冷却装置の不調は致命的だった。
沖に出て十分としないうちに超伝導モーターは沈黙し、発電ユニットは悲鳴を上げた。
動力を失ったイカダは海を漂うしかなかった。
いや、漂うなんて生易しいものじゃない。
海が穏やかならそれでも良かったし、風でもあるならそれを使って帆走することもできた。
だけど、ここは時間が静止――いや、振動を繰り返している世界。
島の周囲の海域は、時間静止する前はどうやら荒れ気味だったらしい。
数秒単位で潮流が逆転し、波が複雑な山々を生成する。
とてもまともな気象じゃなかった。
動力がなければ、イカダを同一方向に維持することもできない。
イカダは襲い来る波に船首を向けることができず、横波を受け続けてフレームがきしみ、不気味な音を立てた。
三角波が発生し、船体が高々と持ち上げられ、力いっぱい海面に叩きつけられた。
その衝撃に、三胴船のうち右側の船体がフレームからはずれ、吹き飛んだ。
左右のバランスを欠いたイカダに、次々と波が打ち込み、内部の機器が次々とショートしていく。
傾き、今にも転覆しそうなイカダの中で、船体に必死にしがみつきながら、私は、叫んだ。
「ミク!」
波をかぶり、海水が喉に入る。
それでも私は、彼女を呼び続けた。
「ミクっ」
私は彼女を置き去りにした。
私は彼女から逃げ出した。
自分を傷つけ続ける彼女を見ていられなかった。
誰かを――未来を――私を、傷つけたくないと思う弱さが、生きる意志を否定するくらい強くなってしまった。
波と風に煽られ、イカダがまた大きく持ち上げられ、叩きつけられる。
フレームが破壊され、イカダはバラバラに砕けた。
「ミク――」
君があのとき、未来さえみなければ……
こんなひどい未来でさえなければ……
「ミ――ク――」
私は、海にのまれた。
まるで嵐のような激しい時間の波にのまれて私は唐突に全てを理解した
時間とは人の心そのものであり人が生み出しているものだという真理だった
客観的時間というのは人ひとりひとりが生み出す主観的時間の総和の平均値であり
社会的生物である人間はそれに従って生きているがひとたびそれから解き放たれてしまえば
すなわち人間ではなくなってしまえばその制約に囚われることなく活動できるのであり
つまりそれが人間ではない人であるサイボーグ兵士達であり
私たちサイボーグ兵士が持つ時間制御装置とは結局のところ主観的時間だけを操るものであって
ではその主観的時間を生み出すものとは何かといえばそれが私たちに残された人間としての部分すなわち脳であり意識であり心であり
時間とは過去との因果関係を成立させている概念そのものであるからその概念を成立させている意識そのものが時間を発生させている
というよりも意識こそが時間そのものであってそれを制御するものというのもやはり意識そのものなのだ
ということだけれどもじゃあ私の時間制御装置はどこへ消えたのかといえばそれは言い換えれば心を失ったというか奪われたとも表現できて
そして奪ったのは彼女であり私は彼女に心を奪われたのだけども
彼女と出逢う直前からすでに心を奪われていたのはどうしてだろうと疑問が湧いたがこの嵐のような時間に揉まれて私はその答えを知った
私は最初から彼女と出会う運命で過去に来る前からずっと彼女を愛していて
私に残っていた愛の実感とは来るべき過去に存在していた未来の記憶だったのだと悟ったとき私は
私は
私は
私は―――
―――ミク、もういちど、君に逢いたい。
気づけば、海岸に倒れていた。
規則正しく、定期的に打ち寄せる波の音が聞こえる。
薄く目を開けると、オレンジ色に染まった空が見えた。飛行機雲が一筋、高い空に茜色の線を引いていた。
私は仰向けに倒れていた。
立ち上がろうとして、ひどい目眩を感じて、倒れ込んだ。
身体がひどく重かった。意思に従って動いてくれない。
頭が痛かった。目を開けていられず、まぶたを閉じる。
私は胸に手を当てた。
胸にぽっかりと穴があいているようだった。
私に心はない。
心は、彼女に預けたままだ。
彼女と離れて、いまさらそれがわかった。
そう思いながら再び目を開ける。
空には変わらない茜色の飛行機雲。
それは一向に乱れもせず、本当に空に線を引いたかのように固定され、そこにあり続けている。
重い身体をよじって、海に目を向けると、水平線に半分だけ姿を覗かせた、赤く巨大な太陽の姿があった。
夕陽か、朝陽か。
私の体内にあるジャイロコンパスが、この方角が東であることを示す。
つまり、朝陽だ。
私はしばらく、その朝陽をじっと眺め続けていたが、太陽は水平線に半分姿を埋めたまま、一向に昇ろうとはしなかった。
静止した景色、まるで絵画のようだ。
だけど、打ち寄せる波は定期的なリズムを刻んでいる。
苦しい。
生体脳が危険信号を発している。
エネルギー不足だ。
脳が必要とするグルコースが欠乏しかけている。
…ダメだ、苦しい。
死にそうだ。
苦しい。
頼む、誰か助けてくれ……
誰か……
フッと、私の上に影がさした。
いつの間に現れたのか、私のそばに膝をつき、見下ろす影がある。
子供だ。
少女。
小柄な身体に、細く長い手足。
白いワンピースは朝陽に染まっていて、私を見下ろすその顔は、光の当たる側に長い髪が垂れ下がってしまっていて、影の中にあった。
彼女だった。
彼女の手が、私に向かって伸ばされ、額をゆっくりと撫でた。
「ミク……ごめんね……」
かすれる私の声に、彼女は微笑みで返した。
その笑みは空っぽじゃなかった。
まだ過去も未来も見る前の頃。お互い言葉もなかったけれど、それでも心はちゃんと繋がっていた、あの頃に見せてくれた笑みだった。
「ミク……わかったんだよ」
私は、かすれる声で必死に伝えようとした。
今なら、私は時間制御装置を自由に操れる。
過去にだって、未来にだって、どこにだって行ける。
永遠にこのままだっていい。
それとも、やっぱり島を出ていこうか。
時間を動かしてしまえば、島の周りの荒れた海もおさまる。
そうしたら、今度こそ島を出ていけるよ。
ねえ、
「ミ……ク……」
彼女は何も言わずに、私に覆いかぶさって、
唇で私の唇を塞いだ。
私はとろけるような感触と、全身に彼女のぬくもりと肌の感触を感じ取って、
自分の意識を、眠りの中へと手放した。