次は九月一二日月曜日です。
真守は、ただただ優しく上条当麻が落ち着くのを待っていた。
柔らかなレースのハンカチ。上条はそれを握ったまま自分を必死に落ち着かせる。
そして話ができるまで落ち着くと、上条は真守にハンカチを返した。
「落ち着いたか?」
「……ああ、もう大丈夫だ」
上条当麻が呻くように告げる姿を見て、真守は切なそうに顔を歪めた。
「真守」
真守の名前が呼ばれて、上条当麻はそちらを見た。
そこには当然として、垣根帝督が立っていた。
「垣根」
真守と同じ学校の男子制服を着崩して、片手をポケットに入れた垣根。
垣根を見て、上条は感慨にふけった。
真守は、この世界でも垣根帝督と一緒に過ごしている。
それが真守の幸せだと分かっている上条は、何故だかそれがとても嬉しかった。
垣根は嬉しそうにしている上条当麻を見て、真守に近づく。
そしてチラッと真守に目配せしてから、垣根は上条当麻に声を掛けた。
「はん。どうした? 随分と焦燥してるじゃねえか」
「……大丈夫だよ。問題ない」
上条当麻は元の世界と変わらない様子の垣根帝督に笑いかける。
「お前たちが気にするべきことじゃないよ。俺は、大丈夫」
もう、消えるから。
その言葉を、上条当麻は言わなかった。真守も垣根も絶対に心配するからだ。
上条当麻は死ななければならなかった。
この幸せな世界を守るために。
異物である上条当麻が死ななければ、いつかこの世界が崩壊してしまうから。
割り切った笑みを浮かべている上条を見つめて、垣根は不機嫌に顔を歪めた。
そんな垣根の横で真守は上条を見て、心配で顔をしかめた。
「……お前の抱えているモノはお前のものだ。だから私は踏み込めない」
真守は垣根の隣で、柔らかく微笑んで告げる。
「でもお前はとっても優しい人なんだ。だから自分にも優しくした方がいいぞ」
上条には意味が分からなかった。
意味が分からなそうだから、真守はその先を口にした。
「私はお前のしたいようにすればいいと思う。自分の気持ちに正直になって、自分が本当に願っていることを成せばいい」
上条は無言のままだ。
だがそれでも真守は自分の気持ちを一心に伝える。
「何かあったらすぐに私のところに来い。助けてくれる人はいるけど、私だって力になる。分かったな?」
真守が柔らかく微笑むと、上条当麻は泣きそうになりながらも笑った。
この少女はいつだって優しい言葉を掛けてくれる。それがとても嬉しかった。
その言葉を最後に、上条当麻は
小さくなっていく上条当麻を見て、垣根帝督は真守を胡散臭そうに見つめる。
「……アレで良かったのか?」
「だって総体がちょっとはフォローしていいって言ったんだぞ。だからこういう形で声を掛けるしかなかっただろ」
真守は少しだけ済まなそうに笑って、小さくなっていく上条当麻を見ていた。
当然として。
真守が魔神オティヌスに無力化されてしまったという上条当麻の記憶は偽りだ。
真守が垣根と共に自らの神域から出てきたことによって、上条記憶の記憶に良いように修正が入ったのだ。
これは真守が源流エネルギーで人間の『存在の消失』を起こした時に周囲に及ぼされる修正と同じような状態である。
真守が人間を源流エネルギーで焼き尽くすと、その『存在の消失』は周りの人間の記憶にまで影響が及ぶ。
世界が問題なく回るために、都合の良いように事実が書き換えられるのだ。
だから上条当麻の中で真守はオティヌスによって組み伏せられてしまって、今の今まで接触がなかったということになっていた。
「しっかしまあ、表に出てくると偽の記憶が植え付けられるんだな。普通の人間だと元の世界と今の世界の経験がごっちゃになって発狂するぞ」
垣根帝督と真守の頭には現在、この世界での記憶が埋め込まれている。
これもまた真守と垣根帝督の存在に対して、世界が辻褄を合わせるために『修正』が施された結果なのだ。
「垣根は、本当に良いのか?」
「いい」
垣根は真守の質問に即座に答えた。
真守が聞いているのは、この幸せな世界で生きて行かなくて良いのかということだった。
だって。ここでは、垣根帝督の大切な人が生きている。
自分たちと一緒に、生を謳歌している。
何故なら真守は『四人分』の飲み物を買いに行くために彼らのそばを離れたことになっており、垣根は帰ってこない恋人を探して来いと言われて迎えに来たことになっているからだ。
深城は真守の神域で待っているためトイレに行っていることになっているが、それでもこの世界での『設定』では深城もきちんと救われていた。
「お前こそいいのかよ。一度捨てられたっつってもマクレーンが見つけてくれたし、源白も無事なんだぞ」
垣根の言う通り、真守はこの世界でも父親に捨てられているが、マクレーン家が見つけて家族として受け入れてくれた世界なのだ。
真守は偽りながらも自分が幸福な人生を歩んでいるという記憶を脳裏に浮かべながら、ゆるく頭を横に振る。
「まやかしの幸せは要らない」
真守は自分たちのことを待っているであろう大切な人たちのことを思って、寂しそうに呟く。
「俺もそんなモンは要らねえ」
垣根は真守から飲み物のお盆を受け取ると、片手で持って真守の手を握る。
「さっき
真守は自分の手を握った垣根に誘導されて、垣根の頬に手を添えながら微笑む。
垣根はそんな真守と一緒に、柔らかな日差しが降り注ぐ学園都市を見つめた。
「俺は元の世界の記憶を持ってる。その時点でこの世界は偽物だと知ってる。アイツは死んで、俺は道を踏み外し続けてお前と出会った。それが真実だ」
垣根はどこかで自分が帰ってくることを待ちわびている大切な人のことを考えて、目を細める。
「アイツは死ななかった。それで俺と一緒に成長して、一緒に多くの時を過ごした。……良い夢だった程度に思うのが一番だ。だって偽物なんだからな。だから、別にいい」
真守は垣根を見上げて笑って、柔らかく手を取る。
「死者を蘇らせることはできない。私はまっさらな世界の人間だから、世界を捻じ曲げる魔術を邪法としか見られない」
「ああ。俺もまやかしは御免だ。……あいつは止まって、俺は進んだ。それが全てだ、真守」
垣根が真実を告げると、真守はふにゃっと笑った。
「さて。私たちの方針は決まったし、総体は上条と顔を合わせたようだし、こっちはこっちの話をしようか」
真守は一息つくと、見えなくなった上条当麻から視線を外した。
その先には魔神オティヌスが立っていた。
「初めましてだな、オティヌス」
真守が笑いかけた先には、魔神オティヌスが立っていた。
これまでオティヌスは真守の前に一切現れなかった。
何故ならオティヌスは
だから、ここが初めての邂逅である。
神であり人である完璧な存在である神人、朝槻真守。
魔術を極めて人の身のまま神へと至った魔神、オティヌス。
二人の神は、今初めて直接顔を合わせている。
真守はいつもと変わらない表情をしているが、魔神オティヌスは忌々しそうな顔をしていた。
何故なら魔神オティヌスは、真守が世界に観測されないように隠れていたことに気が付かなかったからだ。
朝槻真守という存在がいたことを、すっかりと見落としていたからだ。
「垣根、座る場所を造って欲しい」
真守がお願いすると、垣根の足元から真っ白な
それを垣根は巧みに操作して、精緻な模様が編まれたガーデンチェアとテーブルを生み出した。
「座ろうか、オティヌス。腰を落ち着けて話そうじゃないか」
真守は垣根が飲み物の載ったお盆をテーブルに置くかたわらで、自分も席に着く。
魔神オティヌスは真守のことを睨みながら、槍を地面に突き刺してそこに寄り掛かった。
「お前の望みは自分の納得する居場所を作ることだ」
いきなり切り込んできた真守を見て、オティヌスは眉を動かした。
「それにも二つのやり方がある。新しい世界を作るか、元の世界へと帰るのか」
朝槻真守は、これまで上条当麻の心を折ることだけを考えてきた魔神オティヌスが造り上げる世界を
そのため魔神オティヌスの心が手に取るように分かる。
「でもお前の望みは居場所を確保することじゃない。お前は自分の本当の願いが見えていない」
真守が断言すると、魔神オティヌスは目を鋭くした。
「…………なんだと?」
「お前は誰かに
その言葉の意味が、魔神オティヌスには分からなかった。
「何を言っている? 気でも狂ったか?」
魔神オティヌスが本当に意味が分からずに問いかけると、真守は自分の後ろに立っていた垣根へとむぎゅっと抱き着いた。
「いいだろ。これ、私のなんだ」
いきなり
「垣根はな、『無限の創造性』を持っているんだ。そして私は永遠の命が定められている。だからずぅっと一緒にいられるんだ。ずぅっと、ずぅっとだ」
真守は垣根の腰に抱き着いて幸せそうにふにゃっと笑う。
「しかも私が強要したわけじゃないんだ。泣いて震えていた私を見て、垣根からずぅっと一緒にいるって言ってくれたんだ」
真守は垣根に抱き着いたまま、寂しそうに目を細めた。
「孤独はひどく悲しいことだ。永遠の命を持っているとなおさらな」
真守は確かな垣根の存在を一身に感じながら、魔神オティヌスを見つめる。
「だからお前は居場所が欲しかった。そうじゃないのか?」
「……
魔神オティヌスは真守に向けて凄まじい殺気を飛ばした。
「何故神である私が不出来な人間を心のよりどころにしなくてはならない? 私は啼き喚く人間が邪魔で邪魔で仕方がない。だから人間どもが干渉してこない居場所が欲しいだけだ。それ以外の何がある」
オティヌスはイライラした様子で、魔女っ娘帽子のつばを触る。
それでも真守の悲しそうな眼が脳裏に浮かんで、オティヌスは槍を振るった。
ばづん! っと、すさまじい音が響く。
それは真守がオティヌスの槍の一閃を、自身がまとっていたエネルギーで弾いた音だった。
「不愉快だ」
オティヌスは自身の気持ちをそう表現した。
「ぽっと出で生まれた人間風情が、知ったような口を利くな。ああ。これは怒りだ。私は怒ってるんだ。私を怒らせるなんて、相当だぞ。お前」
オティヌスは椅子に座っている朝槻真守を見て怒りを露わにする。
「いいだろう。神である者同士、気の向くままに世界を
オティヌスが空間を侵すかのような殺気をたぎらせる中、真守は人差し指を立てた。
そして、世界の時間を少しだけ早める。
オティヌスは怪訝な表情をしていたが、この場にやってきた人物に目を見開いた。
真守はミサカ総体との話が終わった上条を見上げた。
「迷いはないな?」
「ああ。俺は俺を優先するよ」
ミサカ総体に対して、自分の気持ちを全て吐き出した上条は、すっきりした顔で告げる。
「ありがとな、朝槻」
上条当麻は真守へと礼を口にして、柔らかく笑った。
「あのミサカ妹から聞いた。俺のために心を痛めながらも見守ってくれたって。……そうだよな。お前はそういうヤツだから。俺は分かってる」
真守の事を良く知ってると言わんばかりに笑う上条を見て、垣根はムッと口を尖らせる。
真守はそんな垣根を見上げて笑って、そして上条を見た。
「さっき朝槻は言ってくれたよな。何かあったら力になってくれるって」
上条は真守の優しい言葉を思い出しながら、魔神オティヌスを睨んだ。
「俺は元の世界に帰りたい。だから力を貸してくれ、朝槻!」
真守は柔らかく微笑むと、椅子から立ち上がった。
「そうだな。私も元の世界が好きだし、垣根と帰るって話がついているからな」
魔神オティヌスは自分と敵対しようとしている真守たちを見て、忌々しそうに顔を歪める。
魔神オティヌスは自分が精神的に追い詰められているのを、まだ理解していない。
何故なら多対一なのだ。圧倒的なアウェーなのだ。
しかも完璧な人間として万能性を発揮している朝槻真守と、生命力の強いゴキブリよりも厄介な『無限の創造性』を持つ垣根帝督がいるのだ。
だが魔神オティヌスも心の
朝槻真守の言っていることは間違いないと。
愛してほしいまでいかなくても。ただ、自分は誰かに理解してほしいのだと。
それになんとなく気が付いたとしても。魔神オティヌスは戦うしかない。
何故なら、自分と敵対する存在がいるのだから。