ふとした一言がきっかけで、話題は沙織と麻子の小学生の頃の思い出に。
たった数日の、小さな小さな勇気のお話。
「わあ、かわいい!」
「本当に可愛らしいですね。」
学園艦の商店街の一角、やや寂れた印象のある喫茶店で、5人の女子生徒が華やいでいる。
「これはトイプードル?」
とみほが尋ねると
「つまり、プードルの子犬…でしょうか?」
と華。
やや呆れた口調で沙織が
「いや、チワワでしょ…。あとプードルとトイプードルは別の種類だから。」
と訂正し、
「でも、とっても可愛いですよね!」
と優花里がフォローする。
4人がスマホの画面に映った子犬の画像に夢中になっている横で、麻子は目の前に置かれたデラックスチョコレートマウンテンパフェをつついていた。
「麻子、食べてばっかりいないで一緒に見なよ。ゆかりんがドリンク無料券わけてくれたおかげで入れたんだからさ。」
「メロンソーダが無料で申し訳ないから、せめてパフェでお店の売り上げに貢献しているんだ。」
と麻子は大きな口を開けて、チョコレートソースがかかったアイスクリームを口に入れた。
「もう、屁理屈ばっかり言って!」
ぷりぷりと怒る沙織を見て、優花里がなだめに入る。
「まあまあ、私も商工会の関係で父が貰った券を使いたかっただけですから。」
「でも…」
「それにしても武部殿、本当に冷泉殿と仲が良いですよね。」
と優花里が笑った。
「本当、さすが幼馴染ですよね。」
「うん、うらやましい。」
すかさず、華とみほが追撃する。
「まあ、昔からの付き合いだしね。もう慣れちゃったよ。」
やや強引な話題の逸らしかただったが、とりあえず麻子を叱ることは忘れたようだった。
「…そういえば、小学生の時に犬を拾ったな。」
スプーンを咥えながら、麻子がぼそりと言った。
「あー。あったね、そんなこと。」
「おふたりで、ですか?」
「うん。小学校のときにね…」
午後の日差しと蝉の鳴き声が容赦なく降り注ぐ公園で、冷泉麻子は言葉を失っていた。
目の前で忙しなく動く子犬にも、それが入った箱を抱える同級生にも。
「冷泉さんの家って、犬飼える…?」
目の前でこちらを伺う彼女は、本当に自分と同級生なのだろうか。
小学生にもなって、道端で歩いていた子犬を可哀想だからという短絡的な理由で連れ帰るなど、到底信じられなかった。
「返してこい…。」
やっと口から出た言葉を聞くと、今度は沙織が信じられないという顔になる。
「この子、そのまま放っておいたら車に轢かれて死んじゃうかもしれないんだよ!?」
「お巡りさんに届けろ。」
「お巡りさんに預けて飼い主が見つからなかったら、ほけんじょっていうところに連れてかれて死んじゃうって…!」
そういう知識だけあるのか、という言葉を飲み込んで、麻子は沙織に背を向けた。
「うちは無理だ。お母さんが怒る。」
「でも、うちはアパートだし…。」
「だから返してこい。」
「だからっ……!」
掠れて消え入る声に、麻子はため息を吐きながら再び向き直る。
「だいたい、なんで私なんだ。」
「冷泉さん、頭良いし…友達だから…助けてくれると思って…。」
麻子から見ればその意見、特に後半は疑問だった。
頭が良いってなんだ。
習ったことをそのまま覚えてるだけでテストの点数がとれて、それが頭が良いということなのか。
友達なのか。
確かに彼女とは現在同じクラスだがそれだけで、別段親しくした覚えもないのだが。
「…とにかくうちは無理だ。」
「どうしよお…。」
子犬のような表情の沙織が子犬を抱える様を見て、麻子は目を瞑ってまたため息を吐いた。
「…まあ、少しの間ならなんとかしよう。」
「じゃあ…!」
麻子が渋々了承すると、沙織の表情がぱあっと晴れた。
「うちは無理だ。無理だが…。」
ガタガタと音を立てる引き戸を開けると、濃い埃の臭いがむっと立ち上った。
麻子が案内したそこは、生活の気配がない民家の物置だった。
「ここ、誰の家?」
「おじい。」
沙織が尋ねたが、麻子の回答は要領を得ない。
「おじいさん?」
「ああ。私が生まれる前に死んだらしいが。」
「えっ…入って大丈夫なの?」
「問題ない。叔父さんがたまに様子を見に来るくらいだからな。」
麻子はそう言って、物置の出入り口にせっせと柵を置いた。
「とりあえずこれでいいだろう。」
「ねえ、掃除しようよ。ほうきある?」
麻子は一瞬面倒くさそうに顔をしかめたが、奥からほうきとちりとりを引っ張り出し、沙織に押し付けるように差し出した。
「自分でやれ。えっと、武部…さん。」
「沙織でいいよ。ね、私も麻子って呼んでいい?」
「…別に構わないが。」
勢いに負けて渋々了承すると、沙織の顔がほころぶ。
「よろしくね、麻子!」
「…よろしく。」
それから図書館で犬の世話を調べ、子犬のエサ、トイレ用のシートをペットを飼っている家から少しずつ分けてもらった。
口下手な麻子はその交渉に難儀したが、沙織はにべもなく必要な物資を手に入れていた。
物置の床にタオルを敷き詰め、トイレシートを置く。
沙織の家から借りた深皿を置き、その中にエサを入れた。
子犬が夢中でエサを食べ始めた頃、沙織が安堵の息を吐きながら座り込んだ。
「ありがとう麻子。これでしばらくは大丈夫だね。」
「誤魔化せるのは数日だろうな。早く飼ってくれる家を見つけないと。」
「ねえ、このままここで飼えないの?」
「叔父さんが見に来ると言っただろう。それに病気や怪我をしたら医者にも診せないといけない。」
「そしたらほけんじょかも…。」
「だから、少しの間だと言っただろ。」
不安に顔を曇らせる沙織。
麻子は仕方なしに
「だから早く飼ってくれる人を見つけよう。」
と勇気づけた。
翌日、珍しく朝食前に自分で目を覚ました麻子は、目を丸くして質問してくる両親を誤魔化しながら朝食をとり、逃げるように家を出た。
別に自分が拾ったわけでもないし、鍵はかけていないので沙織は出入りできるからそんな義理はないと思いつつも、子犬がいる叔父の物置に向かう。
家の付近に行くと、沙織の笑い声が聞こえてきた。
「あ!麻子!」
子犬と戯れながら、こちらに気づいた沙織が顔を上げる。
「早いな。」
「麻子も、いっつも朝は眠そうなのに今日は早いね。」
余計なお世話だ、と思いつつも、彼女の腕に抱かれた子犬を見る。
子犬の方もこちらを見返し、興味深そうに鼻を鳴らしていた。
「ごはん、食べたか?」
「うん。今朝はね、お母さんとパンケーキ焼いたよ!」
思いもよらない回答に目を瞬かせ、数秒の沈黙の後に意味を理解した麻子が呆れて言った。
「いや、そうじゃなくて…。」
「わ、わんちゃんね!麻子が言ったとおり、お湯で柔らかくしたよ!」
笑いながら、そうかと子犬の頭を撫でると、お返しとばかりにざらついて湿った舌が麻子の指を撫でた。
子犬はとても人懐っこく、よくふたりについて回った。
首輪はなかったので、里親探しには沙織が抱えたまま歩いた。
町内の家を一軒一軒訪ね、子犬を見せ、飼ってもらえないか聞いて回る。
犬を飼わないか、と麻子が尋ねると、決まって戸惑った顔をされ、沙織が子犬を見せて事情を説明して交渉する。
次第に麻子は両手が塞がっている沙織の代わりにインターホンを押すだけになった。
「…すまないな。」
そんな状態で5件ほど断られた後、閉まるドアを見送った麻子がぽつりと呟いた。
「どうも私はこういうのが苦手みたいだ。」
そう言う麻子に、沙織は大きく、あるいは必死に首を横に振った。
「麻子がいなかったら、私なんにもできなかった!この子のごはんもわからなかったし、トイレのお世話もできなかったよ!」
だから、と言いかけて、沙織の言葉が詰まった。
涙目で訴える彼女に、麻子は苦笑する。
「なんで泣くんだ。」
「…だって…!なんかっ…!」
腕の中の子犬は不思議そうに沙織を見上げていたが、麻子が顎のあたりを撫でてやると気持ちよさそうに目を細めた。
事件が起きたのはそれから3日目の朝のことだった。
子犬の様子がおかしい。
運動をしていないのに息が荒く、目を瞑ったままぐったりとしている。
「どう…?」
「…たぶん、病気だと思う。」
子犬と図書館で借りた本との間で視線を往復させながら麻子が言った。
「そんな…。」
「限界だな。」
麻子は小さく息を吐くと、沙織の顔を見据えた。
「お母さんに話して病院に連れて行く。」
「ま、待って…!」
沙織は俯き、スカートの裾をきゅっと掴んだ。
「その前に、私たちで出来ることはないの…?」
沙織の震える声に、麻子はちらりと本を見やった。
「…私は医者じゃないし、本の知識は万能じゃない。」
麻子の言葉に、沙織が唇を噛んだ。
「この症状が本に載っているものだと仮定して対処する。…もし、それで良くならなければ私たちではもう無理だ。諦めて医者に診せると約束するなら手を貸そう。」
沙織は黙って頷き、麻子の目を見つめ返す。
その瞳には、確かな決意が宿っていた。
子犬の体に霧吹きで水をかけ、うちわで静かに仰ぐ。
気化熱を利用して身体を冷やし、口元にスプーンで水を運んでやる。
最初は反応しなかったが、昼頃になってようやくスプーンを舐めた。
「よかったあ…。」
ようやく沙織が安堵の笑みを浮かべ、それを見た麻子も口元を緩める。
「とりあえずもう少し水を飲ませたら、私たちも一度家に帰ろう。」
「うん…。」
それどころじゃない、と言いた気な沙織の肩を麻子がそっと叩く。
「さすがに昼ごはんに戻らないと親が心配するだろう。」
「そうだね…。」
「あんた、友達できたんだね。」
急に母親がそんなことを言うから、麻子が昼食のチャーハンを口から吹き出しそうになったのを寸前でこらえた。
「…別に、友達くらい前からいる。」
口に物を入れて喋ると母は怒るので(自分から話しかけたくせに)飲み込んでから、努めて素っ気なく答える。
「どうだか。あんた、愛想がないからね。」
「なんで急にそんなこと…。」
「最近朝は自分で起きてくるし、午前中から嬉しそうに出かけるじゃないか。」
「嬉しそうになんか…」
言いかけた麻子を母親が笑った。
「ま、それならそれでいいよ。…その友達、大事にしなよ。」
満足そうな笑みを浮かべる母親の視線に、麻子は所在なくチャーハンの続きを口に運ぶのだった。
「ちょっと塩辛い。」
「うるさいよ!」
何やらやたらと顔を覗き込んでくる母親とおばあの目を掻い潜り、麻子が家を出たのは午後4時過ぎだった。
季節柄まだ日は高いが、それゆえにあの状態の子犬を放っておいていい気温ではない。
無意識の早足でおじいの家にたどり着き、物置を覗くと、子犬だけが横たわっていた。
慌てて子犬の胸に手を当てると、小刻みな脈動と呼吸による上下が伝わり、麻子は安堵の息を吐いた。
しかし、そこに沙織の姿はなく、身体を濡らすための霧吹きと、扇ぐための団扇が転がっているだけだった。
家に戻らないといけない事情でもできたか、それとも嫌になって逃げ出したか。
いずれにせよ責められる立場ではないな、と麻子は自嘲気味に笑った。
子犬は午前中と比べると少し良くなっているようにも見えたが、それでももう限界だろう。
飼えなくてもいいから獣医に診せてほしいと母親に頼むか、と子犬を抱えると、体毛がまだしっとりと濡れていた。
沙織はさっきまでここにいて、私が言ったように子犬の体温を下げるため頑張っていたのだろうか。
そんなことを思ったその瞬間、不意に視界に影が差した。
見ると、沙織が息を切らして立っている。
必死に涙を堪えるその顔の横に、真っ白な白衣が揺れた。
やや痩せた体に、白衣にも負けないくらい白い不健康そうな顔の大人の男性。
「誰だ…?」
「お医者さん…!」
本人の前に、沙織が震える声で答えた。
「本当は人間専門なんだけどね…。」
と困った様子で、白い顔にかかった細縁の眼鏡を上げた。
「うーん、やっぱり熱中症だと思うよ。」
子犬の様子を見た医者は、またも眼鏡を上げながらそう言った。
「治る…?」
「うん、応急処置も適切だし、回復の兆候がある。」
医者の言葉に、沙織が目を瞬かせ、麻子を見た。
「…治ってきてるってことだ。」
それを聞いて初めて、沙織の顔に安堵が浮かんだ。
「とはいえ僕も動物は専門外だからね。とりあえず今晩いっぱい様子を見よう。」
「その後は…。」
「しばらくうちの病院に貼り紙をして、飼い主を探そうかな。…それでいいかい?」
どうやら沙織は、あらかたの事情は説明しているようだった。
沙織がちらりと麻子を見る。
「それがいいだろうな。」
麻子がそう言うと、沙織は少し考えてから小さくうん、と頷いた。
「お願いします。」
子犬を抱えて去っていく医者の背中を見送りながら、沙織はスカートの裾をぎゅっと掴んでいた。
「よく判断したな。」
沙織は何も言わない。
「…なんで泣くんだ。」
「だって…やっぱり私は子どもで…わんちゃん…助けられなくて…」
「十分頑張っただろ…沙織。」
握ったままの沙織の手に、麻子の指先が触れ、そっと包む。
握った拳が解け、手のひらを強く握り返す。
そうして一つになった影は、しばらくそのまま佇んでいた。
「…というわけだ。」
話を終えた麻子が少し水っぽくなったシリアルを咀嚼する。
「ちょっと、話盛らないでよ!?私泣いてないじゃん!」
「いいや、泣いてた。絶対泣いてた。」
「っていうか麻子の話だと、私アホの子っぽいんだけど!?」
「ノーコメント。」
沙織が口を尖らせると麻子は淡々と返す。
子犬同士のじゃれ合いのような様子を見ながら、三人が微笑んだ。
「本当に仲が良いですね。」
「うん。私は幼馴染とかいないから、ちょっと羨ましいな。」
と優花里とみほが目を細める。
「でも、わんちゃんとはお別れになってしまったんですよね…。」
華の言葉に沙織が振り向き、口籠りながら目を泳がせる。
「いや…その…なんていうか、あの流れで言いづらいんだけど…。」
おずおずと携帯電話を開き、画像を見せた。
「実は結局そのお医者さんが引き取ってくれて、ちょこちょこ会ってるんだよね。」
画面の中で、笑顔の沙織と眠たげな麻子、そして長毛の中型犬が並んでいた。
大洗の制服を着ているので、確かに最近撮ったものなのだろう。
「そうなんだ!私も会いたいな!」
画像を見て、みほが目を輝かせる。
「うん!みんなで行こうよ!」
「みんなで行っても良いか、石井先生に聞いてみないとわからないだろう。考えなしは今も変わってないな。」
「麻子こそ、結局連絡するの私じゃん!」
再び言い争いを始めた二人に、みほたちは苦笑する。
「仲が…。」
「良いんでしょうか…。」
「あはは…。」
これは本当に蛇足だが。
子犬のことについては私たちの家族、それどころか町内の人も結構な数が知っていたそうだ。
餌やら何やらで方々に駆け回ったから、当たり前といえば当たり前だが。
沙織は気づいていないようだ。
まあ、いつか…私たちがおばあくらいになったら、それとなく話してやるか。