「大丈夫、大丈夫。コイツはそーいうのしないから」
ガヤガヤと騒ぎ立てる生徒たち。
安らぎのない日常の一幕。
見たくもなかった、昔の自分。
「そうそう! だーかーらー、こうするのは正しいんだよぉお!」
地に伏せていたら腹を蹴られる。
頭がくらくらしてるのか、意識がはっきりしない。
痛い。
「ぐぅえ!」
ボコボコと毎日、何所かを殴られ蹴られ身体が痛くて仕方ない。
「ギャハハハ! ぐぅえ、だって! 口をパクパクさせてやんの、金魚かってーの!」
ゲラゲラ、ゲラゲラ。
誰も庇ってなんかくれない。
誰も助けてなんかくれない。
このイジメは彼らのご機嫌次第で終わるのだ。
「おいおい、止めてやれよー。イテェんだってさ、このグズ言ってるよー」
首根っこを掴まれて強要される返事。
何処にでもあるような陰湿な風景がそこにはあった。
男子生徒たちは笑い合う。
僕のそんな心情が可笑しいのか汚い嗤いで騒ぎ合うのがどうやら彼らの趣味らしい。
二度と見たくもない記憶がそこにはあった。
視界が歪む。見たくないモノに蓋をする。
回る、回る。グルグル回れ。
ぐにゃぐにゃとした映像がノイズを交えて再生を中断する。
終われ、終われ、終われ。
誰でもない誰かの幻聴が耳に残って。
未だ、覚めることのない胡蝶の夢に溺れて目が覚める。
ザー、ザー。
ノイズが遠くなっては、そこで気がつく。
渡り廊下にいた筈なのに、散乱した自分の部屋にいる。
さっきまで、真弓さんと話していたというのに彼女が近くにはいなかった。
「何なんだよ」
思わず口がでる。
無性に腹が立ってしまい、近くにあった椅子を蹴ってしまう。
「……何なんだよぉ」
八つ当たりに近い暴力を受けては、椅子が音を立てて転がり出す。
蹴ったところが痛かった。
この現実は夢の世界だと言われ、自分がこの世界の人間でないと知り、今見た光景に反吐が出てしまう。
痛覚がある。
けれど、それさえも夢の世界なのだと理解出来てしまうことが何よりも辛かった。
「今、何時だろう?」
部屋に備え付けられた時計を見ると、時刻は八時を指している。
今が何日なのかが解らない。
日付を確かめようと思ったら、誰かに聞くぐらいしか確かめる方法がない。
そう言えば、自分もこの世界の多くの人たちもスマホなどの通信機器を持ち合わせちゃいなかったなと不憫さを痛感した。
「どうしよう」
正確な日時を確かめる術がない。
昼間ならば周囲の人間にそれとなく聞けば良いのだが、時計の針は八時を指しているのだ。
部屋の窓を見たところ、空は明るくはない。
従って午後八時なのだろうと推測が立てられたのだった。
「うん、迷ってても仕方ないや。外に出てみよう」
情報を求めるために夜の学園を探索するのも悪くない筈だ。
僕はそう決めると、ドアを開ける。
ギィッと音を立てて軋むドアを尻目に先を目指す。
部屋から出る。
たったそれだけのことだが、大したことも出来ない僕にとっては野犬一匹を相手するのも死活問題だ。
カツン、カツン。
まだ午後八時だというのに、何故だか廊下には人の気配がない。
まるで真夜中の静寂が辺りを包んでる。
虫の鳴き声さえ響かない雰囲気に何かとてつもない不穏さを感じた。
「まだ、八時だよね?」
誰かに話が聞ければ幸いだと思ったのに、これでは無駄足だったかなと少し後悔した。
カツン、カツン。
本来は八時という時刻は飯時が終わり、学生たちが風呂やら何やらでもう少し人が居ても可笑しくない時間帯。
考えもなしに廊下を歩いては、普段と違う不気味さに不安が隠せない。
「可笑しい」
一通り先へ進んでから、その異常さに立ち止まる。
ドアを開けてから何となく気づいていた違和感がここにきてピークに達した。
「人が一人もいないなんてあり得ないでしょ」
ビュー、ビューと冷たい夜風が吹く。
ガタガタと廊下の窓が軋む。
無音の世界に僕は意を決して外へ出たことを後悔した。
「戻ろう」
そう独り言を言い、踵を返そうとしてそれはやって来た。
「――――キキキ! キキキキキィ!!!」
何処かで耳にした奇声。
倒した筈だと、心のどこかで油断していたのは事実だ。
時間が巻き戻ったのではないかと一番に疑っていたのは僕自身の筈なのに。
それは、やって来た。
気配もなく、愚かな僕を仕留めに来たのだろう。
極上の獲物。
この場で仕留めてしまえば、後は邪魔な僕の記憶とその原因の『ダーレスの黒箱』を回収すれば良い。
恐る恐る、奇声が発声した方へ首を回して向く。
だが、想像していた影ではないモノがそこには居た。
「キキキ、キキキキィ!」
どの器官から発声させているか分からない。
それが普段、小さい個体として認知されているだけで実は発声する器官というものを持ち合わせていたのかもしれない。
でも、本来はそれが、数センチにも満たない大きさをしていた生物だったと知覚している。
呆然とする僕をニタニタと嗤うように、奇声を上げ続けるそいつの姿に驚きを隠せない。
よくファンタジーでこういう大きさのモンスターと戦うことがあるなと思っていても、実際、それに遭遇したら目を丸くするに決まっている。
「蜘蛛?」
廊下に備え付けられた電灯がまだ点いていたから、それの姿を目視することが出来た。
もし点いていなかったら、暗がりで見過ごしていたかもしれないという事実にゾッとせずにはいられない。
「キキキキキッシャアアア!!!」
赤ん坊ほどの大きさの、血を浴びたような真っ赤な蜘蛛が一匹、廊下の壁に張り付いていたのだ。
「う、うわわわぁあ!!!」
その蜘蛛から一目散に逃げる。
嫌な予感がした。
ゾクリと誰かに舐めまわされているかのような悪寒もした。
逃げ出す僕。
けれど、その判断は間違いだった。
カサカサ、カサカサ!
そんな蜘蛛の這う音が聞こえて。
耳を劈くような奇声が夜の校舎の廊下に響き渡った。
目的もなく歩いていたから、いつの間にか校舎の廊下に来たバカな自分に憤りを感じながらも蜘蛛から走って逃げる。
カサカサカサ! カサカサカサ!
大きい蜘蛛と表現しておきながら、自分の体格を上回る訳じゃないのならそこまで恐怖することじゃなくないかと思うだろうが、大して心構えもしていない状態でそれに向かい合ってみると良い。
そんな考えは一瞬もしないから。
そんなことを思いながら逃げていると、思いっきり転んでしまった。
「ぐわぁ!」
ドテンとか、バタンとかそんな衝撃が身体を襲う。
足に何かが巻き付いて離さなかった。
目を向ける。
よく足元を凝らして見ると、粘々とした糸が絡みついてることに気づく。
――――キキキ、キキキキキキ!
周囲を見渡す。
「うわぁ」
いつの間にか僕を囲う追ってきた蜘蛛と同じ無数の蜘蛛たちが居る。
ワラワラと犇めくそいつらは獲物を物色するように口元に涎を垂らしている。
数匹の蜘蛛が綺麗な放物線を描き、飛びだして。
ガブリ。
体中のいたるところに噛みつく蜘蛛。
やっぱり、こいつら肉食だったんだなと場違いなこと感想を抱きながら、噛まれた部位を元に言いようのない激痛が身体を襲った。
ガブリガブリ。
数秒もたたずして僕の体中を蜘蛛が食い荒らす。
当然、視界は一気に真っ黒になっては意識がフェードアウトしていった。
「ザマァねーなぁ! ワッラエルわー!」
最期に、耳を劈く名前も知らない女の罵声が聞こえたのだった。
チクタク、チクタク。
逆さまに時計の針が回りだす。
次回の更新は8月18日の午前8時から午後12時に予定しております。