暗闇を降りる。
深淵に近いそれは、僕が囚われた底なしの沼を思い浮かべた。
突如、モノクロの光景が目に映る。
体の自由が利かないのか自分だけが白昼夢でも見ているのか、足は止まらない。
────「そいつは只のシステムでしかねぇ。庇ったところでテメェに得はねぇえ!」
その光景は、人形のような男と対峙する夢。
継ぎ接ぎの顔が特徴の、気味悪い紳士面した喪服を男は着ていた。
ぬいぐるみを連想される白髪が嫌に目立つ。
その男が誰なのか名前さえ思い出せないのが、自棄に気になる。
──でも。
能力のない、幸運もない、あるのは愚か者の烙印しか持っちゃいない僕が背中に何かを守ろうとしていた。
────「テメェは死ぬし、此処でそいつは消す。それがこの場では絶対だし、何よりテメェに拒否権なんて皆無なんだってのをいい加減に解れよぉ……。嗚呼、そうかよ。それがテメェの拠り所ってヤツかい? だったら尚更、此処で消去するっきゃネェエよなぁあ!!!」
紅いルビーの瞳を細め、男は口を歪ませる。
そして、手に持っていた鈍い色のアタッシュケースを開く。
嬉しそうに、哀しそうに、呆れるように憤怒するみたいに乱暴に何かを取り出す男の狂気は止まらない。
モザイクが掛かる。
それに至るにはまだ早いと誰かが訴えるみたいに修正が脳を襲う。
────「知るか。そんなもの知るか! そんなテメェ勝手なルール知ってたまるかよ!」
後ろに居るはずの守るべき人を思い出せない。
それが誰なのか忘れた己の不甲斐なさに胸を苛つかせる。
──カツン。
永い階段を降りきると同時に僕の意識に靄が掛かった。
それを──。
「ちょっと、大丈夫かい、愚者七号! ボクの声が聞こえるなら意思を固めるんだ。そうすればキミの身体はキミの意志のモノとなる! 早く、早く、早くするんだ!」
魔導書が僕を呼び掛ける。
しかし地が泥になり溺れる感覚が抜けない。
僕の思考はあやふやとなって、虚数の海に堕ちていく。
「大丈夫だよ。ユーキはちゃんと此処にいるよ」
声がする。
僕を心配するお節介な友達の声だ。
その声を聴くと体の底から力が湧いてきて心地が良かった。
「あれ? どうかした、二人とも?」
まだ朦朧とする意識を無理して立ち上がる。
虚勢を張ってでも、この先に居るであろう名城さんを迎えに行かなければ此処に来た意味がないのだ。
「どうかしたじゃないさ! こっちはいきなりキミが倒れたものだから心配したのだよ……全く。大丈夫かい?」
魔導書がそんな僕に突っ込む。
「大丈夫。まだくらくらするけど、まだ動けるよ」
そして、心配する魔導書に平気だと答える。
「そうかい? まあ、それぐらい虚勢を張れるのなら、もうひと頑張り出来そうだし良しとしよう」
魔導書が僕を気遣う。
その声色に安堵のモノが感じられた。
「うーん、あそこに居るのナシロちゃんじゃない?」
累が不意に前方のある場所を指さす。
数メートル離れたところに如何にもな祭壇が目に留まった。
その祭壇に寝そべった少女。
鎖に繋がれた訳でもない、只、眠る彼女の姿に思わず安堵してしまう。
その眠る姿に何処か既視感を覚えながらも、彼女の無事を確かめようと駆け出した。
「名城さん!」
眠る彼女をギュッと強く抱きしめた。
僕はどれだけ彼女に辛い思いをさせたのかは分からない。
けれど今は、名城さんが無事でいてくれたことが嬉しかった。
「名城さん、名城さん、名城さん! 良かった。本当に良かったぁ!」
やっと名前を言えた。
やっと彼女を思い出せた。
それが堪らなく、嬉しくて仕方ない。
他人から見れば、これは小さなものに過ぎないかもしれない。
けれど、僕が。
僕自身の意思で、力で勝ち取った結果だった。
それが涙が出るぐらい、誇らしかった。
「う、うぅん」
眠り姫の瞼が開かれる。
キスしそうなほど顔が近づいていたからか、目が覚めた彼女の顔を見ると頬に熱が篭った。
まるで永い眠りから覚めたような彼女に僕は、
「おかえり、名城さん」
再度、抱きしめるのであった。
「──そこは、真弓って呼んで下さいよぉ」
名城さんが物足りなそうに言うと、頬を膨らませる。
「──え? あ! ご、ごめん!」
そんなことをする名城さんに一瞬呆けてしまったが、直ぐ謝る。
そうだ、僕は何をしている?
ついさっきまで色んなことがあって忘れてたけど、僕は彼女を泣かせてしまったのだ。
それを謝らなくちゃならない。
「──あ。いや、その。そうだけど、そうじゃなくって! あの時、君を、名城さんを忘れてしまってごめん!」
彼女の目を見ながら、教室でのことを謝る。
筋違いかもしれないし、見当違いなことをしてるのかもしれない。
でも、僕は彼女に謝りたかった。
名城さんを傷つけたのは、僕なのだからそうしたかったのだ。
「────」
そんな僕を名城さんはまじまじと見つめると、口を開いた。
「そう、ですね。私、傷ついちゃいました。傷ついて、傷ついて。勇貴さんに傷物にされちゃいました」
それにどんな想いが込められてるか解らない。
それにどんな意図があるのか解らない。
「でも、許します。許しちゃいます。その代わりなんですが、私のこと、下の名前で呼んで下さい」
彼女はそう言って、僕を許した。
向日葵のような笑顔で許したんだ。
……。
どうしよう、今、何をすれば良いのか解らない。
名城さんを下の名前で呼べば良いのだろうか?
それはちょっと、恥ずかしい。
でも、そうするのが只、なんとなくそのままでいると──。
「いやー、青春だねぇー!」
そんな僕らを累が冷やかした。
「「はい?」」
そんな彼の言葉に僕と名城さんは驚きの声を上げた。
「ありゃ、無自覚? そんな熱烈な抱擁をしてるんだもの、からかってもバチは当たらないっしょ」
何も解ってない僕らを累は指差す。
そこで自分たちが何してるのか気付いた。
「「──うぇえ!?」」
驚きの余り、勢いよく離れる僕ら。
そんな僕らを笑う累。
僕と名城さんの顔が真っ赤になる。
「……あ」
そうすると、名城さんが物足りなそうな声を漏らした。
「──ぅうう」
しまった。
何か、何かしなくちゃ!
名城さんが喜びそうなことをしなくちゃ、また彼女を泣かせてしまう!
そう思うと居てもたってもいられなくなり──。
「ま、ままま、真弓さん!」
咄嗟に、下の名前で彼女を呼んだ。
我ながら意味が解らないものだと思ったが、何となくこの時はそうすれば良いと思ったのだ。
「──っ!」
そんな僕を名城さんは一瞬目を丸くする。
だがそれも直ぐ笑顔になると、
「……はい、勇貴さん!」
今度は真弓さんの方から抱き付いて来たのだった。