大詠師が本人の引退を前にして退いた例自体はごく稀ではあるが無いわけではない。
時の大詠師がその役目を放棄したとされたとき、詠師達過半数の賛成があり、導師がその議決を受けて大詠師の除名を宣言する。過去、その地位を利用して私腹を肥やした輩はいるものだ。ローレライ教団が閉じられた環境であるが故に、そうした事例はむしろ他よりも多いだろう。ただ、頭が多少回る人間はその利益を他の詠師と分けあい、弾劾されないように立ち回るものだ。
私自身はそうした企みをしたことは無い、というよりしている暇も無かったが、他の詠師達が少なからず行方不明となって消える金を懐にしまいこんでいるのを把握している。過度にしない限りは目溢ししているが。
つまり、今回詠師オーレルが得た議決は、より他の詠師の利益になると判断された故のものなのだろう。少なからず私が
「詠師オーレル。そのようなことは導師である僕が認めません」
導師イオンが私の隣に歩み出て険しい表情で告げる。そう、そもそもその議決も、教団の最高権限を握る導師がひっくり返してしまえば何の意味もない。そのことにこの小賢しい男が気付いていないことがあるだろうか?
私の頭の中にいくつかの可能性が浮かんでは消え、一つの仮説が残る。オーレルにとって最も確実で、私にとってあまり考えたくない可能性。
「導師イオンはモースに騙されております」
「何を……」
「ダアトに戻ってからお話しいたしましょう。そうすればあなたにも
「何を言われようと僕がその決定に頷くことはありません」
「
その言葉に、私は嫌な予感が間違っていなさそうだと感じた。この男はヴァンと繋がり、犯してはならぬ禁忌に手を出そうとしている。この男は、自身に都合の良い導師イオンを再び作り出すつもりだ。自身の傀儡として頷くだけの人形を導師の位置に据え付けるつもりなのだ。
「遂にそこまで堕ちましたか。いつからヴァンと手を結んでいたのですか」
「それを今の貴様が知る必要は無い。貴様はもはや大詠師ではない。メリルへの裁きが終われば次は貴様の番だ。ユリアの
そう言うと、オーレルは後ろに控えるシンクとディストに目配せをする。シンクは仮面に覆われて表情は読めないが、ディストは常と変わらぬニヤケ顔で前に進み出ると、彼自慢の譜業椅子から立ち上がり、私のもとまで歩いてきた。
「おやおや、追い詰められてしまいましたねぇ、モース」
「金払いの良いパトロンを助けるつもりはありませんか」
「残念ながら今のあなたを助けたところでワタシの目的は達成出来そうにありませんからね」
そういって馴れ馴れしく私の肩に手を回すディスト。彼らしくもないスキンシップだ。
「ご安心なさい。あなたに頼まれた仕事くらいは終わらせてやりますよ」
私以外には聞こえないような声量で呟かれた言葉に、私は僅かに目を見開く。
「さて、私は別れを済ませましたけれど。シンクも何か最後に言っておくことは無いですか」
そしてディストは椅子に腰掛けていつも通りふんぞり返ると、飄々とシンクに話を振る。
「……三番目達は任せなよ」
彼が告げた言葉はそれだけだったが。その言葉だけで十分だった。まだ私は見限られていない。つまりこの程度の窮地は窮地ではないということだ。
「さて、ではメリルから……」
オーレルが言い終わるのを待たずにラルゴの前にメイスを構えて向かい合う。
「……何のつもりだ。モース」
「言うまでもないでしょう。子どもを守るのはいつだって大人の役目。どうやら本来ここに立つべき大人は今すこし腑抜けているようですからね、代わりに私が立つまでのことです」
「……偽善者が抜かしたものよ」
私の言葉に、玉座に座るインゴベルト王だけでなく、目の前に立つラルゴもピクリと頬を震わせて反応した。ナタリアの実の父親であるラルゴに、今の言葉は刺さったことだろう。だが、娘を捨て、復讐に走った男を庇うつもりは私には無い。
「お前が俺に勝てると思っているのか」
「勝てないでしょう。ですが、それの何が問題ですか?」
「自ら死にに来るとはな。俺が思うより愚かだったようだ」
「愚かで結構。愚かで無様でも、子どものために身体一つ張れずに大人を名乗れるものですか」
「ならばそのまま骸を晒せ!」
問答はこれまでとばかりにラルゴが大鎌を振り上げて迫る。その速度は、彼の重厚な肉体からは考えられない速度だ。その一撃をまともに受ければ、私の身体はあっけなく肉塊になってしまうだろう。だが、シンクやディストの手前、何より後ろにはナタリアとイオンがいるのだ。私が簡単に死ぬことはあってはならない。
私は迫り来るラルゴにメイスを正眼に構えて迎え撃つ。面白いと言わんばかりに彼の顔に獰猛な笑みが浮かぶのが見えた。
そして私とラルゴがまさに交錯する瞬間。
謁見の間の扉が勢い良く蹴り開けられ、扉の先からラルゴに向かって氷の刃が飛来した。
「ぬうっ!」
不意打ちで放たれた譜術だったが、ラルゴも一流の武人だ。迫る氷刃を大鎌の一振で打ち落とすと、飛び退いて私と距離を取った。
「こんなところで遊んでんじゃねぇ!」
その言葉と共に私の前に飛び出してきたのは、真紅の髪を翻したアッシュだった。
「まさかあなたに助けられるとは思いませんでしたよ、アッシュ」
「お前を助けたつもりは無い。あくまで俺が助けたのはそこの王女と導師だ」
視線を前に向けたまま、アッシュは吐き捨てるように言う。その口調から、私を信用しているわけではなさそうだが、今はまだ目的が一致しており、敵に回ることはないと思える。
「イオン! ナタリア!」
「イオン様! モース様も無事ですか!」
更に後ろに続くようにルーク、アニスを先頭としていつもの一行も姿を見せ、ナタリアとイオンを庇うように囲む。タルタロス、アルビオールといった移動手段を使える彼らがいつかは追い付いてくるとは考えていたが、予想以上に早かった。とはいえ、ナタリアとイオンを守る人間が増えたのは心強い。これならば私も後ろを気にすることなく戦うことが出来る。
「ええい、衛兵たちは何をしておるか! 罪人メリルを庇う者たちも同罪である、諸共ひっ捕らえろ!」
内務大臣であるアルバインが焦れたように声を張り上げると、それに従って兵士が謁見の間になだれ込み、出入り口を封鎖する。
「公爵家の嫡男であるルークまでも殺すつもりですか」
「そこにいる者は皆アクゼリュス崩落に加担した罪人。キムラスカに仇なす者たちである!」
呆れたようなジェイドの言葉に、怒号で返すアルバイン。彼自身はキムラスカに忠誠を誓う臣であり、オーレルに唆された一人に過ぎないということは分かっている。だが、その姿はどうにも尊敬すべき大人であるとは言い難い。
「チッ、グズグズしているせいで囲まれちまったじゃねえか。モース、何か手は考えてるんだろうな?」
前方には戦意を漲らせるラルゴ、後方には扉を塞ぎ、逃がすまいとするキムラスカの兵士達。逃げるためには寡兵でこの包囲網を突破する必要があるが、中々に骨だろう。それを分かっているのか、強気な表情こそ崩さないものの、アッシュの頬に一筋の汗が流れ落ちていく。流石にアッシュと言えど、同じ六神将のラルゴを相手取りながら後方のキムラスカ兵を突破するルーク達の援護が出来る程余裕はない。イオンを守りながら動く必要がある以上、ルーク達もあまり自由に戦うことが出来るわけではない。この状況を打破するためには、更なる援軍が必要だ。それも数を備えた援軍が。
「さて、あのときの約束を果たしてくれるとすれば、今なのでしょうが」
「? 何を言ってやがるモース」
私がポツリと呟いた言葉に、アッシュが怪訝な表情で聞き返す。だが、私が答える前に、扉を塞ぐ兵士の壁が左右に割れた。
「何だ? あれは、まさか白光騎士団?」
油断なく武器を構えていたガイの疑問に答えるように、兵士たちが空けた道から謁見の間に輝かしい白銀の鎧に身を包んだ兵士達が踏み込んでくる。
闖入者の正体は、ファブレ公爵家が誇る白光騎士団。騎士たちは兵士達より前に出ると、ルーク達と向かい合った。
「まさかファブレ公爵家までナタリアを殺すなどという馬鹿げた行いに加担するつもりか」
「まさか、父上……」
ガイが発した言葉に、不安げな声を漏らすルーク。だがその不安は恐らく杞憂だろう。このタイミングで彼らが来たということは、私が送った手紙は無駄ではなかったということだ。
「どこの世界に我が子をこの手で殺す親がいるというのか」
その声と共に騎士達の間から姿を現したのはファブレ家当主、クリムゾン。そして自らの主の言葉に従い、白光騎士団はその身を翻してキムラスカ兵たちに向き直り、各々が手に携えた武器を構えた。
「ファブレ公爵! 一体どういうことだ!」
それを看過するわけもないアルバインがクリムゾンに怒りも露わに叫ぶ。
「クリムゾン、お前は儂を否定するというのか……」
「そうですな、陛下。ファブレ公爵家はキムラスカの忠臣。であればこそ、自らの戴く王が間違った道を選ぼうとすれば諫言するのも役目」
インゴベルト王の言葉にクリムゾンは気負うこともなく答える。彼がその手に自ら剣を握っていることが、その言葉に嘘が無いことを雄弁に物語っていた。
「その者は亡き王女の名を騙り、更にはアクゼリュス崩落に加担した者たちだぞ!」
「送り出したのは我らだ。この子らがそのようなことをする人間であるものか。例え何かの間違いで彼らがアクゼリュスを崩落させたとして、その責任をこの子らに押し付けて我らが知らぬ存ぜぬを貫き通すような無様を晒すなど、ファブレ公爵家の誇りにかけてごめん被る!」
「父上……!」
「行け、ルーク! ナタリア殿下をお守りしろ。モース、ここは私が引き受ける。そなたも約束を果たせ。ルーク達を頼んだぞ」
「言われるまでもありません。この身にかけても」
クリムゾンの言葉に、ルーク達は弾かれるように走り出す。その周囲を白光騎士団が固め、こじ開けた道を閉じさせないようにキムラスカ兵を押し留めていた。私もその後に続いて駆ける。
「なっ!? 待て、モース! ええい、シンク、ディスト、早く奴を追わんか!」
「あの兵士どもを掻き分けて? やだよ面倒くさい。それにここまでついて来たのはアンタの護衛をヴァンに命じられたからってだけだ。アンタの命令を聞く義理は無いね」
「同じく。それに肉体労働はこの私に相応しくありませんからね。そういう意味では、モースの方がよっぽど私を上手く使っていましたよ」
オーレルが口角泡を飛ばす勢いでシンクとディストに詰め寄るも、彼らはそれを何とも思っていないように受け流す。それを尻目に、私とルーク達はついに謁見の間を脱することに成功したのだった。