其処は某月某日の某所、そのまた地下深く。神経質なまでの白色に満ちた殺風景な寝室に漆黒の髪をシーツに広げた女が一人、瞼を擦る。
「此処は、何処じゃ……?」
『彼女』を「お姉様」と慕う童女も、因縁あるやくざ者の一派のもいない。彼女の知るありとあらゆる存在の気配などまるで見当たらない世界で、代わりに自身がこれまで見たことも感じたこともない不可思議な気配が其処には満ちていた。ふと無機質な振動音に気がついて、身体に馴染んだ動作で枕の横に落ちていた端末を手に取った。電話越しに聞こえるのは『彼女』の知らない男の音声だ。
「____シノ起きているかい。そろそろ仕事の時間だぞ、エージェント・シノ。新人とはいえ社会人が朝寝坊とは良い度胸だ。とは言ってみたものの声が届いているのか……ふふ、診断の結果を見る限りはぐっすり寝ているだけと出ていたんだがなあ」
「……ん」
エージェント・シノ、それは己に対する呼称なのだろう。『彼女』は瞼を擦り、声のする方にぼんやりと顔を向けた。意識がはっきりとしていくにつれて頭が痛む。己の知らない記憶が早回しで脳裏に流れ込んでいく。
幻想と理不尽に満ちた西暦■■年の世界に生まれ育ち、とある企業の一員となったばかりの人間の記憶。彼女の魂はもうこの世に存在しないだろう。その肉体に宿っているのは、
「シノ、とは。それは妾のこと、か」
「妾ときたか……シノ、もしかして寝ぼけているのか。お姫様の夢でもみていたのかね。はは、無理もないか。あんな目に遭えば普通なら命を無くしていてもおかしくない」
「あんなこと?」
『彼女』が訝しげに疑問を投げかけようとした時、身体の内の異常に初めて気がついた。喉に何か引っかかっているような感覚。身を起こして喉の遺物を吐き出す仕草をしてみれば、膝の上に転がり落ちたのは唾液に濡れた紫色の花の塊。目を閉じて『記憶』の糸を探ってみれば、浮かび上がるのは絶望に満ちた『仲間』の顔。降り注ぐ香り高き花。眠るように倒れる誰かを抱えた自分の手。
「すまないね、シノ。君が昨日出会ったのはT-04-53。本当なら会わせたくはなかったんだが……担当がヘマをしてしまったようだ。コントロールチームにいた君の同期はほぼ全滅、君だけでも生き残ってくれて幸いだ。頭の調子が良くなさそうだが……それだけ落ち着いていられるなら、もうそれで良いのかもしれないな」
『彼女』は己の知らぬ世界の摂理を直感した。この世は『バケモノ』に満ちている。人は『恐怖』に直面し、『未来』を創る。その為だったら何だってする。そう、何だって。
「かん、りにん。そなたは管理人で合っているか?」
「そうさ、思い出してくれたかい?」
「つかぬことを伺うが」
羽衣狐という言葉に聞き覚えはないか?夢でふと聞こえた気がしたかもしれんのだ。此処では夢の中でも気を抜いてはいかんのだろう?そう『彼女』が問うと、管理人は興味深そうに唸り声を上げる。
「……いや、知らないな。ハゴロモ、ギツネ。変わった名前だ。そいつはどんな奴なんだ?」
「そんなもの聞いた妾に聞いてもしょうがないであろう」
「それもそうだな。もしかしたら新手の幻想体の干渉かもしれない。偶然の夢だったかもしれないけどね。幻想体だったら上手いこと捕まえて調査分析捕獲管理せねばいけない。もしも夢でまた会ったらもう少し調査をお願いしたいものだ」
そして苦笑混じりの笑い声が後に続く。(もう既にここにおるんだがのう)と『彼女』は心の中で呟いてから、何事もなかったかのような顔をして「善処する」と短く返した。さりげなさを装って白いシーツに潜り込み、何かを確かめるように軽く身体に力を込めた。
(まだ、上手く身体が馴染んでおらなんだか)
『彼女』は羽衣狐なる『魔性の女』にあるはずの自らの尾の気配を感じない。『あるべきもの』の大多数の欠けた身体、今はまだただの人にも等しい頼りない肉の塊。その身体に移るような最期を遂げた覚えはないのに、どういうわけか今の『彼女』は新しい世に生まれていた。
(今素性を知られるのは避けるべきかのう)
シーツ越しにも感じられる無数の『畏』の気配。『彼女』がこれまで出会ってきた中にもそうはいない得体の知れなさを孕んだ異質な何かがこの建物には存在している。本調子であったなら自慢の尾を振りかざして『戯れて』みせただろうが、そうではない今は単なる『人間』の顔をするより他はない。『彼女』は、彼女である羽衣狐はその歯痒さに溜息をつきながらシーツを抜け出し立ち上がった。
「心配をかけてすまんな管理人、妾は一眠りして体調は優れてきたぞ。りはびりに程よい作業はあるか?」
「お、口の聞き方は兎も角としてやる気は前より満ちてるみたいで何より、まるで違う人が乗り移ってるみたいだ。そうだね、更衣室に君の新しい仕事着を置いておいた。着替えられたらコントロールチームの……ん、昨日の今日じゃ気分が優れないか?」
「構わん。どうせここでやっていくならこれから先も飽きるほど出くわすのだろう」
「良い心構えだ。それじゃあ昨日と同じように職場へおいで」
(人間に従うのはふりであっても些か屈辱だのう)と腹の内で毒づきながら、それはもれなく更衣室で幾分か晴れやかに切り替わる。宵闇の瞳に映るのは冥府の闇で染めたような仕立ての良い見事な黒色のスーツ。それと銀のケースに仕舞い込まれた白と黒の二丁拳銃。
「悪くない」
「良い装備だろう?普通なら新人が扱える代物じゃあないんだけどね、あんなことがあってもピンピンしてる君なら問題なく使いこなせるかもしれない。違和感を感じたら正直に言ってくれよ」
「応」と短く返答して羽衣狐はその服に___『恐怖』に直面する人間のための装備たるE.G.Oに身を包む。己を蝕もうとする『ナニカ』の気配は感じるものの、彼女とてそれに屈するほどやわな魂はしていない。自分のものではない『畏』を帯びたその衣類を肌に馴染ませた時に想起したのは、魑魅魍魎の主を名乗る存在の後ろ姿だ。
(鬼纏とは斯様な心地なのかえ。奴良鯉伴に、奴良リクオ)
図らずも奇妙な感嘆を覚えて思わず羽衣狐は苦笑する。「気に入ったようで何よりだ」の声を聞き流しながら、彼女は扉を開けて『いつもの』職場へと歩んでいった。狂気と幻想と不条理に溢れた『異世界』でも、羽衣狐は人知れず戯れる。
「____と言う夢を見たのだよ」
「なんだかわくわくする夢ですね、お姉様!」
「よしてくれ、狂骨よ」
見事なまでの黒死の色の装いは名残惜しかった。