ユリアシティ
この毒に満ちた世界で唯一、人の営みを残す街。ユリアの残した道標を世界が過たず辿るように見上げる監視者の街。
タルタロスはその機関にいくらかの不調をきたしながらも、乗員達を無事に送り届けようと泥の海を行く。
「まさか私の部下がタルタロスで生き残っていたとは思いもしませんでしたよ」
身体に包帯を巻きつけながらも、ジェイドの指示に従ってタルタロスを駆る部下達を眺めながら、六神将の襲撃で皆殺されてしまったと思っていました。などと言って彼はおどけて見せた。
「流石に全員無事とはいかなかったみたいだけどね、半分ほどは営倉や倉庫の奥みたいな人目につかないところに押し込められてたよ。私が見付けたのも偶然だ」
そう言って返すのは神託の盾騎士団の師団長カンタビレ。ジェイドの隣に並び、一面に広がる泥海の向こうを見通そうと目を細めた。
「カンタビレがいてくれて助かりましたよ。あなたのお陰で僕たちは無事に
ジェイド、カンタビレとブリッジに並び立つのはローレライ教団の最高指導者にして象徴である導師イオン。普段は穏やかな表情を崩さない彼は、今は常ならぬ雰囲気を漂わせていた。
「しかし解せませんね。六神将がマルクト軍を見逃す理由があるとも思えませんが……」
「そんな難しく考え込むようなことじゃないさ。生き残ってたのは襲撃時に左舷側を守ってた連中ばっかりと言うじゃないか。なら左舷側から進攻した奴が殺さないように手加減してたってことだよ」
「手加減……? ますます分かりませんが」
カンタビレの言葉に、ジェイドの困惑は深まるばかりだった。六神将が敵である自分たちに敢えて手心を加えた理由は何なのか、抵抗されることを思えば、皆殺しにしておく方がよっぽど楽だ。それに目撃者を減らしておかなくては、今後困ったことになるというものを。
そこまで考えて、彼の思考はとある人物へと行き当たった。いる。この状況になることを見越し、タルタロスの運用と保守に支障ないように手筈を整える可能性のある人物が。更にその人物はローレライ教団の中でもとびっきりの重要人物で、六神将に命令を出したとしても何らおかしなことは無い。
「……大詠師モース」
「当たり。案外早かったね。流石はケテルブルクが生んだマルクト一の天才」
「彼は、一体何を知っているというのでしょう」
カンタビレのからかうような口ぶりに反応する余裕すら今のジェイドには無かった。彼の手回しは間違いなく自分達の利になる。恐らくはカンタビレが今ここにいるのも彼の取り計らいによるものだということもジェイドには理解出来ている。
理解出来ているからこそ、分からなかった。彼は自分達に何をさせたいのか。まるで全てを見透かしたかのように語った彼は、一体何が見えているというのか。今は自分達の味方のように振る舞っているが、その腹の内では何を考えているのかが全く見えてこない。
ヴァンのように、人格者の皮を被った悪魔なのか、それともただどこまでも善良な、底抜けの聖人でしかないのか。
「これまでも言ってきたことですが、モースは信用に値する人ですよ。僕が保証します」
「生憎と、私は打算なき善意などというものを信じるには歳を取り過ぎてしまったようです」
「ハッ、歳だけ無駄に重ねただけの男が何言ってんだい。私からしたらお前なんてまだまだ子どもだよ」
いくら考えても分からないことに時間を割く余裕はない。そう結論付けてやれやれと首を振ったジェイドを、カンタビレは鼻で笑った。
「ちょっとはマシになったのかもしれないけどね、結局はお前もルークやティアと同じ子どもさ。なまじっか頭が良いから背伸びしちまってるだけのね。まだまだ大人にゃ程遠いよ」
「おやおや、こんなおっさん染みた子どもとは始末に負えませんね」
いつかバチカルで彼から投げかけられたのと似たような言葉に、ジェイドは敵わないとばかりに肩を竦めることしかできなかった。
「それで、私の部下達を生かした六神将に心当たりはありますか?」
「ああ、恐らく、いや確実にアリエッタだね」
「アリエッタ……あの魔物と話せる少女ですか」
カンタビレから告げられた名前に、ジェイドは脳内でアリエッタを思い浮かべた。幼く、か弱そうな見た目に反して強力な譜術を用い、魔物と心を通わせて自分たちの前に立ちはだかった少女。人間的な情緒と魔物的な感性がない交ぜになった彼女が、上司の命令とはいえ手加減などというまだるっこしいことをするだろうか。
「解せない顔をしてるね」
「私にはどうにも呑み込めないのですよ、彼女が手加減をするところが想像できない」
「そうでしょうか? 僕にとってはむしろ納得がいく答えですけど」
「難しく考えすぎるのは頭が良すぎることの弊害さね。物事ってのは複雑そうに見えて案外単純にできてるもんなんだよ」
「単純……ですか」
「そうさ」
尚も顎に手をやって考え込むジェイドに、カンタビレは可笑しそうに笑みを浮かべながらその答えを口にした。
子どもなら誰だって、大好きなパパの頼み事は聞きたくなっちまうだろ?
その答えはジェイドを更に困惑の渦に叩き込むことになった。
「俺は……おれ、は……」
「ご主人さま……」
タルタロスの船室の一つ、ベッドの隅で膝を抱えて、ルークはうわ言を繰り返していた。その傍らに唯一寄り添っているのは、小さな身体の聖獣。つぶらな瞳一杯に涙を溜めて、主人の肩に乗って気遣わしげに見上げていた。
「ルーク……」
「ルーク様……」
少し離れたところから心配そうに見つめるのは彼をここまで連れてきたティアとアニス。
ティアは、バチカルでモースに言われたことの重大さを今更になって正しく認識していた。彼は間違いなく幼い子どもでしかなく、その無垢な信頼を裏切られ、受け止めるには大きすぎる罪を背負わせられてしまった。更に言ってしまえば、それをさせたのは自身の唯一の肉親である男。あの時、屋敷でヴァンに刃を突き立てていれば、カイツールで再会したときに躊躇うことが無ければ。こうなってしまったのは、自らの弱さ、甘さが原因であるのだと、彼女は内心で自らを責め続けていた。
アニスにとってルークは年上でありながら弟のような人だった。世間知らずで、ワガママで、何かにつけて臍を曲げて口を尖らせる。どこか浮世離れしていて危なっかしい自分の護衛対象も弟のようなものだが、ルークはそれとは別方面で目が離せない存在。導師イオンが殊更に気を掛けていたようだから、彼女も自然とルークに目を向けることが多くなった。彼の境遇に同情してしまったということも理由の一つだった。狭い世界に飼い殺しにされ、一人の男の野望のために利用された存在。それは一歩間違えていれば、自らが辿っていた道かもしれなかった。
もし、ダアトにいた自分にあの大詠師がいなければ、今頃自分は顔も知れぬ好事家に売り飛ばされていたかもしれない。そうでなくとも、頼る相手を間違えていれば、似たようなことになったかもしれないのだ。
二人と一匹は、それぞれ内容は違えども、今自らの罪に押し潰されようとしている少年を支えたいと考えているのは変わりなかった。皆ルークに掛ける言葉は思い浮かばず、ただ心配そうに見守ることしか出来ない。
そんな船室に、控えめなノックの音が響く。
「今戻りましたわ。アクゼリュスの皆さんの怪我も重篤なものは私が治療しました」
「ざっと見て回ったがすぐに手当が必要そうな人はいなかったよ。それで、ルークは……?」
そっと足を踏み入れたのは沈痛な面持ちをしたナタリアとガイ。部屋に入ってきた二人に対して、ティアとアニスは同じく痛ましい表情で首を横に振った。それを受けてナタリアとガイは目を伏せた。
「……ルーク!」
そして遂に耐えかねたのか、ナタリアがベッドに蹲るルークへと駆け寄った。
「いつまで沈んでいらっしゃいますの! 確かにあなたのやってしまったことは取り返しのつかないことかもしれませんわ。でも、ここで沈んでいても何も解決しませんのよ!」
「ナタリア! 今のルークにそんなことを……!」
ティアが慌ててナタリアの肩を掴み、力任せに振り向かせた。だが、ティアの顔に浮かんでいた非難の色は、振り向いたナタリアの顔を見て驚きに塗り替えられてしまった。
彼女のエメラルド色の瞳はその大きな瞳では湛えきれないほどの涙に濡れていた。目尻を真っ赤に腫らし、ともすればこの場の誰よりも打ちひしがれたような顔をしていたからだ。
「離して! ルークは、ルークはこんなことでダメになってしまうはずがありませんわ! 記憶を失って変わってしまったとしても、彼はルークなのです! 幼い私を守り、共に国を導くことを誓った彼が、こんな……」
そして遂には床にしゃがみ込んで顔を手で覆い、泣き出してしまった。彼女にとって今のルークの姿は受け入れ難いものだった。彼女の中のルークは、あの日の約束のまま、自分を守り、手を引いてくれる強い男だった。彼が大きな過ちをしでかしてしまったとしても、それを受け止め、足掻く強さを持っているはずだと、年頃の純粋な憧れを、今のルークに投影してしまっていた。そしてそれがあっけなく崩れてしまった今、ルークにいくら邪険に扱われようと献身的に支えてきた彼女の心の支柱は折れてしまった。今のルークを認めてしまえば、記憶の中で約束を交わしたルークはもういないのだと、それを認めてしまうような気がして。
「ナタリア……」
泣きじゃくってしまったナタリアを慰めるように、ティアも傍らにしゃがみ込んで彼女の肩を抱いた。アニスも同じように寄り添い、しゃくりあげる背中を撫でる。自分よりも年上のはずの少女は、今は行き場を失った子どものように見えた。
「ルーク……」
船室の壁に寄りかかったガイは、そんな状況にも何ら反応を示すことがない自らの主人の姿をどこか表情の読めない目で見つめていた。
「……今は立ち直れないかもしれない。だが、いつか立ち上がるんだろ? じゃないと……」
その後に小さく呟いた声はガイ以外の耳に入ることは無かった。