ToHeart二次創作小説、志保メインの物語です。
Windows 95版ToHeartをベースにしているため、その後に出た設定とは齟齬が出ている可能性があります。

近づきそうで近づかない浩之とあかりの距離に不満を覚える志保。しかし彼女の内にある思いは、決して彼女の中だけで抑えきれるものではなかった……。

こちらの作品はPixivとのマルチ投稿となります。

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涙の数だけ女は強く

         * 1 *

 

 校門へと続く並木道には梅の花が咲いてきた。

 春を待つ桜の木々の間でひっそりと、でも好い香りを漂わせている梅の花たち。

 卒業式は終わり、六年生最後の帰りの会も終わっている。昇降口から校門へと続くこの並木道には、これから帰ろうとしている人たちがたくさんいた。

 卒業を喜ぶ男の子たち。別れを惜しむ女の子たち。早々に帰ろうとしている親。

 たくさんの話し声と、校門へ向かって歩く人、立ち止まって話をしている人たちで並木道はいっぱいだった。

 けど、いまのあたしには周りのことなんて見えはしない。

 ひとりぽつんと立ち尽くすあたしは、ただ一点を見つめてる。視線の先にいるのは鞄とともに卒業証書が入った筒を手にする一組の男女。筒を持っていない手と手を繋ぎながら歩くふたり。

 まだぎこちないその姿が、人混みの中に現れては消え、消えては現れて、その度に遠くなっていく。

 想いを抑え続けることができない自分を感じていた。だから自分の気持ちに素直に行動することにした。

 その結果がこれだった。

 ポツリと、胸の前で組んだ手になにかが落ちてくる。

 なんなのかと考える間もなく次々と落ちてきて、あたしはそれが涙だと気づいた。

 ――なんで泣いてるんだろう。

 わからなかった。なのに涙は頬を伝ってどんどん落ちてくる。止めることもできなくて、あたしは校門を抜けてだんだんん小さくなっていくふたりを見ながら、ずっと泣いていた。

 ついに戻ることがなかった三人の関係。

 彼も彼女も、あたしも、小学校を卒業した。別々の中学に行くあたしたちが一緒の時間を過ごすことは、たぶんもうない。

 楽しかったあの時間は、永遠に失われてしまった。

 

           *

 

 いつからそのことに気づいてたんだろう。

 ――あたしは、ヒロのことが好き。

 あいつへの確かな気持ちがあたしの中に存在してる。

 その気持ちと同じように、ヒロやあかりや雅史、そしてあたし自身、長岡志保という中学時代から長らく続いてる四人の関係も好きだった。

 友達と話しながら歩いている在校生、緊張した様子の新入生らしい人たちの間を抜けて、あたしは高校へ向かう最後の坂を上る。坂を上りきったところで吹いた風は、かすかに桜の香りを含んでいた。

 今日は四月八日。あたしの高校二年生最初の日だ。

 去年一年は、嫌な先輩に言い寄られたり、ひとりで試験の補習を受けたりと、覚えてるのはあんまりいい思い出じゃないものばかりだ。でも、四人でいた時間は楽しかった。

 今年はどんな年になるんだろうか。

 優雅に花びらを散らしている満開の桜を横目に、校門を抜けて昇降口へと向かう。

 あかりは、どうやらヒロのことを本気で意識するようになったらしい。

 出会った頃から彼女があいつのことを意識してるのは知ってた。けどこの前まであかりが積極的になることはなかった。それが一年の終わりに変わった。髪型を変えたという事実が、彼女の心境の変化を表してる。

 それは知らない人が見れば微妙な変化かも知れないけど、これでもあたしは学校内外の情報を集めてるような人間だ。そういう微妙な変化にもその真意を察知できるようになってる。

 もちろんあたしもヒロのことが好きだった。でもそれをあいつに伝えようなんてことはぜんぜん考えてない。

 かけがえのない四人の関係。あたしがヒロを意識することでそれが壊れてしまうくらいなら、あたしの想いなんてどうでもいい。想いを秘めることでずっと四人で楽しくやっていけるなら、そっちの方が良かった。

 でもあかりの場合は違う。

 あかりのヒロへの想いは、あたしも雅史も、たぶんふたりのことを知ってる人ならたいていわかっていることだし、ふたりが幼なじみ以上になったところで、四人の関係は崩れることはない。むしろやきもきするようなふたりのことを見てるより、くっつけちゃった方がすっきりする。

 そんな考えで、あたしは雅史と話してこの前の花見を二人きりで行かせたりと、いろいろ画策を始めていた。

 ――四人で一緒のクラスになれば、もっと手伝ってやれるかな。

 もちろん見えるような手伝いをしたりはしない。ヒロとあかりの関係が自然と近づくよう、影ながらちょっとした手伝いをするだけだ。

 昇降口の前では新しいクラスの編成の書かれたプリントが配られていた。それを受け取って下駄箱に向かう。

 期待を込めつつ、あたしは四人がどんな風に割り振られたかを見始めた。

 

 

「まったく、嫌になっちゃうわよね」

「そうだね」

 あたしの文句の言葉に雅史が曖昧な笑みを浮かべてる。

 せっかくあかりの手伝いをしようと決意を固めたところなのに、クラス編成はさんざんだった。

 他の三人はみんなB組で、あたしだけA組。せめて他にひとりでも違うクラスだったら、いまみたいに雅史に愚痴をこぼすことなんてなかったろうに。

「先生たちもなに考えてるのかしら。三人一緒にしたんなら、四人でもおんなじじゃない」

「あははっ」

 とりあえず今年の自分のクラスとなったA組の教室に荷物を置いてきたあたしは、早速とばかりにB組の教室に繰り出していた。

 でもそこにはまだヒロとあかりの姿はなく、雅史だけがいたから、彼に向かって文句を垂れてる。

 ――本当に一歩目から躓いてるじゃない。

 三人が一緒のクラスってだけでも考えてみれば凄い確率のような気もしていたけど、やっぱりあたしだけ別のクラスっていうのが納得いかない。それでもまぁ、そんなことでくじける志保ちゃんではなかった。

 あかりのことを影ながら手伝うって一度決めたからには、それを最後までやり遂げるのがあたしらしい。

「おはよう、ふたりとも」

 そんなことを考えてるとき、雅史が教室の入り口の方に向かって声をかけた。

「おう。またまたよろしくな」

「おはよう、雅史ちゃん」

 返ってきた答えからして、ヒロとあかり。

 ――やっぱりかけるんなら、それらしい言葉をかけて上げなくっちゃね。

 一瞬だけ考えて、あたしはノンキにやってきたふたりに声をかけた。

「……やっときましたか。遅刻男と、そのとばっちりを受けてるお姫さまが」

「……」

「おはよう志保」

 にっこり微笑んでるあかりに対して、ヒロの奴は心底嫌そうな顔をしてる。「なんでこいつが」なんて内心が見え見えの目は、次の瞬間睨みに変わった。

「だーれが遅刻男だってぇ?」

「あんたよ、あんた」

「遅刻してねーだろが!」

 ――ヒロの奴はぁ~。

 挨拶もなくあたしの言葉に突っ込みを入れてくるヒロに腹が立った。もちろん自分自身がまともに挨拶してないことなんて覚えてない。

「はいはい。今日はそうでも、明日は疑問。あんましあかりに迷惑かけないでよぉ?」

「けっ。……迷惑かけるかかけねーかは、勝手に呼びに来るあかり次第だ。オレの知ったこっちゃねーよ」

 ――この男はぁ~っ。

 あかりがどれだけ真剣に想ってくれてるのか気に留めてる様子もない。幼なじみってだけで自分の遅刻も省みずに毎日のように迎えに来てくれるなんてこと、そうそうあるはずがないってもんなのに。

「ちょっとあかり、聞いたぁ? こんなこと言ってるのよ、この甲斐性なしは」

「……うぅん。それは、浩之ちゃんの言う通りだし」

 ヒロの反応ばかりじゃなく、あたしはあかりの答えにも少しあきれる。こういうときはもう少し言うべき言葉がありそうなものだった。

 ふたりにあきれたあたしは、それをヒロに向けて大げさに肩をすくめて言う。

「あ~あ、あかりはホンっト優しいんだからぁ。それに引き替え、この甲斐性なしは」

「……テメエ、そこまでにしておけよ」

 どうも最初に思ってたことと話の流れが違ってきてるらしい。ヒロが怒りを爆発させそうにしていた。

 ――あたしたちらしい、って言ったら、あたしたちらしいんだけどね。

 もうちょい話の流れを軌道修正しようと考え始めたときだった。

「よぉ~し、みんなぁ! 席に着けぇ!」

 突如として先生が教室に入ってきた。

「ええ~っ  チャイム鳴ってないのにぃ!」

 叫び声を上げたあたしは急いで自分の教室に戻るべく走り始める。机に足を引っかけて転びそうになりながらもB組の教室を出て、いままさに教卓側の扉を開けてる先生に先行して後ろの扉からA組に駆け込んだ。

「おはよう、みんな。とりあえず出席を取るから席に着け」

 のんびりと話す先生の言葉を聞き流しつつ、あたしは息を切らせて机にかじりついていた。

 ――せっかく気の利いたセリフのひとつくらい言ってやろうと思ったのに。

 それもこれもあかりを呼びに来させて遅く来るヒロの奴が悪い。頭っからそれを決めつけながら、あたしは先刻のふたりの様子を思い返していた。

 やっぱりあかりはヒロと一緒のクラスになれて嬉しいらしい。直接言葉にすることはないけど、そういうところのあかりの反応はストレートだ。細かい仕草や表情からしっかり見て取れる。

 ――それにヒロの方も。

 色恋沙汰はからっきしのあいつからも、ほんの少しだったけど、あかりと同じようなものを感じていた。

 ――そしてあたしは……。

「長岡志保! いないのか?」

「え? あ、はい!」

 一瞬、あたしはなにを考えていたんだろう。出席を取る先生の言葉が聞こえてなかった。

 机に突っ伏していた身体を勢い良く起こして返事をする。集まってくるのを感じる視線をできる限り無視しながらも、顔が熱くなってくるのが抑えられない。

 ――どうもあたしらしくなかったな。

 けっきょく、そのときあたしがなにを考えようとしていたのか、思い出すことはできなかった。

 

         * 2 *

 

 放課後、五年半使っててぼろぼろのランドセルを肩にかけてその教室の扉を開けると、そこにはもうかなりの人数が集まっていた。

 やる気のない部員はとっくのとうに来なくなってるこの時期、この新聞部が使ってる教室には見慣れた顔しかない。「こんちわぁ」と全員に挨拶をすると、同じような挨拶がばらばらと返ってきた。

「遅いぞ、志保」

 挨拶の代わりにそんな声をかけてきた男子。

「仕方ないでしょ。先生に頼まれた仕事やってたんだから」

「どーせお前のことだ、この前のテストの点が悪くてしかられてたんじゃないのか?」

「違うわよ! それだったらあんたこそ、今日の漢字の書き取り、たいしてできなかったんじゃないの!!」

「なにぉー!」

「なによぉ!」

 ふたりで額と額を近づけて睨み合う。

「まぁまぁ、ふたりとも。先に記事仕上げないと」

 そう言ってあたしと彼の間に、困った顔をした女の子が割って入ってきた。

「まったく、お前が遅れてくるからうちらの班の記事も遅れてるんだぞ」

「わかってるわよ」

 頬を膨らませながら手近な椅子に座って、ランドセルから書きかけの記事を取り出した。

 ふと周りを見てみると、作業の手を止めた他の部員たちがあたしたちのことに注目してる。あきれたように笑ってる奴からうるさそうに顔をしかめてる奴まで、その表情は様々だ。

「それじゃあみんな、各自の作業にかかってくれ」

 なにか文句を言ってやろうと腰を浮かしかけたとき、ちょうど部長のどことなく笑いを含んだ声がかかった。その声にみんなはそれぞれの作業に取りかかっていく。

「恥ずかしい。それもこれもお前が遅れてくるからだぞ」

 静かになった部室の中で、あたしに向かってさっき文句を言ってきた彼がひそひそした声で言う。

「なに言ってんのよ。あんたが突っかかってくるからでしょ」

 負けずにあたしも言い返した。

「やるかぁ?」

「やったろうじゃない!」

「だからぁー。わたしたち一番遅れてるんだから、やらないと終わらないよぉ」

 今回も同じように、声が大きくなってきたところで割って入ってきた彼女によって、あたしたちの睨み合いは終わりを告げた。

 彼と彼女のあたし。こんな三人の関係は、あたしが新聞部に入った五年生のときから始まった。彼とあたしが張り合って、彼女が止めに入るっていうパターンも、いまではもうおきまりのものになっていた。

 彼とあたしが同じクラスで、彼女は隣のクラスなんだけど、あたしたちが一緒に行動するときはかなり多い。新聞部員として記事を集めるときはもちろん、学校以外のときでも、一緒に遊ぶことが多かった。

 そんな三人の関係の中で、あたしはずいぶん変わっていた。

 小さい頃からよく喋る方だったけど、さっき彼としていたような口調は、ふたりと出会ってからのように思える。いつも身の回りで起こる事件や話題を気にするようになったのは、明らかに彼と張り合って記事を集めるようになってからだった。

 そんなことを思いながら作業を続けていると、視線を感じた。目を上げてみれば彼があたしのことを睨んでなにかを言うかのように口をぱくぱくさせてる。

 なにを言いたいのかはだいたいわかったけど、あたしはそれに対して舌を出してやった。

 すかさず消しゴムをつかんで振り上げる彼。しかしその動きは、意外と強い彼女の冷たい視線によって抑えられた。

 作業に戻りながら、あたしは彼に聞こえないよう小さな声でクスクスと笑う。

 ――ずっと、続くといいな。

 あたしがいて、彼がいて、ふたりは喧嘩みたいなことばっかりしてるけど、でも間には彼女がいてくれる。

 上手くバランスの取れた三人の関係。

 あたしはそれがずっと続いてくれることを、心から望んでいた。

 

           *

 

「見て見て、あかり! あのワンピース、チョーかわいいっ!」

「あっ、ほんとだ」

 言いながらあたしはブティックのショウウィンドウに近寄っていった。

「あれは、あれは?」

「うん、あれもいいね」

 ワンピースの横にあるツーピースを指差して言うと、隣に並んだあかりが頷いた。

 なかなか最初の一歩を踏み出せないふたりを近づけるためには、まずはなんと言ってもふたりでいる時間を増やすことだ。

 と言うわけで、始業式しかなくて学校が早く終わった今日、さっさと帰るのかと思ったのに存外乗る気のヒロを捕まえて、部活で忙しい雅史以外の三人で商店街に繰り出していた。

 本当ならあたしがいない方が雰囲気はよくなるんだろうけど、ふたりともまだまだお互いに近づこうと積極的に動いたりしてない。だからあたしみたいなのが間に入って一緒の時間をつくろうというわけだ。

 なぁんて画策をしてるっていうのに、ヒロの方と言えばショウウィンドウの前にいるあたしたちに近づくことなく、買い物の時間が近づいて主婦たちが行き交ってる商店街の道の真ん中に立ち止まってる。

 ――せっかく両手に花なんだから、少しは間に入ってきなさいよっ!

 そんなあたしの内心はともかく、ガラスに映るヒロの顔は手持ち無沙汰そうな仏頂面だ。

「ヒロぉ~。ヒロはどう思う?」

 このままじゃらちがあかないと思って、振り向いたあたしは彼に声をかけた。やっと寄ってきた彼だけど、あんまりいい顔にはならない。

「ん~。まぁ、いいんじゃねぇか」

 口を開けばこれだ。

 せっかく話を振ってやったもこんな感じじゃ、あかりとの関係に進展なんてありゃしない。女の子の服の話についていけないのはわかるけど、興味くらいもってほしいものだと思う。

「やっぱりいい値段するね」

 服につけられた値段を見てあかりが溜め息をついた。

 見てみれば、シャツだけで五桁、ワンピースともなると六桁の値段がついてる。高校生のあたしたちに手が出る値段なんかじゃない。

「そりゃそうだろうな」

 あかりの肩越しにヒロが服を見て言った。

 ――こうして見ると、いい感じなのにねぇ。

 真後ろに立ち首だけをちょっと伸ばしてるヒロの顔を、あかりが上目遣いに眺めてる。

 制服を着てることと、時間が時間だけに周りにいるのが主婦ばっかりってことがマイナスにしても、あたしがいなければふたりの距離は自然な近さがある。でもそれが本当は幼なじみだからってことを知ってるあたしにとっては、なんとなくあきれちゃうものがあった。

 あかりのヒロへ向けた意識は、髪型を変えて以降、明らかだ。彼のことを見ている瞳にもそれは映ってる。それなのにヒロの方と言えば、六桁の数字にげんなりとした顔をしてるばかりで、それに気づく様子もない。

 ――まずはヒロにそのことを意識させるないといけないみたいね。

 その後も服を見て回りながら、あたしはそんなことばかり考えていた。

 

           *

 

「方法か……」

 つぶやきを漏らして帰りの準備を終えた鞄を担いだ。

 A組の教室を出て帰宅準備の生徒でにぎわう廊下を歩く。授業初日だったからこれからやる授業の説明ばっかりで、今日は宿題なんかが出ることもなく終わった。それでみんな開放的になってるのか、廊下は昨日と同じくらいの騒がしさになっていた。

 溢れ返る人たちの間をすり抜けて、あたしは一緒に帰る約束をしたあかりが待つ昇降口へと向かう。

 第一の難関は、どうやらヒロの意識らしい。

 もとより鈍感なあいつだけど、それに加えて女の子を女の子として意識することがないみたいに見える。そこの部分をまずどうにかしないと、本格的に意識するようになったといっても、あかりみたいなささやかなアプローチじゃヒロが気づくことはない。

「どうにかしてやらないといけないわよね……」

「なにをどうにかするの?」

「え?」

 突然声をかけられてうつむいていた顔を上げると、そこには二年生二日目ながら早速サッカー部のユニフォームを着た雅史の姿があった。

「雅史ぃ~。いきなり声かけないでよ。ビックリするじゃない」

「ゴメンゴメン。それで昨日はどうだった?」

 それまでのことなんてどうでもいいかのように、さわやかな表情で雅史が問う。

「まぁ、なんてことはなかったわよ。商店街回って、ちょっとだけゲーセン寄って、それからカラオケね。楽しかったわよ」

「それはよかったね。それから、いまはなにを考えてたの?」

 人好きのする笑みを浮かべてる雅史。果たしてこの笑みは鋭いからなのか、ぜんぜんなにも考えてないからなのか、彼の顔からは読みとれない。

 ――こういうところ、意外にあなどれないのよねぇ、こいつ。

 男らしさよりもむしろ可愛いなんてことで人気がある雅史だけど、そんなところばかり見てると驚かされたりする。笑顔で騙される鋭さを本人が意識してないらしいのが問題なのかも知れない。

「……まぁ、そのね、あかりとヒロのことなんだけど。歩きながら話さない?」

「うん」

 まだ廊下から人が引ける気配はない。立ち話をしてると邪魔になる上に目立つ。この先の話はあんまり他の人には聞いてほしくないから、とりあえず歩きながら話すことにした。

「あかりのこと、気づいてる?」

「あかりちゃんのこと?」

「最初から最後まで言わせる気ぃ? 髪型を変えてからのあかりのことよ」

「――そのことね」

 中学の頃からつき合いがあるだけに、こういうところは面倒がなくて嬉しい。ヒロと違ってあかりの変化には雅史も気づいてるみたいだ。

「どうせだからふたりのことを影ながら手伝って上げようと思ってるんだけどね、昨日の様子だとどうもヒロの方に問題あるのよねぇ」

「ふぅん。志保らしいね」

「それ、どーゆー意味よっ」

「別に深い意味はないんだけど」

 含みのありそうな発言に突っ込みを入れようとしたけど、雅史の柔らかな笑みに遮られてしまう。

 ――どうもこいつの笑顔って苦手なのよね。

 それ以上なにも言えなくなったあたしは、仕方なく話を戻す。

「せっかくあかりがあんだけのことしてるってのに、ヒロはぜんぜん気づかないんだもの。そこんとこどうにかしないと……」

「それでさっき志保は考え事してたんだね」

「そうなのよ」

 階段の手前で立ち止まる。そこを降りればもうすぐに昇降口。こんな話、あかりに聞かせるわけにはいかない。

「そうだね、浩之はそういうことに疎いのは確かかもしれないね。そのことに気づかせてやればいいんじゃないかな。女の子っていうのを意識させてやれば」

「気づかせるかぁ……」

 顎に手を当てて考え込む。

 雅史の指摘通りなんだけど、気づかせるためにはどうしたらいいんだろう。

「うぅ~ん」

「考えててもどうしようもないんじゃないかな? 女の子らしさが見えるような――、そんな感じの服を着て見せるとか」

「服ねぇ」

 方法としてはそういうのもありだと思うけど、どうやったらあかりを話に乗せることができるのか思いつかない。

 それが出てこずに、あたしはうなり声を上げてさらに考え込んでしまった。

 そのとき思いつく。

 ――そうだっ!

「雅史、あかりを待たしてるから行くね」

「どうしたの? 志保」

「いいのいいの。それじゃね」

 答えも聞かずに階段を下り始めた。

 ――今日は、あかりと一緒に帰れなくなっちゃったわね。

 

 

 下駄箱のところにはあかりの姿はなかった。

 靴を履き替えて昇降口まで出てみる。そこから校門の方に目を向けると、あかりがいるのが見えた。

「へぇ」

 あたしがそんな声を上げたのは、あかりがひとりじゃなかったから。彼女の隣にはヒロの奴が立っている。

 ――いい雰囲気じゃない、あのふたり。

 昇降口から校門に続く道から少しずれた桜の下に立ってるヒロとあかり。

 ちらつく雪のように降ってくる桜の花びら。その中のふたりの間に漂う雰囲気は、傍目に見るといい感じだった。

 ――このまま今日はふたりきりの世界をつくってもらいましょうかね。

 待たせちゃったのは悪いと思うけど、今日やるべきことはあかりがいるとやりづらい。もちろんヒロが着いてくるなんてのは言語道断だった。

 ひとりで行くための言い訳を一瞬考えて、あたしはふたりのもとに走り出す。

「あ~、いたいた。ゴメン、あかり、悪いんだけど、あたし、ちょ~っと急用できちゃってさ。今日は一緒に帰れないや」

「……そうなの?」

 突然やってきたあたしに驚いたように目を見開いてるあかり。彼女はあたしの言葉を聞いて、少しだけ悲しそうな顔をした。

「おい、志保、人を待たせといてそりゃねーだろ」

「あら、誰かと思えば、帰宅部主将じゃない。あんたもいたの?」

 自分で言って白々しいと感じるけど、先にふたりのことを見つけてたなんて知らないヒロにはそれはわからない。あたしの言葉に食いつくように声を返してきた。

「いたら悪いかよ、寄り道部主将」

「そんな部がどこにあんのよぉ!」

「ま、まぁ、まぁ……」

 睨み合いになったのもつかの間、あかりが割って入ってきてくれた。

「とにかくあかり、ゴメンっ。今日はその口うるさいのと一緒に帰ってよ」

「おい、こら志保、テメー……」

 あかりに向き直ってそう言うと、またもやヒロの奴が食ってかかってくる。でも「急用」と理由をつけたからには、さっさとこの場を立ち去らないといけない。

 ヒロの言葉を最後まで聞かずに、あたしは校門を出て走っていった。

 ある程度走ったところで後ろを見てみると、あのふたりはいつもは曲がるはずの道でなく、あたしと同じ方向に――商店街に向かって歩いてきてる。

 ――まっ、あのふたりだったらかち合うことはないか。

 そんなことを考えつつ、でも追いつかれるわけにはいかないから、急いで商店街に入って目的の場所に向かった。

 八百屋さんや肉屋さんなんかの食べ物が売ってるお店が並んだ道を曲がって、ブティックとかがたくさんある場所に入る。あたしはその中でも、昨日のうちに見つけておいたシャレたブティックの前に立った。

 ヒロの問題は女の子への意識なのは明らかだ。そこのところをどうにかしてやらないと、あかりのせっかくのアプローチも無駄になっちゃう。そうさせないためにもまずあたしが女の子らしいところを見せて、あいつの意識を変えようと思ったわけだ。

 周りを見回してもヒロやあかりの姿はない。たぶんあのふたりだとこっちの方に足を伸ばすことはないだろう。

 安心しつつ、あたしはブティックの扉を押し開けた。

「いらっしゃいませ」

 そんな声とともに笑みを浮かべて近寄ってくる女性の店員がひとり。

 学校帰りで制服のままだけど学校が終わってる時間だから問題はない。それにここはあたしくらいの年代の娘がよく来る店だ、それくらいのことでなんだかんだと言われることはない。

「ん~」

 適当にブラウスやスカートを見ていると、「こんなのはどうですか?」なんて言いつつ店員が上着を持ってきてくれた。

「へぇー」

 とデザインに感心しつつ触ってみたのはいいけど、すぐに苦笑いを浮かべつつ返すこととなった。つけられ値段が、どうやってもあたしの懐で買える金額より一桁多かったから……。

 ――どうせ買うわけじゃないんだから、別にいいんだけど。

 思っていてもあたしの足は手頃な価格の服が並んだところに向かってる。そこで感じのいい服を選び始めた。

「これいいな。これも……。うぅ~ん、こんな感じのいいなぁー。――あのぉ、試着してみていいですか?」

「どうぞどうぞ」

 愛想笑いで了解してくれた店員に持ちきれない服を持ってもらって、試着室へと入っていった。

「ふぅ~んふんふぅーん。えっへっへーっ」

 服を着てみて、試着室の鏡の前でクルリとひと回りしてみる。

 ――けっこう似合うじゃない。

 制服ともいつも着てる服とも感じの違う自分の姿に思わず微笑みが漏れてきた。

「ありがとうございましたぁー」

 とりあえず今日のところは服を返して、声ばかりは大きい店員の声を受けつつあたしは店を出た。

 思いのほか時間を食ったらしく、外はもうすっかり夕暮れ時となっていた。まもなく夕食の時間だから主婦の姿はほとんどない。寄り道してる学生や早くも家路についてるサラリーマンたちなんかでにぎわう商店街を歩いてく。

 ――これで明日はばっちりねっ。

 スキップしたくなる気持ちを抑えながら、あたしは頬を緩ませていた。

 

           *

 

「なぁ。オレはどういう用件で連れてこられたんだ?」

「あれ? 言ってなかった?」

「聞いてねぇよ」

 服を見てきた翌日、あたしは早速ヒロを連れ出して商店街に来ていた。あかりと帰ろうとしてたところを強引に引っ張ってきたために、ここまで来てやっと理由を訊ねられた。

「洋服の見立てをやって欲しいのよ」

「はぁ?」

「あたしが選ぶ洋服を、あんたのセンスで採点して欲しいの」

 あらかじめ考えていた言い訳を口にする。

 本当のところ、昨日のうちにあたしが長い時間かけて目星をつけておいたんだから悪いわきゃない。ヒロの奴がそれに対してどれくらいの点数をつけるのか、そっちの方が楽しみだった。

 いろいろ言ってるのにヒロはなおも引き下がってくる。

「そうしたいのはヤマヤマだけどぉ……。結局あんたが一番気軽に話せるのよ」

「あぁ、そーかい。なら文句言うな」

 思わず本音が出たりしたけど、そうこうしてる間にブティック手前の角までやってきた。

 ――これが一歩目ね。

 選んでおいた服は、いつもよりリキ入れて選んだだけにお金があるならすぐにでも買っちゃいたいくらいのものばかりだった。

 ――いつもと違うあたしの格好を見て、ヒロ、どんな顔するだろう。

 それを思うあたしの頬は、自然と緩んできていた。

「で、どこで買うんだ?」

「この先の……って、あれ?」

 角を曲がってお店を指差した瞬間、血の気の引く音が聞こえるというのは冗談じゃないのを実体験した。

 指差した先にある、昨日行ったブティックにシャッターが降りている。そこに書かれた文字を見てみると、きっかり今日は定休日だ。

「なんだよ」

「あはは……今日、お店お休みみたいねぇ……」

 浮かれていた気持ちが一気に冷めてくる。

 ――あたしは、なにをしてたんだろう。

「ったく、なにやってんだか」

「……」

 ヒロの言葉に言い返すことができない。

 本当に自分がなにをやっていたのか、わからなくなっていた。

 

 

 その後ヒロと商店街を回って夕刻。

 あいつと別れたあたしは、夕陽に染まる街をひとり家に向かって歩く。

 けっきょく、計画は単純なミスによって失敗に終わった。明日になればお店は開いてるわけだけど、もう一度ヒロを連れて行く気なんてなくなっていた。

 ――あたしは、なにをしてたんだろう。

 頭の中を駆け巡ってるその思い。

 今日のことはヒロとあかりをくっつけるためにやってたのに、実際浮かれてたのは、あたし。最初の目的なんて忘れて、いつもと違うあたしのことをヒロに見せるのを楽しみにしていた。

 あたしは、ヒロのことが好き。

 ヒロとあかりのために、って思ってたのに、いつの間にかその想いが割り込んでて、そのことに気づかなくて、無意識のうちにあたしを見せることを目的にしてた。

 素直になりたいという願いがだんだんと強くなっていくのを感じる。いつか結ばれるだろうふたりに恐怖を抱いている自分が、大きくなってきていた。

 少し目を上げると夕陽が目に染みた。

 熱くなった目頭を押さえて立ち止まる。

 ――もう泣かない。決めたから……。

 これから先ふたりのためになにができるのか、いまのあたしにはわからなかった。

 

         * 3 *

 

『ゴメン』

 その言葉だけが耳に残っていた。

 いつもと変わらないように見える放課後。でも卒業式まで残りひと月を切った冬まっただ中の今日は、四時にもならないのに廊下には寂しさを感じる。

 気がつくと人気がほとんどなくなった階段を上がって、新聞部の部室へと向かう。扉を開けてみると、今年最後の新聞制作も終わったそこにいたのは、仕事が残っているわずかな部員だけだった。

 挨拶もなく五年生の新部長、六年生の前部長たちが集まってるところに足を運ぶ。そうやって仕事をしてる人以外にも用事もなく部室にいる人もいて、その中にはあのふたりもいたけど、あたしが彼らに目を向けることはない。

「コピー機の方は?」

「もう先生に許可取ったよ。あと紙が届いたら印刷できるって」

「ここまでのやり方、しっかり覚えてるな?」

「あははは、あははははは……」

 みんなの話を聞き流しながら、あたしはただうつむいて立ってる。それだけでも辛いのに、立ち去るために足が動いたりはしない。

 三人でいるのは、楽しかった。

 あたしがいて、彼がいて、ふたりは喧嘩ばかりしてるけど、その間には彼女がいてくれた。特別なにかをしてるわけじゃないのに、三人でいるだけで、楽しい時間が過ごせていた。

 それが卒業式ひと月前に近づいたある日、あたしは気づいてしまった。

 卒業後、あたしは彼とは別の中学に行くことになってた。それでも三人の関係が終わることがないのはわかってるのに、彼との距離が遠くなってくことに堪えられない自分に、彼への想いに気がついた。

 告白したのは一昨日。

 昼休みに校舎裏に呼び出して、思い切って自分の想いを伝えた。

 帰ってきた言葉はたったひと言。

『ゴメン』

 そんな、いまも耳に残ってるひと言だけだった。

 彼はその言葉の理由を言わずに去っていった。言われた瞬間、あたしも理由がわかったから、訊いたりはしなかった。

 こっそりと、ふたりのことを覗き見てみる。

 ただ近くに座ってるだけの彼と彼女。でもそこには、『ゴメン』という言葉に理由が見える。

 もしあたしがなにも言わなければ三人の関係は崩れなかったかも知れない。いまもあのふたりと楽しい時間が過ごせたかも知れない。けれどあたしは知っている。

 三人の関係は壊れてしまった。

 そしてそれを壊したのが、あたし自身であることを。

 

           *

 

 最初に出会ったときから予感はしてた。

 中学の時、初めてヒロに出会った瞬間、「あたしはこいつのことを好きになれるんじゃないかな」って感じた。それと同時に、あいつの隣にいるあかりの存在に、そのふたりの距離に、あたしは気がついた。

 そんなふたりとあたし、そして雅史の四人で、これまで楽しく過ごしてきた。

 あかりがヒロを本気で意識するようになって、その前からヒロとあかりのことを知っていたあたしは、彼女の想いに世話を焼くなんてこと、当たり前だと思ってた。

 ――違ってたんだ。

 本当は心の中で、希望を見いだそうとしていた。あたしとヒロが結ばれる方法を、あいつの心が自然とあかりから離れるような方法をずっと探し続けていた。

 それに気づいてしまったあたしは、もうふたりに対してなにもできない。それだけじゃなく、あのふたりにはたぶんあたしの手助けなんて不要になりつつあった。

 昨日のことだ、矢島とのひと悶着があったのは。

 あたしは直接見ることはなかったけど、聞いた話では矢島という奴が頼んだ代理告白を、ヒロが拒否したという。あいつが拒否するときにあかりに向かって言った言葉の詳細まで、あたしの耳には届いていた。

 ――もう、あのふたりは大丈夫よね。

 溜め息をついたあたしは、うつむいていた顔を上げてあらためて歩き出す。

 帰り道。とくに用事がなく、誰とも一緒に帰る約束をしてないあたしはひとりで帰っていた。

 ヒロやあかりたちとも最近はあんまり会ってない。ブティックの事件以来、ふたりに会わす顔なんてなくなっていた。

「お~い、志保!」

「はぁ~い……って、なんだ、ヒロじゃん」

 突然背後からかけられた声に反射的に反応する。でも振り向いたそこにいたのは、呼んだ通りのヒロ。

「なんだはねーだろ」

「なんか用?」

 いつも通りのやりとりができてるけど、本当は内心凄く動揺してる。こいつのことを妙に意識しちゃってるあたしがいる。

 そんなことを思っていても、できるだけ表には出さないよう努力していた。

「いや、とくに用ってわけじゃないんだけど、見えたからさ」

「はは~ん。志保ちゃんと一緒に帰りたいのね?」

 立ち止まったあたしはヒロに胸を反らして言う。

 ――そう、これがいつものあたし。

「誰がオメーなんかと帰るんだよ!」

 ヒロは気づかない。告げてないあたしの想いなんかに、鈍感なこいつが気づくはずもない。

 突っかかってくるヒロに、あたしも応じてやる。

「じゃあ、なにしに来たのよ!」

「ひとりぼっちのオメーを見かけて、誰も相手にしてくれねーのかと思ってな。心配して声を掛けてやったんだよ!」

「いつも人気者の志保ちゃんに向かって、よくもそんな口がきけるもんね!」

「けっ、自分で言ってりゃ世話ねーぜ」

「なによう!」

「なんだよ!」

 歩きながら、睨み合いながら、あたしたちは罵り合う。

 いつも通りのあたしたち。端から見ると仲の悪いふたりだけど、あたしたちにとってはこれが楽しい時間。

 ――ずっと、続くといいな。

 あたしがいて、ヒロがいて、あかりもいて、それから雅史もいる。いまもふたりで充分楽しいけど、四人になればもっと楽しい。

 かけがえのない時間だった。もう二度と失いたくない大切な関係だった。

 それを失わないためには、いまも胸の中で表に出ようと暴れてる、あたしのヒロへの想いを抑え込んでおきさえすればいい。

 いつか、ヒロとあかりが結ばれるから。そう遠くないうちに来るそれが、必ずあたしの想いを打ち消してくれるから――。

「なにニヤニヤ笑ってんだよ、気持ち悪ぃー」

「細かいことは気にしないの、ね?」

「なんだかなぁ~」

 ぶーたれてるヒロに言う言葉はない。伝えるべきことはない。

 この胸の想いは秘めると決めてある。最初からそう決めてある。それでも伝えたいと思う気持ちはだんだんと大きくなってきてる。

 いつまで想いを秘め続けられるのか、笑顔の裏で、あたしは不安に思っていた。

 

           *

 

「へぇ~。それってそういうことだったんだ」

「そうそう。そうなんだよ。志保、知らなかったんだ?」

「さすがにね。そっち系の情報はやっぱ敵わないわよ」

「でも志保はさぁ――」

 昼食のお弁当を食べ終わって、ランチボックスを鞄の中にしまいながらあたしは友達と雑談を――もとい、情報集めに励んでいた。

「おい、長岡志保はいるか?」

 そんなときにかかってくる声。

 クラスの人の声はだいたい覚えてるつもりだけど、教室の入り口の方からしたその声の主を、あたしは思い出すことができなかった。

「なに? 誰?」

「おれだ、おれ」

 まるであたしが知ってるのが当たり前のように答えるそいつに、それまで話してた友達と一度目を合わせてから席を立つ。

 教室の入り口に立ったまま入ってこないそいつ前に立った瞬間、誰なのか思い出した。

「あ、矢島!」

「そうそう」

 背が高くて体育系のがっちりした体型の彼は、ヒロと同じクラスでバスケ部の矢島だった。少し前にあかりのことについて訪ねられたのを覚えてる。それから彼についてもうひとつ思い出すことと言えば――。

「あかりにフラれたんだってねぇ~」

「違うわぃ! あの野郎が一度やるって言ったクセに土壇場で拒否しやがったんだっ!」

 しっかり叫び終えてからハタと我に返る彼。

「それで、今日はなんの用?」

「ちょっと話があるんだ。着いてきてくれ」

 茹で蛸のように顔を真っ赤にしながら矢島があたしの手を引こうとする。

「なに? 今度はあたしがお目当て?」

「それもっ……、違う。別の用事だ」

 今度は叫ぶ前に気づいて声を落とした。

「ひゅーひゅー。志保、モってるぅ」

「あんまり男を拐かしちゃだめだよぉ~」

 そんな声援だかなんだかわからない声を背中に受けつつ、矢島に手を引かれて廊下を歩いていった。

 連れてこられたのは人気のない校舎裏。校庭のすぐ裏の割にはなんにもないところだから、ほとんど人が来ることはない。まるでそのためにつくられたかのように、月数回はここで男女の恋愛劇が繰り広げられてるっていう曰く付きの場所だった。

 ――まっさかあかりにフラれたからあたし、っていうようなタイプじゃないわよねぇ~。

 期待してるわけじゃないけど、場所が場所だけにヘンな想像だけが広がっていく。どうしようか迷ってるらしい彼は、しかめっ面であたしのことを見ていた。

「用ってなによ」

「それはさ……」

 あたしに言われて口を開いたことで吹っ切れたのか、矢島が話を始める。

「お前、藤田のことが好きなんだろ」

「え?!」

 突然そんなことを言われてあたしは戸惑う。答えを返せずに、見えないように半歩矢島から身を離した。

「ぎこちないんだよな、お前。傍目からはよく見えんだけどさ、ぜんぜんあいつに接近しようとかしないのな」

 ――まさか、気づかれてたの?

 そんな風な素振りを見せた覚えなんてなかった。ヒロのことを好きだって気づいたのはずいぶん前だけど、その前から友達としてつき合ってて、気づいた後も変わらないつき合いをしてきたんだから、他の人が気づくことなんてないはず。

 たぶん、矢島の言葉ははったりだ。あたしたちの側にいるわけでもないこいつがそのことに気づいてるはずがない。

「なんの冗談よ。でっち上げるのもいい加減にしてよね」

「まぁ、とぼけててもいいけどな。――それより、提案なんだがよ」

「提案?」

 どうせろくでもない話だろうと眉根を寄せて矢島のことを見る。

「おれさ、今度はしっかり自分の口で神岸さんに告白するから、長岡、お前は藤田に告白しろ」

「っ!」

 ――なに莫迦なことを。

 そう言い返そうとしたのに、言葉が出てこなかった。同時に、別の想いがあたしの中に生まれていたから……。

 ――ヒロとあたしが結ばれる方法。

 あかりと矢島という関係が成立するなら、あたしはヒロへ胸の中の想いを告げられる。それはそれまでずっと考えていて出てこなかった、四人の関係を崩さない方法だった。

「素直になろうぜ。な?」

 言葉とともになれなれしい笑みを浮かべる矢島にあたしが返したものは――。

「なっ、なにすんだよ!」

 しびれる右手に左手を添える。

 力加減なんて考えられなかった。あたしがひっぱたいた矢島の頬には、しっかり手のひらの形が赤く残っている。

 許せなかった。

 矢島もそうだけど、一瞬でも彼の言葉に欲望を抱いたあたし自身が。

 あかりと矢島の関係が成立すれば、確かに四人の関係は事実上壊れないかも知れない。でもあかりがヒロから離れていくことで、いつか自然消滅していくはずだった。

 すぐに考えればわかることなのに、あたしはわずかな時間にしても自分勝手な想いに流された。

 そんな自分が許せなくて、その想いの原因をつくった矢島のことも許せなくて、あたしは彼のことを平手でひっぱたいた。

「あたしたちは、あたしたちの関係はそんなに軽いもんじゃない!」

 目をつむって、両手を握り締めて、あたしは言い放った。でも震える両手が、あたしの想いの揺れを表してる。

「お前、なに泣いてんだよ」

「泣いてなんてないでしょ!」

 腫れた頬を押さえる矢島の言葉を否定した。

 事実、あたしは涙を流していなかった。けれど涙が出てないだけで、泣いてるのと変わりなかった。

「考え直せよ。それがお前にとって――」

「うるさいわねっ!」

 矢島を突き飛ばしてあたしはその場を走り去った。

 

 

「あっ、すまぁーん」

「いいよいいよ。僕が取りに行くから」

 ゴール前で大きくクリアされたボールは、校庭を飛び出して行ってしまった。蹴った本人の代わりに雅史がボールを追って校舎の裏に走っていく。

「えぇっとどこかな」

 思いのほか転がっていったボールはすぐには見つからず、雅史は滅多に人が来ないような場所まで踏み込んでいった。

「うわっと、……あれ? 志保?」

 雅史がぶつかりそうになりつつ抱き留めたのは、志保だった。

「どうかしたの?」

 泣いてはいない。けれど泣きそうな彼女の様子に、その理由を問うた。

「なんでもない!」

 そう言って志保は走っていってしまった。

 走ってきた方向を見てみると、そこにいたのはひとりの男子生徒の姿。遠目に彼が自分や浩之と同じクラスの矢島だと気づき、数日前のエピソード思い出した雅史は眉をひそめた。

「……」

 一瞬目があった後、なぜか片頬を押さえている矢島は近くの昇降口から校舎の中に姿を消した。

 ――なにかあったのかな?

 思いつつも雅史にはそれを知る術はない。

 ちょうど見つかったボールを手に、雅史は校庭へと戻っていった。

 

         * 4 *

 

 校長先生の話は、予定の五分を過ぎても終わる様子がなかった。

 広い体育館の中に響きわたる単調な声。いつの間にか卒業式に参列する生徒の中から、すすり泣く声が聞こえ始めていた。

 あたしもまた、流れ出そうになる涙を必死にこらえている。

 卒業は、涙を誘うもの。雰囲気に飲まれると周りの同級生のようになる。

 でもあたしが泣きそうな理由は別にあった。

 彼への告白によって崩れてしまった三人の関係は、戻らなかった。そればかりか、恋愛関係に詳しい友達に聞いた話によると、彼と彼女はつきあい始めたらしい。

 楽しかった時間は失われてしまった。

 あたし自身が壊してしまった。

 大きく息を吸って、流れ出そうになった涙をこらえる。

 いまから思えば、三人でいられれば充分だったのかも知れない。あたしさえ自分の想いを抑えていられれば、それで良かったのに……。

 戻ることのない時間。

 修復のできない関係。

 いくら悔やんでも悔やみきれなかった。悔やんだところで、どうすることもできなかった。

 校長先生の話が終わった。

 式次第の予定で残っているのは、卒業証書の授与と、校歌の斉唱、それから閉式の言葉。

 泣きたくはなかった。泣く気はなかった。

 でも、あとどれくらい堪えられるのか、あたしには自信がなかった。

 

           *

 

 ――あたしのお節介なんて、もう必要ないんだな。

 ヒロのあかりの距離は急速に接近していた。それはもう、誰の目にも明らかなくらいに。

 いつもよりは三十分は早い時間。夏に近づくこの時期になると、こんな時間でも昼間のような日差しが窓から射し込んで来てる。それでも時間が時間だけに、教室にはまだあたしの他に人は来ていなかった。

 矢島の言葉によって、あたしは無意識のうちに隠していた自分の本当の想いに気づいた。

 抑えてるつもりなのにいつの間にか希望を探そうとしてる自分がいるのを感じる。幼なじみから恋人同士へと距離を詰めていこうとしているふたりを見てると、それが抑えられなくなりそうになる。

 だから最近、あたしはふたりに会わないよう早い時間に登校するようになっていた。

 ――早く、早くふたりが幼なじみって関係を越えてくれれば……。

 急速に接近してても、まだ恋人という関係までには至らないふたり。

 そこまでなってくれれば、忘れられる。胸の中でうずいてるこの想いを断ち切れる。そうなるまで自分を抑えつけておかなくちゃいけなかった。

「はぁ~」

 溜め息をつきながら机に突っ伏す。

 ――本当に断ち切れるかな?

 あってはいけない心の揺らぎが生まれたときだった。

「あれ、志保じゃない」

 教室の扉が開いて女の子がひとり入ってきた。

 彼女は小林芳美。今年から同じクラスになったクラスメイトのひとりだ。

 それにしてもどうしたんだろう。壁掛けの時計を見てみると、時間が経ったと言ってもまだ日直が来るにも早い時間だ。

 芳美は遅刻してくるようなタイプじゃないけど、こんな時間にくるような娘でもない。

「おはよう。今日は早いわね」

「……うん、まぁね。志保だってそうじゃない」

 ――あれ?

 それほど親しくないにしても、友達関係が広いあたしは芳美と話すことはよくある。いまのほんのちょっとしたやりとりだったけど、彼女の細かな仕草に微妙なものを感じ取った。

「芳美。もしかして――」

「え? あっ……。跡でも残ってる?」

 あたしが言った言葉に、彼女は顔を真っ赤にしてうつむいた。

 芳美には前々からつき合ってる彼氏がいるという話は聞いていた。そしてあたしが芳美に見たものは、それまで彼女に見てきた恋愛中の「女の子」というものじゃなく、「女」としての彼女。

「う、うぅん。そんなことないんだけど」

「よかったぁ。でもさすがだね、志保。どうしてわかっちゃったんだろう」

 微妙な変化だった。

 肌の見えてる部分にキスの跡があるわけじゃない。気づかないくらいの微妙な変化だったけど、でもあたしは芳美に昨晩なにがあったのかを敏感に察知していた。

「うん、そうなんだ。昨日の夜、彼と――ね」

 開き直ったようにそう言った後、やっぱり恥ずかしいのか、芳美は赤い顔をしながら乱れてもいない髪をしきりに手で整える。

 ――頑張ってるんだな。

 彼氏と初体験を終えた芳美。高校二年生ともなれば、それくらいの話、ちょこちょこと耳に入ってくるようになってる。

 ――あたしは……。

「ちょっと早まっちゃったかな、とか思ってたりするんだけど――。でもやっぱり、志保には敵わないよね」

「え?」

「いっつも志保はあたしたちより一歩も二歩も先にいってるんだもん。それで、初体験の相手は誰なのかなぁ?」

「えぇっとぉー。そういうことは秘密よっ」

「ちぇえ~」

 こういうことはあんまり公言できることじゃないけど、だからこそ話せると嬉しいものだ。さっきまで恥ずかしがっていたのに、芳美はいまではもう明るい笑みを浮かべてる。

 問いに答えて笑ってるあたしは、けれど彼女のように明るくはなれなかった。

 ――いつになったらあたしにそんなことがあるだろう。

 ヒロのことが忘れられないでいるあたし。あいつへの想いを断ち切らなくちゃ、初体験なんて当分できそうにない。

「あぁーあ。わたしなんかより早い娘もいっぱいいるのにな。もっと早く自分に素直になってればよかったかな」

「……」

 素直になった芳美。

 対してあたしは素直になるわけにはいかない。これまで続いてきた四人の関係が大切だから。かけがえのないそれを守りたいから。

 それでも、あたしの中のヒロへの想いは膨れ上がってくる。

 ――どうすることもできないの?

 いつかあたしは堪えられなくなる。そしてまたあのときのように、大切なものを失ってしまう。

 そうなる前にどうにかしなくちゃいけなかった。できるなら、あたしの想いをヒロへ伝えるような方法で。

 結果は気になるけど、あたしの胸の中の想いをヒロに伝えたい。想いがあたしの中から飛び出していってしまう前に、なにか見つけたかった。

 芳美は自分に素直だった。あの矢島の奴も、やり方に問題はあっても自分の想いを実現するために動いていた。

 ――もう少し、あたしも考えてみよう。

 見つからないかも知れない方法。

 それでもあたしは、ヒロとの関係を半歩でも近づけるために、なにか考えようと思っていた。

 

            *

 

 重い荷物を肩に担いで学校へ向かう最後の坂を上る。

 五月の連休も終わり、吹き抜ける早朝の風はもうずいぶん暖かくなっていた。

 けっきょく、連休中ずっと考えていてもいい方法は見つからなかった。それでもあたしはヒロに想いを伝えるつもりでいる。

 ぐちゃぐちゃ考えてても永遠に答えは出そうになかったし、当たって砕けることを恐がってるようなのは志保ちゃんらしくない。

 正面から、っていうのは四人の関係に亀裂を生むことになるのはわかってる。でもなにもしないよりマシだし、口だけは達者なあたしのことだ、その場で気の利いた言葉のひとつくらい思いついてみせるつもりだった。

 ――まず、スタートラインに立とう。

 その意気込みを持ってあたしは坂を上っていく。

 坂を上り切ったところで見えたのは、見慣れた校門じゃなく、二年生のクラスと同じ数だけ停まってるバスの列。

 五月六日。今日から修学旅行が始まる。

 旅行中はクラスやグループで行動することが多くて、学校にいるときほどヒロと一緒にいられる時間をつくれないけど、まったくってわけじゃないし、ホテル内で自由時間も与えられてる。そんな時間を上手く使って、旅行中にヒロのことも、あかりとのことも、最低限の決着をつけるつもりでいた。

 もう荷物の積み込みを始めてるバスに鞄を放り込んだ後、出発前の朝礼を待ってる二年生が溜まってる昇降口の前に向かう。せっかくだから布石ぐらい打っておこうと、もうずいぶん集まってる人をかき分けてヒロの姿を探し始めた。

「あ、いたいた。ヒロォ~」

 人混みの中に見つけたひとりでいるヒロの側に寄っていく。

「おぅ志保。さすがに今日は遅刻しなかったんだな」

 ――あんたこそ。

 そう言い返しそうになって、グッと抑える。

 そんなこと言ったらせっかくの決意が無駄になる。修学旅行初日だというのに、だらしのない顔をしてるヒロに突っかかっていきたくなるのをこらえて、あたしは彼の前に立った。

 ――なんて言おう……。

 いざこいつの前に立ってみると言葉が出てこない。いろいろと考えていたはずなのに、頭の中が真っ白になってしまった。

 ――まずどっかに連れてった方がいいかしら。それともここでそれらしいことでも言った方がいいかな。

「あ、志保。おはよう」

 そうしてる間にあかりがやってきた。

「おはよっ」

 ――言いづらくなっちゃったな。

 もしヒロへの想いを伝えたらあかりとも張り合うことになるのはわかってる。それがわかっていても伝えると決めたわけだけど、さすがにいきなりだと心の準備ができない。

「浩之ちゃん、もうすぐだって」

 やっぱり今日も一緒に登校してきたらしいヒロとあかり。言いながらあかりはヒロのもとに近づいていく。

 ――あっ……。

 なんでだろう。

 いつものようにヒロの側に寄っていくあかり。

 どこにも変わった様子は見えないのに、敏感なあたしはふたりの距離に、目に見えるものじゃなく、微妙なふたりの距離の近さに、変化を見いだしていた。

 すべては手遅れ。

 ただ普通にあかりがヒロの側に立っただけだった。腕を組んだわけじゃなく、身体を寄せたわけでもない。それなのに、あたしの目にはふたりの心の距離がしっかりと映っていた。

「おい、どうしたんだ、志保! もう時間がないんだぞっ」

 後ろからかけられたヒロの声も聞かず、あたしは人にぶつかりながらも校舎へ向かって走っていった。

 

 

「おはよう、浩之。それにあかりちゃん。志保は……あれ?」

 雅史が浩之たちのもとにやってきたとき、ちょうど志保が走っていってしまった。

 人にぶつかるのも気にせず走っていく彼女の様子に、雅史は浩之に問う。

「志保、どうしたの?」

「それがさっぱりなんだ。んなことより、おはよう、雅史」

「おはよう、雅史ちゃん」

「うん、おはよう」

 浩之の答えに納得いかないものを感じながら、雅史は校舎の中に消えていった志保の背中から視線を外して振り向いた。

 ――志保はこれに気づいて……。

 もう志保の姿のない昇降口を見ている浩之とあかりを見た瞬間、気がついた。

「ちっ。まったく、時間ねぇっていうのに。連れ戻してくる」

「浩之、僕がいくよ」

 足を踏み出そうとした浩之を押しとどめて、雅史は志保の後を追って校舎へと走っていった。

 

           *

 

 泣くのだけは嫌だった。

 もう二度と泣きたくはなかった。

 だから誰もいない屋上まで来て、空を見上げていた。

 意外な形になったけど、「ヒロとあかりをくっつける」っていう最初の目的は果たされた。あたしの出る幕もなく、ふたりの間だけでそうなっていた。

 ヒロへの想いはいまもあたしの胸の中でわだかまりとして残ってる。

 でも今更それを告げることはできない。せっかく結ばれたふたりを引き離すようなことなんてできるはずがない。

 ――これでよかったのよ。

 壊れなかった四人の関係。四人で過ごす楽しい時間は、これから先もずっと続いていく。

 それが残っているなら、それで充分だった。

 思い返してみればあのときも、彼と彼女が片想い同士なのに気づいてた。そのことに気づかないフリをしてあたしは彼に告白した。卒業を間近に控えて急速に接近していく彼と彼女の様子に堪えられなくなって、失敗を犯した。

 あのときから比べれば今回は、最後には堪えられなくなったわけだけど、けっきょくはふたりが結ばれるまで堪えることができたんだ。たぶんあのとき流した涙が、少しだけあたしを強くしたんだろう。

 頭の中で納得はしていた。でもまだ気持ちは納得できなくて、泣くかも知れない自分を誰にも見せないために、ここでひとり空を見上げていた。

「志保……」

 唐突に背後から声がかかる。声からすれば雅史。

「もうそろそろ集合しないと」

「うん」

 素知らぬ振りをして雅史に向き直る。

 ただ呼びに来たのかと思ったけど、雅史は真っ直ぐな目であたしのことを見つめていた。

「どうしたの? まさ――」

 言葉を最後まで言わせず、近寄ってきた雅史はいきなりあたしのことを抱き締めた。

「な、なによ、突然っ」

 腕の中から抜け出そうとしてるのに、力強く抱きすくめられ抗うことができない。

「志保。志保は浩之のこと――」

「っ!」

 ――気づかれてた

 いつもあたしやヒロの側にいるし、男にしては敏感な雅史だから気づかれててもおかしくない。それに今日のふたりの変化にも彼は気づいてる。それでなければ、こうしてあたしを追ってくることもなかったはずだ。

 その事実に、強張っていた身体から一気に力が抜けて、あたしは雅史の胸に身を預けてしまう。

「気づいてたのに、なにもできなかったね」

 それは雅史らしい言葉だった。

 哀れみを込めて言ってるわけじゃないのに、心に染み込んでくるような優しさがある。

 ――こいつの胸、こんなに広かったんだ。

 ヒロよりも小柄で、頼りない雰囲気を漂わせてる雅史。それなのに抱かれてみたこいつの胸は意外に広くて、厚くて、温かかった。

 もうあたしは堪えることができなかった。

 溢れてくる涙を見せないために雅史の胸に顔を埋める。詰まってくる喉をしゃくる上げるごとに肩が震えた。

 一度堰を切ってしまった涙を止められない。後から後から流れ出してくる温かな雫が、雅史の上着をつかむ両手を濡らしていった。

 ――泣かないって決めたのに。決めてたのに。

 それは泣いてるときが一番辛いから。抑えてきた気持ちが一気に溢れてきて、辛さが増してしまうから。

 わかっているのに涙を止められないあたしのことを、雅史はその両腕で包み込んでくれていた。

「志保」

 少し落ち着いてきたところで声がかけられる。

 なにかを決意するかのように間をおいて、雅史が言い始めた。

「志保、もし僕で良ければ――」

 そう続けようとした雅史の身体を軽く突き飛ばして離れ、あたしは彼に背を向けた。

 仰いで見た空が霞んでいた。

 風が頬に伝い続ける涙の筋に冷たく吹きつけていった。

「志保……」

「来ないで!」

 近づいてこようとする気配を感じて、先にそれを制する。

「雅史は、わかってないわね」

 言いながら屋上の端へとゆっくり歩いていく。そこに張られた金網をつかんで息を整えた。

「女って言うのはね、雅史。涙の数だけ強くなれるものなのよ」

 力をこめられた金網がガシャリと音を立てた。真っ直ぐ立ってることができなくて、両手で金網をつかんで身体を支えなくちゃならなくなった。

「だから大丈夫。いまはダメでも、泣き終わったらまたいつものあたしだから。ひとりにして、雅史。遅れたりはしないから、ね」

「――うん」

 遠ざかっていく足音。

 階段を下りていくその音は、だんだんと小さくなり聞こえなくなっていく。

 この涙が止まったら、あたしはまた強くなる。強くなったあたしは、それまでと同じようにヒロやあかりたちとつき合っていけるようになってるはずだった。

 あらためて青い空を仰ぐ。

 抜けるような青さを眺めながら、あたしは存分に泣き続けた。

 

         * 5 *

 

「あっはっはっはっはっ。変わらないわねぇー、あんたは」

 相手の言葉に思わず大きな声で笑ってしまう。

『うっせぇ。耳元で大声立てんじゃねぇよ』

「だぁってあんまりあんたらしいからさ」

 言いながらまだ抑えられない笑みに、あたしは受話器を支えてない右手で机の上の手紙を取った。

「でもまぁ、やっとね。ヒロ」

『……そうだな』

 そう言うとヒロの奴は力無く答える。

 ――不安なんだろうな。

 裏返した手紙にはメッセージとともに写真が印刷されていた。その写真に写るのは、礼服を着たヒロと、華やかなウェディングドレスに身を包むあかり。

 屋上であたしが涙を流した日から、もう八年近い歳月が流れていた。大学を卒業し、仕事の方も安定してきたヒロがあかりと結婚したのは、つい二週間前のことだった。

 アメリカ、ヨーロッパを経て、いまじゃ世界を股に掛けて仕事をしてるあたしは結婚式に出席できず、どうにか休みが取れて家に戻った今日、海の向こうにいるヒロに電話をかけている。

『本当にこれで良かったんだろうか』

 ヒロとは思えない弱気な発言。

 写真の中じゃ心から幸せそうな顔をしてるクセに、落ち着いてみればこれだ。ヒロがこんなんじゃこの先あかりはどれくらい苦労することになるんだろうか。

「結婚申し込んだの、ヒロでしょ? それで良かったのよ。あんたらしくもない、自信持ちなさい。その一瞬だけでも、自分の気持ちに素直になるってのは悪いことじゃないんだから」

 手紙をレターボックスにしまって椅子に背を預けたあたしは、いまの彼にちょうどいい意地悪を思いついた。

「ねぇ、ヒロ。知ってた?」

『なにをだ?』

「あたしはね、ずっと、――ずっとあんたのことが好きだったのよ」

『っ! っ?』

 受話器の前で口をぱくぱくさせてるだろうヒロの顔を想像して、あたしは忍び笑いを漏らす。

『おい志保! 悪い冗談は止めてくれっ』

「あんたこそ受話器に向かって叫ぶの止めてよね。それからヒロのことが好きだったのは本当よ。あかりのことを思って抑えてきたけど、最後には告白するつもりでいたのよ。けっきょくできなかったわ。決めたのが、修学旅行の前日だったからね」

『……』

 沈黙してしまったヒロに、あたしは微笑みを浮かべた。

 ――強くなったな、あたし。

 八年の間に幾度涙を流しただろう。その度にあたしは強くなっていった。

 ヒロへの告白もいまじゃもうこんな風に口にできる。

 結末は失敗でも、一瞬一瞬の行動は自分の気持ちに素直だったという確信を持ってるから。そう思えるほどに、あたしが強くなったから。

 あと何度涙を流すことになるんだろう。いつか泣かなくてよくなるときが来るだろうか。

 わからなかった。でも、わからなくてよかった。

 あたしはただそのときそのときを自分に素直に生きてくだけのこと。

「幸せにね」

 だからいまは、ふたりへの祝福の言葉を口にする。

 

 

       「涙の数だけ女は強く」 了

 




 ずいぶん昔の話ですが、L社A氏にこれの前に掲載した「心の綾」を読んでいただいたことがあります。文章は良いけど内容は嫌いだ、と感想をいただきました。たぶん、あの方はこの「涙の数だけ女は強く」もまた、嫌いな内容なのではないかと思いますし、昔の作品であることもあり、いろいろと稚拙です。
 最近どうしているかと思ったときにはA氏は亡くなってずいぶん経っていることを知ったような状況ですが、今更ながらにこの作品をA氏に贈りたいと思います。誠に勝手で押しつけがましいながら、この志保の話をあの人に届くことを祈りたいと思います。

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