シェリダン港に辿り着いたルーク達は、自然発生したとは思えない白い靄に行く手を阻まれていた。
「皆、口を塞いで呼吸しないように。譜術で吹き飛ばします」
その脅威にいち早く気付いたジェイドが譜陣を展開する。ジェイドの譜術により生じた風が、周囲の靄を吹き飛ばす。ルーク達が再び目を開ける頃には、彼らの周囲に立ち込めていた靄はさっぱり消え去っていた。
「譜業による催眠煙幕ですね。大の大人でも昏倒してしまう代物です」
そう言ってジェイドが見渡せば、周囲には意識を失って倒れ込んでいる神託の盾兵の姿がチラホラと見える。その様子を見るに、この催眠煙幕はヴァンによるものではなく、シェリダンの職人たちの手によるものだろう。
「おおっと、よかったよかった。あんた達まで寝ちまったらどうしようかと思った」
「小さい子には効きが速いみたいだけど、ジェイドがすぐ吹き飛ばしてくれたんだね」
「アルビオールならタルタロスに積み込んである。いつでも出られるぞ」
その言葉と共に現れたのはヘンケンとキャシー、アストンの三人。どうやらシェリダン港に押し寄せた神託の盾兵を煙幕で無力化することで対抗していたらしい。
「奴らがタルタロスを盗もうとしてきやがってな。この催眠煙幕でノックアウトしてやったよ」
「それで俺達がノックアウトされたらどうするつもりだったんだよ……」
どうだと言わんばかりに胸を張るヘンケンに対し、ルークは力が抜けたように肩を落とす。それを見てヘンケン達は悪い悪いとまるで悪びれた様子も無く笑う。
「無駄話をしている余裕があるのか?」
だが、その後ろから冷たい刃のような言葉が差し込まれる。ルーク達がそれに反応する前に彼らを暴風のような剣閃が襲い、彼らを枯れ葉のように吹き飛ばした。
吹き飛ばされたルーク達にゆったりと歩み寄るのは六神将をまとめる神託の盾騎士団の主席総長。その右手に握られた一振りの剣が、先ほどの暴威が彼一人の手によって引き起こされたことを物語っていた。
「ベルケンドから逃げ出した技術者達がシェリダンに隠れていたことは分かっていたが、何をしているかまでは掴めなかった。モースがことごとく偵察を潰していたためにな。だが、その様子だと間に合ったようだな」
「間に合った? それを言うのは早計ではありませんか」
ヴァンの言葉に反論したジェイドが言い終わるや否や譜術を発動させる。ヴァンの目の前に収束した
「小細工が通用するとでも思ったか?」
だが、それを剣の一振りで相殺し、ヴァンは余裕の態度を崩さない。
「くっ」
「ジェイド! 俺も……」
「やめなさいルーク。今はタルタロスに向かうことが先決です。こうしている間にも時間は減っていきます」
「だがそれを私が許すとは思うまい?」
加勢しようとしたルークを片手で押し留め、ジェイドは忌々しげに前に立つヴァンを睨みつける。ジェイドとてヴァンが易々と逃がしてくれるとは思っていない。背中を見せれば容赦なくヴァンは襲い掛かるだろう。ならば今のこの場で出来る最も合理的な手段は、ほんの一瞬でもヴァンを引き留めること。例え、戦闘力が無い民間人であっても前に立ちはだかることは可能だ。それが老人であったとしても。
ジェイドの頭脳が、感情とは切り離された冷徹な判断を導き出す。この場ではそれが取り得る最善だと理解している。だが、その犠牲を容認することは躊躇われた。それを口にしてしまうくらいなら、あるいは老人たちが自らその身を呈することを選んだとしても、そうするくらいならば自分が囮になる方がマシだと。
(あなたもこんな気分だったのですか、モース)
恐らく、いや確実に勝ち目は無い。ジェイドは自身が天才だと自負している。だが、それはあくまで譜術という技術においてであり、戦闘に関して、特に近接戦闘でヴァンと渡り合えると自惚れていなかった。それでも誰かがヴァンを足止めしなくてはいけない。その役目は、恐らく自分が担うべきなのだとジェイドは考えていた。それは彼の合理的な頭脳からではなく、どこかのお節介な大詠師によってもたらされた感情的な思考から導き出されたものだったのかもしれない。
「ルーク、あなたはタルタロスに……」
「おいおい。何かどんちゃん騒ぎになってるかと思えば、主席総長サマじゃないかい」
覚悟と共に踏み出そうとした一歩はしかし、この場に似つかわしくない呑気な声に遮られてしまった。その声の主は、肩に愛用の刀を担ぎ、気負った様子も無くヴァンへと歩を進める。その姿は緊張感に欠けているが、間合いに入ればすぐさま切り伏せられてしまいそうな雰囲気を漂わせていた。
「カンタビレ……。何故ここにいる?」
「いや何、あたしをのけ者にして楽しそうなことしてるって風の噂に聞いてね。あたしも混ぜちゃくれないかい?」
そう言ってカンタビレはにやりと犬歯を覗かせて獰猛な笑みを浮かべると、ヴァンに躍りかかる。目で追うことすら至難なその一閃を、ヴァンは事も無げに防いでみせた。だがそこでカンタビレの連撃は止まらない。続けざまに二度三度、白銀の軌跡を残して刀が振るわれる。
「カンタビレ、自分が何をしているか理解しているのか」
「伊達や酔狂でこんなことするもんか。ほら、こっちはあたしに任せてお前達は行きな。やることがあるんだろう?」
「カンタビレ教官、ありがとうございますっ!」
カンタビレに促され、ルーク達はタルタロスへと駆け込んでいく。それを阻止しようとするも、ヴァンの目の前に立ちはだかる人間がそれを許すことはない。背を向けたルークに向かって放たれたヴァンの譜術を、カンタビレが一刀両断する。
「おいおい、あたしが目の前にいるってのに余所見は無いんじゃないか?」
「……面倒な」
挑発するようにプラプラと刀を揺らすカンタビレに対し、ヴァンは温度を失くした瞳で右手に持った剣を構える。先ほどまでの余裕に満ちた表情は消え、今はただ目の前の敵を葬ることだけに思考を集中させる。
「おぉ、怖いねぇ。流石は主席総長サマ」
ヴァンの殺気を受けてなお愉快そうなカンタビレ。刀を肩に担いだまま、姿勢を低くし迎撃の構えを見せた。
「さぁ、始めようじゃないかヴァン」
オールドラント大海を行くタルタロスの艦橋にルーク達は集まっていた。タルタロスは最大船速でアクゼリュス崩落跡に向かう。シェリダン港を出てタルタロスがアクゼリュス跡地に辿り着くのは5日。もどかしい時間がタルタロス内に流れていた。
「ルーク、少しは落ち着け」
艦橋を右へ左へと忙しなく行き来するルークに、ガイは呆れたように声をかける。
「ガイ、でも、シェリダンの皆は……」
「俺達が心配してもどうにもならないさ。それにリグレットとヴァンはモースの旦那が手を打ってくれてたんだから、イエモンさん達もきっと大丈夫だろうよ。それに出発してからずっとそんな感じじゃないか。そんなんじゃ地核突入までもたないぞ」
「う、分かったよ」
ガイに窘められ、ルークは決まり悪そうに椅子に腰かける。その隣にティアが歩み寄り、労わるように肩に手を置いた。
「カンタビレ教官はとても強いわ。兄さん相手でも大丈夫よ、きっとヘンケンさん達を守ってくれる」
そう言って安心させるようにルークに微笑みかける。このやり取りもタルタロスに居る数日で何度も繰り返されたものだ。ルークがこうして落ち着きなくしている一方で、他のメンバーはかえって冷静に各々の仕事を熟しているが、だからといって誰もルークを責めることは無い。誰もが内心ルークと同じ思いを抱えており、ルークを宥めることで己の不安をも和らげることが出来ていたからだ。
「皆さん、そろそろ持ち場へ。見えましたよ」
艦長席に座るジェイドがそう言って全員の注意を前方へと向けさせる。タルタロスの目前にはアクゼリュスの崩落による大穴が口を開いており、穴の際からは海水がとめどなく落ちている。
「アニス、術式の起動状態は大丈夫ですか?」
「えとえと……、大丈夫で~す!」
ジェイドの言葉に、アニスは自身の座席に設置されたモニターに素早く目を通す。そこには、事前に教えられた異常を示す表示は無く、問題なくタルタロスが地核に突入可能な状態であることを示していた。
「それでは行きましょうか。皆さん、準備はよろしいですね?」
「おう!」
「大丈夫ですの!」
「いつでもオーケーだ、旦那」
「準備は出来ています」
「私も問題ありませんわ」
「アニスちゃんもオッケーで~す」
ジェイドの呼びかけにルーク達が返答する。最後に彼は隣に立つ導師イオンへと目を向けた。
「イオン様も、大丈夫ですか?」
「はい。行きましょう」
「では……。タルタロス、これより地核に突入します」
ジェイドの指令でタルタロスは大穴へと最大船速で向かい、遂に穴の淵から飛び出した。しかし、本来
大穴の中心部で停止したタルタロスは、そこからゆっくりと降下を開始する。外殻大地の岩壁を横目に高度を下げ、障気の雲の中へと突入する。シェリダンの職人とベルケンドの技術者がその知識を結集した術式によってタルタロスは乗員達を安全に、かつ確実に
「……本当に大丈夫だよな?」
「なるようになるさ、ルーク。イエモンさん達を信じろ」
足下に迫る泥海に固唾を飲んだルーク。それを安心させるようにわざとらしい程の軽い口調でガイが言葉をかける。
そしてタルタロスは泥海に着水し、更にその巨体を沈めていく。展開された譜陣によって泥がタルタロスを襲うことは無く、泥海に穴を穿つように潜航し続ける。
辺りから光源が消え、頼りない艦内灯のみがルーク達の視界を僅かに保障してくれる時間。それがどれほど続いたかは彼らにも分からない。作戦の緊張感と前人未到の地を目指す不安、そして暗い艦内という環境が時間感覚を奪ってしまっていた。
ごくり。誰かが生唾を飲み込んだ音がルークの耳に聞こえた気がした。あるいはそれは自身が立てた音だったのかもしれない。
薄暗がりの中、一度目を閉じたルーク。そして再び目を開いた彼の目前には、極彩色の空間が広がっていた。