006
「やっぱり、駄目だわ」
戦場ヶ原ひたぎは、ため息をついてシャープペンシルから手を離した。
シャープペンシルはノートの上に落ち、そのまま転がって僕の足元に落ちる。
「ちょっと待てよ戦場ヶ原。そうやって憂鬱そうにため息をついてるけど、今日で何回目だよ。何が一体全体駄目なんだ?」
「私がため息をつく理由なんていくらでもあるわ。駄目なのは、もちろん阿良々木くんの頭の悪さ」
「傷つくことをさらりと言うなあ!」
戦場ヶ原家。只今勉強中である。
「まったく……あなたが目の前にいるせいで、勉強ができないじゃない」
「いや、僕は勉強を教えてもらいに来たんですが」
「勉強? そんなことも分からないの。勉強っていうのはね……」
「いやいや! そういう意味じゃないぞ!」
少なくとも!
勉強が何かは分かってる! ……多分。
「教えてもらいに来たとしても、家に入れた覚えはないわ」
「あるだろ!」
冗談よ、と戦場ヶ原は言う。どこから冗談ですか。
「駄目っていうのは、阿良々木くんの頭じゃないわ」
「あーあー、どうせ存在とか言うんだろ」
「そんなことは、ない、けれども」
「嘘つけ!」
明らかに言おうとしてただろ! もう大体分かるんだよ!
「む。これは心外ね。私の言おうとしてることが分かるですって……? 私はそれほど分かりやすい、面白みのない人間になってしまったということかしら」
ふう、と再びため息をついて戦場ヶ原はシャープペンシルを拾う。同時に僕の足をつねった。地味に痛いんだよ。
「ねえ、ガハラさん。ため息をつくたびに幸せが逃げていくって話、誰かがしてなかったか?」
「え? なあに、それ。とても感慨深いことを言う人が世の中にはいるのね。阿良々木くんとは大違いだわ。どこの誰かしら、一度会ってみたいわね。きっと素晴らしく清く賢く美しい人なのでしょうね」
「さりげなく自分を褒めてないか!?」
「さりげなくじゃないわよ。堂々とよ」
そんな胸張って言われても!
まったく、相変わらず面白いなあ!
今日は偶数日。
つまり、今日の家庭教師の担当は戦場ヶ原ひたぎというわけだ。
家庭教師といってもうちでは妹達がうるさいから、彼女の家で、勉強である。
……。
うーん。
なんか今日の戦場ヶ原さん、いつもと違くない?
機嫌がいい……とも少し違う。
学校では下ろした髪を、家では結っている戦場ヶ原の今日の髪型は、ポニーテイル。
彼女はそれを前に垂らして、さらにそれを指でくるくる巻いたりしている。
……どうしたんだろう?
彼女のこうした些細な違いに気付けるのって、やっぱ僕と、強いて言うなら戦場ヶ原父と神原くらいなんだよな。
「ああ。やっぱり駄目だわ」
またペンを置く戦場ヶ原。
僕も鉛筆を置いた。
「じゃあ、休憩とかどうだ?」
「ええ、そうね」
あっさり同意する。
やはりいつもと違う。毒舌のキレも悪いような気がするし。
何かあったのだろうか。
「あら。阿良々木くん、水分補給?」
「ん? ああ。喉渇いたからな」
夏だし。
暑いし。
突っ込み担当には辛い時期だ。
「そう。ねえ阿良々木くん。夏の暑さと私達のアツさはどっちがあついと思う?」
「ん。また難しい振りを……」
水を飲もうとした手が止まる。
「まあ、どちらがあついにせよ、阿良々木くんは厚いわけじゃなくて、薄くて弱いんだもんね」
「それをそこで持ってくるか!」
しかも羽川に言われた言葉だ!
あれは大いに傷ついた。
でもまあ、事実だよな。
休憩ということなので、回想シーンを挟んでもいいだろう。
以下、八九寺と別れるまでの回想シーン。
「忍野メメ、か」
「はい。間違いありません。あれは阿良々木ハーレムの第一期メンバー、忍野メメさんです」
「そういう言い方はないんじゃないの!?」
だからなんで三十過ぎのおっさんがメンバー扱いされてんだよ!
「私は直接お会いしたことはありませんでしたが、アロハ服を着ていらっしゃったので、もしやと思いまして」
「それは、」
サイケデリックなものだったか、とか。
煙草に火を付けずに咥えてなかったか、とか。
見透かしたような態度をとっていたか、とか。
そんなことを聞こうとして、やめた。
聞くまでもないことのような気がしたのだ。
かつて忍野忍が逃げたときも、八九寺の情報は正しかった。
だから、というわけではないが。
忍野を見たと言うなら、それは嘘ではないのだろう。そして、きっと。
「分かった。ありがとな、八九寺」
後で、あの廃ビルに向かう必要がある。
確認のためだ。
忍野のような流離人が住めるような所といったら、この町ではあの廃ビルくらいのものだろうから。
「もうすぐ戦場ヶ原の家だから、そろそろお別れだな」
寂しいけど。
「そうですね。これでわたしの出番もようやく終わるわけです」
「嘘っ!?」
悲しすぎる!
もっとお喋りしようよ。
冗談ですよ、と八九寺ははにかんで。
「まあ、また会えますよ。それでは蟋蟀さん、お元気で」
「ちょっとそれにはどう突っ込んでいいか分からないがとにかく言わせてもらう。
八九寺、蟋蟀というのが僕の名前とはもう分からないくらいだからもしかしたら聞き間違いだったかもしれないけれど、僕の名前のつもりで呼んだと仮定して言わせてもらう、お前は僕のことを何だと思ってるんだ!? それに別れ間際に噛むんじゃねえよ、まだ話が続くみたいじゃねえか!」
しかもコオロギさんって。
最後しか合ってないよ。
「もっとお喋りしたいとおっしゃるからです。
私がその気になればこの話で戦場ヶ原さんと阿良々木さんが勉強を始めるシーンを最終章まで持ち越すことも可能なのです」
「怖い!」
最終章に伏線全て持ち越しかよ!
一気に解決しなくちゃなのか!?
どんなハードな小説だよ。これはラノベだぞ。
「ああ、可能を不可能にする男、がキャッチフレーズの阿良々木さんにはちょっと酷でしたかねえ」
「どんな男だよ!」
「口癖は、『元気百分の一倍! 阿良々木暦』でしたっけ」
「元気ねえー!」
そうじゃなくて。
もう別れるんだって。
なんか後ろの方でガハラさんやら羽川さんやら首を長くして待っているような気がするのだが……。
「じゃ、というわけで」
「はい、それでは」
背を向けて歩き出す八九寺。
これでこのまま逃がしてしまっていいのか……とか考えている自分がいたけど、話が振り出しに戻るのは嫌だから、仕方なく諦める。
これでもう八九寺の出番は終わってしまうのだろうか。
とか。
考えながら、僕は再びペダルを漕ぎ始めたのだった。
回想終わり。
いやはや、回想まで含め、連続三話出演する八九寺真宵は恐ろしい。
思い出したところで、再び戦場ヶ原の問題を考える。
嘆息。
「なあ、戦場ヶ原――」
「そういえば、阿良々木くん。この間見たひたぎクラブの感想、結局聞いてないんだけど」
話を遮る戦場ヶ原。
しかもまたブルーレイの話。
みんな好きだな。
あーもういいや。ばらしちゃえ。
実はこのあいだ、学校の視聴覚室にガハラさんに連れ込まれ、何かと思ったらDVD観賞だった。
期待した僕が馬鹿だったってのもあるけど。
それに視聴覚室って。
自分の家にテレビがないからって、それはないんじゃないの戦場ヶ原さん。
「あのあと、先生に見つかっちゃいそうになって、結局聞けずじまいだったのだけれど」
そうなのだ。
あれは間一髪といった感じだった。見つかっていたら多分、メタなことをするなとか叱られてたと思う(というのは冗談)。
「いや、その……」
「何。はっきり言ったらどうなの」
「よかったんじゃないか? 絵も綺麗だったし」
「面白くも何ともない答えね」
「僕の感想に面白さを求めてたのか」
「まったく、阿良々木くんは本当に語彙がないのね――語彙が豊作な私としては、呆れるしかないわ」
「豊作って何だよ!」
豊富だろ!
「失礼。噛みました」
「違う。わざとだ……って八九寺語を引っ張り出すな」
「神は下」
「何様のつもりだよ!」
本当に流行るなあ、八九寺語。
「語彙が豊作な私の村は、語彙の貧しい阿良々木町に語彙を分け与えているのよ」
「噛んだ言葉を何でまた使うかなあ!」
こいつもこいつで意地っ張りだな。
「こいつ呼ばわりは頂けないわ」
「何だ、またそれか……でも様付けは嫌だぞ」
「そう。なら、せんちゃんで許してあげる。私のことはそう呼んで」
「何でそんな可愛らしいニックネームで呼ばれたいんだ!」
お前のニックネームはガハラさんだ!
ていうか。
せんちゃんって、昔の千石のニックネームだよな。
昔というか、僕が昔呼んでた。
「そういえば、阿良々木くんにはニックネームが無いわよね」
「あー」
なんか前もそんな話したよなあ。
神原とか。
千石とか。
ああ、あと忍野ともしたっけ。
「どうかしら。いっそのこと、阿良々木くんにもつけてあげましょうか」
「まあ、」
ガハラさんって呼び始めたのは僕だし。
拒否するつもりはない。
「そう。なら、これからは阿良々木くんのこと、こよみんって呼んでもいいかしら」
「とんだ嫌がらせだな!」
最低だ!
らぎ子ちゃんよりも上があったんだ!
「こよみんってば、照れ屋さんなんだから」
「やめろ! どうかやめてくれ!」
甘い口調で言われても。
僕としてはどうリアクションすればいいか分からない。
「失礼。噛みました」
「違う。わざとだ……ってまたそれかよ!」
照れ隠しのつもりなのだろうか。
「髪、明日」
「髪って――ん?」
髪?
明日?
何のことだ。
「おおっと」
口が滑った、という風な顔をする戦場ヶ原。
最近は表情も豊かになってきたよな。
羽川の矯正プログラムのお陰でもあるだろうが。
矯正というか、強制って感じだ。
「まあ、気にしないで頂戴。明日になれば、分かると思うわ」
「そうか」
「けじめを、つけるつもりだから」
戦場ヶ原ひたぎ。
蟹に行き遭った少女。
自称ツンデレ。
クラスメイトで、そして、恋人である。
最近は手料理も振る舞ってくれるようになったし、彼氏彼女っぽくなったかなあ、と思っている。
まあ。
独特な味付けだけど。
けじめをつける。
彼女はそう言った。
きっと、この間の出来事が、戦場ヶ原を変えつつあるのだろう。
詐欺師、貝木泥舟との出会いをきっかけに。
でも、それは貝木のお陰でなど決してない。
戦場ヶ原自身が決めたことだ。
「ねえ、ガハラさん。そろそろ聞いてもいいかな――」
「何。私のオープニングの素晴らしさの話?」
「違えよ!」
「いいわよ。言わなくても。素晴らしいことくらい、自分で分かってるから」
いやでも。
あの巨大ひたぎさんはさすがに恐怖だったなあ。
「豆知識。あのオープニング映像に出てくる建物は、実際に存在するのよ」
「ああ、実写だったな、確か……」
「ちなみにその中のひとつ、鉄塔の名前は柿ノ木鉄塔…って言うんだって。
柿ノ木=猿蟹合戦。つまり私と神原ということね」
「へえ……」
またそんな豆知識を……。
でもそういうロケ地には行って見たいと思うな。
「お前は何でも知ってるな」
「何でもは知らないわよ。あなたより知ってるだけ」
「羽川の名言が台無しだ!」
「羽川さま……いえ、羽川さまの名言を、さすがにそのまま使うことは私にはできなくて」
「訂正し切れてない!」
お前本当に羽川にいじめられたりとかしてないよな!
心配になってくる。
「戦場ヶ原、僕が聞きたいのは、そんなことじゃなくて」
「そんなことって。羽川さんのことをそんなことって言うの、阿良々木くんは」
「いや……そんなつもりはないけど……っていうかそうやって話を逸らすな。何かあったのかって聞いてんだ」
「何も。別に何も」
即答の戦場ヶ原。
「ただ、」
「ただ?」
「夢を見たのよ」
夢?
それが、ため息の原因?
「私としたことが……魘されてよく眠れなかったのよ」
「ふうん……」
「それだけのこと」
ちなみに、どんな夢だったんだ、と訊くと。
彼女は、しばらく間を置いて、答えた。
「あの人の夢」
「あの人って」
「忍野さんよ」
苛々した口調。
自分でも言いたくないというのが伝わってくる。
「忍野さんが、私の夢に出てきたのよ……これは、どういうことなのかしらね。
……いえ、私の所為と言ってもいいのかしら」
それは。
どういうことなのだろう。
「まあでも、あの詐欺師の夢ではなかっただけ、よしとしましょう」
そう言った戦場ヶ原だったが、やはり勉強に戻ろうとはしなかった。
一体どんな夢を見たのだろう。
そしてそれは。
八九寺の話と、関係があるのだろうか……?