ダアトの地下深く、フローリアン達の部屋を訪れた私は、今日も今日とて似合わぬエプロンを身にまとい、くつくつと煮立ち、美味しそうな匂いをさせる鍋を前にして腕組みをしていた。今日のメニューはカレーライスである。そういえば前に来たときはビーフシチューを作ったのだったか。いかんせん量を作ろうと考えると鍋物になってしまいがちだ。次は焼き物か、揚げ物にしてみようか。
「カレーだカレーだ」
「モースの、カレー、楽しみ」
私が一人静かに悩んでいるのを余所に、フローリアンとツヴァイは並んで座ってソワソワと楽し気に身体を揺らしている。楽しみにしてもらえているなら、まぁ良いのだろうか。
「ツヴァイもフローリアンも少しは落ち着きなよ、みっともない」
そしてそれを窘めるのはいつの間に部屋に来ていたのか、六神将となった彼らの兄弟、シンク。前のシチューのときといい、しれっと着席しているので今日も彼は食べて帰るようだ。隣で身体を揺らすフローリアンとツヴァイを鬱陶しそうに押さえつけていた。
「そう言いながらシンクも楽しみにしてるんだよね、分かるよ」
「おい、その減らず口閉じなよ、じゃないと頭にたんこぶが出来る程度じゃ済まさないからね」
「兄に向かってこの言い方。不良になってしまったんだね、悲しい」
「同じ姿形してるくせに何が兄だこの馬鹿フィオ! モース! このクソ生意気な口はあんたの教育のせいか!」
そんなシンクに対して微塵も物怖じせず―――というかここに居る彼の兄弟は皆彼に対して恐れる様子を見せたことは一度もないが―――すまし顔で、だが目はからかうような光を湛えて彼を煽るのは4番目のレプリカ、私がフィオと名付けた子だ。
「私は他の子たちと同様に教育しているので、フィオの個性ではありませんか?」
鍋から目を離すわけにもいかないので、リビングに向かって少し声を張って答える。レプリカで、例え皆が同じ人物であるのだとしても、彼らは日々を過ごすうちにこうして少しずつ彼ら自身の個性を育んでいる。私はこの個性を潰してしまわぬよう、だが間違った道へと向かわぬように時間を縫って彼らに教育を施している。そういう意味では、フィオの人格形成の責任の一端は私にもあるのかもしれない。
「そう、個性。こんなに同じ顔が並んでいたら生半可なキャラ付けだと埋もれる。シンクが痛い仮面で個性をアピールするみたいに、僕はこうやって個性をアピール」
「僕のこの仮面はキャラ付けじゃない! いい加減にしないとホントにぶっ飛ばすよ!」
いつもは周囲から一歩引く皮肉屋なシンクが、フィオ相手にムキになっている様子は、本当に彼らが兄弟のように見えて微笑ましい。この光景を見れただけでも、彼らを助けた甲斐はあったのだと思える。とはいえ、このまま放っておいてシンクがフィオの頭に拳骨でも落とそうものなら賑やかな食卓の雰囲気も沈んでしまうことだろう。私は出来上がったカレーの鍋を抱えてリビングへと向かった。
「まぁまぁ、落ち着いてください。カレーも出来上がったことですし、まずは食べませんか?」
「……とりあえず説教は食べてからしてやる」
「説教は不可避なのか、悲しみ」
フィオはツヴァイと同じく表情こそあまり変わらないものの、雰囲気で感情が分かりやすい。いや、彼の感情が分かるくらい彼らと共に過ごしてきたからかもしれないが。
「さ、頂きましょう」
「「「頂きます」」」
その食卓はとても楽しく、心安らぐものだった。罪深い私などがこの場に居ても良いのかと考えてしまうほどに。
楽しかった時間があるならば、苦しい時間も当然ある。
「聞かせろ、モース。ヴァンの計画の詳細を」
食事を終え、執務室で人心地ついていた私のもとに無遠慮に乗り込んできたのは私が苦手とする人物の一人であった。
背中の中ほどまで伸びた深紅の髪。神託の盾騎士団の誰が言い出したのか、戦場で浴びた返り血に染まったのだと荒唐無稽な話は、彼の纏う雰囲気と二つ名のためかあながち嘘ではないと思わせる。事情を知っている私にとっては、そんな荒唐無稽な噂が真実であった方がいくらかマシだと考えてしまいそうであるのだが。
「アッシュ、いきなりどうしたというのですか」
「いいから話しやがれ。ヴァンの野郎がバチカルに行って不在の今じゃねぇとこうしてお前と接触できねぇんだからな」
眉間に深い皺を刻みながら、彼は椅子に座る私を見下ろす。その右手が剣の柄に掛かっているのは脅しのつもりか、はたまた焦燥に駆られて無意識のうちにか。私としては是非とも前者であってほしい。そうでないと話の中で気づいたら斬り捨てられてしまう可能性が否定できないからだ。
「ヴァンの計画、と言われましてもな。あくまで彼と私は協力関係。彼が私のすることを完全に把握していないように、私もヴァンのやること、やろうとしていることを全て知っているわけではありません」
「御託はいい! こっちは少しでも情報を集めなきゃならねえんだ!」
遂に彼の左手が執務机の天板に振り下ろされ、積んであった書類がふわりと舞った。
彼の焦りも分かる。恐らく彼は確証は無いまでも、ヴァンが何か恐ろしいことを企んでいることを勘付いたのだ。だが、私は彼に情報を与えるつもりは無い。
記憶の中の彼は、
彼が本来全ての怒りを向けるべきはヴァンのはずだ。キムラスカから彼を連れ去り、レプリカにその座を奪われ、それがヴァンの計画によるものだと悟ったとき、どうして彼はその怒りを彼のレプリカ、ルークにまで向けたのか。もちろんその気持ちも理解出来ないわけではない。だが、ルークもその存在をヴァンに弄ばれた被害者の一人。アッシュの中に割り切れない思いがあったにせよ、彼があそこまで頑なになった理由は。
私はそこまで考えたところでとても恐ろしいことに気づいたのだ。
彼は何も怒りのままにルークを殺そうとしていたのではない、ということに。ルークとアッシュが初めての邂逅を果たしたカイツールでの一幕。彼は怒りで自らの冷徹な計算を覆い隠し、ヴァンに悟らせないようにしていた。
ヴァンの計画はルークの超震動でアクゼリュスを崩落させることが要石であった。ならば、ルークを殺してしまい、そして自らもまた死んでしまえばヴァンの計画は頓挫、あるいは大幅な遅延を余儀なくされる。もちろんデータが残っている以上、もう一度ルークが創られてしまうだろうが、それでも彼の計画に大きな狂いが出ることは間違いないだろう。そうなれば後はジェイドやティア、ナタリアらに事情を伝えておけばヴァンの野望を終わらせることも出来ただろう。
ユリアシティでもそうだ。利用された後でなおヴァンに心を寄せるルークがこれ以上利用されないように、彼を殺そうとしていたのならば……。
もし私がアッシュに私の知る情報を与えたとき、冷酷で計算高い彼の頭脳は一体どのような結果を導き出してしまうのか。
目の前で焦燥で顔を歪めるアッシュの瞳の中に、私は冷徹な光を見た気がした。
「アッシュ。もし私が何らかの情報を持っているとしても、それを何故あなたに教える必要があるのですか」
「ッ、てめえ……!」
「私が、ヴァンはこの世界を滅亡させようとしている、などと言ったところでそれを裏付ける証拠などありません。不確かな情報を基にあなたが暴走するだけです。そしてあなたが暴走することすらもヴァンはお見通しでしょう。私ですら予想できるのですから。あなたの師であるあの男なら造作もないことです」
「ハッ、お人形遊びが趣味のくせに、随分と知ったような口を利くんだな」
「私にとってそれは挑発にはなりませんよ」
私を怒らせて口を滑らせようとしたのかもしれないが、この程度の挑発など大詠師になるまでも、そしてなってからもごまんと聞いてきた。教団の中も外も、地位が上がれば大差は無い。人は皆虎視眈々と権力の座を狙い、自らが手を汚さぬように何とか相手の失態を引き出そうとする。そんな狸や狐を相手取ってきた自分からすれば、目の前の青年が放つ挑発はむしろ微笑ましくすらある。
「もし、あなたが何かを掴んだというのなら、まずはそれを信頼できる人と相談するところから始めるべきでしょう。もちろん、私がその相手に選ばれたならば光栄ですが」
「フン、誰が貴様を信用するものか!」
「まあ、そうでしょう。ならばディストに話してみると良いでしょう」
「ディストだと……?」
アッシュは私の言葉に怪訝な表情を隠そうともしない。それだけであの変人に対するアッシュの評価が良く分かるというものだ。私もそれは否定しないが。
「ええ。彼は私とも、ヴァンとも深いつながりはありません。ただ彼は彼の目的のためにヴァンや私にその知識と技術を与え、対価を受け取っているに過ぎません。あなたが彼の興味を惹く対価を提示すれば彼は快くあなたに協力するでしょうね、私やヴァンには内密で」
そしてディストにとってアッシュは喉から手が出るほど欲しい対価を持っている。完全同位体のオリジナルであるという対価を。今のシェリダンの設備でアッシュのデータを取り、フォミクリーが彼に与えた影響、ルークと彼の間にある不可思議な繋がりは、かの天才の知的好奇心をくすぐって止まないことだろう。
アッシュは先ほどまでの苛立ちを霧散させ、今は顎に手を当てて思案に耽っている。その姿は彼の容姿と相まってとても絵になる光景だ。
「……貴様の提案を受け入れるわけじゃないが、今は出直すことにしよう」
「それは助かります。もしあなたが確たる何かを掴んだのならば、再びこうして話をすることもあるかもしれませんね」
私の言葉に返答することなく、彼は部屋を後にした。
それを見送った私は、彼の足音が部屋から遠ざかっていったことを確認してようやく無意識のうちに総身に籠めていた力を大きなため息と共に抜き、椅子に深く身体を沈めて一息つくことが出来たのだった。