私は一体どうなったのだろう?
フォミクリー装置と自らを繋ぎ、体内に取り込んだ
ローレライの剣を掲げ、頭に響くローレライの声を無視していたのも。そしてその剣を誰かが横から掴んできた。
「っ!? ルーク、アッシュ!」
瞬間、記憶が呼び起こされ、私は微睡みの中にあった意識が急速に醒めていくのを感じた。そして無意識に身体を起こそうとし、全身に走る痛みに私がまだ生きてこの世にいることを認識したのだった。
「ぐっ、あ……。何故、私はまだ生きて……?」
横たわったまま周囲を見渡せば、目に入るのはあまりにも物が少ない簡素な部屋。ダアトのローレライ教団本部内にある私室だった。そしてそこで私の視界が半分塞がれていることにも気付く。右目はどうやら包帯に覆われてしまっているようだ。
ということは私はあの後、フェレス島からどうにかして連れ出されたのだろうか。だとしても、私が生きているのはおかしな話だ。あの時、私は疑似超振動を起こして音素乖離を起こしたはず。考えられるとすれば、アッシュやルークが私と共に超振動を発動し、その負荷を軽減したというもの。主体はあくまで私なのだから、ルークの容態は幾分かマシであるだろう。
と、そこまで考えたときに私は思わず痛みを忘れてしまうほどの衝撃に襲われた。マシ? マシとは一体何だ?
「思い、出せない……?」
私が音素乖離を覚悟してまで疑似超振動を発したのは、それによって防ぐことが出来る何かがあったはずだ。私はそれを目的としていたはずなのに、今はその内容がすっかり頭から抜け落ちてしまっている。それは私のあらゆる行動の原理となっていたはずだ。私の人格の基礎を成す何かであったはずだ。それを失ってしまった。
私は急に自分の身体から芯が抜け落ちたような心地となり、フワフワと頼りなく身体が宙に漂っていってしまいそうな感覚を覚えた。
「……何故、私はここまで自らの身を呈してルーク達を救おうとした? 私の原点は一体何だった?」
何とか思い出そうとしても、私の脳裏には何の情景も浮かばない。この胸に遺されたのは、莫大な罪悪感と自罰的な思考、そして使命感だった。何に代えても子ども達を守らねばならないという使命感だけが、私の痛む身体を起き上がらせようとする。
いくら集中しても湧き上がるのは吐き気を催すほどの自己嫌悪と自己否定。これまで私がしてきたことは覚えている。だというのに、その動機がすっぽりと消え去ってしまっているのだ。そのことに言葉にならない焦燥だけが募っていく。導師イオンと話をしたはずだ。ジェイドや、ディスト、ルーク達にも私が抱えていた何かを話した記憶は残っている。なのに、何故その内容を思い出すことが出来ない? 肝心な部分になると記憶に靄がかかり、それ以上鮮明に思い出すことが出来なくなってしまう。
「私の身に、何が起こったというのですか……」
両腕を目の前まで持ち上げてみれば、指先まで巻かれた包帯が私の容態を如実に物語ってくれている。私の身体は生きているとはいえ、素養を持たないまま行使した
「どうしたものか……」
諦めて腕を降ろし、目を閉じる。この胸中に渦巻く得体のしれない自己嫌悪が何なのか、私が私を価値無しと断ずるのは何故なのか。
「モース……?」
そのとき、私の耳に届いた小さな声に私は目を開いた。視線を巡らせてみると、いつの間に扉を開けたのか、導師イオンが部屋の入り口に立っていた。両手にたらいを抱えているところを見るに、私の看病をしに来てくれたのだろうか。目を見開いたまま枕元まで歩いてくるとサイドテーブルに持っていた物を置くと、両手で私の顔を左右から挟み込んで目を覗き込んできた。翠色が視界一杯に広がり、思わず身体を引きそうになるが、私は寝転がっていること、そして想定以上の導師イオンの力に私は身動きが取れない。
「あ、あの、導師イオン……?」
「モース……、生きて、いるのですね?」
その言葉と共に目の前の翠は見る見るうちに潤み、堪え切れなかった雫が幾筋もの流れとなって頬を伝っていく。
「本当に、良かった……。あなたがこのまま死んでしまったらどうしようかと」
「導師イオン……。泣かないでください。あなたに泣かれてしまうと、私はどうすれば良いか分からなくなってしまうのです」
そう言いながら包帯に覆われた手で彼の頬を流れる涙を拭う。拭えども拭えども、後から溢れてくる涙は止まる気配を見せることが無い。
「……一体、誰のせいでここまで泣いていると思っているのですか」
「私のせい、なのでしょうね。本当ならば、あなた達が来る前に全てを終わらせてしまうつもりでした」
私がそう言うと、導師イオンは表情を一層悲痛に歪ませて頬を撫でる私の手を握りしめた。
「そんなこと許しません。例えあなたがあなた自身を許さないとしても、僕達にはあなたが必要なんです」
「……あなた達はもう立派に歩んでいけますよ」
「だとしても、あなたがいなければ傷付くのに変わりは無いんです」
私は今までどうして彼らの言葉を正面から受け止めてこなかったのだろうか。今はもう失ってしまった何かがそれを許さなかったのだろうか。今ならば身に染みて理解出来る。ルーク達があそこまで必死になってくれた意味も、それを受け止めようとしなかった私の愚かさを。私が身を呈することでこの子達が傷つくことを分かっていながら、私は止まろうとしなかった、止まれなかった。どこか他人事のように見ていたのだ。私は私自身を第三者的にしか捉えられていなかった。だからこの子達の気持ちを知りながらこの身を粗末に扱えた。
「そうですね……。私は愚かでした」
「モース……?」
「あなた達に慕われていると知りながら、私はあなた達を傷つけてしまう選択肢しか採れなかった。許してくれ、とは言いません。今思い返しても、それが私にとって最善の道であったことに変わりは無いのですから。それでも、傷つけてしまったことは、謝らせてください。すみませんでした」
その時の導師イオンの顔を何と形容すべきだろう。驚きに目を瞠って、それでいてどこか怒ったような、だけども嬉しそうな顔で私を睨みつけていた。私はそれに苦笑を返すことしか出来ない。
「呆れた男でしょう? こういう愚か者なのですよ。死にかけて、ようやく自らの存在を強く感じるような鈍感な男なのです」
「もう……。本当に呆れた人です、あなたは。でも、そういうところがあなたらしいと僕は思いますよ」
私はもう軽々しく我が身を犠牲にすることは出来ないだろう。私はもう死への恐怖を知ってしまった。自分の身を投げ出してしまうことで、自分以上に傷つく人が沢山いることを実感してしまった。かつての私がしていたように、壁一枚隔てた感覚で自分を見つめることはもう私には出来なくなってしまった。
だけどそれで良いのだと思う。私は聖人になどなれない。どこからか湧き上がる自己嫌悪と罪悪感に苛まれ、私自身を殺めてしまいたいと思いながら、それでも私の近くにいるこの子達を第一に考えてしまう愚か者なのだから。そうなってしまったのだから。
私は、
「記憶を失った? それは結構なことですね」
私の事情を聞いたディストの第一声はそれだった。
「いえ、私としてはモヤモヤしたものが残るのであなたから私が失ってしまった記憶について教えて欲しいのですが」
「あんなもの聞かない方が良いんですよ。折角忘れられたんだから、そのままにしておきなさいな」
私の言葉を手をヒラヒラと振ってすげなく却下するディスト。これは取り付く島もない、というやつだろうか。
「それよりも、今はあなたの身体のことですよ。あなた、ちゃんと自覚してます?」
私がどうにか思い出せないものかとうんうんと唸っていると、私の眼前に人差し指を突き付けてディストが真剣な顔で問うてきた。とはいえ、私は自分が傷だらけなのだろうということしか分かっていないのだから首を左右に振るしか出来ない。
「なるほど、まあ包帯で覆っているんだから分かるはずもありませんか。今解きますからちょっと待ちなさい」
ディストはそう言うと私の頭に巻かれた包帯をクルクルと解いていく。
「私はあなたの右目に
包帯を解き終わってもその下に眼帯が隠れていたらしい。黒い革で出来た眼帯をディストがコツコツと叩く。
「今から包帯を外します。鏡を渡すから自分で確認なさい」
手鏡を渡された私は、それを顔の前で構える。それを見たディストが私の後頭部で結ばれた紐を解いて眼帯を取り外してくれる。ディストに脅かされた私は、ごくりと生唾を呑み込みながら、ゆっくりと瞼を開く。
「っ!? ……これは」
「本来ならば素養が無いあなたは譜眼で取り込んだ
鏡に映っていた私の右目は、何も処置をしていない左目とは全く異なる様相を呈していた。まず目を引くのは真っ赤に染まっていること。ジェイドも譜眼を起動しているときは両眼が赤く染まっているが、私のそれは彼とは一線を画していた。ジェイドの譜眼が瞳を赤く染めているだけに対し、私は右目全体が赤くなっていた。そしてそれ以上に印象的なのは、
「ローレライの宝珠……?」
「に、限りなく近い何かでしょうね。宝珠はルークがちゃんと持っていますから」
右目の中心には音叉の二又に分かれた部分を逆さまに配置したような紋様が入っていることだ。それはルークが持っているローレライの宝珠と同じ意匠であり、右目全体が赤く染まっていることも相まって小さなローレライの宝珠と言っても良い状態になっていた。
「私の身体に何が起こったというのですか……」
「私にも良く分かりませんよ。言えることはあなたの右目が
ディストがお手上げだと言わんばかりに肩を竦めているが、私にも何が何やら理解が出来ない状態だ。とはいえ、ディストが分からないと言っている以上私に理解出来ることなど何もないだろう。だとすれば今はこの状態でも私に悪影響が無いというディストの言葉を信じるくらいしかやることが無い。
「分からないのは不気味ですが、あなたが大丈夫というのならば安心ですね」
「おっと、えらく信用されたものですね、私も」
「人を見る目はこれでも養われてきたつもりですから。面白い研究材料をあなたが易々と手放したりはしないでしょう?」
「自分の身体をそう言ってしまうのは悪人だと自虐していたときの癖ですか? まあ、間違っちゃいませんがね」
そう言うと私とディストは互いにくつくつと静かな笑いを零したのだった。