因果、という言葉は面白いものだとラムヌーシアは考えていた。
かつての戦乱の中で、あらゆる文化形態を学んでいた彼女はそういう思想を武林、侍の生活から知った。
曰く、親から子が生まれるのと同じように、親は子から生まれるのだ、と。
親は子なしでは親になれず、そしてそれと同じように子は親無しで生まれることはない。
彼女は相互不理解で戦いが起きるとは考えていなかった。こうした文化を知り尽くしてなお、人はそれを叩き潰すために戦わずにいられないのだというのが、彼女なりの宗教だった。
これと同じように、グラスワンダーが「誰かに待ってもらっている」のならば、その待っている誰かが居るというのは明確な現実であるだろう。無論、ここまで煩雑な思考なしに、誰もが到達しうる結論ですらある。
しばらく後のことだ。
血だまりのように凝り固まった、ラムヌーシア以外のすべてが立ち止まっている世界の中に、もう一つの動作が現れた。
「トレーナーさん。来てくださったんですね」
グラスワンダーがもう一度口を開く。
透き通る声がその名を呼ぶ。ウマ娘がそう呼ぶのは言葉以上の意味合いが含まれていることは、おそらくこの場の誰もが知っている。
トレーナー。
ラムヌーシアが振り向く。愚鈍の中にいて尚怜悧さを保つその人間の顔を一目でも見てやろうと画策してのことだ。
ターフの中、同じくラムヌーシアのようにどこか孤独な風に佇んでいた女は、「大蛇」のような瞳をしていた。真緑の大地に力強く、しかし静かにしなやかに立つしれははたして、狼とどこが違うのだろうか。どうして相容れなかったのであろうか。
戦争屋の本能故か、あるいは元来持てる勘の良さがなせる業か。もしくは横たわる記憶がそうさせたのだろうか。
彼女はたった一目みただけで確信した。
「久しいな。おそらくは。どこかで会ったか?」
それが、かつての自分と因縁浅からぬであろう存在であることを。
「会ったことがあるかどうか。それはもう我々には関係のないことだろう。だがこれだけは」
「会いたくなかったぞ」
一呼吸飲み込んでの、大きな大きな拒絶の意思。それも食わず嫌いだとかそんな浅いものではない。
恨みがのどの奥底で擦れて音を出したかのような声だった。
風が吹く。彼女らに揺れる尾はないが、しかし立ち上る迫力がある。
髪の毛の一つが吹かれる度に、どちらかの腕が飛ぶのではないかと思わせる。
今この実りある大地に立っているからいいものを、戦う理由があれば事実本当に刃が飛んでいた。
「つれない女だな。さては
獰猛な笑みがより攻撃的になる。ギラギラとした太陽のような表情は、干ばつの中でもしたたかに生きていけそうなほど生命力に溢れている。
対して、蛇。鎌首をもたげたかそれは表現するなら不和の中の安定。動いていないからこそ最も速いもの。
平和主義の皮をかぶったより好戦的なもの。
つぎはぎだらけの獣、かつてキメラと言われたものは、内実本来戦いの中に生きていたのだ。
「そういうお前は……随分と貧相になったな。他者から奪えなければ活力すら得られないのか、ホルコスは」
「ほざけ。」
「我々は力強い。だがそれと同じように、我慢強い。機が来るまで待っていただけだ。そしてどうやら、今日がその日らしい」
ラムヌーシアが近づく。目の前の大蛇をのぞき込むような、挑発に溢れた礼を払いながら。
「決闘をしよう、キメラ。こっちに来ても尚、私たちはそうするべきだ。わかるだろう?」
耳元での囁き。おそらくどんな開戦の合図も、この女の声には及ばない。戦争が人格を持てば、彼女らの形になるのだろうか。
今や離れて久しい鉄の音が、そして肉の音が、乾いて仕方のない地面のひび割れの音が、蛇の耳によみがえる。死が濃密に充満した環境でしか生きられない矛盾した生が、こちらにきてマトモに暮らせるはずもなかった。誰もが家に帰ったが、しかし家が家たるとは誰も保証してくれなかったのだ。
消えたはずの刀剣の感覚が、数十年来の手足のように戻ってくる。もはや刀は体の一部のようで、手放すことはできない。
一方、グラスワンダーは置いてけぼりを喰らった形になる。
もちろん、彼女は聡明なのでわかっていた。
自分の中に秘めたる覚悟があるのと同じように、自分を見出したトレーナーの中にも隠された想い、そして過去があってしかるべきだと頭では理解していた。
だが、こころは何処にあるのだろうか。
理屈ですべてが解決できるのなら、そもそもここまでグラスワンダーが独りでいることもなかった。
冷静に考えてみれば、ロスでしかないのだ。わがままを通し、勝つまで「トレーナー契約は誰とも結ばない」というわがままを決め込める実力があったとして、それを通して得られるものは何もない。
けれど、そうしてしまって失うものがないとは、言い切れない。
それこそ彼女は「名誉」を知るウマ娘だった。
ターフという一つの戦場から離れていく、未来のトレーナーの背中を睨みつけながら、彼女は歩き出した。
やることがある。
体育館。
熱された太陽光は陰り、外の土の空気は薄く揺蕩うのみである。
今日は皆が皆外の選抜レースの準備をしていたので、ここには誰一人としていなかった。理事長は理解のある人であり、そして甘い人間だから、特に内容を確認することもなくこの場を借りることが出来た。
そこに向かい合うは、防具すらつけていない二人の人間。始めることはたった一つ。
戦いだ。それもとびきり名誉にあふれた決闘だ。
今回懸けるものは、命ではない。
ただ、命以上に大切なものでもあった。
グラスワンダーというウマ娘のトレーナーの席。
もちろん、このような形で決めるのは横暴以外のなにものでもない。
けれども、ラムヌーシアが「まだ」穏便な手法で解決を提案してきた時点で、それを蹴ればどうなるのかは想像したくもないことである。
手には模擬刀、つまり竹刀。もちろん双方同一のものを使っているはずだが、構えは互いに違っていた。
片手に構え、そして自由になった片手。本来剣道というのは型が決まっている。ただ彼女に、ラムヌーシアに言わせてみればそれは戦えないものの猿真似だ。
対するもう一方は、先のそれよりもより剣道らしい構え。を、しているには、していた。
両腕でしっかりと得物を握っている。美しすぎる、実直すぎるきらいすらある、基本の構え。
ただし、まるで神経の通った新たなる四肢のように細かく動作をするのは、きっと道は道でも血でできた道を歩いてきたもの特有のものだろう。
「一撃。」
「一撃差し込んだら終わりだ。いいな?ここでは戦いで人が死ぬ必要はない」
口を動かし、肺を動かして尚蛇はブレない。
対する狼は、わざと大げさに体を広げてこう言い放った。
「いいだろう。」
「一撃で終わらせてやる。お前のこの道をッ!」
両腕を大きく掲げ、一瞬のうちに「超攻撃的な」体勢に移る。
自らが捕食者だと信じているものにしか出来ない行動だ。事実も伴うのがこの女の厄介なところと言える。
相対するものは冷静だった。
フェイントの可能性も考慮し、弾くのではなく忍んで受け流す。ただし勢いが殺せたわけではないので、次の攻撃に隙なく備える。
事実やってきた。狼の戦いというのは圧倒につぐ圧倒、間髪ない攻勢こそが真骨頂。
柔軟な構えであるというのを利用して、そのまま返す手首で剣を振り上げ、切りつける。
この攻撃は……早かった。おそらくは同じ人間であろうとも、この速度で剣を振れば何かしら無理はすることになる。
ただし……彼女は狼だ。
無理して尚、「重み」すら維持している。
つまりまだ、蛇は守りを解くことが出来ない。
暴力と技術が竹刀にたたきつけられ、だが蛇は沈黙している。
「お前は……負ける定めだ」
構えの流れが、変わった。
如何に狼とて、無理な攻勢を永遠と維持することはできない。
それはウマ娘と同じだ。ではどうするか。それもウマ娘と同じだ。強者は似通うのだろう。
「決定打を差し込む」。そしてそのための「素手」だった。
こぶしを握りこみ、照準を定める。この一撃は布石だ。
こぶしの一つで人が死ねば、大規模な戦争など起こるはずもない。
それはそれとして、こぶしで殴られれば痛いのは確かである。
そのうえ、彼女は力の加え方を知っている。結果として、一撃で敵の体幹を崩すことが出来る。戦場においてこれが意味することは何か?致命的な隙をさらすことになるのと同義である。
しかし、そのような「出すだけ得」なものは存在しないのが実情だ。
決定打というのは、相手にとっても待ちわびたものなのだろう。
加速したウマ娘が前を防がれてしまえば、何もなせずバ群に沈むのと同じように。
蛇が動いた。
大きく体を後退する。そのスピードは、一瞬のうちにこぶしの射程から逃れるには十分なものだ。
彼女は狼ほどの膂力は持っておらず、そして性質的にそうなろうともしていなかった。
――――磨き抜かれているのには変わりない。
後方に飛びのく勢いを殺さない。一分の無駄もなく、刀を振り上げる。
それをすることを、恐ろしく簡単に感じた。赤子が手を上げるように、そして自分が今手を上げるのと同じ、そして延長線上に、おのずと刀がやってきた。
あまりにもの安心感だった。ベッドの上に眠ることよりも、当たり前の行動になっていた。
家に帰ったところで、というのはこういうものを言うのであろうか。
そう、これはつまり手癖のようなものであった。
「やはりか。羊め……」
それがあだとなるのは、彼らが戦い過ぎたからだ。
自らの制御を離れた行動は、いつもいつもよくない結果を齎す。
その振り上げた剣の傍ら、狼はすでに迎撃態勢に入っていた。
「!?」
ここでようやく、蛇は気付く。
戦いの技術とは腕だけではない。如何に相手を出し抜くか。陥れるか。喰らうか……
腕、という部分では蛇は十分どころか、狼以上とすら言える部分があった。狼よりよほど軽く、鋭い一撃を放つことが出来る。
ただ……数十年の間「本当の意味で」戦っていない彼女は、争うという行為の根本
に横たわる暴力性が抜けてしまっていた。もとより得意ではないのだからなおさらである。
それを予見していたといわんばかりに、剣と剣がぶつかり合った。
先ほどのこぶしはフェイクだったのだ。
ぶつかり、そして腕ごと持っていかれる感覚。
いくら剣を体と一体となしたとはいえ、体ごと崩されては意味はない。
ガラ空きになる胴。はらが喰らうのなら一番良い。
「――――とどめだ」
一直線に伸びる牙。もちろん手加減もない。防具もない。まともに喰らえば、いかに飾り物だとして重症は間違いない。
足音が聞こえる。大きな、力強い足音。どんどんと早くなる、足音。戦争だろうか?いいや。
迫る、迫りくる。数十センチ、数センチ。そして……
数ミリ、届かなかった。
「ほう。お前も立ちはだかるか。お前はこいつが良いというのか」
「グラスワンダー」
そこにいたのは、勝負服とはまた別の、戦いの礼服に身を包んだ一人の
彼女は笑う。狼も笑う。
ゆらりと蛇は立ち直り、そして目の前で起きたことを理解した。グラスワンダーの手に驚くほどなじんだ薙刀を見て、その性質をもう一度見た。苦笑いだろうか?どうにも、情けなく感じて、頼もしく感じて。
突き合わされた薙刀と竹刀が、新しい戦争の音を鳴らす。