神に間違えて殺られた俺達が生き残る為に頑張って歴史を変えるようです? 作:soryu_tayhoone
ついでに11月は土曜日全滅したし...
まぁYouTubeとかで資料を漁りながらってのもあるからね
定時で帰りたい...
ロシア旅順艦隊との海戦から一夜明けた翌日、港の封鎖と艦隊の無力化の両方を達成し、後顧の憂いを絶つ事の出来た日本軍は六万八千人の仁川上陸部隊を乗せた輸送船団を伴う艦隊と合流した聯合艦隊とで仁川に向かった。
然し、仁川港にはロシア艦以外にも
その為彼らが戦闘に巻き込まれたり、誤射を防ぐ為に湾外へ避難するように通達し、また仁川に停泊していたロシア艦も数が僅か7隻と少なく、これ以上の戦闘によって双方に犠牲を出すのは最早無意味であるのでロシア艦隊にもその旨を通達し、ロシア側はこれを受諾。
そしてこれを受けた各国の船舶は避難を開始した。だが最後に出て来たロシア艦隊は突如として日本海軍へと発砲した為に仕方なく日本側も応戦、結果として仁川にいたロシアの艦隊は7隻全艦が沈没、日本海軍側も被弾によって若干の死者が出てしまったが、これによってロシア側の仁川にいた防衛戦力はほぼ壊滅したため日本軍は何ら抵抗を受ける事もなく上陸でき、そのまま橋頭堡を確保する事に成功し、仁川を陸海軍の補給基地として利用、その後も続々と部隊が上陸し総勢十三万人の陸軍が集結、更に海軍も艦隊の増派を決定し此方も戦力を大幅に強化したのである。
そして今回の両海戦によって極東方面のロシア海軍は直ぐに稼働出来る大型艦艇の殆どを失った(とは言うものの今だウラジオ艦隊などはまだ無傷であるが)為、一時的ではあるが事実上壊滅し、これによって日本海軍が制海権を握った為、陸軍は先ずはロシア軍が守っている遼東半島を奪取すべく海軍支援のもと次の目的地である南山や遼陽へと向かっていった。
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所変わって鴨緑江では
彼らは海軍が日本相手に負けた挙句に港が完膚なき迄に叩かれ、封鎖されたことは既に連絡を受けていたが、夜襲であったため日本は戦力が此方よりも少ないから準備が整う前に奇襲したから負けたに違いないと思っていた。そして色々と手間や準備のかかる海軍と違い、
だが彼らの相手は陸軍だけでは無いと直ぐに知る事となる。
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ーー鴨緑江付近
ロシア軍が着々と迎撃態勢を整えている一方で日本軍は海軍が陸軍の支援として鴨緑江の入り口から侵入、海軍が艦砲射撃で後方の敵を砲撃、それと同時に陸軍も前方の敵を野砲等で砲撃、その隙に先に騎兵隊を渡河させ、騎兵隊による機動攻撃をしつつ撃ち漏らした敵兵を歩兵が最後に仕留める手筈であった。
そして今、鴨緑江には本来であれば此処に居る筈の無い、いや、来れる筈の無い八つの巨大な艦影達が陸軍を支援すべく更に奥深くへと突き進もうとしていた。
ーー日本海軍鴨緑江支援艦隊
旗艦 戦艦
司令官「はてさて... まさか彼方さんも戦艦が来るとは微塵も思ってないだろうねぇ。 彼等には少し同情するよ。 なぁ参謀長」
参謀長「そうですねぇ。 今だに自分も航行可能だというのが信じられないですし...」
「ですが何も八隻全て戦艦にしなくても良かったのでは?」
司令官「まぁまぁ、こういうのは如何に此方の損害を少なく、そして相手に大打撃を与えるかが大事だからね、あと威圧感も増すからね」
「戦艦ならば野砲等では装甲を抜かれ無いが此方の砲撃は彼方さんには有効だろう? そうなれば脅威度的に恐らく我らを優先的に狙うだろうから渡河中は完全に無防備になってしまう陸さんを援護出来るだろうからね。 まぁ、後部主砲が使えんのが残念だが、、そこは副砲で補助するしかないね」
参謀長「なるほど... ですが戦艦だけ何てよく許可されましたね」
司令官「んー、何か勢いで行けた」
参謀長「えぇ...」
などと呑気に会話をしつつも警戒を怠る事無く着々と進んで行った。
そして日本海軍が鴨緑江に現れるのをロシア側の見張りをしていた歩哨が発見したと言う有り得ない報告が入ると、ロシア軍の指揮官や参謀達は「見張りは何を言ってんだ?」と思っていたがその後も相次いで同じ報告が入るので確認すると、本来ならばここに来れない筈の戦艦達が確かに遠くから黒煙を棚引かせながら堂々と単縦陣で迫ってきていたのである。それを見た彼等は面食らった様子で慌てて野砲や榴弾砲の準備を始め、射程に入り次第砲撃するつもりであった。だが、日本海軍はロシア軍の思惑とは裏腹にロシア軍の砲の射程よりも遥かに長い5
何故この様な長距離砲撃が可能なのか? というのも日本軍はロケット推進を利用した砲弾を開発、採用した為、装薬の爆発力による推進力とロケット砲弾による更なる推進力によって射程が最大仰角以上まで延ばす事が出来たのだ。更に砲身内部にも
そして日本海軍がここに来れた理由としては単純明快で注排水装置によって艦内にあったバラスト水の殆どを出して水面付近まで船底を近づけた事によって水深が浅い場所でも航行を可能にしただけである。
更に海軍の艦砲射撃に続くように今度は日本陸軍も当たり前の様に射程外から砲撃を開始し、ロシア軍は自軍の後方からは艦砲射撃が雨霰の如く降り注ぎ、そして前方からは川向こうの陸からの砲撃に挟まれ、目の前で敵軍が河を渡っていても最早まともに迎撃態勢を整える状態すら難しい程の状況であった、だが暫くして砲撃が下火になり漸く安堵したロシア軍であったがその頃にはその数は8万9千人にまで数を減らしていた、そこへ今度は何とか渡河に成功した日本の騎兵隊凡そ二万五千人が突撃喇叭と共に物凄い勢いで迫ってきたのである。それを目の当たりにしたロシア軍は慌てて一部の何とか生き残った僅かな砲と機関銃で反撃を試みるも焼け石に水といった状態であり、何ら有効打を与える前に両軍が激突、だが幾ら数で優っていても先の砲撃から立ち直る前に間髪入れずに騎兵隊の攻撃をくらいロシア軍はパニックに陥っていた。そこへ更に駄目押しとばかりに損害なく無事に渡り切った沢山の歩兵までもが雄叫びを上げながら各々が軍刀を振り上げ、また銃剣を付けた小銃でロシア軍に突撃をしてきたのだから堪ったものではない。
そしてこの日本軍の突撃を目の当たりにした時点でロシア軍の中に僅かに残っていた戦意も遂に完全喪失、彼らは武器を捨て降伏する者や我先に逃げる者と、その物量を活かすことも出来ずに完全に瓦解し、ロシア軍は10万を超す兵力を持っていながら約9割の兵力を失い、鴨緑江会戦は日本が勝利したのである。
そしてその勢いのまま彼等は南山や金州城を攻略している部隊を支援すべく南山方面へ向かっていった。
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ーー南山
鴨緑江で日本軍が早期に勝利を収める事が出来た一方、南山の攻略部隊四万二千人はロシア側の防備が予想以上に固く苦戦を強いられていた。
というのも南山を守っていた南山守備隊2万8千人は塹壕や鉄条網を幾重にも張り巡らしており、そこへ大量の砲や機関銃を至る所に設置し、更には地雷までもを備えた近代的な要塞の様な陣地を構築していたからである。然も一部の砲や機関銃に至ってはトーチカや山の一部をくり抜いた場所に設置してあるのと、金州城方面や得利寺方面など、遼東半島全体を海軍が東奔西走の如く走り回って支援をしていたが派遣艦隊と増派した艦隊だけでは間に合わず、急いで本土から追加の艦隊を派遣していたので南山方面には駆逐艦や巡洋艦などの小口径砲(それでも陸からすれば大口径だが)が殆どだった為に幾ら命中精度が高い艦砲射撃でもこの数の多さと流石に山の中にある砲までは中々
だが
然し既に大勢は決しており、その報が届いてもロシア軍には真面な戦力は無く、一部で小規模な戦闘や撤退する為の遅滞戦術などはあったものの、最後まで頑強に抵抗していた奉天が遂に陥落、だがそれによって5ヶ月もの長い期間を稼ぐことに成功、然し最終的に殆どの地域から撤退し、年を
だが彼等が時間を稼いでくれたお陰で第二太平洋艦隊は何とか4ヶ月でインド洋まで到達したが、喜望峰やスエズ運河方面からしか行けない為に艦隊は疲弊していたので先ずは
そして明治38年(1905年)6月ロシア太平洋艦隊が日本海に接近してるとの情報を受けると、いよいよ全ての決着を付ける為、聯合艦隊は出撃したのである。そしてこの出撃と同時に万が一撃ち漏らした敵も確実に仕留める為、ウラジオストックやナホトカにも攻撃部隊を送り、港施設の破壊や機雷を設置するために遊撃艦隊を編成、更に講和を有利にする為に駄目押しとばかりに樺太攻略部隊を編成し、各艦隊は其々の目的地へ出撃していった。
なお其々の艦隊戦力の数は以下の通りである。
聯合艦隊
戦艦
計33隻
巡洋艦
計53隻
そして駆逐艦や水雷艇等の補助艦艇233隻を合わせると実に319隻にも及ぶ大艦隊であった。
ウラジオ攻略部隊
戦艦
計5隻
巡洋艦
計10隻
駆逐艦(機雷艇含む)
計18隻
合計33隻
ナホトカ攻略部隊
巡洋艦
計4隻
駆逐艦
計10隻
潜水艦
6隻
合計20隻
樺太攻略部隊
戦艦(漁船改造戦艦のみ)
第五
計3隻
巡洋艦
計7隻
駆逐艦
計15隻
合計25隻
決戦の時は着実に近づいていた。
11/4
メモ書き消すの忘れてました。申し訳ない
一応後々に出す予定です