窓の隙間から入ってきた夜風が、そっと私の頬を撫ぜた。
いつの間にか寝入ってしまっていたらしい。
歳を取るごとに夜更かしのできない身体になってきているようだ。
学生の頃は、コーヒーを一杯飲んだだけで夜通し起きている事だってできたのに。
すっかり冷え切ってしまった飲みさしのコーヒーを一気に煽る。
勢いのままブラックブラックガムを数粒口に含んだ。
強烈な苦みが味蕾と眠気を吹き飛ばしてくれるような気がした。
今日は、どうしても眠るわけにいかない。
なんとしてでも終わらせなければならない依頼があるのだ。
とあるベンチャー企業からの、社員募集のためのイラストを描いてほしいとの依頼である。
クラウドソーシングでコツコツと実績を上げ、ポートフォリオを充実させ、ようやく舞い込んできた企業案件。
自分から依頼をもぎ取りに行く事しかできなかった私がクライアント側に指名されるというのは、本当にこれが始めての事だった。
向こうは今までの作品を見て私を選んでくれたのだから、きっと今までと変わらないクオリティのものを納品したとしても満足してもらえるだろう。
けれど、今までのどの依頼より特別なこのイラストにかける制作意欲は、当然ながら今までのどの依頼より強いわけで。
大ラフ、ラフ、線画…時には完全に塗り終わった完成品すら没にして、私は完璧な出来を目指すべく黙々と液タブとにらめっこをしていたのだ。
結果、納期ギリギリの前日にまた一からやり直しというこの体たらく。
コーヒーを片手に粘り、なんとか下塗りまで仕上げ、少し休憩を挟んだ隙に寝てしまったというわけだ。
我ながら呆れてしまう。
「さあ、仕上げてしまおう」と肩を回し、ペンを手に取ったところで、傍らに置いてあったiPhoneから軽快な着信音が鳴った。
いつもは着信音が出ないようバイブレーションのみの設定にしているのだが、絵を描いていると熱中するあまり重要な業務用メールを見逃してしまう事が多々あるため、作業に取り掛かる際には着信音が出るように設定を切り替えている。
なんとなく誰からの通知であるかは予想できたが、取り敢えず確認だけしておこうと画面を覗き込んだ。
「…んんん?」
恥ずかしながら、私には付き合って半年になる恋人がいる。
彼は最近私と頻繁に連絡を取りたがり、仕事中でもお構いなしに電話をほいほいかけてくるようになった。そんな彼に少し辟易しつつも、やはり惚れた弱みとでもいうのか、愛しく思ってしまう私もいる。
そして、予想通りその通知は彼からのLINEだった。
しかし。
いつもとはあまりにも違った攻撃的な文面に、私は起き抜けの頭がさーっと冷えていくのを感じた。
『マジでキモイんだがw』という荒い口調の一文で始まるメッセージは、長すぎる故か途中から『…』の表示に切り替わっている。
彼はいつも短文を沢山送るタイプなので、通知に収まりきらないほど長いメッセージは初めて見たような気がする。
それに、ざっと見た冒頭の部分だけでも誰かに対する強烈な悪意が感じ取れた。
その「誰か」とは誰なのか。
―――ほとんど確信に近い予感が、私の頭の中でけたたましく警鐘を鳴らした。
「通知を開く」をタップしようとしたが、はっと思いとどまった。
ホームボタンを押すと、指紋認証を設定しているおかげですんなりとホーム画面が表示される。
壁紙は頬にクリームを付けたままパンケーキをほおばる彼の姿。
緑色のアイコンをタップした指は、ほんの少し震えていた。
一番上に固定してある男女のツーショット写真のアイコンを長押しし、既読をつけないまま彼からのメッセージを見た。
息が詰まる、というのは、まさにこの事なのだと思った。
『マジでキモイんだがw最近羽振りよくなってきたからこっちも優しくしてやってたんだけどさ、なんか調子乗って遠まわしに結婚願望ありますアピールしてくんの。友達が来月結婚するだのウェディングドレス見ると夢が膨らむだの。本命でもないただの金ヅルが何ほざいてんのって感じw』
全て読み終えた後に感じたのは、怒りでも悲しみでもなく、驚きと感心だった。
ああ、この人、まともな文章打てるんじゃない。
なんだ、今まで合わせて絵文字ばっか使ってたのがバカみたい。
どこかで見かけた「自分と似た文面の相手には好意を抱きやすい」という本当か嘘かもわからない情報を信じ込み、彼に気に入られようと必死になっていた自分が、地球の反対側の知らないひとのように感じられた。
再び通知音が大きく響き、画面にも新しいメッセージが表示される。
『ってかユリはぶっちゃけどうなの?』
逡巡しているような間。程なくして、また新しいメッセージ。
『俺の事、どういう風に見てる?つまり』
―――本命として見てくれてるのかなって。
終わってしまったのだ。完全に。完膚なきまでに。
激情にも似た理性的な囁きが、私の脳髄を埋め尽くした。
その状態の画面で電源ボタンとホームボタンを同時に押し、スクリーンショットを保存する。
そっとホームボタンを押し、歯車のアイコンをタップし、ホーム画面を白い無地に変更した。
そのまま電源ボタンを強く長く押し込み、画面上部の表示に従って指を横に滑らせた。
何事も無かったかのように液晶タブレットに向き直る。
もう残渣しか残っていないコーヒーカップを口元で浅く傾け、静かに息をついた。
四時を過ぎた頃、ようやくイラストは完成した。
納得のいく出来だ。我ながらキャッチ―な作品を描く事ができたと思う。
彩度や輝度を調整し、レンズぼかしなどで細かな調整を行い、クライアントに画像ファイルを添付したメールを送ろうとしたちょうどその時。
なぜかはわからない。
ただ、そうしなければいけない気がしたので、私はiPhoneの電源ボタンをそっと長く押した。
真っ白な欠けたリンゴのマークが画面の中央で明るく輝く。
程なくして、私の指は再び緑のアイコンをタップしていた。震えはない。
やはりというか、彼は例のメッセージを全て送信取り消ししていた。
『ごめん、気にしないで 』
というさっきとは別人のように頭の弱いメッセージが送られてきている。
指が自我を持ったかのようにひとりでにトーク画面を開き、先ほどのスクリーンショットを送信していた。
右上の三本線をタップし、ブロックを押す。
トーク画面は当然消した。
友達によると、こういうのを「ブロ消し」というのだそうだ。
実践する事はないと思っていたが、まさか結婚まで想定していた相手に使う事になるとは思ってもみなかった。
貴重な体験をさせてもらったな、と他人事のように思う。
もう一度コーヒーカップを煽ったが、今度は僅かに塩の味がしただけだった。
画像ファイルは完成したが没にしてしまった以前のものに差し替えた。
クライアントはご満悦の様子で、「予想以上に素晴らしい仕事をしてくれた」と通常の依頼料にすこし色を付けた金額を頂く事ができた。
私のイラストを付けて新入社員を募集したところ、以前よりも面接に来る人数は増えたらしい。
ありがたい話に、高単価な案件の依頼も定期的に舞い込んでくるようになった。
充実した生活を送れている、と思う。
―――あの夜、無理をして描き上げたイラストは、もうどこにも残っていない。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
尚この話は完全にフィクションです。