次は七月九日土曜日です。
垣根帝督は朝槻真守と一緒に、とある暗部の研究所の一室にいた。
木原病理の所有していた研究所である。
木原病理がバゲージシティに行っている間に垣根たち『スクール』が占拠したのだが、木原病理が木原加群と共倒れになったので、占拠したままなのだ。
「……すげえ絵面だな」
少し引いている垣根を見上げて、椅子に座っている真守は柔らかく苦笑する。
「まあすごい絵面だけど、でも必要なコトだから」
机の上には、皿の上に剥き出しの脳みそが置かれていた。
その脳みそには電極が張りつけられ、ジュラルミンケースにでも入りそうな小型の機械に繋がれている。
剥き出しの脳みそは、木原病理が研究していた人造細胞で造られたものだ。
そして脳みそに繋がっている機械は、
真守はそれを使用して、人造細胞で作られた脳みそに絶えず書き込みをしていた。
だから真守の目の前に置かれている
垣根帝督は人間を構築する膨大な情報を次々に書き込んでいく真守を前に、手元の資料を見る。
フロイライン=クロイトゥーネは『羽化』をするために情報を得るべく、『捕食』を開始する。
その『捕食』候補は朝槻真守、源白深城、
フロイライン=クロイトゥーネの性質であるため、彼女の『捕食』は絶対に止めることができない。
止めることができないなら、代わりを用意すればいい。そう真守は考えた。
だからこそ脳を模した器にフロイライン=クロイトゥーネが必要とする情報を書き込み、真守はそれを食べさせようとしているのだ。
しかも用意する情報にフロイライン=クロイトゥーネの性質の方向性を調整するように仕込めば、彼女が不本意な『羽化』をしなくていいようになる。
垣根は土御門経由で送られてきた、フロイライン=クロイトゥーネの詳しい情報を眺めたまま、目を細める。
真守はアレイスター=クロウリーが魔術を使えば、フロイライン=クロイトゥーネをすぐにでもどうにかできると言っていた。
だがそれをアレイスターはせずに、フロイライン=クロイトゥーネを自らの居城である『窓のないビル』に幽閉した。
(本当にやる気がなかったのか、できなかったのか。……まあ、後者だろうな)
垣根は心の中で考えながら、意識をカブトムシのネットワークへと向ける。
『窓のないビル』は『
だからこそ『窓のないビル』は核攻撃にも耐える事ができる。その頑丈はお墨付きだ。
だがフロイライン=クロイトゥーネが中から壊したため、『窓のないビル』には大穴が空いていた。
あの穴を通っていけば、アレイスターに手が届く。
以前の垣根帝督ならば、迷わずにアレイスターのもとへと向かっただろう。
だが今の垣根帝督は知っている。
統括理事長、アレイスター=クロウリー。
稀代の魔術師にして科学を崇拝し、魔術界隈史上、最大の裏切りを行った人物。
アレイスターはただの統治者ではなく、その立場に相応しい力を持っている。
その魔術の腕には、『世界を救う力』を持った右方のフィアンマでさえ太刀打ちできない。
簡単に倒せる相手ではない。それをアレイスターとの直接交渉を狙っていた垣根帝督は知らなかった。
学園都市を手中に収めようと、利用されて食いつぶされる用途しかないと思われた者が牙を剥いてもいいのだと、考えていた垣根帝督は今はもういない。
全ては朝槻真守と出会った時から始まったのだ。
この小さな体に全てを包み込むような心を持った少女と、出会った時から始まった。
垣根は真守が愛しくなって、猫耳ヘアにまとめられた艶やかな黒髪を触りながら微笑む。
「垣根、暇なのか?」
真守はきょとっと目を見開いて、垣根を見上げる。
一緒に壊れたサンダルの代わりを買いに行った時のように見上げてくる少女。
だがそのエメラルドグリーンの瞳には、自分を一心に思う気持ちが込められていた。
垣根は微笑みながら、真守の髪の毛を柔らかく手で
「いいや。お前が愛しくてやってる」
真守は垣根に突然
「いきなり口説かないで」
「なんで? 愛おしく思うんだから別に良いだろ」
「……むぅ。そういうコトさらっと言えるあたりが、すごくぷれいぼーいなんだから」
真守は口で文句を言いながらも、
「この様子なら、クロイトゥーネが『捕食』機能を獲得する夜明けまでには間に合うな。垣根、何か頼むか? 夕飯まだだったし」
お腹減っただろ、と真守が携帯電話を取り出してデリバリーサイトを見始めると、垣根はひょいっと真守から携帯電話を取った。
「どうせお前は自分の分を頼まねえだろうから、俺がお前の分も頼んでやる。深夜に食べる高カロリーってのは、背徳的で美味いんだぜ」
垣根が小さい悪だくみをするように笑うと、真守は目を見開く。
「! そうなのか。ふふ、初体験だ」
真守はくすくすと興味深そうに笑いながら、情報を書きこんでいく。
「そういや上条当麻がバードウェイと色々あって
「え。な、なんでそんな事に?」
真守は世間話風にもたらされた、超重要情報に目を白黒させる。
フロイライン=クロイトゥーネの確保に失敗した上条当麻は、雷神トールと共闘して『グレムリン』とオッレルス勢力をどうにかしようと画策して、動いていたらしい。
そしてつい先程、その策の一つとして、上条はわざとバードウェイと争ったのだ。
「……それで、バードウェイは?」
真守は上条当麻が一人で突っ走っているのに、止めなかった垣根を恨めしそうに見上げながら問いかける。
「レイヴィニア=バードウェイは上条の思惑に見事引っかかったぜ」
上条当麻は雷神トールと共闘していたが、雷神トールからもらった『グレムリン』のメンバーであるマリアン=スリンゲナイヤーの情報を生徒手帳に書き記していた。
それを発見したバードウェイは、上条当麻がマリアン=スリンゲナイヤーと繋がっていると、あたりを付けたのだ。
真守は目まぐるしく変化している状況に目を細める。
「オッレルスは?」
「こっちに来てる」
垣根が告げた瞬間、真守と垣根のいた研究室の一室にオッレルスが入ってきた。
警報装置は作動していない。魔術で姿を隠しながら侵入したのだ。
「やあ、神人。ちょっと借りるよ」
オッレルスは真守と垣根のそばを通り過ぎて、人造細胞を造り上げるための培養装置へと向かう。
「なるほど。これがあれば人造細胞を造れるってわけだね。設計図とかってどこかな? できればマニュアルなんかも欲しい」
「何に使うんだ?」
真守はいつでもフロイライン=クロイトゥーネの『羽化』を操作できる脳みそを守れるようにしながら、全く敵意のないオッレルスへと問いかける。
「フロイライン=クロイトゥーネは使えなくなるだろう。だったら別の方法でオティヌスの機嫌を取らなくちゃいけない。ということで色々と策が必要でね。学園都市で使える技術を探している最中だ」
どうやら人造細胞技術を使って、フロイライン=クロイトゥーネという槍の素材の『代わり』を作ろうとしているらしい。
そんなオッレルスは培養装置を見るのをやめて振り返る。
そして、垣根帝督を見た。
「本当なら、槍の素材を造れる良い人材が目の前に、」
オッレルスがそこまで告げた瞬間、オッレルスの喉元に鋭い針が付きつけられた。
床がねじ切れるように変質して、針のように飛び出したのだ。
もちろん、真守の仕業である。
「次はない」
真守が空間をキシキシと軋ませながら、無感情で冷徹な声を出して忠告すると、オッレルスは両手を上げて降参のポーズを取った。
するすると針のように伸びたリノリウムの床は元に戻っていく。
そして真守が材質をイジる前と何一つ変わらない状態の床へと戻った。
真守は
「これは私のモノ。一片たりとも、一ミリたりとも、
猫のように可愛らしくも獰猛に威嚇している真守を見て、オッレルスは肩をすくめた。
「じゃあ彼の代替技術は別に持って行っていいよね?」
「垣根の代わりになんか興味ない。勝手にしろ」
ぷいっと顔を背けて垣根の胴体に顔を
器が小さいところだって愛しく思えるこの男は、自分のものだ。
自分の神さまという部分以外を全部渡して、垣根帝督の全てをもらったのだから当然である。
横から取るなんて冗談を言われるのも嫌だとぷんぷん怒っている真守を見て、垣根は目を丸くする。
いつも垣根帝督が独占欲により嫉妬をまき散らしているが、実は真守だってそれなりに独占欲が強い。
食蜂操祈をお姫様抱っこしただけでちょっと機嫌が悪くなるのだ。
それなりではなく、結構重症である。
垣根はその事実を目の当たりにして、柔らかく微笑む。
かわいい。
自分のものは絶対に取られたくないのに、どこへでもふらふらと行ってしまう生粋の猫気質の真守が困ったほどに愛しくて、垣根は真守の頭に手を乗せて優しく撫でる。
真守はぴこんっと反応して目を見開いた後、口を尖らせる。
「垣根、ずぅっとそばにいて。絶対にどっか行っちゃ嫌だぞ」
「当たり前だろ、舐めてんのか」
真守は垣根の言葉を聞いて『へへっ』と笑うと、猫のようにすりすりと垣根に頬をすり寄せる。
垣根が自分のことを第一にして想ってくれるのが嬉しいのだ。
そんな真守を見て、神人も大概独占欲が強いな、と呆れながらオッレルスはマニュアルを探していた。
──────…………。
真守たちの自宅。
その二階のラウンジでは、深城が持ってきた布団の上で
その向こうでは深城がソファで眠っており、身長の高いフロイライン=クロイトゥーネは深城の近くでうずくまっていた。
「フロイラインちゃん……?」
深城は自分の近くで大きい体をぶるぶる震わせているフロイラインに気が付いて、目を
フロイライン=クロイトゥーネは深城の言葉に答えない。
フロイライン=クロイトゥーネは、人間のような発想と転換に優れた思考回路をしていない。
ただ情報を一つずつイエスかノーの二択で取捨選択をして、それを積み上げてまるで複雑に考え、情緒のある思考をしているように見せかけているだけだ。
まるでコンピュータのように、フロイライン=クロイトゥーネは零と一を積み上げて高度な知能を形成している。
そんなフロイライン=クロイトゥーネの頭の中で、自身の違和感の正体を探るために『単純思考』が繰り返され、積み上げられていく。
そろばんの玉を弾いて複雑な計算をするように。
パチパチパチッと鋭い音を立てて組み上がった『単純思考』は、喉の奥で何かが引っかかっている感触と全身に張り巡らされた違和感をこう表現した。
足りない。
情報が、圧倒的に足りないのだ。
だからその情報を補完するために、情報を食らう『機能』をフロイライン=クロイトゥーネは獲得した。
この学園都市には、様々な情報が行き交っている。
その中で一番効率が良いのは、情報の密度が濃い媒体だ。
媒体は、ここにもある。
『
一万回以上の死を経験し、今も一つ一つの個体がそれぞれ情報を取得し続けているミサカネットワークの司令塔、
「でも、嫌だ。わ、たし……そんな……友達って、言ってくれたのに…………」
フロイライン=クロイトゥーネは『単純思考』によって成り立っている。
だがそこに心がないわけではない。
心のように見せかけているものであっても、そこで生まれた感情は、気持ちは。
フロイライン=クロイトゥーネにとって本物だ。
だからフロイライン=クロイトゥーネは自身を友達と言ってくれて、一緒に遊んで風呂にも入って、温かい時間を共有した彼女たちを食べたくなんてない。
「…………でも、止められない。どうして……なんで……」
人間とは全く違う心。それを持っていたとしても、獲得した『機能』を無視できない。
それはフロイライン=クロイトゥーネがそういう生物だからだ。
それを自分の気持ちで抑え込むことはできない。
「フロイラインちゃん」
フロイラインは深城に声を掛けられて、ぎょろっと目を動かして深城を見た。
深城は、笑っていた。その笑みの意味が分からない。
だが『単純思考』によって折り重なった自分の心が、誰かへの『信頼』による笑みだとフロイラインは理解した。
「だいじょぉぶ。真守ちゃんが何とかしてくれるから」
深城が笑った瞬間、フロイラインは深城へと飛び掛かった。
だがそんなフロイライン=クロイトゥーネは、四肢を空中に固定され、掴み上げられた。
フロイライン=クロイトゥーネが『機能』に従って動こうとしても、自身を掴み上げる力を振りほどけない。
四肢を繋ぐ骨に力を込めてごぎゅりと折ったとしても、自分を掴み上げるこの力は絡みついて自分を離さない。
何が起こっているか分からないフロイライン=クロイトゥーネの後ろに、ひたっと人が近付いた。
その人物の意志によってフロイライン=クロイトゥーネは四肢を空中で掴み上げられたままぐりんっと振り返させられる。
「はい、あーん」
その言葉に反射的に口を開けたフロイライン=クロイトゥーネの口に、スプーンに乗った何かが突っ込まれる。
その何かをぐちゅり、とフロイライン=クロイトゥーネが食べた瞬間、頭に閃光が走った。
フロイライン=クロイトゥーネの意識はそれに釘付けになっていた。
朝槻真守が手に持っているホールケーキが入りそうな箱に入れられた、ピンクの脳みそに。
「はいはい。次々行くぞ」
真守は先程よりも大きく脳みそをスプーンで掬うと、ぱくっとフロイライン=クロイトゥーネに食べさせる。
フロイライン=クロイトゥーネは体に力を込めるのをやめた。
ただただ真守から餌付けされる情報に、集中していた。
ぺたんと地面に座り込んだフロイライン=クロイトゥーネに真守は次々とフロイライン=クロイトゥーネに必要で、「羽化」の方向性を調整する情報が入った脳みそを
やがて綺麗に最後の
ガチリ、と何かが
彼女が取り込んだ情報が、彼女の望む最適な存在へと組み上げていく。
フロイライン=クロイトゥーネは、やがて幼い少女の姿を取った。
それが『友達』と一緒にいて、一緒の目線で物事を見たいという彼女の意志だった。
フロイライン=クロイトゥーネの前に膝を降ろして、真守は微笑む。
「お前は、どんな
真守は絹のように柔らかい、人間に好まれる感触になったフロイライン=クロイトゥーネの銀髪を撫でながら微笑む。
「だから私はそれを少し『調整』しただけ。お前の誰よりも純粋な心が、望まない勝手な『機能』を獲得しないようにしただけだ」
真守の言葉の意味が、フロイライン=クロイトゥーネはよく理解できる。
フロイライン=クロイトゥーネという生物は、既に心を獲得しているからだ。
人間と似通っていながらも、フロイライン=クロイトゥーネ独自の心を。
「お前がその心を捨てたいと思ったら、捨てられるようにした。どんな存在にもなる事ができるとはそういう事だ、その方が自由でお前の在り方として正しいだろう?」
普通の人間からしてみれば、その
何故ならもし人間を滅ぼしたいと考えて心が邪魔だと思ったら、フロイライン=クロイトゥーネはその心を捨てて人々を滅ぼす兵器になれるからだ。
それでも朝槻真守はフロイライン=クロイトゥーネがそうしないと知っている。
何故ならフロイライン=クロイトゥーネは『羽化』する前の見せかけの心でも、
誰かを想う素晴らしい心を知ってしまった。
だから誰かを想うことができなくなる非情になりたくないと考えるのは当然だ。
だからフロイライン=クロイトゥーネは人類の敵にならない。
真守にはそれが分かっている。
それに万が一人間の敵になったとしても、フロイライン=クロイトゥーネぐらい
そんな自信が真守にはあるのだ。
「お前が望むなら永遠だってその手に掴み取れる。まあお前は何百年も生きているようだし、そんなもの掴み取らなくてもいいけどな」
真守はフロイライン=クロイトゥーネの頬に優しく触れて微笑む。
もう朝槻真守や『友達』を食べたくならないと感じたフロイライン=クロイトゥーネは、目を見開いた。
真守はそんなフロイラインのことを優しく抱きしめる。
「大丈夫だぞ、もう苦しく思わなくて大丈夫」
真守の優しい声に、フロイラインはひっぐ、としゃくりあげた。
そして大声を上げて泣き始めた。
その声を聞いた
真守はフロイラインの頭を撫でて抱き寄せて微笑む。
フロイラインは真守の体温を感じて、もっと涙を
真守が人を慈しむ様子を一緒に帰ってきた垣根は柔らかく見つめており、そんな垣根の隣で深城は優しくにへらっと微笑んだ。
一端覧祭の前日に収束しました。
ということは平穏な一端覧祭当日が来るという事で、真守ちゃんは垣根くんたちと楽しくやります。(!)
まあ上条くんは色々と大変なのですが、フロイライン=クロイトゥーネの件については終了です。