007
結局、それから戦場ヶ原はすっかり勉強する気はなくなったらしく、僕に宿題を出して帰ってほしいと告げた。
結局、夢のことは詳しく聞けなかった。
大丈夫だろうか。
自転車に跨り、腕時計を見る。時刻は十二時半。
このまま帰ったら妹達に笑われる。
羽川にも怒られる。
ううん、勉強したいけどなあ。図書館で一人で勉強ってのも嫌だし。
でも仕方ない。一人で勉強だ。
そうしてペダルを漕いでいると。
「……あ。暦お兄ちゃん」
声がした。
見れば。
千石撫子が、僕の方へ駆け寄ってくるところだった。
ちょっと前までは、長い前髪を垂らしていたが、今の千石は前髪をカチューシャで掻き揚げていて、額が臆面も無くさらされている。
最近ではその姿で外を歩けるようになったらしい。
みんな変わったなあ。
「暦お兄ちゃん。待ってたよ」
待たれていた。
というか待ってたのか。
こんな道中で。
そういえば千石の奴、暦お兄ちゃんと呼ぶのはやめるとか何とかいう話をしておきながら、結局変わってない。
たまに、「あなた」を使う程度。
まあ僕としても嬉しいし。
指摘するほどのことでもない。
でも、あなたと呼ぶ度に顔を真っ赤にするのは、一体どういうことなんだろう……?
僕は自転車を降りる。
千石は少し息を切らしながら、僕を見上げてにっこりと笑った。
意外と表情豊かな奴だ。
千石は、お気に入りなのかポーチを身に着けていた。でも、今まで被っていた帽子は、今日は被っていない。これも変化だ。
そして気のせいかかなり露出の高い服装だ……僕は紳士だから、そんなことは気にしない。
夏だから薄着も仕方ない。
……でも、ブラつけてないんじゃないか?
千石もまだまだ子供だなあ。
でも指摘はしない。
「暦お兄ちゃん。今、時間ある?」
「え? あ、まあ」
ないとは言えない。
ううん、図書館で勉強は延期。
あとで宿題もする。
「受験勉強で、大変じゃないかな、と思って」
ここらへん心配してくれる千石はとっても優しいと思う。
八九寺なんて気にせず一方的に話し続けるもんなあ。
「いや、さっき勉強したから大丈夫だよ」
「そうなんだ」
よかった、と呟く千石。何だ、用があるのか? と訊くと、
「ううん、撫子は、ただ、あ、あなたに、会いたかっただけだから」
「ふうん……」
千石は顔を真っ赤っかにして、僕を見上げる。
「勉強頑張ってるんだね。撫子、今日はゲームしかしてないや」
そういや、千石の奴結構マイナーなゲーム機持ってたよなあ。
古いのばっかだし。新しいの持ってんのかな。
新しいといえば。
「なあ千石、DSでさ」
「?」
「いや、DSっていっぱいソフトあんじゃん。
あの中に、受験勉強とかのソフトもあるんだよなあ。あれ、僕一度やってみたいと思うんだよ。ゲームしながら勉強できるんだぜ?」
「うん、一石二鳥だよね」
節目がちに言う千石。
何か迷っているようだ。
「あのね、暦お兄ちゃん」
「ん?」
「撫子、貸してもいいよ」
「貸す?」
うん、と彼女は頷いた。
「撫子、DS持ってる……」
「え?」
そうなのか?
こないだ遊びに行ったとき見せてもらったのが全部って言ってなかったか?
「明日、貸してあげる」
「そうか、そりゃ助かるよ」
千石はまた俯いてしまう。
気のせいか、本当は持ってないんだけど……と思っているような気がする。
暦お兄ちゃんがやってみたいって言うから……と思っているような。
いや、千石に嘘はつけないだろう。
こないだ、千石の家に行った時全てのゲーム機を見せてもらったのだが。やっぱりその中にDSは無かったよなあ。
忘れてたのだろうか。
「撫子、このあと用事があるから実はちょっと忙しいんだ」
え?
そうなのか?
じゃあ僕なんか待ってなくてもよかったのに……。
でも、さっきまでそんな忙しそうじゃなかったよな。
なんだか、買い物に行きたがっているような、そんな気がする。
「用事というよりは、撫子仕事があるの」
「仕事?」
「うん、副音声の収録に行くんだ。なでこスネイクの」
「副音声!?」
またその話かよ!
繰り返しギャグは三度までって知らないのか!
……ああ、相手は千石だった。繰り返しギャグも知らないんだから、そこらへんは突っ込まないでおくべきだろうか。
「あれ、暦お兄ちゃん、撫子の話、見てないの……?」
悲しそうな顔をする。
みんなして何でかな。
ごめん千石。
オンエアも時間が分からなくて、見てないんだ。
なんて、口が裂けても言えない。
「何なら、今見る?」
そうして取り出したのはiphone。
最新バージョン持ってんのか。
「いや、千石。お前忙しいんだろ?
収録があるなら早く行ったほうがいいんじゃないのか?」
というか収録って。
ここら辺にスタジオなんてないよなあ?
電車とかに乗って行くのだろうか。
「ううん、撫子は大丈夫だよ。
いつでも好きなときに行っていいことになってるし、スタッフの皆さんもとても優しいんだよ」
「お前、副音声未経験者だよな!」
なんでそんなプロ級の扱いを受けてんだ!
「オープニング映像だけでもいいから」
「…………」
どうしてみんなそれにこだわるんだろう。
自分の歌って、そんなに嬉しいのかな。
僕はオファーが来なかったから、分からないや。
千石があまりにも勧めるので。
観賞。
で。
「ど、どう? 暦お兄ちゃん……」
おどおどと聞いてくる千石。
僕は彼女をじっと見つめる。
「千石、お前……」
びし、と指差して。
「お前、ラッパーだったのか!?」
「え、……え?」
しどろもどろの千石。
あれ、滑ったかな。
だってラップ上手かったし。
可愛かったし。
よし!
今日からお前のニックネーム、DJ・NADEKOな!
「え、えっと」
ちょっと困り気味の千石。
「暦お兄ちゃんが、そう呼びたいのなら、撫子は別に、構わないよ」
あれあれ。
なんかまた滑っちゃった感じがするな。
なんか微妙な空気。
何か話を振らないと……! 千石はこういう時黙りっぱなしになってしまうのだから。
「なあ、千――」
「そ、そういえば、暦お兄ちゃん。最近テレビ見た?」
相手から振ってきた。
ここは正直に、見てないと答える。
妹達のチャンネル争いなら見てた。
「ららちゃん達、元気だね」
「元気すぎんだよ。千石みたいにもっと大人しかったら、まだ可愛げがあるのにな」
で。何でテレビの話?
「うん、こないだのドラえもん面白かったから」
「たとえテレビを見てたとしても、そいつは見ないな!」
よりによってドラえもんって。
ちょっとしょんぼりする千石。
しまった、言い過ぎたかな。
って、いちいちこうして心配してる僕の方が、臆病っぽくて小動物っぽくない?
「撫子、まだ子供だから……」
「いやいや、そういう意味で言ったんじゃないよ」
「いちゃいちゃ? そういう意味で言ったんじゃないよ?」
「いやいや、そういう意味で言ったんじゃねえよ!」
どんな聞き間違いだ!
「いちゃいちゃしたいっていうのなら、その、撫子でよかったら……」
「違う違う違う!」
子供だからって言っといて何だ、それは。
「そうじゃなくて。僕も中学生の頃は、四次元ポケットとかタイムマシンとか、そういうのがあったらいいな、って思ってたよ。だから別に恥ずかしがることじゃないよ」
そう言いたかったんだ。
それだけの為に何行費やしたよ。
「うん、撫子も憧れる……」
それからしばらく僕たちはドラえもんの話で(なんと)盛り上がってしまった。
童心に帰るというか。
そういや、タイムマシンで思い出したけど。
千石の押入れ……クローゼット、あれは結局分からずじまいだった。
別に知りたいわけじゃないんだけど、あの中身はファンタジー言うとタイムマシンというよりパンドラの箱っぽかった。伝説の魔物が封印されているような。そんな空気を感じた――考え過ぎか。たかがクローゼットだ。壮大な伏線になんて、なるわけがないのだ。
で、結局。
千石との会話は、しずかちゃんの話で途切れてしまった。
いや、原作ではしずちゃんと呼ばれているよな、的な会話までは良かったのだが、千石が、「暦お兄ちゃんはしずかちゃんの入浴シーンについてどう思う?」と振ってきたためどう答えればよいか迷ってしまったのだった。
うーん。
正直に答えればよかったかなあ。
「僕はもう大人だから、いやらしい気持ちにはなったりしないのさ」
なんて、言うんじゃなかったなあ。
気取っていったのがまた恥ずかしい。まだ「あれは規制がいるよな」とかの方がよかったかも。
「のう、お前様よ」
急に足元で声がした。
驚いて声を上げそうになったが我慢する。
千石にはこいつの声が聞こえないのだ。
声は僕の陰からする。
声の主は忍野忍。元吸血鬼、今は人間もどき、吸血鬼の絞りかす。
僕を吸血鬼にした張本人。
まあ、人じゃないんだけど。
「入浴と聞くと、儂との入浴シーンを嫌でも思い出すの?」
こいつ……!
僕の考えてることが分かるからってそれを言うことはないだろう。
ていうか夜型のお前が何で真昼間に起きてるんだよ。
突っ込みを声に出すと千石がびっくりするだろうから、ここは我慢。
言わなくても、相手には通じるらしい。忍は答えた。
「お前様が腹が減っているのが伝わってくるのでな。
言ったと思うが、儂の腹が減ってなくとも、お前様が空腹を感じれば儂も感じるのじゃよ。気分が悪い。早く何か食せる物を」
そう。
僕は珍しく空腹を感じていた。
というのも、今朝起きて適当に食べてきただけだし、というかあれは食べてないも当然だ。羽川さんがいらっしゃると思うと落ち着けなかった。
食べ物といってもなあ。
千石は観賞用だし(いや、これは失言)。
「こ、暦お兄ちゃん?」
長い間下を向いて黙っていたからだろう。千石が心配そうにこちらを見ていた。
僕は顔を上げて笑う。
「いや、ごめん千石。
僕、まだ昼食べてないんだよ。だから何ていうかな、もうそろそろ――」
「そうなの?
だったら暦お兄ちゃん、うちで食べる? 撫子もご飯、まだだったし」
あれ?
そうなのか?
いや、仕事が忙しいとか何とか言ってても、まだ昼食べてなかったんだ。
そして僕を家に誘う時間もあるんだ……。
でもまあここはお言葉に甘えるべきだろう。
忍は満足したのか、もう何も言ってこなかった。
「でも千石、収録はいいのか?」
一応訊いておいた。
「いいよ。時間はたっぷりあるし……」
「そういや、お前一人で行けるのか? 何なら僕が付き合ってもいいんだぜ?」
「つ、付き合うって、は、あわわ、撫子と、お、おお付き、合いをっ、?」
あれ?
何でそんなに動揺するんだろう。
僕の考えはついでに収録現場にまで行こうってやつだったんだが……。
「ううん、だ、大丈夫だよ」
真っ赤な千石。
「そ、それに、副音声は一人でするんじゃないの。もう一人、強力な助っ人さんがいるんだよ」
「へえ。そりゃ誰だ?」
「忍野さん」
忍野。
忍野!
いやその前にあいつそんな副音声とかに出るキャラじゃねえだろ……。
「忍野、か……」
「?」
首を傾げる千石。
僕は慌てて言う。
「いや、何でもない。じゃあ、行こうか、DJ撫子」
茶化しておいてなんだけど。
やっぱり、忍野のことが頭から離れない。
昼ご飯を食べたらやはり行かなくては。
僕はそう決意したのだった。