アテナ神殿の教皇の間から少し離れた別室。
教皇の執務室であり上級の神官や秘書官、そして時折黄金聖闘士が出入りする。
任務の任命や報告は教皇の間で行われるが、より詳細な状況報告や十二宮の運営に関わる相談などをこの執務室で行うことがある。
そして深夜。この巨石で作られた神殿には衛兵もおらず、紙に羽筆を走らせる教皇の執務の音だけが響く。
教皇はこの10年あまりで人との接触を少なくしていた。
この聖域による忍び込む者など皆無でさらには教皇の間までたどり着く者などいない。
仮面と兜をつけ誰しもその素顔を知らない。
立派な体格は立姿からでも見て取れ、伝説の前聖戦の生き残りという噂も納得させられる。
「よう、教皇様」
執務室の部屋の隅。ランプの明かりも届かぬ影から現れたのはネクタイを外した格好の男。
逆立てた灰色の髪と胡乱な眼をした青年。19歳になったばかりだ。
蟹座のデスマスクである。
教皇はデスマスクの登場に目をやらない。
「どうした」
機械的とも思わせるその声音。だが普段では決してすることのない口調である。
「いやね、あんたの耳に入れておきたいことがあってね」
「聞こう」
「前から話していた白銀の中に手駒を持つ話だが良いのが見つかった」
デスマスクは部屋の中を見渡して一切椅子が無いことに嘆息した。
「ほう」
返事は短い。だが、デスマスクはこの教皇が自分に対して短い会話しかしないことを承知している。
10年前に謁見した教皇とは違う圧力、何かがあった。
それを承知しておきながらデスマスクは教皇との距離を縮めた。
この数年におけるギリシャ聖域は世界の各国の秘密裏の影響力を今までに無く高めていた。
その手腕は評価どころか尊敬に値する。
「最近白銀になった日本人のガキ」
「オリオン座の源十郎。それが」
「ああ、あの態度を見るに俺と同類だな」
現世利益重視。
強力な組織による現実的な「地上の愛と平和」の維持。
そして、神々による地上侵攻を防ぐのは伝説の女神の化身ではなく、厳然と存在する強固な組織。
そういった認識を持つとみなしたのだ。
★
「旦那、あっち」
17歳とは思えぬ体格の源十郎。
大柄とも言えるデスマスクと並んでも、さほど違和感がない。
日本人にしてはデカいな、とデスマスクも3年前の初対面時に思った。
場所はアメリカ中部。目的は「聖域出身の男が起こしたカルト教団の殲滅」である。
俗世では小宇宙は超能力である。
小宇宙を燃やすことによる宗教的な奇跡の再現。
一歩間違えなくともあっさりと多くの人間の信心を集めることが可能だ。
だが俗世には秘匿すべきアテナの闘法を神々の闘争を知らぬ人々に見せつけたのだ。
聖域としては抹殺すべき行為である。
夜の車道を100km/hを超える速さで突き進む。
助手席にいる源十郎は脇に見えた「この先、左右に道が分かれる」を示した記号標識を確認し、左側を指さした。
この任務でデスマスクが指名したのは「こっち側」のオリオン座の源十郎だった。
聖闘士としては通常の任務から外れる任務になる。
場合によっては民間人の処理も含まれ普通の聖闘士にやらせると今後使いものにならなくなる、とデスマスクは思っている。
そして以前に似たような任務に同行した白銀聖闘士は、任務以降は俗世に関わる任務を避けることとなった。
だがこの源十郎は、汚れ任務は4回目で特に動揺した様子はない。
(前回はマフィア。その前は日本の政治家。最初は…中南米のあれか)
戦力的には十二分だがそれ以上にデスマスクは源十郎の現世利益重視の態度が嫌いではなかった。
勿論、アテナの聖闘士としての忠誠は疑っていないが他の聖闘士よりもこの源十郎の気質は気楽だ。
「あとどのくらいだ」
手元のハンバーガーを齧りつきながらデスマスクは片手でハンドルを左に切る。
「このまま1時間も飛ばせば」
「なんだよ、遠いな」
「誰かがアメ車転がしたいって言ったからだよ」
デスマスクは「悪かったな」の意味を込めて食べ終わったハンバーガーの包み紙を片手でクシャと握りつぶし、源十郎の頭に投げた。
最初は聖闘士お得意の「走っていく」という選択肢もあったが、レンタカー屋の前を通ったときデスマスクと源十郎は「どうせ経費で落ちる」の精神で一秒たりとも逡巡せず、レンタカー屋の自動ドアをくぐった。
最初店員はラフなスーツ姿のデスマスクと、MA1にTシャツ、ジーパンの源十郎をギャングの兄弟分だと思った。
アメ車かスポーツカーかで3分ほど言い争いになったが最後は「黄金聖闘士の判断」で押し切った。
他の聖闘士であれば「聖域の判断」や「目立つのは避けよう」と否定的な提案をしてくるが、源十郎にはそう言ったことも無く、デスマスクとしては付き合いやすい相手でもある。
「そういやお前、今度故郷に戻った時にまたワイン買ってこいよ」
「めんどくさ。こないだ市街の酒の問屋紹介したじゃん」
「チリ産のヤツ飲みたいんだよ。あそこは無いんだよ。よろしくな」
「酒ばっか。もう少し他にないの?」
「はぁ、女無理なんだから酒しかないだろ」
「旦那、変なところで潔癖だな」
「いいんだよ、酒がいいんだよ」
最後不機嫌に舌打ちしたデスマスク。
源十郎はそんなデスマスクを見て笑っている。
年齢は5歳ほど離れているが、会話のしやすさは同年代と同じだ。
デスマスクが気軽に話す相手は聖域、いや聖闘士の中でも少数だ。
聖域では魚座のアフロディーテくらいだ。
宮の距離が近いこともあり牡牛座のアルデバランとも話すが世間話以上の会話はない。
聖域は息が詰まる。
それがデスマスクの聖域への悪印象で、実際保守派を気取らねば自由にもいられない。
だがこのオリオン座の聖闘士と一歩聖域外に出れば20代前半の若者としての自分でいられる。
そんなことを酒の席でアフロディーテに言ったら笑われた。
デスマスクは悪くない気持ちだった。
★
任務は一瞬だった。
教祖を気取った男は一撃で絶命し、その教祖の仇を取ろうとした数名の狂信者も一瞬でデスマスクにより魂をもぎ取られた。
カルト教団の周辺は源十郎の小宇宙の技で静寂が保たれており、惨劇の悲鳴は一切建物の外には漏れてはいない。
「旦那、終わった?」
「おう」
デスマスクは面倒そうに返事をした。
デスマスクとコンビを組む源十郎はこの22歳の青年が汚れ仕事をした後、数分だけ口少なになるのを見てきた。
(意外とナイーブなんだよな)
「とっとと帰ろうぜ。腹減った」
何事もなかったように源十郎はデスマスクを急かす様に言った。
殺人について源十郎は罪悪感が希薄だった。
それは彼の守護星座オリオンに関わるある種の呪いが要因でもあり、また転生者として「物語の中での実在」がないことによる奇妙なものだった。
このことは誰も知らないし、知らないからこそ源十郎はアテナの聖闘士として異端であることを隠せていた。
「まったく、独立して教祖様になった結果が負け犬になるとはな」
デスマスクは殺した相手について悪態をつくことがある。特に任務が終わった直後は。
「そうそう、聖域っていうデカい船に乗っておかないと」
相づちを打つ源十郎はこの悪態はある種の自己弁護だと思っていた。
「お前も土産の輸入は上手くやれよ。掟破った奴を誅殺してチリワイン飲めなくなるのは困る」
「ご安心を。勝ち馬に乗るのもある種の才能ってね。あとチリワインは自分で買えや」
2人ともアメ車に乗り込む。
教皇の便利な道具であれば聖域への俗世のアレコレも容認されるし、さらには暗黙の権力もついてくる。
デスマスクは少しは源十郎を思っての発言だったが、これが青銅聖闘士を引き連れたアテナを名乗る少女の一件で自分を助けるとは思わなかった。
何がどう転ぶかわからない。