記憶の中のモースと私
「……やはりこうなるのですね」
ベッドの上で横たわる少年は掠れた声でそう呟いた。翠色のその目は十二歳の少年にしては酷く醒めていて、まるでこの世の全てが価値の無いと悟ってしまっているようだった。
「あなたからすれば、こうなった方が嬉しいのでしょう? この世界は
端正な顔を歪めて、少年は私を見つめた。確かにその通りだろう。私の立場からすれば、こうなることは分かっていた上に、それを見越した準備をずっと進めていたのだ。むしろ彼にとって最も大事であろうこの最期の時間に、自分のような存在が傍らに侍っていることがおかしいのだ。
……それでも。
「……どの口が言うのかとあなたはお怒りになられるのでしょうが。それでも、私はこの
私とこの幼い少年以外は誰もいないこの部屋でこそ、私はこの言葉を漏らすことが出来る。ここだけが唯一、私が自らの立場を忘れて話すことの出来る場所なのだから。
私の言葉を聞いた少年、導師イオンは、醒めきった目に少しだけ温度を取り戻したように目線を和らげると、弱弱しく微笑んだ。
「フフ、意地悪なことを言ってしまいましたね。そうでした。あなただけはいつも私を見ていてくれました。その立場を超えて」
「そんなことしか出来なかった私を恨んでくれても構いません。私は所詮、あなたを利用することしかしなかった外道でしかないのですから」
「あまり自分を悪く言わないで下さい……例えそうだとしても、僕は救われたのだから。死ぬ運命にある僕が、何もかも投げ棄てずにいられたのはあなたのお陰ですよ」
ベッドから差し出された彼の右手が、傍らに立つ私の左手を捉えた。赤ん坊にも劣る握力で握られたそれは、少し動かすだけで振りほどけてしまう。だが、私にはそんなことは出来なかった。結局何も出来なかったくせに、彼を気にかけたのはただの自己満足で、何度眠れぬ夜を過ごしたか、もはや数えることも億劫になるほどだ。
であるのに、そんな自分を、彼は救いだと言う。ならば、最期までその鍍金は剥がしてはいけないのだ。彼の求める私でいなければならないのだ。
私は彼のすっかり細く、弱くなってしまった右手を自分の両手で包み込むと、ベッドの傍らに膝立ちになり、彼と正面から視線を合わせた。
「……導師イオン。私こそ、あなたと出会えて救われたのです。この世界は、
「期待していますよ……私は、ヴァンではなくあなたに賭けたんですから。……アリエッタのこと、頼みましたよ、大詠師モース。僕の、右腕……」
「必ずや」
もう彼の右手には少しの力も入っていなかった。眠るように閉じられた瞼は二度と開くことはない。この世界は、
だが、私は立ち止まってはいけない。そう、私は大詠師モースなのだから。
この記憶がいつから私の頭の中に巣食ったのかは定かでない。ただ、少なくともこの記憶の通りになってしまうことは避けなければならないことは蒙昧な自分にも理解が出来た。
戦争に向かうキムラスカ、マルクト。外殻大地の崩落、都市一つが文字通り沈み、障気が世界を覆った。その中で、私は
醜い化け物となって討たれた自分、
この記憶の通りにしてはならない。例え、これがただの夢だったのだとしても、
そうして自らを戒め、それでも幼い頃に受けた
私がここまで強く罪悪感を抱いているのは、ただその記憶の中の自分が余りにも醜いからだけではない。
この記憶は強く示唆しているのだ。記憶の通りにならなければ、遠からず世界は崩壊してしまうのだと。
ヴァン・グランツ。またの名をヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデ。
始祖ユリアの血を継ぐフェンデ家の生き残りであり、キムラスカとマルクトの戦争で消失したホドの生き残り。そして
彼の野望を挫く過程で、この世界を支えているセフィロトツリー、パッセージリングの存在が明らかとなり、世界の破滅の遠因となる地殻震動による液状化、ローレライの音譜帯への解放が成るのである。
真の意味での
「今日の仕事はこれで以上となります。今日はいつもより少ないですね」
「ありがとう、ハイマン。早いですが、今日はもう上がって頂いても構いませんよ」
大詠師に割り当てられた広い執務室で、最後の書類に判を押し、裁可済の棚へとしまい込んだ。大詠師という地位は、教団内で導師に次ぐ地位である。しかし、実務面で言えば、その権力は教団トップである。そのため、日々多くの申請や嘆願が文字通り山となって降ってくるのだが、今日は珍しいことに仕事が少なく、昼過ぎには仕事が終わってしまったのだった。
「モース様はどうなさるのですか?」
「私は少し導師様にお伝えせねばならないことがありますからね。それに今ある仕事が終わったからといって、大詠師である私が休むわけにはいきません」
副官であり、私の日々の激務にも文句一つ言わずに付いてきてくれる頼れるハイマン君は、私の言葉を聞くと顔をしかめた。
「でしたら私が休むわけにはいきませんね。副官として、上司より先に休むなど許されません」
しまった。確かに私がまだ仕事をするなどと言っているのに部下が休むというのは心情的に難しいか。とはいえ連日夜遅くまで仕事に付き合わせてしまっている身としてはこういうときこそ休んでもらいたい。もちろん休みはしっかりと取らせているし、見合う給金も渡しているつもりだが、それでも辛いものは辛いだろう。
「しまったな。確かにそう言われると休みにくいか。では休憩にしましょう。私も自室で少し仮眠を取りますので、君もゆっくりと休んできなさい。時間になったらそのまま上がりで構いませんから」
「……では一時間だけ休憩を取ります。モース様も絶対に休んでくださいね!」
ハイマン君はどこか疑わしげな目で私を見つめながら不承不承といった様子で執務室を出て行った。なぜだろう、一番信頼してる副官に信頼されていない気がするのだが。
「さて、私も導師様の所に行かなければなりませんね」
ハイマン君が部屋を出たのを見送った私は、席を立つとぐっと背伸びをして書類仕事で凝り固まった身体を解す。少しの時間でも空き時間があれば騎士団の鍛錬に参加しているおかげか、私の身体は、夢の私とは違ってしっかりと戦士の身体を維持出来ていた。それは良いことなのだが、ずっと座っていることがどうにも慣れず、すぐに身体を動かしたくなってしまうので大詠師としてはどうなのだろうとも思ってしまう。
そんな益体のないことを考えながら、歩きなれた教団の施設内を歩き、目的地へと向かう。道中ですれ違う詠師や、一般の教団職員が挨拶をしてくるのに答えながら歩を進めると、導師の部屋の前で言い争う声が聞こえてきた。
「…から、そこを退いて! アニス!」
「出来るわけないじゃん、今の
「アリエッタ、根暗じゃないもん!」
予想はしていたが、喧嘩をしていたのはいつもの二人だった。一方は桃色の髪と黒い洋服のコントラスト、両手で抱えた奇妙な造形のぬいぐるみが印象的な少女、神託の盾騎士団が誇る最高戦力、六神将の一人、妖獣のアリエッタだ。そしてもう一人は、
「また、喧嘩をしているのですか二人とも」
「モース様! だってアリエッタが!」
「モース様! だってアニスが!」
見ているわけにもいかず、声を掛けると、二人はピッタリと息の揃った動きで私に向き直り、私に互いの言い分を浴びせてきた。君たち本当は仲が良いんじゃないか? なんでこんなに息ピッタリなんだ。
彼女たちは否定するだろうが、傍目には二人はどこか姉妹のような雰囲気を感じさせるのだ。髪と服の色が反転しているように、二人の性格も正反対であるが、それはそれで嚙み合っているように見えるのである。
「はいはい、二人の言いたいことも分かります。その前に、アニス」
「う…はい」
私は尚も言い募ろうとする二人を手で制し、アニスとじっと目を合わせた。彼女自身も、次に何を言われるのか予想がついているのか、言葉に詰まって気まずそうに目を泳がせている。
「あなたが導師守護役としての働きを全うしようとするのは素晴らしい心掛けです。その責任感の強さを買って私があなたを守護役に任じたのですから。しかし、だからといって先任のアリエッタに対する侮辱は許されません」
「うぅ、すみませぇん」
「やーい、アニス怒られた」
しょんぼりと項垂れるアニスと対照的に、アリエッタはいつの間にやら私の後ろに隠れてアニスを煽っていた。先ほどまで根暗と言われて涙目になっていたとは思えない切り替えの早さだ。
「アリエッタ、あなたもですよ」
「ふぇ…?」
私は私の陰に隠れたアリエッタに向き直ると、腰を落として彼女と視線を合わせる。気弱な彼女には、特にこうして目線の高さを合わせるといった細かな気遣いが欠かせない。
「あなたが導師守護役を外されて辛いのも分かります。ですが、それで今の守護役であるアニスを困らせて約束も無しに導師様の部屋に押し入ろうとするのは良くないことです。それでは導師様も困ってしまいます」
「でも、私はイオン様に会いたくて…」
「ええ、分かっていますよ、あなたのその思いは。なので今度はちゃんと導師様に約束を取り付けましょう。アニスに伝えればちゃんと場を用意してもらえますから。そうですよね、アニス?」
「……はぁ~い」
「さ、アリエッタも今日の所は部屋に戻りなさい。あなたが頑張っていることは知っていますし、私も近いうちに導師様の予定をあけられるように調整しますから」
「モース様が言うなら、分かりました、です」
先ほどまでの元気はどこへやら、また目にいっぱいに涙を溜めてしまったアリエッタの頭を出来るだけ優しく撫でてやり、時間の空いたときに導師と話す場を設けることをアニスに約束させてやって何とか宥めすかし、部屋に帰すことに成功した。
「さて、アニス。導師様と話がしたいので部屋に入れて頂けますか?」
「……む~」
「アニス?」
部屋に入れてもらおうとアニスに声をかけてみれば、アニスは何やら不満げな様子で私を見上げていた。何故だろう、やはり怒ったからだろうか。いやでも少しでも二人の関係を良好に保っておかなければいけないのだ。記憶の通りに進んでしまえばアリエッタは失意の中で没し、アニスもまた消えない傷を抱えて生きていくことになってしまう。記憶の通りにヴァンの野望を挫くとはいえ、その過程で少しでも減らせる犠牲は減らさなければならないのだから。
「どうしてアリエッタだけ頭を撫でるんですか」
「はい?」
何だか予想とは違う言葉がアニスから聞こえたせいか、思わず聞き返してしまった。
「アリエッタばっかりズルいですー! そりゃ、私だって根暗ッタって言ったのは悪かったかもしれませんけど、でもちゃんとお仕事してただけなのにー!」
「え、えぇ、そうですね。確かにアニスはしっかりと仕事をこなしてくれていますものね。いつも感謝していますよ?」
「じゃあ私もアリエッタみたいに慰めてください」
そう言って私に向かって頭を突き出してくるアニス。うぅむ、これは、アリエッタみたいに撫でろということだろうか。記憶の中の彼女は、
結局、導師様の部屋に入るまでに、私はアニスが満足するまで彼女を撫でながら褒めることになったのだった。導師様の部屋の前で何をやっているんだろうか、私は。