澱みない海のような青色の空。
彼も今、この空を見ているのだろうか。見ているとしたら、何を思っているのだろう。
雲ひとつなくて清々しい空のはずなのに、私の瞳には曇天模様でしかない。少なくとも彼と別れたあの日から、私の瞳には深く、何者にも染まらない影が刺してしまっている。
あの日の夜のような、不気味な闇が差し込んでいる。
※※※
彼女が出ていった後も、僕は彼女の帰りを待ち続けていた。ダンジョンには行かずに、1人メレンの閑静な住宅街で酒を煽っている。
僕の心を溶かしてくれた彼女。僅か1ヶ月だったが、僕にとってはかけがえの無い1ヶ月だった。
冷えきった心は彼女の温もりを受けた。
凍てついた思考回路は仄かに動き始めた。
壊れた感情は彼女という歯車によりまた、回り始めた。
しかし、僕の隣に彼女はいない。僕を温めてくれることも、愛し合ってくれることももう、無いのかもしれない。彼女が連絡を絶って1週間。もし、彼女の身に何かがあるならば僕は自分で自分を抑えられる気がしない。そうなれば本当の意味での災禍になってしまう。全く、英雄を目ざしたというのにとんだ皮肉だ。自らが災禍となって次代への英雄の糧になるのもまた一興かもしれない。その先には大切な人が待っている気さえする。
「はあ……」
ダメだ。連れ戻そう。なんと言われようと連れ戻そう。1度変えてもらったものを自らの手で壊したくはない。
決意を胸に、僕は1週間ぶりに家を出た。
日差しって、こんなに眩しかったっけ……?
※※※
久しぶりにバベルを間近で見た。天空まで高くそびえ立つ人ならざるものが作りし物体。それが封じる地下へ地下へと続く数多もの迷宮はまさに魔窟。異形なるものが跳梁跋扈している世界で最も危険な場所だ。
「怖いなあ…」
レベル5、もう冒険者歴も5年を超えるが、何故か妙に怖い。行ってはいけない、取り返しのつかないことになるって、私の中の何かが囁いている。
「レフィーヤ、どうしたの?」
金糸の艶やかな髪が背後から私の頬をくすぐる。振り返ると、怪訝な顔のアイズさんが私の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫?」
「はっ、はい!大丈夫ですよ」
「……なら、いいけど。無理は、しないでね」
「はい。ありがとうございます」
そうだ、私はレフィーヤ・ウィリディス。ベル・クラネルの伴侶の前に、私はロキファミリアの幹部なのだ。私がこんな風では他の団員達に申し訳が立たない。
「アイズさん!」
「なに、レフィーヤ?」
「私、頑張ります!この遠征で必ず新たな階層へ行きましょう!」
「うん、そうだね。頑張ろう」
※※※
私達は順調に深層まで歩を進めていた。遠征も既に3日目。安全圏の39階層に辿り着いた時、私の体は突然異変を起こした。
「うぷっ……気持ち悪い」
「大丈夫?レフィーヤ、朝からなんだか顔色悪いよ」
「そんなこと……っ!」
私の身体は想いとは裏腹に異変を起こし続ける。胃液が逆流し、狂ったような頭痛が私を襲う。
「レフィーヤ、レフィーヤ!」
「アイズ、早くリヴェリアを呼んできて!」
「っ!分かった」
私は意識が朦朧とする中、ティオナさんとティオネさんに運ばれ救護キャンプへと向かった。
※※※
変な胸騒ぎがする。虫の知らせか、ダンジョンに入ってから妙な悪寒が全身を襲ってくる。
「邪魔だ邪魔だ邪魔だ邪魔だ!!!!!!!!」
ローブを剥ぎ、目の前のモンスターを片っ端から大剣で薙ぎ払ってゆく。その大剣の重さにすら嫌気が差し、途中のゴライアスに投げて突き刺し最大火力の魔法を大剣に流し込んで燃やし尽くした。
18階層で金袋を投げてポーションをかっさらい、魔法を使って燃やし尽くす。魔石の回収など知るか、連中にでもくれてやるさ。強化種が出るなら出れば良い。ペナルティだってなんでも食らってやる。だから、早く、最速で、レフィーヤの元に急がなければ………!!!
それなのに。どうして現実は非情なのだろうか。
目の前を通り過ぎる冒険者達。すれ違ってゆく彼らから見て取れるのは苦悶の、そして申し訳なさそうな後悔の表情。
ああ……これには覚えがある。まだまだ駆け出しだった頃の苦い思い出。ヴェルフとリリと3人で命からがら18階層へ辿り着いた、そのキッカケとなる事件。
僕は苦虫を噛み潰したような表情になり、それをやった面々を瞬時に記憶する。………後で、殺すとまではいかないが死んだ方が良いと思える苦痛を味あわせてやると誓い、モンスターに立ち向かう。
煮え滾るような殺意。今か今かと殺さんとする邪悪なオーラが辺り一帯を埋めつくしている。
何体いるだろう、10?50?100?まあ幾らでもいいさ。全て等しく殺すだけだ。
「お前ら………邪魔だ」
大乱戦の狼煙となる鐘楼の音が、残響で壁、床、モンスター達を揺らして階層一帯に響き渡った。
※※※
「レフィーヤ!気を確かに!」
意識が朦朧とし、目を開けるのも億劫になる中でリヴェリア様の声が頭の中で反響する。ぼやけてはいるが、必死に回復魔法を使ってくれている。おかしいな、ポーションも飲んだはずなのに、全く効いている気がしない。どちらかと言うと常に倦怠感と吐き気が混じっている状態。外傷もなく、血を吐いた訳でも無いのにここまで苦しいのは始めてだ。
「ベル……ベルは、どこ」
「ベル・クラネルはいない!!しっかりしろ、気を確かに持て!!!!」
辛い。苦しい。死にたい。なんで、なんでこんな目に合わなければならないの?嫌だ、まだ死にたくない。まだまだやり残したことが沢山、沢山有るのに………
意識が途切れるその瞬間、白髪赤眼の人がうっすら視界に映った。
ーー来てくれたんだーー
私は緊張の糸がプツリと途切れ、意識を手放した。
苦しさは、もう無い。
※※※
突如として現れたのは小柄な体躯、汚れた雪の髪に邪悪な紅い瞳が特徴の薄汚れた少年。そんな者はこのオラリオに一人しかいない。
「ベル・クラネル……!?どうしてここにいるんだ!?」
息を切らし私を睨みつける彼は、気を失ったレフィーヤを抱く私の腕から奪い取る。レベル1つの差でもここまで大きな力の差があるのか。と、私は場違いな感想を抱く。2人を呆然と見送る私が我に返る頃には、2人が階層を出た後だった。
「リ、リヴェリア!?なんでアルゴノゥトくんがいるのってかなんでレフィーヤが連れてかれてるの!!??」
「そうよ!自壊状態の兎野郎に任せたらレフィーヤ……死んじゃうわよ!!」
「追いかけるべき、だと思う」
突然の出来事に逸る娘たち。落ち着かせ、宥めようと思っても言葉が出てこない。待て、といつも通り落ち着かせようとしても、「あ…」という情けない言葉ならぬ言葉しか出てこない。
3人は痺れを切らしたのか、私に踵を返して行こうとする。待て、行かないでくれ。待ってくれ。地に膝を着いて手を伸ばす私は、どれほど惨めな姿だっただろうか。
しかし、彼女達がそれ以上進むことは無かった。
「待ってくださいっ!!!!」
張り裂かんばかりの絶叫に霞む視界が明瞭になる。
そこに立っていたのは、ラウルだった。
「はぁ!?退きなさいよ!何やってるか分かってんのアンタ!!!」
「邪魔だよラウル!早く行かなきゃ、アルゴノゥトくんは足が早いんだから!!」
「ラウル……切るよ?」
それでも彼は全く引かない。
「待ってください!彼はきっと救おうとしてるんです!」
何を言っているのか分からないと拳を構える3人に、諦めまいと必死の説得を試みる。
「彼は、ベルは、レフィーヤしか居ないんです!壊れた心の彼が唯一心を許したのがレフィーヤなんすよ!アキから散々聞いたから間違いないっす!それに彼女の症状には心当たりが」
「ラウル……嫁煩悩も大概にしとけよっ!」
ティオネの蹴りがラウルに炸裂する。しかしラウルは一歩たりとも動かない。
「それに、今あなた達がここからいなくなると不測の事態に対応することが困難になる!誰一人死なせず遠征を終えるには今ここで行かせるわけにはいかないっ!」
「だ〜か〜ら〜!今!レフィーヤが死にそうになってるじゃないの!」
「死にませんって!彼女を信じてあげてください!彼女はもうレベル5なんすよ!?何時までもあなた達の庇護下にはいないんだっ!」
「次期団長だからってのさばってんじゃないわよ雑魚がぁ!!!!」
この後行われた戦闘は、後にも先にも無いものだった。ロキファミリアの大抗争。幹部たちの大乱闘劇。深層で行われたぶつかり合いはかつてない危険と恐怖をを伴っている状況下で行われる地獄の祭典。
レベル6の幹部たちの剣裁きや拳を数多もの武器で迎撃するラウル。途中、一部始終を見ていたベートもラウルに加勢していた。
流れるはずの無い鮮血。怒号や罵声。味方同士の殺し合い。
私の目から、久しく流していない涙が零れた。
己の無力さを呪い、私の判断の遅さが招いた事態だと嘆いた。
しかし、それ以上に息子や娘のように思って接していた彼女達の殺し合う姿がもう、見てられなかった………
※※※
「待ってて、頼むからもう少しだけ我慢してくれ……」
白い稲妻が迷宮を駆け抜ける。モンスターだろうが冒険者だろうが関係なく、目の前の物体を殴り飛ばし突き進む。
頼む、頼む。君が居ないと僕は………
To be continued