つい先日のことだ。
珍しく悪友二人と休日が重なり、なんぞ楽しく過ごそうかなどと計画を練ってはみたものの優柔不断・妄想癖・出不精・そして治らない五月病という難儀な性質に憑かれている我々には小学生の夏休み計画表ですら作成可能か怪しいありさまで、いつものごとく的を射ない議論を交わした末にいつものごとく般若湯をすることとなった。皆若干の不満はあっても酒が飲めるという一点においては十分に満足していた。
こうしたことは我々の間では良くあることであり、通例として店には出ず誰かの家に押しかける事になる。どこで飲むかは持ち回りで、生憎というべきか今回は私、逆島満の棲家が酔っぱらいによって荒らされる事となった。
そういう訳で、嵐が過ぎた後の片付けを憂鬱に思いつつも三つの嵐のうちの一つとして振る舞うことを欠片も躊躇したりはしなかった。遊ぶ時は遊ぶ。私は切り替えの出来る男なのだ。
それがどうした訳か我々三人は悲劇的なほど家を荒らすことなく、まだ見ぬ幻想を追って家を出ようとしていた。言うまでもなく酔眼である。
どうしてこうなった。
近況報告と言う名の愚痴り合いを終えた我々は、好き勝手に転がりながらネットの海に溺れたり、マンガを読んだり、タバコをふかしたり、それでも酒からは手を離さないままぼんやりと時が流れるに身を任せていた。
こうして若い時間が無為に過ぎていく心苦しさと諦めが同居したまま停滞し発酵しきった私は、特に何の感慨もなく今日はこのまま終わるという気配を感じていた。
「そうだ先輩」
「なんだ弓削、便所なら玄関の右だ。ちゃんと歩けるか?」
「幸い催してはいません。そうではなくてですね。日傘の美人を探しにちょっと外へ出てみませんか?」
意味がわからない。
立ち上がって弓削がいじっていたパソコンを覗きこむ。よくあるまとめサイトを見ていたらしい。相変わらず感化されやすい男だ。
「馬鹿な。梅雨明けの猛暑日だぞ? まだカルカッソンヌに行っていない」
「死にはしませんよ。ねえ、井崎先輩」
「わからんぞ。会社の検診で俺は血圧が高すぎると言われたばかりだ」
不安そうな声がベッドから返ってくる。私はこいつらが帰ったらシーツを洗おうと決心した。
井崎はこの三年でだいぶ太った。本人はストレス太りだと公言しているが、元々不摂生な生活を送っていた井崎である。若さがビールに負けたのは誰の眼にも明らかだった。
「その時はその時ですよ。生きててもしょうもないでしょう、先輩は」
「お前は真顔で毒を吐くな。しかし本気か?」
「だってときめくじゃないですか。日傘美人。いい響きですよ?」
「それで今度は何に影響されて、どんな妄想を練ったんだ?」
井崎も分かっている。弓削というのはそういう男なのだ。
「そこは要点ではないでしょう。ここで腐っているよりはよさそうだと思うのですが」
「ふむ。良い議題が見つかったな」
「やるか?」
「やりましょう」
「んでは、議事進行俺で、議題はこのクソ暑い中日傘美人を探しに出掛けることの意義について。ということで」
「おーけー」
我々の休みは平常運転だ。
「まずは日傘美人の定義から行うべきだろう。日傘をさしている。これは最低条件と思うがどうか?」
「僕はささなくともいいと思いますが。傘を前に提げてゆっくり振り向く着物美人の姿が脳裏に浮かぶようだ」
恍惚とした表情で空を見上げる弓削。私はそこに憧憬を見たが、まあどうでもいい。
「おい弓削、お前の妄想はもう咎める気はないんだが、その主体はどこにある? お前が見たのは着物美人が傘を持っている様であって、日傘美人ではないのではないか?」
「…………わかり、ません。ただどうしようもなく、美人でした」
感動しているようだ。
「おい、弓削、おい!」
「だめだ、しばらくこっちには帰ってこない。放っておけ。ここでは一応日傘をさしているモノとして議論を進めよう」
「異論はないな。しかし美人というのは人の感性によるものだ。美醜を明確に定義するのは難しいぞ」
「うむ。だが、我々は美人と誰かが言えば、他人の感性を通しての美人にも関わらず一定の期待を持つではないか」
「それは他人の感性に対して一定の信頼をおいているからに他ならない。一般化されているようで、その他人の感性を知っている気になっているという前提条件が存在しているのだ。真実重なり合う部分はあるかもしれないが、仮定として置くにはいささか不確定すぎはしないだろうか?」
「ぬぅ。しかしだな…………」
酔っ払いだけに論旨が定まっていない。
自覚しつつ気にしないのが我々の流儀である。
「…………ふぅ」
やけにすっきりした顔で弓削が現世に復帰した。
「おかえり弓削。話は聞いていたか?」
「朧気ながら、ですが。いっそ美人の範囲を狭めればいいではないですか」
「というと?」
「先程の妄想の中で結局美人は傘を投げ捨て僕の手を取ってにっこりと微笑んでくれたわけですが、この段階で彼女と日傘はもう別のものですよね? それでは日傘美人では意味が無い。ただの美人です」
「……やっぱお前、その妄想癖なおした方がいいわ。ほんと」
「それには同意だが弓削が言うのは一理あるな。日傘という道具を付随させるのだから、日傘が似合っていなければならない。強い日差しに倒れてしまいそうなほどたおやかな微笑みが傘の下から覗くのを期待しているのに、そこにいるのがキャバ嬢では意味が無い、ということだろう?」
「ぬ、お前はそんな日傘美人を期待していたのか。俺はもっとこう真っ白い現実離れした何かをだな」
「逆島は口下手だからな。なんとなくは想像できるが」
「…………僕の妄想癖をどうこう言える立場じゃないですよね、先輩たちは」
その通り。でなければつるんだりはしない。というかできない。
「うん、まあ」
「それはおいておけ。しかしこれは一つの収穫だぞ?」
ベッドから身を乗り出しながら井崎が息巻く。
「ほう、どこがだ?」
「元の議題を思い出せ。日傘美人に対するイメージがこれだけ違うわけだが、どのイメージも日傘美人に相当するのは認めるところだろう?」
「ええ」「そうかもしれんな」
「つまり我々は日傘美人というジャンルに対する視野を拡張するチャンスを得たとも言える」
「つまりお前は日傘美人を探索し、そこに当てはまる新たな美を発見することによって、我々が人間的にレベルアップすることを期待できると、そう言っているわけだ」
「概ねその通りだ。どう思うね?」
「…………頭から否定することは難しいだろうな」
正確には酒が回って考えるのが億劫になりつつある。
「ふむ。弓削、お前は?」
「出かける提案をしたのは僕ですから反対はしませんけど、そんなことで経験値を稼げるってこれまで先輩方は何をしてたんですか?」
「言うな。死にたくなる」
とにかく方針は定まったようだ。
「ところで私は眠いのだが」
「知らん。生憎とベッドは俺の汗まみれだぞ」
「くそう。床で寝るからいい」
こいつら本気で出かけるらしい。
「おい、本当に行くのか?」
半ば諦念と共にもう一度私は傍らの二人へと問いかけていた。
「当然だ。毎年当たりもしない宝くじを買い、当選番号の発表日に欝で塞ぐ君らしくもない台詞だな」
人を馬鹿にしたような顔で井崎が私を挑発する。大学以来の腐れ縁とはいえよくよくこの男は私を知り抜いている。宝くじの件も私は誰かに明かしたことなどないのだ。まったくもって忌々しい。
「宝くじは当たらぬかもしれぬが、当たったらどうしよう。という妄想を買う物だ。だがこの件は期待が優っている様に思える。そもそも議論に穴がありすぎるではないか」
時間稼ぎに過ぎぬ。この男の舌鋒の鋭さを持ってすれば、あっさりと覆されてしまうに違いない。上げ足取りがうまいだけ、とも言う。
そもそもつい五分前までは私も賛同していたのだから尚更である。まして、論旨替えが酔いのまわりによる眠気で、このクソ暑い梅雨明けの昼下がりに好き好んで外に出る蒙昧さを自覚してしまった事によるものだと自白するのも妙に癪だった。
つまり私はまだ酔っ払っていたのだろう。
「思考実験で穴が埋めきれぬ故に、こうしてサンプルを取りに出かけるのだよ、逆島」
ネクタイを結ぶのに手間取っているために格好はついていない。ネクタイは私の物で、シャツも下ろしたての私の物なのでなお悪い。すでに汗かきな井崎によってシャツはぐっしょりと濡らされている。私はシャツをこのまま井崎に進呈しようと心に決めた。
井崎はその気になっている。阿呆のその気を止めるのはひどく困難で、生来の怠惰な性格と暑気中り、さらに体に回った酒精がその選択肢を拒絶した。
仕方がないので最後の頼みの綱へと視線を投げる。私の意図を察してやや遠慮がちな印象の美形が困ったように顔を歪めた。
「弓削、お前はどう思っているんだ?」
「酒気散らしの散歩だと思えば悪くありませんよ、先輩。犬も歩けば棒に当たるといいますし」
そしてやはりというべきか、最後の頼みの綱は人好きのする笑顔でそう答えるのだった。
社会的弱者の風情を垂れ流す私と井崎の二人とは対極的に、この一つ年下の青年は社会というカオスの中をすいすいと泳ぐ生粋の天才である。在学中に私達に出会うことさえなければその好青年なみてくれと腹の中に潜む黒い獣で世を謳歌していたことは間違いないだろう。
その才能にいち早く気がついた私達は、この青年が世に解き放たれる事で生じる社会的不利益をいち早く察知し、その才を飼い殺しにすることに腐心した。青年の方もひねくれた事ばかり言って思うようにならない先輩に興味が湧いたのか私たちにつきまとうようになり、今ではこの有様である。
「そんなことを言って、お前は井崎に酒を買わせる気だろう」
一応井崎には聞こえぬよう声を落としたが、当の井崎は鼻歌交じりにネットでネクタイの結び方を調べている。スーツを着る仕事をしていないというのはあると思うが、就職活動に悲鳴を上げていた時期から僅かに三年しか経っていない。井崎の姿はそこはかとなく涙を誘った。
「おや、バレましたか。機嫌がいい時の井崎先輩は財布の紐がゆるいですからね。この家のはあらかた飲んでしまいましたし」
ちらりと弓削はクローゼットを見やった。
そこには私が秘蔵する酒類が隠してあり、もちろんこの場に提供する気などないのだが、見つかってしまえば飲まれるのは必至。
弓削が分かってやっているのかは怪しいが、ここは乗るしかあるまい。
どのみち飲める酒は残っていないのだ。
「で、お前は幾許かは期待しているのか?」
「どうでしょうね。居たらそれはそれで。しかし井崎さんではまず芽はありません」
ひどい言い草だがそれには同意する。
「しかし自分なら芽はあるとでも言いたげだな」
「無いとでも?」
弓削の微笑が性質を変える。そう、この男は美形なのだ。忌々しい。
「だがお前は尽く破局しているだろう。その妄想癖だけは俺達の手にさえ負えなかったからな」
「それは違いますよ。あちらから嫌ってくれれば後腐れが無いというだけの話です」
欠片の欺瞞もなく弓削はそう言い切った。つい先日弓削が彼女に振られたと欝に浸っていたのは記憶に新しい。だがこの男の顔面は笑顔の鉄面で出来ている。真意は測りがたい。
「………………負け惜しみか?」
だから、少しだけ逡巡して問うてみた。
「…………せっかくの休日にあまりいじめないでくださいよ」
ここで捨てられた子犬のような顔をするのだから世のお姉さま方はイチコロだろう。頭を小突いてやるとケケケケと頭の悪そうな笑い方をしながら、弓削はビールを煽った。
「こらお前たち。いつまでじゃれている。早く行くぞ」
いつの間にか井崎は玄関に立って、ドアを開けている。
生ぬるい風が入り込んできた。眩しい。
「うひゃあ、すごい日差しですね」
「梅雨明けだから湿気もひどい」
「ふはは、夏の気配がするぞお!」
酔っ払いが三人して口々に好き勝手なことを言いながら炎天下に踊り出る。近隣住民の視線が怖い。今日は平日なのだ。
「いざ往かん。日傘美人を求める旅に!」
「おー」「あ、携帯忘れた」
何かに憑かれたかのように大きく腕を振り上げた井崎の号令にいい加減に答えつつ、我々は家を踏み出した。
もちろん行く先は近所のドラッグストア。
理由は新たな酒を買いに行く。ただそれだけである。
日傘美人? いるわけないじゃない。今日は平日ですよ。
「ママー、あの人達なにー?」
「しっ、見ちゃいけません!」
昨今の世間は不審者に厳しい。不用意な外出は避け、外出がやむを得ない場合は身嗜みと言動に注意しよう。
酔っ払いのぐだぐだ感と先行き不安な若者達の怠惰と諦観。今が楽しければそれでいいじゃないという享楽主義に活動力の無さが書けていれば満足です。