011
火憐と月火は、午前も午後も、羽川とお勉強だったらしい。
そして、まだ八月に入ったばかりだというのに、宿題も終わったそうだ。
予想以上に、僕にとっては予想外なことに、早く終わったので、お勉強会は解散、火憐は外で運動しに、月火はのんびりテレビというわけだ。羽川はもちろん残って勉強。
ここが差なんだよな。
まあそれはどうでもいいとして。
僕個人としては、三人が一緒にお昼ご飯を作ったというのが超羨ましい。
余ってないかな。
僕はママチャリを押しながら、羽川と並んで歩いていた。
別に送りに自転車は必要ないけど、帰りは自転車で帰るつもりだから。
羽川に貸しても良かったんだけど、何故か断られた。
察されてるよな……。
「で。話って何だ?」
「うーん、大きく分けてふたつ、かな」
羽川は少しそこで間を置いた。
「いい話から聞きたい?」
「もう片方はどんな話なんだ?」
羽川は答えない。
何か怖いな。
「じゃ、じゃあ、いい話から」
「阿良々木くん、こういう所でしちゃいけない話だってのは分かってるんだけど――」
「……?」
「おめでとう、阿良々木くんもついに副音声デビューだよ」
……。
え?
今何て言ったんだろう。
「ごめん。もう一回言ってくれない?」
「阿良々木くん、副音声デビューだよ。『化物語 つばさキャット』の」
!
聞き間違いじゃなかった!
やった!
ついに、僕も!
副音声に参加だあ!
「本当に嬉しそうだね……」
「僕はこの時をずっと待ってました!」
しかも羽川さんの口から!
やべえ、涙出てきた。
「うん、あんまりここでは言いたくなかったんだけど、なんだか色んな人がこの話をしてたみたいだから、思い切ってこの場を借りて発表させていただきました」
わー。
素直に嬉しい。
「なあ、羽川」
「ん? 何?」
「抱きついちゃっていい?」
「駄目」
きつい一言。
やっぱ駄目か。
この嬉しさを表現するにはそれが一番だと思ったんだけどな。
こう、お互いやったー! って言いながら抱き合う。
外国じゃ当たり前だろ。
「外国では当たり前だとしても、今の阿良々木くんはそういうのと関係なしで抱きつこうとしてたよね」
「じゃあこの嬉しさを、僕はどこでどうやって示せばいいんだ……」
「なんか八九寺ちゃんが危ないと思ってしまったんだけど、気のせいだよね?」
呟く羽川。
バレバレだった。
あーでも、本当に嬉しい。
このまま最終章まで副音声について語っていたい。
みんなが話したがるのも、分かる。
「駄目に決まってるでしょう」
言い放つ羽川さん。
「それに最終章まで語るより、阿良々木くんは最終章まで勉強したほうがいいと思う」
「う」
「なんか、今日戦場ヶ原さんとお勉強やめたそうじゃない」
「うう」
「戦場ヶ原さんも悪いけど、それからずっと外出歩いてた阿良々木くんも、問題だよね」
「ううう」
分かってたんだ。
バレバレじゃん……。
「そうか……じゃあもし僕があの後図書館で黙々と勉強していたら、僕は羽川に抱きつけたのか……」
「そんなことは一言も言ってません」
厳しいお叱りの言葉を受けた。
深く反省。
「……羽川、よければもうひとつの話も、聞かせてもらえないかな」
「いいよ。ていうか、こっちの方が今の阿良々木くんには大事な話かな」
……何だろう。
副音声より大事な話とか、今の僕には考えられないんだけど。
「こないだ、忍野さんの夢を見たの」
「…………」
「別に普通の夢だったよ、旅の途中で忍野さんに会う夢。ついでにお礼とお別れの言葉も言えたし、うん、いい夢って言えば、いい夢かな」
思い出した。
忘れていたことだ。
そして、引っかかっていたことだ。
忍野の夢。
戦場ヶ原も言っていた。
だが、彼女は魘された、と言っていたが。
「どうしてそんな夢を見たんだろうって、起きてから考えて」
羽川らしい。
夢についてまで考えるんだ。
「私の所為、かなあ……って」
それは、戦場ヶ原も言っていた。
――これは、どういうことなのかしらね。
――いえ、私の所為と言ってもいいのかしら。
「そりゃ、どういうことだ?」
「ねえ阿良々木くん」
質問しかけた僕を。
羽川は遮った。
「いろは歌ってあるじゃない」
「あ?」
いろは歌?
あの、いろはにほへとって奴か?
「うん。あれ、全部言える?」
「いや、さすがに全部は無理だな……」
いろはにへとへとだ。
戦場ヶ原が言ってた。
あはは、戦場ヶ原さん面白いね、と。
羽川は笑ってから。
「いろは歌にはね、諸行無常、
そうして彼女は、いろは歌を空で詠み始めた。
色は匂へど 散りぬるを。には諸行無常の。
我が世誰ぞ 常ならん。には是生滅法の。
有為の奥山 今日越えて。には生滅滅已の。
浅き夢見じ 酔ひもせず。には寂滅為楽の意味が。
それぞれ、込められているらしい。
「へえ。あいうえお全部使ってるだけじゃないんだな。そんなのよくつくったなあ」
「当時はワ行の『ん』は入ってなかったんだけどね。それで、私が言いたいのは最後の部分。寂滅為楽」
「浅き夢見じ……ってとこか」
「意味はね、諸説あるけれど。儚い夢など見るまいよ、酔っているわけでもないのに」
「夢、か……」
「私の言いたいこと、分かる?
もう忍野さんはいないの。けれど、そんな夢を見ちゃったってことは、いろはで言うなら、私は酔ってたんだね」
「でも、羽川、忍野が――」
「いないのよ」
きっぱりと羽川は言った。
「もう、帰ってこない。阿良々木くんだって、気付いてるくせに」
でも、僕は会った。
それもさっきだ。
「私は、あんな夢を見ちゃった自分が、許せないな」
そうして羽川は笑って、もうこの話は終わり。と言った。
「じゃあ立て続けで悪いけど、ここらで面白い話をひとつ」
「お」
「いろは歌でね」
「そこでまたいろはの話をする時点で、僕的には何の面白さも感じられないけどな!」
まあ、聞いてよ、と羽川は諭して。
「いろはの四十七文字を、七文字で区切ってみるの。そうしてできた七行のいろは歌……最後の一行は余って五文字になっちゃうんだけど、まあその七行の最後の文字を読んでみて」
僕にはそんなものを思い浮かべることができなかったから、羽川が一行ずつ読んで、その最後の文字を僕が並べた。
「と、か、な、く、て、し、す。だ」
「そう。暗号説って言ってね、いろは歌には暗号が隠されてたんじゃないかって説。いろは歌の作者は未詳だからね。いろんな説を立てて、みんな研究中なんだよ。
それで、その最後の文字、とかなくてしすは、とがなくてしす……咎無くて死すととれるわけ」
「おお」
「無実なのに殺されるって、暗号なんだね。期せずしてそうなったのかもしれないけど」
「へえ……」
今更ながら、いろはに興味が沸いてきたな。
「平仮名全部を使って歌をつくるとか、只者じゃないよな……」
「え? そうかな、私は小さい頃自分でつくって遊んでたよ」
「は?」
「だって、自分でつくった方が楽しくて覚えやすいし」
楽しそうに言う羽川。
いや、普通つくれねーだろ……。
「んん? そんなことないよ。
いろは歌はさっきも言ったように暗号があるかもってことで不吉に思われたんだよね。それで、明治時代に新しいいろは歌を募集したわけ。そしたらたくさんのいろは歌が集まったんだよ。だからそんなに難しいことじゃないんだよ」
「そうかな……」
「そうだよ。これはいろは歌の中でも私が好きな歌なんだけどね、とりな順って言うの」
とりなくこゑす ゆめさませ(鳥啼く声す 夢覚ませ)
みよあけわたる ひんかしを(見よ明け渡る 東を)
そらいろはえて おきつへに(空色栄えて 沖つ辺に)
ほふねむれゐぬ もやのうち(帆船群れゐぬ 靄の中)
「ふうん、なんだか情景が浮かぶ歌だな」
「うん、綺麗な歌だよね。鳥が鳴いている、朝だからもう夢から目覚めなきゃ、ほら東から上る太陽を見てご覧……って感じかな。あっ、ごめんごめん。一人で勝手にはしゃいじゃったね」
「……お前は何でも知ってるな」
「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」
だから、ね?
と羽川は僕の前で人差し指を立てる。
「夢から覚めないと、いけないんだよ」
「…………」
「現実を見なきゃ」
でも僕は忍野を見たんだ。
とか言うと非常に子供っぽい気がして、やめた。
まだ何か、引っかかっている。
でもそれは何だ?
「……よく覚えとくよ」
「うん。分かってもらえると、嬉しいな。いろは歌は、他にもあめつちの歌とか、たゐにの歌とか色々あるから、読んでみるといいよ。そうだ、今から一緒につくってみる?」
「悪い羽川、さすがに僕にはそんなことはできない……」
詩人じゃないし。
羽川はまた笑って。
「ああそうそう阿良々木くん。馬鹿といえばね、」
「ちょっと待て羽川、どこからどうきて馬鹿といえばと言ったんだ!?」
僕のことを馬鹿だと思ってるってことか!?
「あ、ううん、違う違う。火憐ちゃんに聞かれたのよ。言葉の由来」
「ああ、なんだその話か……」
今朝、火憐が言ってたやつな。
「馬鹿を馬鹿って書くのは、これまた諸説あるんだけど、史記にある『鹿をさして馬という』が元になったというのが一番有名かな。でも同時に一番可能性が低いとされるから、これが正しい、とは言い切れないんだけどね」
「そうなのか」
「だいたい、馬鹿っていうのは当て字だしね。莫迦とか、バカとかが妥当だと思う」
「うん……」
なんだか馬鹿馬鹿言われてる気がしてヘコむ僕だった。
「火憐ちゃんもなんだかんだ言って、お兄ちゃん思いなんだね」
「は? どういうことだ?」
「いや、阿良々木くん馬鹿の由来を、馬と鹿が馬鹿だから馬鹿と思ってたんでしょう?」
「違う!」
「あれ? だから火憐ちゃんは質問してきたんだと思ってた」
それは火憐自身の馬鹿な勘違いだ!
僕に押し付けてんじゃねえよ!
あれ、やっぱし僕羽川に馬鹿だと思われてる?
羽川翼。
猫に魅せられた少女。
怪異と関わったからか、忍野と関わったからか、あるいは何か他の理由で。
彼女は、大学に入らず、卒業後は旅に出る。
ちゃんと計画も立てて。
変えるつもりなど無いのだろう。
普通旅とかそんなこと考えないと思うのだが。
それでも僕は思う。
彼女は、本物だと。
と。
突然立ち止まる羽川。
「ここらへんでいいや。お邪魔になるかもだしね」
そうしてにっこり笑う。
お邪魔?
何の?
そう聞くまでもなかった。
携帯が鳴ったのだ。
どんだけ凄いんだよ。
「じゃ、また明々後日、阿良々木くん。いい? 明日は宿題をちゃんとするんだよ。明日は阿良々木くん忙しいから、特別に家庭教師はお休みだよ。いい? サボっちゃ駄目だよ。明日の分は、お盆休みに振り替えで大丈夫かな?」
そうして確認を終えた羽川は。
ばいばい、と。
手を振りながら帰っていった。
今朝のうちからこの二つの話をするつもりだったのだろうか。忍野の話なんて一言もしてなかったのに……と思いながら携帯電話を取り出し、相手を確認する。
戦場ヶ原から電話だった。