殺される害獣と殺す人間。どちらが悪か。

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犬も食わない話

 

 

 

 罠にかかり、檻に閉じ込められたハクビシンを見た。にじり寄る私たちが恐ろしかったのか、その小さな体躯はぶるぶると震えており、瞳には明確に、手ではっきりと触れるほどの恐怖が浮かんでいた。見ているだけで憐憫の情を誘われた。

 

 話を聞くと、こういった動物は人々に害をなす、所謂害獣らしいので、すぐに殺処分されるようだ。ちらりと横目で檻を見る。ハクビシンもちらちらとこちらを見ながら、檻から出ようともがいていた。

 

 別に、逃がしてやろうとは思っていない。この動物は今まで様々な人に迷惑をかけて来たのかもしれないし、放っておくと今度は私の家に被害をもたらすかもしれない。自らのエゴを振りまけるほど、私は純粋でも愚直でもなかった。

 

 可愛そうだと思った。けど、それを口に出来なかった。

 

 ただ私にできたことは、保健所の人間に連れられて行くハクビシンのその後ろ姿に、せめて苦しむことなく死んでおくれと願うことだけだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 真っ暗な部屋の中に一つ、毒々しい光が浮かび上がっている。部屋を薄らと青く染めているその光は、時折ちかちかとその光の種類を変える。そのたびに部屋は一瞬ぱっと明るくなり、また暗闇に戻っていく。

 

 不意に、部屋に光が灯った。眼に熱い光量が部屋を包み、影を追い払っていく。

 

 闇が消え去った部屋の中には、一つの大きなパソコンと、その前に座る男がいた。

 

 男は徐に振り向き、電気を点けた人物を睨みつけた。

 

 それは、七十代手前辺りの女性だった。女性は手にコンビニ弁当を持って、悲しそうな瞳で男を見つめている。

 

 

 

「これ、お弁当。食べる?」

 

「…………部屋の前に置いといて」

 

 

 

 小さく交わされる会話。そこに感情はなく、ただただ業務的な印象を抱かせるものだった。

 

 男はそれだけ言うと再びパソコンに向き直る。女性──男の母親は自らの息子の後姿を数舜、物憂げな瞳で見つめたが、すぐに気を取り直し弁当を置いて扉を閉めた。

 

 

 

「……光、消していけよ……」

 

 

 

 舌打ちと共に吐き出されたその言葉は、どう考えても母親に向けて言う言葉ではなかった。

 

 八月三日は大雨だった。何やら台風が来ているとかで、一日中翠雨とは言い難い量の雨が窓を叩いていた。

 

 

 

「……死にてえなぁ」

 

 

 

 ぽつりと呟いた。雨音にかき消されたその言葉は、しかしそれでも重く部屋の中に響いた。窓の外を見やると、数人の学生が傘を差し笑いながら歩いている。彼らをじっと見つめるその瞳は、どうしようもないほどに淀んでいて、それだけで男の人間性がある程度推し量ることができる。

 

 気分が悪いと吐き捨てた彼は、目頭を解しながら立ち上がり、部屋の前に置いてある弁当を取った。生姜焼き弁当、四百九十八円。高いのか安いのか、彼にはわからないが、とりあえず貪り食う。

 

 そんな男の耳に、階下の玄関が開く音が聞こえてくる。それに次いで聞こえて来た声に、男は顔を顰めパソコンの前へと歩いていく。その緩慢な動きは、さながら冬眠を終え起き上がったが予想よりも寒かったので再び寝ようと塒に帰る熊のようだった。

 

 

 

「ただいま」

 

「お帰りなさい。お風呂入ったら?」

 

「うん」

 

 

 

 若い男の声が聞こえてくる。先ほどの母親と会話を交わすこの男の正体は、果たして今現在パソコンの前で死んだ目をしている男の弟だった。

 

 男にとって、自分より三歳年下の弟の存在はまさに目の上のこぶのようだった。

 

 

 

 某大手企業に就職し、収入もそこそこ。親孝行は欠かさない。そして恋人がいる。

 

 男が持っていないものすべてを、弟は持っていた。

 

 これで兄のことを軽蔑し見捨てているのなら、まだ性格が悪いと馬鹿にすることも出来ただろう。だが、この弟はそんなことはしなかった。

 

 兄がどれだけ醜い格好になって、家の食い扶持を潰すだけの能無しになっても、彼は男を見捨てずに寄り添っていた。いくら暴言を吐いても、悲しそうな顔で頷くだけだった。

 

 

 

「……兄さんは?」

 

「まだ……」

 

 

 

 階下から聞こえてくるその会話に、自分自身の汚さを突き付けられたような気がして、男は泣いた。頬を伝うこの水が肌に染みわたって、保湿効果を荒れた肌に齎してくれたらいいのにと願った。多分、何の意味もないのだろうけど。

 

 

 

 生姜焼き弁当は、いつもよりしょっぱかった。しょっぱかったが美味かった。

 

 ゴミを地面に投げ捨てた男は、涙で真っ赤になった目のまま、再びキーボードに指を打ち付け始める。自分が変わらないことなど知っていた。わかりきっていた。

 

 だから今日も、無駄に心臓を打ち続ける。死ぬ度胸なんてないまま、害獣のように暮らすのだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 とある山奥のペンションで、人々が集い様々な会話を広げていた。夜の帳は深く、静かな月光だけが山に鬱蒼と生えている木々を薄蒼に染めていた。月明りがより一層暗さを引き立てていた。虫の鳴き声が、ひっきりなしに響いていた。

 

 煙草を吸いに一人の男が立ち上がりドアを開けると、待っていたかのように一匹の蝉が滑り込んでくる。

 

 蝉は縦横無尽に飛び回り、壁や天井にその身を打ち付けながら人々の近くに落ちた。

 

 人々は、毒があるわけでもない虫の襲来に怯え、ぎゃあぎゃあと騒いでいた。蝉よりもうるさかった。

 

 一人の男が徐に立ち上がり、ティッシュを持って、蝉を圧し潰した。最期の声すら聞こえなかった。

 

 人々の邪魔だったから、殺したらしい。

 

 数年も土の中で眠っていて起き上がったばかりなのに、その仕打ちは酷いのではないかと思ったが、黙っていた。

 

 だって、皆の邪魔をしたんだもんな。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 八月四日は、昨日の雨が嘘だったかのように晴れていた。

 

 雨のせいで湿度が上がって、蒸し暑い日になっていた。立っているだけで汗がにじみ出てきて、不快だった。

 

 男は一人で町を歩いていた。数日ぶりに外を出る男の格好は不潔なもので、過ぎ去る人々は奇怪なものを見る目で彼を見ていた。

 

 

 

「あっつ……」

 

 

 

 太陽に舌打ちをして歩く彼の体からは、先ほどから汗が滝のように流れている。火にかざした蝋人形のようだった。

 

 特に行先はない。ただ家に居づらいから外に出て、ふらふらと歩いているだけだった。

 

 降り注ぐ蝉時雨を睨みつけ、男は日陰に吸い込まれるように近づいていく。蝉の尿の臭いが鼻についた。

 

 木陰の下は適度な涼しさで、服を扇ぐ余裕のできた男はゆらゆらと逃げ水で満ちた町をぼんやりと見ていた。近くの塀の上でぐったりと寝そべっていた猫が逃げ出した。

 

 

 

「世界、終わればいいのに」

 

 

 

 物騒なことを呟いたって返事なんか来やしない。言葉に出来ぬ苛立ちを抑え込むように目を瞑る。

 

 ふと、足元に落ちていたチラシが目に入る。人々に踏みつけられぼろぼろになった、まるで男のような生き方をしているチラシだった。

 

 舌打ちをして拾い上げる。地面が湿っているのか何だか萎れていた。

 

 それは、害獣駆除のチラシだった。

 

 ファンシーな絵ででかでかと描かれたアライグマらしき生き物が吹き出しで「いたずらをするぞ!」と言っているそのチラシは、見ているだけで一種の不快感を煽るものだった。

 

 裏面には害獣の駆除方法が書かれていた。

 

 生け捕りや罠などといった物騒な方法ばかりかと思っていたが、読んでみると案外そうでもない。どうやら小さな獣くらいだったら音や衝撃で脅かすだけで逃げていくらしい。

 

 チラシの下の方には爆竹らしきものを突き付けられたファンシーアライグマがべそをかきながら逃げている絵が描かれていた。

 

 何故アライグマはこんな酷い仕打ちを受けているのだろうかと、男は近くの段差に腰掛けて考えた。

 

 彼らは自分が生きるために住処を探しているだけに過ぎない。それを何故人々は害と言い、強制的に追い出そうとするのだろうか。

 

 もちろん、男は害獣を愛しているわけではない。むしろその在り方は嫌いと言っていいほどだった。

 

 自分のためだけに迷惑をかけ、そのくせ罪悪感も感じない。まるで自分自身のような生き方。そんな害獣が、男は大嫌いだった。

 

 しかし、それと同時に理解もしていたのだ。彼らは別に他人に迷惑をかけたいわけではない。ただ、生きているだけなのだ。生きて、生きて、生きて、その延長線上に他人の迷惑があっただけ。彼らに罪の意識はない。何故なら、彼らも生きることで必死だから。

 

 

 

 どうか害獣を殺さないで、なんて偽善者染みたことは言いたくない。だが、理解はしてほしい。

 

 尊重して、理解して、それから駆除してほしいのだ。

 

 

 

 男はチラシを捨てると、立ち上がり帰路に就いた。今すぐに家に帰って布団にくるまりたい気分だった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ネズミ捕りにかかってもがいているネズミを見た。

 

 細く硬い針に挟まれ苦しそうに蠢いているネズミは、近づいてくる私を見上げた。苦しみで満たされていたその瞳の中に恐怖が混じった。

 

 針金を外して、逃がしてやろうとも思ったが、止めた。アマゾン川に投げ込まれた肉片に食らいつくピラニアの如くネズミの背中に食い込んだ針金は、取ろうと思って取れるものではないし、取ったところでもう背骨が折れているだろう。

 

 私に出来ることは、ただ見過ごすこと。知らぬふりをして無視することだ。

 

 苦しい。痛ましい。悲しい。

 

 けどしょうがない。

 

 害獣だもん。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 八月五日はよくわからない天気だった。

 

 朝は小雨が窓を叩いていたかと思えば、すぐに晴天に早変わり。今ではガラスを溶かすのではないかと疑いたくなるほどの陽光が差し込んでいる。

 

 男は扇風機で涼を取りながらパソコンに齧りついていた。本当のことを言えばエアコンをつけ涼みたかったが、彼の中の良心がそれを止めた。害獣のくせして一丁前に罪悪感を感じていたのだ。

 

 カーテンをぴったりと閉められた部屋の中は薄暗く、じめじめとしている。

 

 不意に、部屋のドアがノックされた。しかし男は返事をしない。

 

 

 

「……兄さん、入っていいかい?」

 

 

 

 無視を貫いていた男は、しかし扉の外から聞こえて来たその声に思わず舌打ちをした。

 

 弟だった。今最も──いや、この人生の中で最も会いたくない人物である彼の弟だった。

 

 返事が来ないのを確認した弟は、ゆっくりとドアを開ける。暗闇の中に長方形の光が差した。

 

 面倒くさそうに振り返った男の視界に、弟の顔が映る。反吐が出そうなくらいに健康的な顔だった。

 

 

 

「……んだよ」

 

「…………やあ、久しぶり、兄さん」

 

 

 

 嫌味かよ、その言葉はすんでのところで吐き出さずに済んだ。なんだかそれを言えば、自分が負けた気がしそうだった。

 

 

 

「ちょっと、散歩に行かないかい?」

 

 

 

 張り詰めた空気を緩和させるための弟の提案は、素晴らしく最低なものだった。

 

 男は弟に聞こえるくらいの音量で舌打ちをすると、彼を睨んだ。

 

 

 

「……余計なお世話だ。出てけ」

 

「出てけって……別に、一緒にそこらへんを歩くだけじゃないか」

 

「…………俺を、腫物扱いしてんじゃねえ」

 

 

 

 その言葉に、弟は気まずそうな表情になる。その表情には、言葉に表さずとも弟が男のことをどう思っていたのかをはっきりと浮き出ていた。

 

 

 

「出てけ。話すことはない」

 

「けどさ兄さん、ここでダラダラするよりかは外に出る方がいいんじゃないかな?」

 

 

 

 折れることなく食い下がる弟を一瞥して、彼は嘲笑った。

 

 

 

「そうかい。高尚で多忙なあんたからすりゃ、俺なんかちっぽけな存在はいっつも怠けてるように見えたんだな。時間と金を潰してるように見えたんだな」

 

「そ、そういうわけじゃ……」

 

「将来有望な弟さんの言葉はやっぱ違うよな。そりゃプー太郎の俺なんか道端のゴミみたいに見えるよなぁ? ……だったらもうゴミなんかに構ってないで出てけよ!」

 

 

 

 言葉を発しているうちにだんだんと怒りが募ってきて、語尾の方は叫んでいた。その言葉を聞いて、困惑一色だった弟の瞳に怒りが宿る。

 

 

 

「……いい加減にしてくれ、兄さん! いつまで甘えているつもりなんだ! 自分が迷惑をかけていることに気づいているんだったら、それを直してくれよ!」

 

「……え?」

 

「親の脛を齧るのもそろそろ終わりにしてくれ! みんなに迷惑が掛かってるんだ! 父さんも母さんも、いつまでもワガママな兄さんにほとほと嫌気が差したんだ! そろそろ家から出て行ってくれ!」

 

 

 

 そう言って弟は大きな足音を立てながら部屋から出て行った。ばたんと閉められたドアが何とも恨めしそうに男を見ていた。

 

 何だよそれ、口内で転がした言葉は、溶けて消えていった。

 

 

 

「そんな言い方って……ないだろ」

 

 

 

 まるで人を害獣みたいにさ。

 

 俺だって一生懸命生きてんのにさ。

 

 迷惑かけてることくらいわかってる。それでも、尊重してほしいんだ。

 

 

 

 脱力した男は、そのまま椅子から転げ落ちて天井を見上げる。

 

 人の目みたいな木目が男を見下ろしていた。涙で霞んでよく見えなかった。

 

 

 

「こんなの……こんなの本当の俺じゃない」

 

 

 

 掠れた声で呟かれたその言葉は、虚しく宙へ響く。

 

 

 

 いつからだろうか。彼がこんなに自堕落な生活を始めたのは。

 

 いつからだろうか。毎日がこんなに怠く思えて来たのは。

 

 いつからだろうか。自分が害獣みたいに日々を過ごし始めたのは。

 

 

 

「誰のせいだ」

 

 

 

 誰のせいだ。

 

 

 

「誰のせいなんだ」

 

 

 

 誰のせいなんだ。

 

 答えなんてわかりきっている。

 

 男は頭の中に浮かんだ答えから逃げ出すように立ち上がる。

 

 

 

「そうだ、俺の中に害獣が住んでいるんだ。俺を巣食っているナニかがいるはずなんだ」

 

 

 

 そうでなければ、俺がこんなことになるわけがない。

 

 そう決めつけた男は徐に部屋から出た。そのままふらふらと吸い込まれるように玄関まで歩くと力なくドアを開け外に転がり出る。

 

 

 

「害獣だ、害獣なんだ。全部全部害獣のせいなんだ」

 

 

 

 ふらふらと覚束ない足取りで歩く男を、周囲の人々は奇怪なものを見る目で見ている。しかし男はそんな視線既に気にならないようだった。

 

 

 

「俺は追い出すぞ。追い出すんだ。害獣を身体から追っ払って、あの日みたいになるんだ」

 

 

 

 あの日って? 

 

 彼自身もわかっていない。

 

 ただ、幽霊みたいに歩く。歩いて歩いて、ただ歩く。

 

 

 

 意味なんてなかった。

 

 踏み出される脚にも。

 

 この人生にさえも。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 逃げ惑うアライグマを見た。

 

 目の前には伐採され地に転がっている大木の幹。

 

 多分、彼の住処が近くにあるのだろう。何度も近づこうと辺りを歩くアライグマだったが、人の気配を感じてすぐに走り去ってしまった。

 

 彼が走り去っていったのは山の麓付近。民家のある方角だ。

 

 

 

 彼もまた、人々に近づきすぎて害獣と呼ばれるのかもしれない。

 

 彼の住処を奪ったのは誰でもない人間だ。彼は生きようとして逃げ出しただけで、人間に迷惑をかけようだなんて思ってもいないだろう。

 

 全ては、人間の蒔いた種。

 

 蒔いたのも人間で、刈り取るのも人間。害獣と呼ばれる動物たちは、それに巻き込まれた憐れで不運な生き物でしかない。

 

 

 

 だが、しょうがない。

 

 それが人間の生き方だから。

 

 強いのは人間で、だからこそ決めるのも人間。

 

 

 

 人間が黒と言えば例えそれが白であったとしても黒になる。

 

 害獣は、人間に害を与えるから害獣。そこに獣の弁明などはありはしない。

 

 

 

 けど、しょうがない。

 

 人間が強いんだもん。ルールを決めちゃったんだもん。

 

 

 

 人々に害をもたらす害獣か、獣に害をもたらす人間か。

 

 

 

 果たして、どちらが本当に害なのだろうか。

 

 

 

 答えなんか出せない。

 

 出したくもない。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 気が付けば夜だった。

 

 夜の帳は薄く辺りに覆いかぶさり、緩やかな静寂だけが横たわっている。

 

 ガードレールに凭れかかってぼんやりと空を見上げていた男は、不意に立ち上がった。

 

 

 

「出てけ、出てけよ……」

 

 

 

 力なく呟かれた言葉の中には、隠し切れないほどの憎しみが見える。

 

 

 

「本当の俺を返せ……今すぐに、俺の身体から出ていけぇっ!」

 

 

 

 鈍い音が辺りに響き渡る。

 

 男が電柱に自身の頭を叩きつけた音だ。

 

 アスファルトに血液が数滴落ちる。男の額は割れ、血が止め処なくあふれ出る。

 

 あまりの痛みに数歩後ずさった男はすぐに舌打ちして再び頭を打ち付ける。

 

 

 

「さっさと出てけよ! 俺を返せ!」

 

 

 

 溢れ出した血液が首筋を流れ服を汚していく。足元にいくつもの血痕が出来上がる。

 

 壊された静寂を嘆くかのように松虫が喚いていた。

 

 

 

「出てけ、出てけ、出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけっ! なんで、どっかいかないんだよっ!」

 

 

 

 子供のように地団太を踏みながら男が叫ぶ。紅い血に混じって、透明な水滴が瞳から溢れ出していた。

 

 

 

「お前のせいで! お前のせいでっ!」

 

 

 

 男は蹲り、人目を憚らずに大声で泣き始めた。

 

 獣のような泣き方だった。

 

 

 

 数分後、男は血と涙と洟に塗れた顔を徐に持ち上げる。その顔は悪鬼に憑りつかれているかのように悄然としており、目は虚ろで目の前にあるガードレールではない何処かを見つめていた。

 

 

 

「脅せば、出ていくんだよな……」

 

 

 

 彼の頭の中にあるのは、昨日見たばかりの害獣駆除のポスターである。

 

 ポスターには、害獣は音や衝撃で脅かせば出ていくと書かれていた。

 

 

 

 なら簡単だ。

 

 脅かせばいい。

 

 

 

 ふらふらと、男は何かに酩酊する頭でガードレールを目指す。

 

 すると、まるでタイミングを見計らったかのように、遠くから二つのヘッドライトが舐めるように男に近づいてきた。

 

 男はぼんやりとした目で近づいてくる車を見つめると、その車が彼を通過する直前に、勢いよく足を踏み出した。

 

 段差に躓く足、鳩尾に当たるガードレール、ぐらりと傾く重心、ヘッドライトが彼を染める。

 

 

 

 けたたましいクラクションが鳴り響いた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 夢を見た。

 

 

 

 人々が害獣と罵って、怒りの矛先を向ける動物たちが、涙を流しながら私を見ていた。

 

 アライグマ、ドブネズミ、ハクビシン、イタチ、カラス。

 

 彼らは涙を流しながら、私に訴えかけていた。

 

 助けてくれ、殺さないでくれ、やめてくれ、助けてくれ。

 

 彼らの目には怯えがはっきりと浮かんでいる。当たり前だ、人間に見つかれば害獣として殺されてしまうのだから。

 

 自分の手を見る。人間の手だ。その手に、何かが握られていた。

 

 包丁だ。

 

 百均に売られていそうなほどにちゃちな包丁を、私は強く握りしめていた。掌が真っ白になるくらいに。

 

 ついと腕を動かすと、それにつられて包丁も動く。きらりと光った。その危険な光に、害獣たちは怯えたように後ずさる。

 

 一歩前に進む。害獣たちは逃げようともがく。しかし、何故か逃げられない。その目に涙が浮かぶ。

 

 目の前に立つ。包丁を振り上げる。

 

 

 

「──────」

 

 

 

 弾力のあるナニかを貫く感触が、私の腕を駆け巡る。腕を再度振り上げる。すると、鮮血が包丁の後を追う。

 

 凄まじい鳴き声が、辺りに響き渡る。

 

 

 

 助けてくれ、助けてくれ。

 

 

 

 黙れよ。

 

 

 

 私はそれらの言葉をすべて無視し、腕を動かし続ける。

 

 包丁が、既に動かなくなった害獣に刺さるたびに、肉片と血液が宙に舞う。痛みなどとうに感じていないはずなのに、びくんびくんと痙攣する。

 

 血だまりが広がっていく。靴は既に汚れてしまった。

 

 私は包丁を捨てる。とても清々しい気分だった。

 

 

 

 しょうがないよ。

 

 害獣だもん。

 

 

 

『気持ち悪い』

 

 

 

 不意に後方から声がする。振り向くと、私に軽蔑の目を向ける、誰かがいた。二人は既に老人と言えるほどの年齢で、あと一人は私よりかは少し若い男だった。

 

 誰だ、こいつらは。

 

 何処かで見たことがある。

 

 けど、思い出せない。

 

 

 

 男は私を見て、吐き捨てた。

 

 

 

『この、害獣』

 

 

 

 その言葉に、怒りが沸き上がる。

 

 

 

 俺が害獣だと? どこがだ、どこがなんだ。

 

 

 

 あれ? 俺? 私? 

 

 もうどうでもいい。

 

 害獣? どこが? こんなに人間なのに? 

 

 

 

 男を殺すべく、手を伸ばす。自分のものとは思えないほどに恐ろしい声が喉から溢れ出てくる。

 

 

 

 あれ、自分? 自分ってなんだ? 俺ってなんだ? 私? 俺? ──? 

 

 

 

 ──は男に向かって手を伸ばす。届かない。視界がぼんやりとしていて、何も見えない。

 

 届かないなら歩けばいい。足を踏み出して、──は男に向かって歩き出した。

 

 

 

 もう届く! ──は手を伸ばす。

 

 

 

 その手は、体毛がびっしりと生えた腕だった。

 

 

 

 あれ、これ、誰だ……? 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 凄まじい衝撃が男を襲う。

 

 身体を激痛に襲われながらも、彼は笑顔だった。



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