私の意識はハッキリとした形を保てないまま揺蕩っていた。リグレットかヴァンが何かを語り掛けてきているような朧げな記憶もあれば、誰が用意してくれたか分からないパンと水だけの質素な食事を口にしていた記憶もある。だが、散り散りになった私の記憶は正確な時間感覚を失わせ、唯一首筋に感じる冷たい痛みだけが、朧げな意識の中で確かな感覚だった。それ以外は座っているのか、横たわっているのかも分からないままただ靄が掛かった視界の中でどれだけ過ぎたかも分からない時間の中を漂っていた。
「──ま! ――して、こんな」
「――く、くすり――しょう」
ガラスを隔てたような途切れがちの声が私の耳に入ってくる。それはいつも聞くものとは違ったもので、聞き覚えがあるはずなのに誰なのかが分からなかった。
「ここは――、リカ―ー」
ぼやけた視界の中を複数の影が動いている。それに焦点を当て、追いかけようとするも私の目はゆっくりと左右に動くだけで影の正体を掴むことは出来ない。そうしているうちに影の内の一人が私の視界に手を翳すと、温かな光が私を照らす。
霞掛かった視界が微かに晴れた心地がした。鉛を身体中に流し込まれたかと思うほどの重たい感覚も多少和らいだ気がする。
「これで―ー、ただ―ー。早く移動―ー」
私の目の前に手を翳していた誰かの声が先ほどよりもハッキリとしてきた。
「グズグズしてると―ー。俺達で運ぶしか――」
少しずつ意識が覚醒してきているのが分かる。周囲の状況を掴めるようになってきていた。だが、同時に足下から湧き上がる怖気に身体が震えだす。
「モース!? 急に震えだして、どうしたんだ!」
「薬の離脱症状が出始めています。このままではマズい、早く休める場所に移さなければ……」
「マズいですわ。そろそろ神託の盾兵に気付かれてしまいます」
誰かが話しているのは確かだが、意識の覚醒に伴って身体が意志とは関係なく震え、まともに内容をくみ取ることが出来ない。
「このまま起きても脱出に支障があります。一旦眠らせましょう」
「そうですね……、モース様、必ず助けますから――」
その言葉と共に私の耳朶に優しい歌声が染みこみ、私は久方ぶりの安心感の中眠りに導かれたのだった。
身体が何か柔らかいものに包まれている。柔らかく、温かいそれは心地よい浮遊感で私を癒してくれている。まだ眠っていたいと訴える身体と、早く起きなければという理性の焦燥。今回も勝ったのは理性の方だった。微睡む意識が浮上し、自分が置かれている状況を把握するために重い瞼を開き、周囲に視線を巡らせる。部屋に窓があることから、ここはダアトでは無いことは確かだろう。華美では無いものの、高級感ある落ち着いた意匠の家具の数々は、ここの主の地位と趣味の良さを示している。窓の外に目を向ければ、白い雪がちらつく暗闇が広がっている。その光景に今私がどこにいるのかが理解できた。
「ここは……、ケテルブルクですか」
だとすれば、私は教団本部から誰かの手によって救い出されたのだろう。最後に聞こえたあの歌声、もし彼らなのだとすれば、地核振動停止作戦は成功したのだろう。
「シンクはどうなったのでしょうか……」
私の記憶の通り、彼はタルタロスに乗り込んでルーク達と対峙し、地核に消えてしまったのだろうか。アリエッタはヴァンからほぼ離反し、ディストも中立を保っている。個人的にシンクとも交流を重ねてきた。彼が私との繋がりを少しでも重く見てくれていたならば、この世界の全てを恨み、空虚を抱えたまま死のうとすることを思い留まってくれていないだろうか。
そのとき、扉が開く音に私は窓の外に向けていた視線を扉へと向ける。そこに立っていたのは白いスーツに身を包み、金髪を後頭部で括った眼鏡の麗人。
「あなたは……」
「ああ、目が覚めたんですね大詠師モース。兄さんたちが運び込んできたときは今にも死んでしまいそうな顔色でしたから、ここ数日は全く気が抜けませんでした」
私を見て表情を和らげる彼女はネフリー・オズボーン。ジェイドの実妹であり、ケテルブルクの知事でもある才媛だ。
「私は何故ここに……」
「兄さん、ルーク達があなたを連れてきたんですよ。教団本部で非道な尋問を受けていたと」
彼女の言葉に私の予想が正しかったのだと確認できた。やはり私はルーク達に救われたらしい。彼らを助けるつもりが、逆に彼らの手を煩わせることになるとは。
「ルーク達はまた慌ただしく出て行ってしまったけれど、入れ替わりにあの人が来てくれて助かりました。医者はいるけれどあまりあなたの居所を人に知られるわけにはいきませんから。あなたの容態が悪化したときに診られる人がいて」
「あの人……?」
ネフリーの言う人物の心当たりが無く、私は頭に疑問符を浮かべる。ネフリーが信頼する人物で私の看病を任せられる人物。そのような人間はそう多くないはずだが、
「あら、分かりませんか?」
「ええ、生憎と「ハァーッハッハッハッハ!」……たった今心当たりが出来ましたね」
「あ、あれでも根は良い人ですから」
最近耳にしていなかった高笑いが寝起きの頭に響き渡り、私は疲れを誤魔化すようにため息を一つ吐いて脱力する。そんな私を見てネフリーはクスクスと笑っていた。あの特徴的な笑い声に対してこの反応が出せる辺り、彼女は相当懐が広い。いや、そうでなければ彼の幼馴染など出来ないのだろう。
「ようやく目を覚ましましたね、モース! さあ、この天才に今までの恩を身体が潰れる程に感じなさい!」
そんなセリフと共に部屋に足を踏み入れてきたのは花びらのように大きく開いたジャケットと白く光を反射する眼鏡が特徴的な天才譜業士。なるほど、確かに彼ならばネフリーも信用しているのが頷ける。私としても悔しいことに彼には借りを作りっぱなしだ。さらに言えば、今まさに新たな借りができたところなのだろう。
「最早私が返せるものであなたへの借りに釣り合うものがあるのか自信がありませんよ、ディスト」
「そうでしょうそうでしょう! ハァーッハッハッハッハ!」
華麗なる天才を自称する男は、私の態度に増々気を良くして高笑いを部屋中に響かせるのだった。
「さて、これからのことについて少し情報のすり合わせをしておきましょうか」
「あの、その前に大丈夫ですか……?」
何事も無いように話すディストだが、その顔には真っ赤な手形が張り付いている。病み上がりの人間の前で騒ぎすぎだとネフリーのお仕置きを受けたのだ。それでもめげないということは彼らの間では割と繰り返されてきたやりとりなのかもしれない。
「お気になさらず。それよりも今の状況を把握していますか?」
「私の予想では地核振動停止作戦は成功。後は各地のセフィロトを操作しアブソーブゲートを閉じる段に入ったところ、でしょうか?」
「……頭の回転は鈍っていないようで結構」
私の考えは間違っていなかったようで、仰る通りとディストは両手を広げながらダアトとローレライ教団の近況について説明する。聞けば、シンクがルーク達に接触して私の救出を依頼。ハイマン君と詠師トリトハイムの手引きで教団本部に潜入して私を連れ出した後、ハイマン君と詠師トリトハイムもダアトを脱出したらしい。カンタビレはダアトに残ったものの、その権限を剥奪されて勾留され第六師団は解体、師団の兵達は一時的に大詠師麾下となったらしい。
「とはいえ実力至上主義の第六師団が従うわけも無く、大詠師サマは虫の居所が最悪ですが」
ああなったらもう未来は無いでしょうねぇ、そう言ってディストはケラケラと笑っているが、私はそれに乾いた笑いを返すことしか出来ない。まさか私が大詠師でなくなった瞬間にダアトの政治機能が崩壊し始めているとは思いもしなかった。私の記憶を振り返ってみても、愚かな私はそれでもダアトの統治は大過なく行えていたと認識している。もちろんローレライ教団の行く末を巡って市民に混乱をもたらしたことは確かだが、まさかこの段階でここまでの状況になってしまっているとは思ってもみなかった。何より、私などを助けたせいでそのような事態になっていると思えば、胃の辺りがじくじくと痛み出すような心地がした。
「このようなことになるならば」
「私など救わなければ良かったのに、ですかね?」
私は言葉に詰まった。まさに私が言おうとした内容だったからだ。
「その言葉は私の前ではともかく、子ども達の前では言うべきではありませんね。それとあの狂信者の前でも」
「狂信者が誰のことかは分かりませんが……そうですね、確かに言うべきことではありませんでした。すみません」
「分かればよろしい。謙虚は美徳と言われますが、あなたのそれは卑屈通り越して自虐ですからね、あなたが自分で自分を卑下することはあなたを慕う子達も同様に貶めることになることをいい加減に理解すべきでしょう」
この天才たる私のように自分自身に正当な評価を下すのです! ハァーッハッハッハッハ!
最後に茶化すように添えられた言葉が不器用な彼なりの場を和らげるためのものだということはいくら鈍感な私でも理解出来た。そうだ、シンクもルーク達と敵対すること無く、むしろ協力者となって生き残っている。私が知る筋書きよりも世界は優しい方向に向かい始めている。悪いことばかりでは無いはずだ。
「気遣いありがとうございます。いけませんね、どうにも悪い思考が出てきてしまう」
「ま、教団本部でヴァンに相当キツイ薬を盛られたようですからね。しばらくは身体をしっかり休めることです、と言いたいところですが」
ダアトでヴァンと何を話したのですか。ディストはそう言って目を細めた。どうやらヴァンは私の尋問についてディストと情報共有をしていなかったらしい。
「すみません。私自身、意識が朦朧としていたのであまり覚えておらず……」
「ふむ。そこまでしてモースから聞き出したかったこと、気にはなりますが覚えていないのならば仕方ありませんね」
朦朧とした意識の中で何かを話していた記憶はあるが、その内容については思い出せない。
「ヴァンが無意味な問答をするとは思えませんし、不気味な話です」
「ま、ヴァンの頭の中でどのような計画があったとしても私は私の目的の為に邁進するだけですしね。それに、今のあなたはヴァンのことよりももっと気にすべきことがあるでしょう」
「気にすべきこと……?」
ディストはそう言いながら扉の前から離れ、ベッドを挟んで反対側まで来る。その行動の意図が読めずに彼を目で追っていると、廊下の方が何やら騒がしいことに気が付いた。
「ちょうど帰ってくる頃だと思いました。やはり天才たる私の計算は間違ってなかったようですね」
「ディスト、一体何を……」
私の言葉は最後まで続くことはなかった。それよりも先に扉が蹴破られんばかりの勢いで開かれた。そこに立つ二つの翠と一つの朱に、自然と口元が綻ぶのを感じた。この二人が並んでいる姿は、私の記憶には終ぞ無かった光景だ。これを見られただけでも、世界は確実に良い方向に向かっているはずなのだと思えるのだから。
「ルーク様、導師イオン、それにシンクまで。あまり扉を乱暴に開けるものじゃありませんよ」
「あ……あ……」
「……あの、聞いていますか?」
私の言葉が耳に入っているのかいないのか、幽鬼のような足取りでヨロヨロと私のもとに近づいてくるその姿は控えめに言って恐怖でしかない。
「モース、目が覚めて……」
「モース様ぁぁぁ!」
「あ、アニス!? 止まっ、ぐぼっ!?」
そしてそんな彼らを弾き飛ばすほどの勢いで飛んできたアニスという名の黒い弾丸がベッドに横たわる私の腹に突き刺さり、
「寝起きの病人にタックルかますアホがいますかぁ!」
部屋にはディストの怒号が響き渡った。