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「あっ」
そんなネプテューヌの声が聞こえたのと、彼女の腹から血飛沫が噴出したのは、ほとんど同時だった。
回避のために宙を舞っていた彼女の小さな体が、ぼとり、なんて生々しい音を立てて地面に落ちる。エンシェントドラゴンの爪によるものだった。横たわったネプテューヌの体からは未だに鮮血が流れ続けていて、彼女の周囲に赤い水たまりが産まれるのにそこまでの時間はかからなかった。
水を打ったような静寂を破ったのは、エンシェントドラゴンの力強い咆哮であった。
「ネプ子っ!」
アイエフが叫ぶと同時、ネプテューヌの体を抱えてすぐさま跳躍。直後に、エンシェントドラゴンの放った尾が二人のいた地面を削り取った。飛んでくる瓦礫を背中で受けながら、再びアイエフが口を開いた。
「コンパ、ネプ子のことお願い!」
「撤退しないんですか!?」
「時間ないでしょ! 私は足止めするから!」
そうしてエンシェントドラゴンと対面する彼女をよそに、コンパがネプテューヌの元へと駆け寄った。
「ねぷねぷ、大丈夫ですからね! 今すぐ治してあげるです!」
「ありが、ッ、げほ」
「しゃべっちゃダメです!」
口から血を噴出したネプテューヌに、コンパが叫ぶ。
皮膚が断裂しているだけでなく、その下の肉がごっそりと抜け落ちている。ショック死していないことが奇跡であるこの異常なまでの出血の原因は、どうやらそれらしかった。そして、それを確認したと同時に、コンパは自分が無力であることを理解した。自身の力量が足りていなかったというわけではない、ということもすぐに理解していた。
女神の体は丈夫なんだから、という冗談交じりな彼女の言葉を思い出したが、それは本当のことなのだろう。実際に彼女は目の前で、常人であれば手の施しようのない損傷を負っても、まだ意識を保っているのだから。
流れ出す鮮血が、コンパの足元を濡らす。彼女の痛みを想像するだけで、胃の奥から鋭く、刺し込むような味が湧き上がってくる感覚がした。
「と、とにかく止血を……」
探るような手つきのまま、コンパは無意識にそう呟いた。そこで初めて、彼女は自分の手がこれまでにないほどに震えていることに気が付いた。そのままぼろぼろに引きちぎられたパーカーをめくると、血にまみれた腹部が露になる。むき出しになった内臓は未だに動いており、それはまだ彼女が痛みに晒されているということを明確に示していた。
覚束ない、ふらふらとした手つきでコンパができる限りの処置を進めていく。ほとんど、死体を扱っているようなものであった。麻酔も輸血もないこの状況では、血を止めて内臓をこぼれないようにするのが精一杯であった。
そして時間が経つにつれて、処置の速度は遅く、もたもたとしたものになってゆく。
完全に彼女の手が止まったのは、しばらくが経ってのことだった。
「コンパ……?」
口の端から血を垂らすネプテューヌが、うつむいたままの彼女へ問いかける。その表情には自分の無力さを嘆く悲しみというよりも、訳の分からないものに対する疑問の色の方が強く表れていた。
「……ねぷねぷ?」
「な、に?」
恐る恐る、といった様子で、コンパは震える指先をネプテューヌの腹部へ向けると、
「どうしてねぷねぷの心臓は、こんなところにあるですか?」
すん、と。
彼女が呟いたその瞬間、ネプテューヌは真顔になってから、ゆっくりと体を起こす。そのまま自分の腹部へと手を当てたかと思うと、いそいそと自分の内臓をいじり始めた。まるで、部屋を散らかして怒られた子供のような、そんな手つきであった。
彼女の手が止まったのは、数秒も経たないうちであった。自らの腹の内に収めた内臓を見て、ネプテューヌは少し首を傾げたが、すぐに納得するように頷いた。そうして腹に右手をあてがうと、次の瞬間には皮膚が元通り、彼女の下腹部に貼られていた。
「ねえ」
「……どうしたですか?」
問いかけに、震えた声でコンパが返す。
「コレ、余っちゃったんだけど、どうすればいいかな?」
困ったように笑う彼女の左手には、どこかの内臓のかけらが握られていた。
「ヒトの体に必要なもの?」
「えっと……」
「……あ、そっか。コレだけじゃ何もわかんないよね」
呟いたネプテューヌは、そのまま、ぽい、と。
ゴミでも捨てるかのように、内臓のかけらを後ろの方へと投げ捨てた。
「そろそろあいちゃんのところ、行ってくるよ」
「大丈夫なんです?」
「平気平気。女神の体って、意外と丈夫だからさ。見ての通り」
その言葉には、それ以上の意味が込められているような、そんな気がした。
「コンパ」
「……なんです?」
「二人だけの秘密だからね」
立てた指を口元にあてがいながら、ネプテューヌが片目を閉じて言い放つ。
その頬は、夥しい量の血で真っ赤に染め上げられていた。
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「どういうことです?」
コンパがネプテューヌの部屋に押し掛けたのは、その日の夜のことだった。
「野暮じゃない?」
「でも、私にとっては大事なことです」
「そうかなあ」
画面は液晶に向けたまま、コントローラーから手を離さずに、ネプテューヌが応える。
次の言葉があったのは、それから十数分が経ってからだった。
「結局は、真似事しかできないんだよ」
「真似事?」
「私はヒトじゃない。女神っていう、システムみたいなものだからさ」
かちかち、というコントローラーの操作音だけが、二人の間に響き渡る。
「本当は呼吸もいらないんだよ。食事も、睡眠も。瞬きをすることだって、必要ない」
「……でも、どうしてねぷねぷはしてるですか?」
「さあ?」
コンパの問いかけに、ネプテューヌはそう短く返してから、
「もしかすると私は、本当にヒトになりたかったのかもしれないね」
「……だったら!」
ぐい、と。
強く言い放ったコンパが、ネプテューヌの肩を掴んで、
「きちんと、ヒトとしての治療をさせてください」
それだけ言い残して、コンパはネプテューヌの部屋から去っていった。一人取り残された彼女は、閉じたドアの方をしばらく見つめてから、再び液晶へと目を向ける。画面には大きくゲームオーバーの文字と、その後ろには地面に倒れ込む操作キャラクターが映っていた。そのまま次の画面へ移行し、ゲームを続けようとしたところで、ふとネプテューヌの指が止まる。瞬きをしない瞳には、コンティニューの文字が映っていた。
「そっか。ヒトは、コンティニューできないんだ」
――だからあんなに悲しんでいたし、私を叱ってくれたんだ。
ゲームの電源を落とすと、真っ暗になった液晶に、自分の姿が映る。
そうして一度だけ瞬きをすると、ネプテューヌはいつも通り、眠るための準備を始めた。
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ドラマツルギー:本来は戯曲の創作や構成についての技法、または演劇に関する理論・法則のことであるが、アーヴィング・ゴフマンによって社会学における観察法の用語として転用された。ドラマツルギー・モデルの中では人々は演劇における役者のようにその場での自己を再構築し、場合に応じて自己を演じていると考えられている。