次は六月一五日水曜日です。
垣根帝督は一一時半過ぎに目を覚ました。
完全な時差ボケである。
それでも眠くてくいっと布団を
一緒に寝ていた真守がいない。
心臓が跳ねる。
真守が
「真守……ッ!!」
垣根が思わず飛び起きると、ベッドに寄り掛かるように毛足の長いカーペットの上に座って、カブトムシと遊んでいる少女が見えた。
「おはよう、垣根。もうお昼だよ」
杠林檎。林檎はカブトムシから顔を上げて、一瞬で嫌な汗を掻いた垣根を見る。
「……林檎」
垣根は林檎の名前を呼びながら、第三者がいる事で冷えた頭を押さえる。
「…………真守は?」
「朝槻は八乙女のところ。朝槻ね、起きたら垣根が絶対に自分のことを探して焦るから、私にそばにいてほしいって言ったの。朝槻の言ったとおりになったね」
林檎が真守の的中率がすごいと褒めていると、垣根は一つ息を吐く。
「垣根」
「なんだ」
垣根が不機嫌に声を上げると、林檎は立ち上がってベッドにちょこんと座りながら、垣根を見上げた。
「朝槻は垣根とずぅっと一緒にいるって、今度はちゃんと約束した。それでも怖いの?」
「………………当たり前だろ」
垣根はじろっと林檎を睨む。
「お前だって真守が目の前から消えた時、散々動揺してたじゃねえか」
「あれは朝槻が何も言わずにいなくなったから。ちゃんと言ってくれたら私はいつまでも待てる」
「へいへいそーかよ」
垣根が忠犬っぷりを発揮している林檎を見て適当に返事をすると、林檎は笑って垣根の頬へと手を伸ばした。
「でも時々思う。今でも朝槻が神さまとして必要で、何も言わずにどっか行っちゃったらどうしようって」
垣根は林檎の真守よりも小さな手のひらを感じながら、視線を落とす。
九月三○日。前方のヴェントの襲撃があったあの日、真守はついでと言わんばかりに安全に
その後、行方知れずとなった。
後から聞いてみれば真守は自衛のために姿を隠したのだが、何も知らない垣根帝督はあの時、本当に焦ったのだ。
どこに行ったのかもわからない。無事なのかも、実験体として酷い扱いをされているのかどうかすら分からない。
過去に一度、垣根帝督は大切にしたいと思った命を、自分の手の平から
だから真守を取り戻すための十日間弱の焦燥は、真守が手の内にいる今でも時折思い出して苦しくなる。
そしてその度に、どうしようもなくただただ真守にそばにいてほしくなるのだ。
そうなると真守は柔らかく笑ってくれて、そして自分の気が済むまでいつまでも一緒にいてくれる。これまで何度もそうだった。
「朝槻のところ行くの?」
垣根が林檎の手を柔らかく握って頬から離すと、林檎が問いかけてきた。
「なんだよ。お前は不満なの?」
垣根が林檎の手を握りながら訊ねると、林檎はふるふると首を横に振った。
「ううん。別に不満じゃない。むしろ幸せ」
「……なんで?」
垣根が問いかけると、林檎は心底幸せそうな儚い笑みを浮かべた。
「垣根が朝槻を大切に想ってるって感じると、とても幸せ。だって私も垣根や朝槻、それに深城の事を大切に想ってるから。みんながみんな互いのことを想えて、一緒に暮らせる。それってとても良いことだと思うの」
林檎は垣根が握っている自分の手にもう片方の手を重ねて、微笑む。
「知果は私の事を考えてくれてたけれど、あそこでは誰もが生きるのに必死で、心のゆとりなんてなかったから」
垣根は林檎の言葉に目を細める。
「だからいま、とっても幸せだよ、垣根。朝槻と垣根が私を助けてくれたから。深城がそばにいてくれるから。だから私はとっても幸せ」
「…………そうだな」
林檎が幸せそうに微笑むのを見て、垣根はそっと目を伏せる。
「俺も、真守と会えたから楽になれた。誰かをまた大事に想うことができた。…………だから、もう絶対に手放したくない」
垣根はいま自分が得られた、本当に欲しかった日常を決して崩させたりしないと誓い、告げる。
「真守のところに行く。でもシャワー浴びて飯食って、ちゃんとしてから行く」
林檎は柔らかく微笑み、意を決して垣根にぎゅっと抱き着いた。
垣根は柔らかい命に抱きしめられて、目を細める。
垣根が自分に抱き着いてきた林檎の背中を優しく撫でると、林檎は幸せを感じて笑みを浮かべた。
そして気が済んだ林檎は垣根から離れ、ベッドから降りて先に扉へと向かった。
「垣根、先に行ってるね」
林檎はこれから着替えるであろう垣根に、ふりふりと小さく手を振る。
「林檎」
垣根が呼ぶと、林檎は首を傾げて垣根の方を振り返った。
「お前のことも、俺は大切だから」
林檎は『暗闇の五月計画』の勉強で、垣根帝督が能力を解放し、三対六枚の翼を広げた姿を見たと言った。
それがとても印象的で。隣で一緒にビデオを見ていた知果に言ったら、天使さまみたいだと言われて、それをずっと心にとどめて林檎は生きていたらしい。
誰かに無条件で慕われる事がなかった垣根にとって、林檎の存在はとても貴重なものだ。
そのため垣根が自分の気持ちを吐露すると、林檎はきょとんとしていた。
だが言葉の意味が分かった林檎は幸せそうに目を細めて微笑み、垣根に小さく手を振ってパタパタと走って行った。
垣根は真守と出会ったことによって得た平穏に安堵して、目を細めた。
そしてもっと真守に会いたくなって、動き始めた。
──────…………。
ドライヤーで髪の毛を乾かした後、垣根はタオルを肩に掛けたままラウンジへと向かう。
おそらく今日も真守は学校の制服を着ているだろうが、気が乗らないので私服である。
今日の垣根はパーカーにシャツのボタンを一つも閉めずに中にセーターを着ており、下はチノパンを穿いている。仕事着として使っていたスーツは最近滅多に着ていない。
「垣根、気だるげ」
歩いてきた垣根を見て、テテテーッと走って近づいてきた林檎がそう告げるので、垣根はああ、と短く返事をして彼女と一緒に歩く。
「朝槻がいないと垣根、本当にふにゃふにゃになるよね」
「うるせえ、別にふにゃっとしてねえよ。──源白。軽く食べられるものあるか?」
「あ、垣根さんおはよぉ! おにぎりでお茶漬け作れるようにしてあるから! すぐにできるよぉ!」
どうやら深城は自分と林檎用にパスタを茹でているらしかったが、てきぱきと垣根の分のご飯も用意し始める。
垣根は深城の手伝いをしに行った林檎を
適当にテレビのチャンネルをイジッてテレビを見る。
どこもアメリカを揺るがすハワイの一件に学園都市が介入し、協力機関が離反したことについてばかりだ。
(揃いも揃ってセンセーショナルな話題が好きだよな、マスコミって)
垣根がなんとなくそう思っていると、キッチンの方から楽しそうな深城と林檎の声が聞こえてきた。
かつて学園都市に利用されていた少女たちが楽しそうにしている。
それはとても良いことだ。
だがそこに垣根帝督が一番必要として愛している少女がいないことが、酷くおかしく感じた。
「だいじょぉぶ、垣根さん?」
深城はダイニングテーブルに、垣根のために作っていた真守と同じメニューの鮭と昆布のおにぎりで作るお茶漬けを持ってくる。
そして自分の昼食のたらこパスタを取りに行く前に垣根に声を掛けた。
「別に問題ねえ」
源白深城は、朝槻真守とは違う意味で勘が鋭い。
だからこそ心を閉ざしていた真守の心を開くことができたのだろうし、真守のことを光の道へと進むように
「……ほんと、お前はすごいよ」
「? 何が?」
「なんでもねえよ」
垣根が首を傾げている深城の前でお茶漬けを食べ始めると、深城はあんまり聞いてほしくないんだろうな、と思ってこれ以上の追及を止めた。
そして林檎を呼び寄せて二人でいただきますをすると、垣根と共に昼食を食べ始めた。
「そぉだ。垣根さん、真守ちゃんのところに行ったら、真守ちゃんにちゃんとご飯食べたか確認してね。ちょっと目を離すとすぐに食べるの忘れちゃって、食べるの面倒だからいいや、とか平気で言うんだもん。……あ、でもでも、緋鷹ちゃんがご飯勧めてくれてるかなあ」
「真守はいつになっても食事する習慣が身につかねえからな」
会話にもある通り、真守は放っておくと面倒だからと言って食事をすっぽかす事が多い。
そのくせ街中を歩いていると、ふらふらと移動ワゴン店舗に近づいて行き、甘いものを買うのだからちぐはぐすぎるのだ。
垣根がこの場にいない真守のことを考えていると、深城がふふっと笑った。
「よろしくね、垣根さん。真守ちゃん、けっこう雑だから」
「別に俺にばかりよろしくしなくてもいいだろ。お前はお前で真守のことを見ていればいい」
垣根が真守が大層大事にしている深城が一歩引かなくてもいいと言うと、深城は柔らかくにへらっと笑った。
「ふふっ分かってるよ、垣根さん。垣根さんは優しいね」
真守もそうだが、深城も林檎も自分のことを優しいと言う。
優しいと言われることに慣れたはずだったが、なんだか気恥ずかしくなって垣根はお茶漬けを食べるのに集中する。
「垣根ははねもきれいだよ」
林檎が頬にいっぱいパスタを含みながら告げるので、垣根はじろっと林檎を見た。
「食うのに集中しやがれ。ったく」
垣根が呆れたように告げると、林檎はもぎゅもぎゅパスタを噛んで幸せそうに食べて、呑み込む。
林檎は食事に執着がある。それは『暗闇の五月計画』でまともな食事を与えられなかったからだ。
それでも爆食いするというわけではないし、そもそも林檎は発育不良で肋骨が浮いているので、たくさん食べなければ逆にマズいくらいだ。
(まあ、前よりちょっと肉付きは良くなったな)
垣根が林檎の事を考えていると、深城が林檎の口の端に付いたパスタソースをティッシュで
すると、林檎はムーッとした顔で目を
(真守にももっと肉付けてもらわないとな。アイツは細っこすぎる)
垣根は深城と林檎のやりとりが愛おしくて、小さく笑いながらも食事を再開した。
──────…………。
真守はそわそわとしていた。
そろそろ垣根が来る頃合いなのだ。カブトムシがそう教えてくれた。
緋鷹に『
あれは嫉妬ではなく、純粋に甘やかしてはならないといった忠告だったが、真守はいつも自分が垣根のことを甘やかしているのだろうか、と首をひねっていた。
なんだかんだ言って結構なわがままの垣根を甘やかしている真守だが、自覚がないのだ。
緋鷹が苦笑しながらデリバリーで頼んだ昼食を真守に差し出すと、真守はちょこっと面倒に感じながらも、ちまちまと弁当を食べ始めた。
だが明らかに垣根が気になっているし食べる気があんまりないので、真守がのろのろと食べていると、緋鷹は若干呆れつつもその場を後にした。
緋鷹も緋鷹で色々やることがあるし、真守が何より食事を
真守は弁当に入っている押し寿司をちょこちょこ箸でつつきながら、垣根を待つ。
ほどなくして、垣根は『
「真守」
真守は自分の事を見つけてほっと安堵し、早足で近づいてくる垣根を見上げた。
垣根は真守の前に立つと、ぎゅっと真守のことを抱きしめた。
(頬をつねる方じゃなくて抱きしめる方だった)
真守は頬をつねられてストレス発散されるわけではなく、壊れ物のように抱きしめられてそう思う。
「垣根、おはよう。よく眠れいひゃい」
声をかけると、垣根は真守からちょっと離れて思いきり頬をつねる。
「よくも置いていってくれたなコラ」
「
「なんだよ不満か、ああ?」
垣根がぎりぎりといつもより二割増しで真守の頬を引っ張ると、真守はむーむー声を上げる。
やがて気が済んだ垣根は真守の頬から手を離し、ため息を吐いた。
真守は自分の頬をつねってきた垣根に不満を向けつつ、ひりひりと痛む自分の両頬に触れる。
すると垣根は自分の頬に触れている真守のことをぎゅっと抱きしめた。
「…………頼むから、そばにいてくれ。俺の手の届く、そばに……」
真守は自分の頬から手を離し、もぞもぞと垣根の胸の中で動いて垣根の腰に手を回して、優しく抱きしめる。
「分かってるよ、垣根。絶対に離れないから。ずぅっと垣根のそばにいる」
真守が優しく背中を撫でると、垣根は真守をぎゅっと抱きしめながら頷いた。
真守は垣根が落ち着くと、昼食を食べるのを再開する。
「……垣根。離れて」
真守は先程言った言葉を
だが仕方ないのだ。
何せ垣根が自分の事を膝に乗せて後ろから抱きしめてきて、食べるところをじーっと見てくるのだから。
一緒にいるし離れないと言ったが、節度は守って欲しい。それが真守の言い分である。
「お前は見てないとすぐに食事やめるだろうが。八乙女が気を利かせてちっこい弁当にしてくれたんだから、それくらい食え」
「むぅ。だったら私を膝に乗っけて後ろから抱きしめなくてもいいだろうが。椅子はいっぱいあるんだぞ」
「うるせえ文句言うんじゃねえ。元はと言えば、お前が俺を置いてどっか行ったのが悪いんだよ」
垣根は真守に責任があると言いながら、自分の膝に乗せた真守の黒髪を撫でるように
(もう絶対に垣根が寝てる間にどっか行かないようにしよう……後が面倒くさすぎる)
真守は自分のお腹に手を回して時折頬ずりして、頭に何度もキスをしてくる垣根の過剰なスキンシップを受けて、遠い目で気が乗らない食事をしながら固く誓った。