その後、商人としての本領を発揮したアスターとの交渉が始まり、今後のケセドニアとダアトの取引品目のすり合わせから隊商の護衛費用の比率、税率に至るまで、口頭レベルであるが今後の付き合い方について認識合わせが出来た。そんな交渉はもう少し準備を整えた状態で行いたいのだが、兵が常在戦場を心掛けるように、商人は常在商談の心構えがあるようで、一度スイッチの入ってしまった砂漠の主人との交渉は私の体力を根こそぎ奪っていったのだった。
「ふぅ……、来年も実りある商売が出来そうで何よりですな」
「ご満足頂けたようで……」
「お疲れですかな?」
「本格的な交渉をする準備をしてこなかったものですからね。護衛費用についてはかなりふんだくってくれましたね?」
「ケセドニアはダアトと異なり独自の戦力に乏しいものですから。聡明な大詠師殿のご理解が得られて何よりですな」
私の嫌みもどこ吹く風と言わんばかりに悪どい笑みを浮かべて見せるアスター。この男、本当に油断も隙もない。信頼を第一とする、義理人情の男であるのは確かなのだが、それとは別に強かな商人でもあるのだ。商談ともなれば1ガルドたりとも逃さないという勢いで掛かってくるのだから堪らない。
「ま、あくまで口頭レベルの確認に過ぎません。ダアトに戻った後に使いに書面を持たせますので、細部の詰めはそちらでお願いします」
「ええ、ええ、分かっていますとも。ですがこうして話の分かるトップが居ればかくも商談はスムーズに進むものなのですな。ダアトはてっきり頭の固い人間ばかりで商談など出来ないとばかり思っていましたが」
「ケセドニアと同じくダアトは自治区ですよ? こうした交渉事が出来なければやっていけませんとも。それに、これまでもダアトとケセドニアは商取引を続けてきたでしょうに」
アスターがしみじみと呟いた内容にツッコミを入れる。ケセドニアとダアトの付き合いは何も今になってから始まったものでは無い。ケセドニアが自治区となるにも、マルクトとキムラスカが交渉のテーブルにつく仲介をしたのがダアトだ。アスターが莫大な献金をダアトに行い、それに報いる形でケセドニアの自治権を認め、キムラスカとマルクトの国境上にありながら駐留する兵力を街の防衛に必要な最低限に収めさせた。導師イオンの威光とアスターの交渉術が合わさるとどれほど恐ろしいことになるかを如実に表れたのがこの街というわけだ。
「モース様が出張ってこられる前は散々稼がせて頂いたのですがね。ヒヒ」
「献金さえしておけばダアトが何でも許すと思われては後の人間が困りますからな」
「おお、怖い怖い。ですが、気の抜けない交渉こそ、商人が最も夢中になる娯楽。今後とも末永くお付き合いしたいものです」
アスターはそう言ってパンパンと手を叩き、使用人を呼ぶ。扉を開けて現れた使用人は、一本のワイン瓶と二つのグラスを乗せた銀の盆を携えていた。使用人からグラスを受け取ったアスターは、二つのグラスにワインを注ぐと、一方を私に差し出してくる。
「さ、小難しい話も終わったことですし、一息入れるのも良いでしょう。エンゲーブ産の上等な一本ですよ?」
「……頂きましょう」
差し出されたグラスを受け取り、アスターに合わせて一口含む。ケセドニアはすぐ隣にザオ砂漠が広がる暑く、乾燥した気候が特徴だ。それ故か、渡されたワインは良く冷やされており、喋り続けた喉を気持ちよく潤してくれた。だがワインの味をじっくりと楽しんでいることは出来ない。目の前の男は尚も目に油断ならない光を宿しているからだ。
「ところで、最近になってケセドニア周辺を騒がせている謎の
「ええ、恐らくはローレライ教団が
「でしょうな。それに加え、最近ダアトから罪人として捕えられていた詠師が逃げ出したとか?」
この男の情報網は一体どうなっているかと言いたくなる。詠師オーレルの脱獄は教団関係者でも限られた人物に留めていたはずだが。人の口に戸は立てられぬと言え、防諜体制を見直すべきかと思わされてしまう。
「商人の情報網は広く、そして深い。何より関係ない事柄すら結び付けて色々夢想してしまう悪癖が災いして突拍子も無いことを言ってしまったりするのですよ。ヒヒヒ」
つまりダアトに出入りする商人から細かな情報を集め、そこから推理した結果を話していると。この男を前にして隠し事をしようというのは甘い話だったのかもしれない。私はため息をつき、グラスをテーブルに置く。
「そこまで知っておられるのなら隠すまでもありませんな。十中八九、逃げ出した詠師も関わっているでしょう。既に聞き及んでいることかと思いますが、ヴァンとそれに付き従う者らの企みが動いているのは疑いようもありません」
「なるほど、街の警備兵に伝えておきましょう。とはいえ、ケセドニアは自由な言説を重んじる街故、ただ演説をしていたからと逮捕することは出来ませんが」
アスターは口髭を手でしごきながら言う。ただ彼が私の言葉を聞いて少しでも警戒してくれるのならばそれだけでも十分だ。私は席を立つとアスターに頭を下げる。
「それだけでも十分助かります。それと、ルーク達やアッシュがここを訪ねてくる事もあるでしょうが」
「ええ、分かっておりますとも。彼らの頼みには出来る限り応えましょう。こちらにとっても大きな得のある取引になることでしょうから」
彼らに便宜を取り計らうだけ、私に、ひいてはダアトに恩を売れる。そして私はその恩を高く買うことだろう。アスターの頭の中ではそんな算盤が弾かれているのだろう。もちろん、彼個人がルーク達を気に入っているということもあるだろうが。
「ええ、損は無いでしょうな」
「素晴らしい。自分だけ儲けるというのは商人としては失格。互いに利益を享受できて初めて取引というのは成立するものですからね」
そう言って私とアスターは互いに右手を差し出した。
「お出かけ、お出かけ」
「あんまりはしゃがないでよね」
今にもスキップを始めそうなアリエッタと、それを呆れたような目で諫めるフェム。
アスターの屋敷での交渉を終えた私は、この街の市民が着ている服を借り受けると、アリエッタとフェムを連れて市場へと繰り出していた。日頃から私に付き従ってくれているためにあまり遊びに出かける機会も無い二人を労おうと考えたためだ。
私の左を歩くフェムは常と変わらず周囲を気取られないように探っているが、右手側を行くアリエッタの方は久々のお出かけにご満悦のようだ。ここまで喜んでもらえると連れてきた甲斐もある。もちろん、私は服装を変え、目から下を布で覆って隠している。砂嵐に悩まされるケセドニアであれば、宙を舞う砂を吸ってしまわないように鼻と口をこうして保護するのは不自然ではない。アリエッタとフェムも常の服装から様相を変えている。二人とも腰から膝まではだぼっとしていながら、ふくらはぎから下は絞ったデザインとなっているズボンに、上は風通しの良いシャツに砂から身体を保護する皮のベスト。そして頭には日光を受けないためのターバンといった出で立ちだ。ターバンは二人の特徴的な髪色を隠す役割も果たしてくれており、普段の様子からかけ離れた服装と相まって私達が教団関係者であると気付く人間はそういないことだろう。
「ケセドニアはキムラスカとマルクト両国から物と人が集まる街ですからね、文化的にも興味深いところですよ。ザオ遺跡が近いことも相まって特に宝石商や古物商が土着の商売として発展してきた街ですね」
「だから露天商でも宝石やアクセサリー類が多いわけだね」
「キラキラ、綺麗……」
「おや、アリエッタもやはりそういったものに興味があるのですね」
露店に並ぶ宝石に目を輝かせているアリエッタを微笑ましい思いで見つめる。アニスはこうした光り物が大好きなのか、まさしく目の色を変えるのだが、アリエッタは今までそういった様子を見せることは無かった。それだけ彼女の情緒が育ってきたということなのかもしれない。アニスだけでなく、ナタリアやティアといった同年代の同性との付き合いが良い影響を与えているのは間違いないだろう。
「良さげなものがあれば是非教えてください。日頃のお礼にプレゼントしますから」
「あぅ、で、でも、どれも高い」
「この程度で困窮するほどではありませんよ」
躊躇するアリエッタの頭を撫でる。彼女の働きを考えればここで宝石の一つ二つ贈っても足りないくらいだ。給金もきちんと払っているが、それとは別に私からも感謝の気持ちとして何か贈ってやりたかった。
そう言ってアリエッタを優しく促してやると、それでも躊躇いがちではあったが彼女の指が露店に並ぶ商品の一つを指した。私はそれを手に取り、露天商に言われるがままの額を引き換えに手渡す。せっかくならば値切り交渉も体験してみたかったが、子どもへのプレゼントを目の前で値切るなどという行為をするのはあまりにも情けないので無しだ。
「アメジストがあしらわれたペンダントですか。少し赤みが強くてあなたの瞳の色に近いですね」
そう言いながら私はアリエッタの前に跪き、ペンダントを着けてやる。白い皮のベストの上ではあまり映えないかもしれないが、いつもの彼女の服装、黒いドレスならばこの宝石はもっと美しく輝くだろう。
アリエッタはしばらくぼうっと掌の上に乗せたペンダントを眺めると、私にはにかむような笑顔を見せてくれた。
「とっても綺麗。モース様、ありがとう!」
「これくらい安いものですとも。フェムもどうです?」
「遠慮しておくよ。僕は宝石をチャラチャラ身に付ける趣味は無いしね」
フェムにも話を振ってみるが、すげなく却下されてしまう。彼にもいい機会だから何か贈ってやりたかったが、それはまたの機会に取っておくしかないか。私達はそれからも暫く市場を歩き回り、時には屋台の食べ物などにも舌鼓を打ちながら、久々に味わうのどかな時間を満喫していた。
しかし、そんな時間はケセドニアの中央にある国境線をキムラスカ側に渡ったところで終わりを告げた。国境を跨るように建てられた酒場、そのキムラスカ側の入り口の程近くで、人だかりが出来ている。
「今、世界は障気に覆われ、腐ったローレライ教団は
民衆の中心から聞こえたその声に、私達三人の足は止まった。互いに視線を交わすと、民衆の隙間から声の主を目を凝らす。
「見えましたか、フィー」
「いや、アンはどう?」
「見えない……、ごめんなさい」
あらかじめ決めておいた偽名を呼ぶ。二人もすぐにそれに合わせてくれた。私は声に惹かれて集まっている人々の塊に近づき、何とか姿を見ようと試みた。おそらくオーレル本人ではない。だが、関係者の顔を押さえておくことは非常に重要だ。
「ユリアの
その言葉と共に群集が二つに割れ、中から教団の
「……アン、今の情報をすぐにアスターに伝えてください。その後、フレスベルグで上空から私達の監視を」
「うん、わかった」
「フィー、すみませんが、ついて来て頂けますか?」
「良いけど、まさか乗り込むつもり? 自分から敵の手中に飛び込んでいくのは認められないよ」
アリエッタは私の言葉を聞いてすぐにアスターの屋敷に向かって走り出し、フェムは私をじろりと睨みつける。だが、ここで退くわけにはいかない。これはある意味大きなチャンスでもあるのだ。
「あの
「だからって大将自ら乗り込む必要性は無いだろ。このことをルーク達に伝えればいい」
「ルーク達は今もアルビオールでどこを飛んでいるか分かりません。それでは彼らを逃してしまう。今、ここで動かなくては。それに、一人じゃなくあなたもいますし、いざというときはアンもいます。逃げるだけなら何とかなるのでは?」
「…………何を言っても諦めるつもりは無いんだろうね。ああ、もう分かったよ。でも、危ないと思ったら首根っこ引っ掴んで周りが海だろうと躊躇なく飛び込むからね?」
「ええ、構いません。行きましょう、敵の胃の中へ」