日本ウマ娘トレーニングセンター学園、またの名を中央トレセン学園、もしくはただ中央と呼ばれる。
シンボリルドルフ、オグリキャップ、スペシャルウィーク、サイレンススズカ、トウカイテイオー、メジロマックイーン、ミホノブルボン、ライスシャワー…
その他、数々の名ウマ娘達がレースを走り抜け、人々が熱狂した時から、二十余年。
レースを彩るウマ娘達は移り変わり、それはトレセン学園も例外ではない。
日本ウマ娘トレーニングセンター学園、理事長室。
現理事長である『シンボリルドルフ』は、二つの書類の前で唸り声をあげていた。
それは新入生の事が書かれている書類であり、一つは二つの名前が書かれている。
早来翔子こと、今季の中等部入学者代表生徒のディープインパクトのものだ。
そして、もう片方の書類には、名前はたった一つしか書かれていない。
書類の彼女の名前は津上あき。
小学生でありながら、日本最難関と呼ばれる中央のトレーナー資格を合格した、異例の天才児である。
無論、年齢はともあれ、書類に書かれている事に色眼鏡をかけてはいない。
彼女はとてもトレーナーとして優秀なのだと書類に書かれている。
彼女はこの春から、学生兼トレーナーとしてこのトレセン学園に入学する予定である。
年齢にさえ目を瞑れば、是非とも中央でその才能にて、ウマ娘を導いて欲しい。
ただ一点、彼女もウマ娘ということを除けば。
否、別段、ウマ娘でもトレーナーをやりたいというのは問題は無いのだ。
ウマ娘でトレーナーになったというならアグネスデジタルという前例が居る。
ただ、それでさえ彼女はトゥインクルシリーズとドリームシリーズを走り抜き、トレーナーとなったのはレースを引退してからの話だ。
彼女でさえも、自らで走る事さえせずにトレーナーになるなどしなかった。
そもそも、何故ウマ娘達が『トレーナー』という立場に着くことが、ほぼ皆無と言えるほど少ないのか?
走り方も、筋肉の付け方も、作戦の建て方も、ライブの練習も。
それらはヒトが教えるより、ウマ娘が教えた方が余程効率が良い筈だ。
何故ならば、実際に走ってきた当人たちなのだから。
名選手は必ずしも教導が上手いとは限らないが、どんな名ウマ娘であろうと、逆に全く勝ったことのないウマ娘であろうと、トレーナーになろうというウマ娘は本当に少ない。
それは何故か。
それは、ウマ娘にとって走り競う事が本能だからだ。
レースの為に走るウマ娘を見て、己が同じように走る事が出来ないなどと、レースに出ることが出来ないなどと、我慢出来るウマ娘などほぼ居ない。
ウマ娘とは、何よりも走る事が大好きなのだから。
その本能を覆すにはそれを凌駕するような思いか理性、どちらかが必要なのだ。
翻って、彼女はどうなのか。
最年少のトレーナー候補として、面接を行うと、実際に出会ってみて、彼女を見た時。
シンボリルドルフは、目の前に『奇跡』が居ると思ったのだ。
トレセン学園理事長として、URA常任理事として、一人のウマ娘として。
その嗅覚と眼力が、彼女はきっとウマ娘として歴史に大記録を打ち建てる、否、どんな記録を打ち建てるかすら『理解できない』途轍もない才能だと。
面接の最中、思わず君はレースに出ないのかと聞いてしまった程に。
その時に彼女は、なんでそんな事を聞くのかまるで解ってない顔で、『レースに出る事に興味なんてありませんけど』と言った。
シンボリルドルフは、最初その言葉が理解が出来なかった。
ウマ娘にとって走る事、レースに勝利する事は本能だ。
走り切って、満足したというのなら解る。
走って走って走って走って、レースを存分に闘い切ったというならば解る。
それでさえも、熾火のように目立たなくなっただけで、心の中で高熱で燃え続けるというのに。
だが、彼女は一度としてレースに出た事など無い。
レース場で、心を燃やした経験など有る筈がない。
走る事が、嫌いなのかとも聞いた。
彼女はまたもきょとんとした顔で、『いえ、走る事は好きですよ?』と答えた。
その時に、やっと少しだけ理解できた。
彼女にとっても走る事は本能だ、それは間違っていない。
ただ、『レースで勝利する事』は何も変わらない、とてもつまらない、ただの『当然の結果』なのだ。
走れば勝つ。
当然のように、動物が呼吸するように、言い訳の仕様も無く、苦戦など有る筈も無く、圧倒的に、周囲との差を歴然と、過去も現在も未来も全て引き千切って。
彼女はきっとそうなるのだと『走らなくても解って』いる。
己に並び立つ者など居る筈が無いと思っているし、競い合えるものなど居ないと思っている。
そして、それは事実なのだろう。
目の前の、どれだけ速く走るのかさえ理解できないウマ娘は、競い合う喜びを、レースで走る熱狂を、知らない。
知りようがない。
続く面接で表情を取り繕えたか、シンボリルドルフにはあまり自信が無かった。
そして、もう一人。
津上あきと共に育ち、津上あきが幼少から徹底的に鍛え上げた、正真正銘の天才。
レースの歴史全てを塗り替えてしまえる逸材。
思わず『彼女と自身が同期であったなら』と思ってしまった程の才能の塊。
津上あきが『翔子ちゃんはG1全部獲れます』と言って自慢していたのが過言ではないと思える。
早来翔子こと、ディープインパクト。
毎年、代表生徒と顔を合わせる事にしている(本当は全ての生徒と顔を合わせたいが)シンボリルドルフは、彼女に質問をした。
君の夢は何なのか、と。
『私の夢は、ただ一人に勝つ事です』と、綺麗な笑顔で答えられた。
誰の事かは聞かなかったが、あまりにも無謀だと思ってしまったのは事実だ。
何故ならば、ディープインパクトは確かに天才だが、シンボリルドルフが『まだ理解できる』天才だ。
『理解すら放棄して奇跡と呼ぶしかない』ような、そもそもとしてカテゴリが違うようなウマ娘ではない。
『勝つつもりなのか』と、シンボリルドルフは知らず声に出していた。
『全てのウマ娘に幸福を』というシンボリルドルフの夢に、ただ存在するだけで罅を入らせたような『奇跡』と。
見ただけで挑む事を諦めさせるような『奇跡』と、誰よりも近くに居た者が。
競い合う喜びを、闘いの熱を、夢に挑戦する希望を、負ける悔しさも、負けるものかという意地も、何一つとして持てる筈も無い『奇跡』に。
勝とうとする意志を、勝ちたいという意地を、勝つ事を、諦めないでいられるのかと。
ディープインパクトは、『はい、私の大事な夢ですから』と、嬉しそうに答えたのだ。
今のシンボリルドルフの前に、書類が二つある。
どちらか一方だけでも、トレセン学園に、トゥインクルシリーズに、激震を走らせるであろう存在。
おそらくこの時代は『ディープインパクト一強』と呼ばれるだろう。
おそらく多くの者が、多くの夢が彼女の輝きに灼かれるのであろう。
それが、たった一人を追い抜こうとするものだとしても。
それが、たった一人に届かないものだとしても。
ただ、それでもシンボリルドルフは信じたかった。
ディープインパクトの眼を、ディープインパクトの夢を、ディープインパクトの意志を、ディープインパクトの決意を。
彼女ならば、あるいは『奇跡』に火を灯せるのではないかと。
シンボリルドルフは、彼女にそっと、夢を賭けた。
リジチョーは輝きに眼をヤられた被害者第n号。
最初にデカすぎる光を見せられて強制的に目を曇らされた挙句、輪郭は見えるけどそれでも充分すぎる輝きを後にお出しされて『あっ、まだ解る』と判断してしまった。
後者だけでもトゥインクルシリーズは大概焼け野原である、目を覚ませ!