頬をつねってやりたい。

 このヒトが他の女性と話しているだけで胸がムカムカするのに、もし同じことを言っているのだとしたら……そう考えるとおかしくなってしまいそうだ。

 

 自分のトレーナーは、学園でも結構モテる。

 まず顔が良いし、中央のトレーナーだけあって非常に優秀だ。クラスでも担当トレーナーの話になると、よく羨ましがられることが多い。

 

 性格もちょっと話せば見た目と違って優しいことなんてすぐにわかるし、意外に面倒見もかなり良い。

 機会に恵まれ彼に軽く指導された者が、いつまでも未練がましく熱っぽい瞳で見つめていることも少なくない。

 

 いつか複数人の指導が可能になってチームを設立したら、自分のことも売り込んでほしいなどと言われることもある。

 当然お断りだ、トレーナーとの貴重な時間を他の子と共有するなんて出来るはずがない。彼はずっと自分だけのものなのだから。

 

 このヒトに自分の存在をはっきりと刻み込むために、今まで様々なことをやってきた。

 トレーナーの部屋に入り浸って、多くの私物を置いていったのもその一環である。

 

 あれらをトレーナーが見るたびに自分という存在をアピールできるし、万が一にも他の子がやってきたときに牽制することも可能になる。

 変な子が間違って大切なトレーナーに付き纏わないように、愛バとして守ってあげているんだ……。うん、そういうことにしておきたいかな。

  

 とにかく、もし仮に百歩譲ってトレーナーが自分に対して恋愛感情がないのだとしても。

 それでも絶対に、他の子より特別なのは間違いないはず。……そのはずだ、きっとそう。

 

 担当ウマ娘だし、他の子を近付けさせないために休みだって暇さえあればトレーナーの部屋に通ってる。現に、彼との距離感も以前よりずっと近くなった。

 計画は全て予定通り進んでる、トレーナーの中で自分は大きくなってるだろう。今は大変な時期だけど、夢の果てである菊花賞が終わったら……。

 

(……でも、ボクも随分変わっちゃったなぁ)

 

 トウカイテイオーは、我ながらあまりにもドロドロとしたその思考に溜め息を吐いた。

 昔の自分は、確かもっと素直で純粋だったはずなのだが。自分がこんなにも嫉妬深かっただなんて知りたくなかった。

 

 全てはトレーナーと出会ってから。彼に声を掛けられて、仲を深めていって、スカウトされたあのときから……自分が決定的にこうなってしまったのだと感じる。

 このヒトの全てを自分のものにしたい、憧れのカイチョ―にだって渡したくない。その想いは、時が経つごとに大きく強くなっていった。

 

(ボクをこんな変な子にした責任、キミにはちゃんと取ってもらわないと)

 

 眠りこけているトレーナーの背中を、包み込むようにしてぴとっと寄り添う。

 少し恥ずかしいけれど、彼の体温や鼓動を感じることが出来てとても幸せな気分になれた。

 

 いつかこのヒトの方から自分を力強く抱きしめてくれる、そんな未来が来るといいな……心の底から、そう思う。

 いや、違うか。絶対に実現させるんだ――だって自分は、最強無敵のウマ娘なのだから。

 

「――大好きだよ、トレーナー。今はゆっくり休んでてね」

 

 そして彼女はトレーナーの顔を覗き込み、愛おしそうに微笑んでその頬を撫でた。

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